自分に意識が戻ってきたのがいつだったのかは、よく分からない。気が付くと、クリスは自室のベッドの天蓋を見つめていた。
 なぜここに、と目線だけ動かすと、ベッド横に座るロランが自分を苦々しげに見下ろしているのが視界に入った。言葉はない。
 ああそういえば先ほどまでロランと言い争っていたのだと思い出し、疲労感に襲われて小さく溜息をつく。少し身体を動かすと妙な感じがして、試しに左腕を毛布の中から出した。寝酒を飲む時に着ていた寝間着の袖があるはずなのだが、今は素肌だ。

「……」
「申し訳ありません。全身が水浸しになっていて、お風邪を召してはいけないと思い」

 衣服を取らせて頂きましたと、彼は消え入りそうな声で説明した。

「ルイスかサロメ殿を呼ばせていただこうとも思いましたが……」
「いや、いい」

 呼んでいたらもっとややこしいことになっていたと、クリスは寝たまま首を横に振った。左手を仕舞い、今度は右手を出して手の甲を見やった。何事も無かったかのように、そこには真の水の紋章が無感情に描かれている。

「……宿主をロランに変えたかと思ったよ」

 冗談で言ったが、ロランは真面目に返してきた。

「私には、そのような資格はありません」
「ふん。私にその資格があるかも分からんがな」

 今の言葉は、ロランの抱く、クリスという崇め称えるべき継承者へのプライドを傷つけるに値している。自分の心を遠ざけるために、より彼に失望するために、ロランの言葉の反撃を待ったが、彼は珍しく何も言ってこなかった。代わりに沈黙し、深刻そうに眉間を寄せて目を伏せている。
 ロランから先に口を開く気配が無いため、だんだん面倒になってきて、クリスは少し笑った。

「お前、私の素肌を見たのか。サロメでさえ見たことがないのに。万死に値するな」
「……申し訳ありません」
「まあでも、私がただの人間であることが分かっただろ。お前が崇拝するほど私は立派でも美しくもない。ただ騎士となって上りつめ、戦場を駆けて人を殺すだけの女だ。
 私には正直お前がそこまで私をゼクセン騎士団の象徴として奉るのか理解できないがな。私だったら私を称えたりはしない。それほどの価値がある女だとは思えない」

 さすがにロランの癪に障ったのか、彼の頬がぴくりと動く。しかし、クリスに気を遣っているためか言葉を発しようとはしない。
 これが良い傾向なのか悪い傾向なのか分からなかったが、クリスは、ロランとこれ以上理解し合えないのならば、傷つけ合わないために、以前告げた言葉を取り消そうと思った――あの、この先一緒にいたいという告白を。ロランもまたクリスと共にいたいと言ってくれたが、それは今のままの二人の状態で、ということなのだろう。ロランにとってクリスがいつまでも遠い、天上の女神のごとき存在でなければならないというのならば。

「ロラン」

 名を呼ぶと、彼は目を上げて主を見た。その黄金色の瞳が美しいとクリスは思う。
 クリスは微笑し、ロランの顔に触れたいと思って片手を伸ばした。しかし手は届かず、ロランもまた微動だにしなかった。

「ロラン。
 私は、私が女で、お前が男であることを忘れていないよ。私は、お前がそう言ってくれた時に少し期待したんだが、私の勘違いだったのかな。
 私はただ純粋にお前と仲良くなりたかっただけだ。普通に、一人の人間として、エルフであるお前と、他愛ない話でもして、ゆっくりと時を過ごしていきたかった……」

 過去形で話すクリスを怪訝に思ったのか、ロランの目がわずかに細められる。それに気付きつつも、クリスは静かに後を続けた。

「でも、お前は始めに言ったよな。自分はゼクセン騎士団への忠誠以外に何も持っていない、と。
 それは本当に、その通りだったんだな。言っては悪いと思うが、まるで人形みたいだよ、お前は」

