今日は絶対に会わない、彼の顔を見たくないと念じつつ、クリスは薄暗い自室の丸テーブルの前に座り、寝酒を飲んでいた。灯る明かりは壁にあるオイルランプひとつと、テーブルの上に置いた燭台の二つだけである。
 先ほどまで寝酒に付き合ってくれていたサロメは、すでに部屋に戻ってしまった。昼過ぎから自室に籠もりっきりのクリスを心配して夕方から一緒にいたが、クリスが単に月のもので体調が悪いのだと嘘をつくとそれ以上何も訊いてはこなかった。温かい飲み物や軽い食事、薬などをあれこれ用意してくれたのは、ほぼ親代わりとなっている彼の親切心だろう。心では虚言を口にしたことを申し訳なく思っていたものの、あまり状態が優れないのは確かで、結局今の今まで仕事もせず自室でじっとしていたのだった。
 風呂を終え、寝間着の状態でグラスを傾けて、ゆらゆらしている蝋燭の橙色の炎を見つめていた。もうそろそろ日付が変わる頃だが、眠気はなかった。苛立ちが取れず、胃がむかむかし、心が落ち着かない。二人の会話を聞いた直後は血が冷たくなるような感覚に襲われ、緊張からか動悸がしていたが、だんだんと怒りの感情が表れ始め、始終側にいたというのにサロメとはほとんど喋らなかった。
 自分の中からロランへの信用が失われていくのが悲しかった。
 うまくいくのではないかと思っていたのだ。何が、かは分からなかったが、今後ロランと良い関係を築いていけるような気がしていた。それは、自分が不老でロランが長命なエルフであるからという理由を飛び越え、彼と一緒にいる時間が増えるであろうことへの期待だった。なぜ自分がそう思うのかは分からない。だが、冷たそうに見えるロランが実は心優しい男であることを以前から知っているし、最近はクリスから甘えたことで、彼が六騎士ということ関係なしに少し自分に近づいてくれた気がして嬉しかった。
 しかし、そう思っていたのは自分だけだった。実のところ、昼間のロランの言い分も、クリスには十分納得できるのだ。ゼクセンでは、クリスという女は否応にも象徴的存在であり、偶像であり、英雄であらざるを得ない。そういった存在が、何者かと親しくなってはならない、他者に占有されてはいけないのだ。今やクリスはゼクセンの民に対して平等でなければならない存在なのだから――ロランにとっても。

「……私は何だ?」

 クリスは揺らしていたグラスをテーブルに置いて、ふっと笑った。

「私は一生このままか?」

 一生?とクリスの中に疑念が生じる。一生も何も無いだろう、自分は老いによる死を知らない存在なのだから。下手すると生き続けるのだ、ずっと、サロメたちやロランがいなくなっても、真の紋章がクリスを生かし続けたいと願えば、永遠に。
 くくっと笑いながら、クリスはテーブルに額が着くまでうなだれた。
 気分が悪い。

「呪われた記憶を見せ、人としての幸福まで奪おうとするのか」

 低く呟いた声音は、自分のものとは思えないほど憎悪に満ちていた。今更どうしてだ、望んで父から真の水の紋章を受け継ぎ、不老になることも受け止めるはずでいたのに。
 耳鳴りがする。瞳はテーブルの木目を見つめているはずなのに、脳が違う映像を見せている。それは紋章の抱く無数の思い出だ。優しく悲しい、しかし紋章にとってはただの客観でしかない、真実を映し出すだけの無情な鏡。
 恐ろしい、とクリスは思う。信念が揺らぐと、まるで新たな主を求めるかのように宿主に記憶の破片を見せ、苦しめ始める。

「――くそっ!」

 弾けたように声を上げると、自分の右手からバシャリと水がはねた。ハッと驚いて手のひらを見やり、ぞっとする。水の力が暴走したらしい。
 悔しさを抱き、クリスは爪が食い込むほど手を握りしめて地団駄を踏んだ。
 そのとき。

「クリス様!」

 声がした。
 びくりと身体を震わせて声の主を見やる。テーブルの向こう側に立っていたのは、自分が今日は絶対に会わないと心に決めていた人物だった。あまり見かけない、シャツとタイ、細いズボンといった軽装の。
 驚いて目を丸くしている男を凝視し、ロラン、と掠れた声で名を呼ぶ。ロランは眉間にしわを寄せ、一体何があったのだと訊いてきた。

「扉を叩いても全くお返事がなかったので、失礼とは承知で勝手に入らせて頂きました。
 ……?」

 目線が、クリスの濡れた右手に移る。状況を把握したらしいロランの顔が、見て分かるほどに険しく歪んだ。

「……クリス様!」

 ロランの手が伸びてきて、クリスは咄嗟に腕を引く。

「私に触れるな!」

 睨み付け、叫ぶ。ロランは手を止め、怪訝な表情でクリスを見つめた。

「クリス様?」
「なぜここにいる?」

 逃げの体勢を作るため、椅子から立ち上がって問いかける。ロランは唖然とした様子で沈黙していたが、そのうち伸ばしたままだった手を戻すと、目を伏せて頭を下げた。

「深夜に失礼しました。ただ、少し話をしたく」
「話などない」

 低く遮る。その声は憎しみのために震えていた。あまり感情を露わにすると再び暴走する気がして、クリスは左手で右手の甲を隠すように覆う。
 それに気付いたロランが苦々しい顔でクリスの手元を見た。抵抗を覚え、クリスはロランに背を向ける。

