平重盛は、知盛と重衡の兄である。
 そして、平家の棟梁、平清盛の長男だ。
 齢は四十一だったが、患っているので、年齢よりも年を取って見えた。もともと病弱で、倒れ込むことが多かったらしい。
 人当たりが良く温厚柔和な性格で、兄弟からも従者たちからも好かれていた。父である清盛が感覚的に物事を進めていくのに対し、重盛は理論的に物事を進める性格だったので、息子たちの中では率先して意見を言って清盛をなだめることが多かった。清盛も、重盛の言うことは素直に聞いていたようだ。重盛無しでは清盛の傍若無人な行動は止められないとも言われていた。それゆえ気を遣うことがたびたびあったらしく、体調を悪くするのは、気を張りつめなければならない現場にいることが多いためだと思われた。
 望美も、重盛には世話になっていた。重盛は内大臣という高い位の人間だったので、滅多に顔を合わせることはできなかったが、会えば必ず時間を取ってくれて、一緒に茶を飲むなどした。この世界のことは何も分からない望美を理解し、快く合わせてくれる人だった。相談を持ちかければ、うんうんと頷いて真剣に聞いてくれた。
 誰にでも優しく、奢らない人だったが、武人としても誇り高い男だった。平治の乱と呼ばれる激しい戦では、父清盛とともに、源氏を討ち滅ぼしたという。





 こういった呼び出しは珍しくはなかった。
 重盛の邸に集まったのは、知盛や重衡だけではないようで、車宿に入りきらなかった牛車が、外にいくつか止まっていた。他に誰が来ているのかと侍所にいた者に尋ねたところ、知盛たちの他の兄弟や重盛の子どもたちも来ているという。名前を聞く限り、ほとんどが望美が会ったことのない人物だった。
 三人で中門から中に入ろうとしていると、後ろから、別の来客の声がかかった。

「知盛!」

 振り返ると、表門から入ってくる薄茶の髪の男が見えた。淡黄の直衣を着ていて、顔つきを見る限り、知盛や重衡よりは年上のようである。
 望美が誰だろうと思っていると、知盛と重衡は身体を向き直し、彼に頭を下げた。

「ご無沙汰しております、兄上」

 聞いた望美も、はっとして頭を下げた。兄上と呼ばれた男はこちらに足早に歩み寄り、知盛と重衡を見下ろした。彼らを見下ろせるということは、かなり背の高い男である。

「重衡も久方ぶりだな」
「お元気そうで何よりです」
「こういったことでもないかぎり、出仕のときにしか会わんからな」

 男は、重盛とよく似た顔で苦笑した。知盛と重衡よりも、重盛に近い面立ちをしているようだ。望美がまじまじと見つめていると、視線に気付いた男が、不思議そうな顔をした。

「こちらの娘さんは?」
「あ、はじめまして。望美といいます」
「望美殿? はて」

 疑問符を付けながら、知盛と重衡のふたりを見比べる。どうやら、どちらかの妻だと思っているらしい。

「わ、私、違いますっ」
「兄上。この方が、春日の姫君です」

 慌てる望美をよそに、重衡がすらりと答えた。すると、男は「ああ!」と言って、深く頷き、

「この方が、遠い異国から来たという」
「あ、はい。でも、あの、姫君と言っても、姫じゃないんです」
「いや、充分に可愛らしい方ですよ」

 言って、にこりと笑う。笑うときにしわができるのは、重盛にそっくりだ。人が恥ずかしくなるような台詞を口にするのは、どちらかというと重衡に似ているような気がするが。

「私は、平宗盛といいます。父清盛の三男で、このふたりの兄です」
「宗盛さん……よろしくお願いします」
「よろしく」

 あまり武人らしくない優男風に、宗盛は微笑んだ。
 挨拶をすませ、四人は邸に入った。案内されて寝殿に行くと、先に来ていた客人が母屋の周りに集まっていた。普段は静かな邸なのだが、今日は、少しざわついている。

「重盛さま、お身体に障ります!」

 女房たちの悲痛な声が聞こえてくる。足早に向かうと、重盛が、母屋を支える柱を伝ってずるずると座り込んでいるところだった。周りの者たちが慌てて駆け寄り、その身体を支えている。
 重盛の顔色は、普段見るより一層悪くなっているようだった。頬が痩せこけて、目の下に隈ができている。寝所から這い出てきたらしく、着物が少し乱れていて、額には汗が噴き出ていた。

「兄上」

 宗盛、知盛、重衡が近づき、兄の様子を窺う。重盛は腹部が痛むらしく、歯ぎしりをたてながら前屈みで唸っていた。いつもと様子が違い、重盛の目はどこか虚ろだったが、弟たちの存在に気付くと、はっとしたように目を見開いた。