 口にしながら、再び涙の気配が近づくのを感じていた。伸ばされた手が掴まれることも、ロランがクリスの手のひらに顔を寄せてくれることもない。
 二人の距離はいつも縮まないままだ。
 近づいては突き放すということをこれから先、続けてはならない。それは双方の苦しみを意味する。もし仮に、二人が心の底では愛し合っていたのだとしても。
 ならば早々に諦めてしまった方がいい。

「そして、私もまた、お前にとってはゼクセンの人形でなければならないのだな」

 そのとき急にロランがクリスの首もとに倒れ込んできて、クリスは驚いた。まるで気を失うような倒れ方だったため、クリスは、どうした、と心配になって彼の背中を手で軽く叩く。

「ロラン?」
「……」

 首筋に彼の呼吸を感じる。身じろぐ気配があるので、意識が無くなったわけではないようだ。
 しばしの沈黙の後、ロランは、顔を埋めたまま、くぐもった声を出した。

「私は……
 あなたを手に入れてはいけない……」

 それは、クリスへの訴えではなく、彼自身への戒めのように聞こえた。

「騎士のため、民のため、あなたのため、私自身のために……」

 まるで普段の凛然としたロランらしくない、弱々しい口調だった。

「私は、本当は、願ってはいけないのです」

 何をだ、と顔の近くにある彼の長い耳をくいくいと引っ張りながら尋ねると、彼はわずかに反応したが、姿勢はそのままだった。熱い息が首にかかり、くすぐったさを覚える。

「……あなたが、欲しいと。
 思ってはいけないのです」

 低く、悲しげに囁かれた言葉に、クリスは、どうしようもなくなって唇をきゅっと閉じた。

「……」
「この想いは、私のみならず、あなたを苛むかもしれません。あなたを尊ぶ私には、あなたが苦しむことなど到底耐えられない。
 私はこれ以上、願いたくはない。側にいたいなどと思いたくはない。気が狂いそうなのです、今まであなたは私にとって遥か彼方にいるお方だった。それが急に間近に迫り、まるでこの手に入れられるような距離となり、そのうえそれをあなた自身が望むなど……」
「……私は、お前にとって、崇高な女神のままで居続けた方がいいか?」

 決して責めているわけではないのだと伝えたくて、優しい声音で問いかける。ロランはゆっくりと顔を上げ、互いの鼻の頭がつくすれすれのところで動きを止めた。その思慮深い瞳は悲痛な色をしていたが、見入ってしまうほどきれいだった。
 彼の頭を撫でながら、クリスは続けた。

「私は、いつまでも、お前にとって、遠く離れた存在で居続けた方がいいか? このまま独りか、あるいは、いつか誰かのものとなって。
 お前との距離がこのまま永遠に変わらない方が、お前にとって楽だというのなら、私は、お前を大事に想うが故に、それを守るよ。今までのことをすべて忘れて」
「クリス様」

 低い声で呼ばれる。ロランは再びベッドに顔を埋めると、クリスの首筋に軽いキスを落とした。
 クリスはこそばゆさを感じると同時、そのキスの意味を思い出し、くしゃりと顔を笑わせた。馬鹿だなお前、と軽く背中を叩いてやる。

「なあ、ロラン。
 結局、お前だって私と同じ事を思ってるんだろ? いつまでも一緒にいられればいいのにと。本当は今の関係であり続ける方が平穏なのに、それだけで済ませるには気持ちが溢れんばかりに大きくなってしまったのだと。その想いをもう抑えられないのだということを」

 クリスの言葉に、ロランは再度顔を上げ、先ほどよりも身体を起こしてクリスの頭の両脇に両手をつき、互いの額を軽く合わせてきた。
 ああ、このままどうにかなってしまうのだろうかと彼の両目を見つめて思っているうちに、ロランはどこか苦しげに微笑して、睫毛を伏せた。

「私は、あなたが欲しいと思う」

 その一言に、クリスは、目に涙を溜めて笑った。
 それは安堵の笑みだった。
 少し身体をずらし、クリスも同じく、彼の長い耳に小さく口付けをした。