「帰れ」
「ですが」
「帰れ!」
「サロメ殿からあなたの体調が悪いという話を聞きました。それは私のせいでしょう?」

 問われ、彼の言葉の意味を探り、クリスは壁を見つめたままで眉をひそめた。黙っていると、少し経ってからロランが後を続ける。

「……昼間、食堂にいる私とレオ殿の話を、あなたは聞いていらしたはずだ」

 騎士たちから知らされましたと、彼は苦しげに吐き捨てた。そういうことかとクリスは唇を噛む。

「……」
「私は、自分が誰よりも敬愛するあなたを傷つけた。その傷の深さを知り、私もまた戸惑いました。
 サロメ殿は私たちが親しくなりつつあることをご存じです。私を咎めることもしません。私にわざわざあなたの状況を知らせたのもサロメ殿のご配慮なのでしょう。
 ――けれど」

 ロランはテーブルを回り込み、クリスの斜め後ろに佇んだ。

「咎める者たちの方が遥かに多いのです」

 その言葉を耳にし、彼が単に謝罪に来たわけではないのだと悟り、クリスの心にどうしようもない苛立ちと怒りが生まれた。
 ロランはクリスに言い訳をしに来たのだ。ゼクセン騎士団の中でもっとも騎士としてのプライドが高いこの男は、傷つけたことは謝るが、自分は間違っていないのだとクリスに訴えに来たのだ。
 全身から血の気が引いていくのが分かった。

「彼らにとってあなたが尊き存在であるように、私にとってもあなたは崇敬の対象なのです」

 ――どうしてこの男は。

「あなたにとっても、私というただの一騎士が特別ではいけないのです」

 自分が何よりも憎み、蔑み、苦しむ言葉を、こうも当たり前のように口にする。
 なぜ隔てようとするのだ。
 憤怒でこめかみが震え、たまらず目を閉じた。

「だから私たちは」
「離れろッ!!」

 すさまじい剣幕でクリスは叫んだ。振り返り、ロランを睨みつけ、ドンと彼の胸を手で押しやる。彼は痛そうに目元をゆがませ、数歩後ろによろめいた。

「崇敬だと!? 私が好きで英雄扱いされていると思うのか!?」

 今が深夜であることも忘れ、クリスは目の前の、自分を哀れみの瞳で見てくる男を睨み据え、声を張り上げる。

「好きで貴様に崇拝されていると思うのか!?」
「クリス様」
「私はお前に崇められたくなどない!」

 自分の声量に喉の奥と鼓膜がびりびり震えるのを感じ、クリスは、

「なぜならお前が本当に称えているのは私ではなくゼクセン騎士団だからだ!」

 目に涙が溢れるのを感じていた。

「お前はたとえ私が死んでいなくなっても心動かされることはないだろう、お前が馬鹿みたいに愛しているのは騎士団そのものなんだからな!」

 己の口から出る言葉に心が切り裂かれるように痛み、目に溜めきれなくなった涙が頬を流れていく。
 そう、ロランが酔狂なまでに愛しているのは、クリスという女なのではなかった。エルフでありながらゼクセンの民である彼は、自らの誇りであるゼクセン騎士団に忠誠を誓っているだけで、その中身はさして重要ではないのだ。要するに、彼にとって崇拝の対象は“ゼクセン騎士団”であれば、それで良かった。騎士団の中身がクリスであろうと、他の騎士たちであろうと、別の女であろうと、彼にとっては何も変わらない。ただただ、ゼクセン騎士団そのものの存在が守られていれば、彼の願いは叶ってしまう。
 放った言葉に言い返そうと口を開きかけるロランを、クリスは遮った。

「結局、一緒にいたいと言いながら誰よりも私を独りにするのはお前だ、ロラン!!」

 刹那、喉から血が出そうなほど叫んだクリスの手が、燃えるように熱くなった。その熱さがまさしく紋章の輪の形を描いているのが分かり、クリスは青ざめる。
 力が暴走する。
 真の紋章が、宿主を苦しめるものに対して激しい敵意を抱いているのを感じる。その力の矛先は無論、ロランに向けられようとしていた。
 いけない!
 目が眩むほどのまばゆい光と共に溢れ出した力は、到底抑えられるような勢いではなく。

「クリス様っ」

 今まで聞いたことのないロランの悲痛な叫び声が真っ白な空間の中に聞こえ。
 クリスは咄嗟に身体を丸めて、自分の右手を腹に押さえ込んだ。限界を超えた、神々しいまでの強烈な光が身体の内側で膨張し、じきに――

「クリス様!!」

 弾け、白に侵されていたクリスの思考と視界は一瞬で闇に落ちた。