「む、宗盛……すまぬ、私はそろそろ限界のようだ」
「何をおっしゃいます。兄上、どうか寝所にお戻りください」
「いかん……」

 重盛の震える両手が、宗盛の直衣を掴む。

「皆、いるのだ。寝ている、わけには」
「ご無理をなさらないでください。兄上、一体いつからこのような」
「問題ない。私は大丈夫、だ。面目ない、たかが私の病のためにこのような……く、う」
「兄上」

 重盛は、人に弱みを見せることを嫌う男だった。優しく穏和で勇ましいところが彼の好かれる所以だったが、一族を支えなければならないという想いが強いようで、ときどきおそろしく頑固だった。
 しばらくの間、宗盛の直衣を握ったまま痛みに耐えていた重盛だったが、突然、唸り声を失ったかと思うと、がはっと声を漏らして血を吐いた。色の悪い血液が、廂の床を濡らす。

「重盛さま!」

 すぐ側にいた女が、美しい装束が血に染まるのもおかまいなしに、重盛にすがりついた。重盛は、ぐらりと女の懐に倒れ込むと、焦点の合わない瞳で天井を仰ぎ、口を閉じたり開いたりしながら声を失ってしまった。出し切らなかった血液が、口の端から溢れ出てくる。あまりに多すぎるそれを見た女は、目をつむって悲鳴を上げた。

「重盛さま、しっかりなさって!」
「経子殿。医師に診せますので、兄をお離しください」

 経子は、重盛の妻である。直接話したことはないが、小柄で、可愛らしい雰囲気の女性だった。性格が良く、誰からも好かれていて、「二人は世の夫妻の手本ですね」と周囲から言われるほどだった。
 絶叫する経子を知盛が抑え、重衡が重盛をその場に横たわらせた。すかさず、近くにいた男が彼の近くに寄って、血の色やら何やらを調べ始める。

(薬箱を持っているってことは、お医者さんかな)

 遠目に見ながら、望美は考える。医者が来るということは、かなり病状が悪化したということではないのだろうか。以前会ったときには、そんな様子はなかったのに。
 重盛は腹部を押さえ、何かを必死に喋ろうとしている。手を伸ばして誰かを探っているのを見て、宗盛が、素早くその手を取った。手を握られた重盛が、宗盛を見る。苦しみからだろうか、その目からは涙が流れ落ちていた。

「宗盛……」
「兄上、喋らないでください」
「私は死ねぬ……まだ、死ねぬのだ」
「兄上!」
「……」

 苦しみで顔面蒼白になっている重盛の目は、今の状況が信じられないといったように見開かれていた。

「父上を、お止めするために……熊野、権、現……」
「兄上、お願いですから」
「祈りが、聞き届けられた……なら」

 次々と流れ落ちる涙は、床に散った血液と混ざっていった。喋る口から、未だに血が伝っている。痛々しくて、見ているのがつらかった。だが、目をそらしてはいけないと思い、望美は両手で口を覆いながら、必死に喋る重盛の姿を見つめていた。
 宗盛は兄の手を両手でしっかりと握り、悲痛な顔をして、重盛の言葉に頷いた。

「宗盛……」
「はい」
「どうか、父上を……平家を……」
「兄上! あなたはまだ」
「平家を……」

 その顔が、悔しげに歪められる。顔は血の気が無く真っ青で、低く呻いたかと思うと、重盛の手が腹からずり落ちた。手は血だまりの中に触れ、力んでいた手足から力が抜けた。荒くなった呼吸が収まっていき、胸元がゆっくりと下降していった――だが、それは収まりすぎのような気がした。
 重盛の前にいる医師がくっと声を漏らし、うなだれたのを、望美は見た。

(……うそ)

 望美は驚愕した。重盛の体調不良の言付けを受けた重衡が知盛に知らせに来るという呼び出しの仕方も、いつもと変わらなかったので、まさか、こんなことになるとは思っていなかった。
 重盛は、口を何回か閉じたり開いたりしたが、そのまま口の動きを止め、もう動くことをしなくなった。目は見開かれたままで、瞬きをすることもなかった。瞳からはみるみるうちに光が消え、宗盛が掴んでいた手から力が消えた。

「……あ、兄上」

 宗盛は、どこか呆然としたふうに、目を伏せた。知盛も重衡も無表情になり、兄の顔から目をそらした。知盛に押さえられていた経子は、両手に顔を伏せて泣き始めた。すすり泣く声が、周囲から聞こえ始める。
 宗盛は、嘘でしょう……と絶望に満ちた声で呟きながら、握っていた兄の手を、そっと彼の腹の上に置いた。
 それは、とても痩せた手だった。

「……重盛兄上……」

 知盛が、消え入りそうな声で呟いた。