「皆さん曰く、なんとなく感じてはいた、だそうですよ」

 ティーカップをゆっくりと持ち上げ、フランシスは言った。その目は円テーブルの表面を見つめていたが、遠かった。淡く褪せた色をした瞳が、ほの暗いクラヴィスの部屋でちらちらと揺らいでいた。卓上にロウソク立てがあり、火がぼんやりと灯っていたからだ。
 彼の斜め正面に座っていたクラヴィスは、フランシスの言葉に反応しなかった。彼と同じくティーカップを持ち上げ、音を立てずに紅茶を飲む。一連の動作をしているあいだ、フランシスはティーカップを持ち上げたまま静止し、続きの台詞を発さなかった。口の中を紅茶で満たし、飲み下して、クラヴィスがカップをソーサーの上に置いてかちゃりと音を立てた直後、フランシスはやっと発声した。

「あなたにも分かるでしょうか」

 問い、フランシスは紅茶を口に運び、目を伏せた。彼はようやくこの空間に戻ってきたようだった。
 クラヴィスはしばし、闇の男の白い顔を見つめていたが、じきに視線をティーポットに下ろし、答える。

「分かる。
 が、他の者よりは分かりにくいかもしれぬな」

 曖昧な表現に、フランシスは目を上げてクラヴィスを見た。

「それは――闇だから」
「ああ。我々の力は共にいると一部が同化する。だが、以前より同化していると感じられる闇の力は減っているような気がする。かなりな」
「セイランが、私とあなたが共にいることを嫌うのは」

 急に別の男の名を出し、フランシスはカップを静かに置いた。薄く、不敵にも見える笑みを浮かべ、小さく肩をすくめる。

「我々が共にいるときの闇の強い力を無意識に感じてしまうからなんでしょう」
「……だろうな」
「彼は陽の当たる場所を好むのですよ。生命は闇を必要としていながら闇を嫌う。
 私にはね、面白かったのです。セイランは、その身体、その存在をもって生命の在り方を証明しているようで。とても分かりやすく、複雑で、美しく、醜い」
「彼はどうなるのだろうな」

 もう一度カップを持ち上げ、クラヴィスは目を伏せながら無表情で呟いた。それは独り言のようだったが、フランシスへの問いかけだった。フランシスはクラヴィスの手の動きを目で追い、沈黙していたが、彼のカップの中身が無くなったことに気が付くと、ポットを持ち上げて紅茶を注いでやる。

「こわい問いですね」

 やはり微笑し、フランシスはポットを戻してしばらくしてから言った。

「でも、私にはもう関係が無いのですよ」

 淡々とした、冷たい言葉に、クラヴィスはわずかに怪訝な面持ちになって、フランシスを見た。

「ほう……。あれを後に残される我々の身にもなってもらいたいものなのだが」
「大丈夫ですよ、彼は。永遠のごとく苦しむでしょうが、傷は、痛みは、何かしらの気持ちの変化で癒えていくものです。永遠に苦しむ者などいない。人に知恵がある限り、死がある限り、終わりが来るのです。
 それに、私が消えるのは仕方がないことでしょう。もはやどうすることも出来ないのですから」
「ただの人間だった者を無理矢理故郷から引き離し、あるだけの力を吸い取った後に聖地追放か。自分の身のことでもありながら、ぞっとする話だ」
「狂っていますよ、ここは」

 やはり感情のこもらない声で、フランシスは言った。だがその言葉には深い軽蔑と嘲笑が含まれていた。セイランの前では見せることのない彼の黒い心理。だがおそらくこれが本物に近いのだろうとクラヴィスは感じていた。
 フランシスは暗い。クラヴィスよりもずっと暗い。精神の医師という人の心を救うことが出来る人間でありながら、自分の心を冷たい闇に沈めている。それはまるで時の止まった世界に心だけ置いてきてしまったかのようだ。彼は、聖地に来てから一度も自身の心を生かしたことがない。クラヴィスにはそれが分かっていた。
 だが、おそらく彼には聖地に来た目的がある。本来、フランシスはクラヴィスよりも遥かに聖地などどうでもよいと思っている人間だった。それなのに、闇の力を見出されてしまった男は、この潔癖な箱庭に任務を果たすためやって来た。人間の在るべき理想の場所を知っている賢いサイコテラピストでありながら、彼は、この閉鎖された狂気の世界で生きることを決めた。

「私には、お前がここで何をしたかったかなんとなく分かる」

 思考の後、クラヴィスは急に言った。紅茶を飲んでいたフランシスは特に驚きもせず、へえ、というようにうすら笑う。

「そうですか」
「目的が果たされたのかどうかは知らぬが、残るものは面倒事だけだ」
「だから私にはもう関係がないのですよ」

 多少苛ついた声がフランシスから出た。

「聖地から出るのですから。あいにく、次の闇の守護聖は決まっていないようですけどね。力の無くなった用無しは早く出て行けと。
 残酷ですね。私にはもう何も無いのですよ。どこに戻ったとしても。家族も知り合いも。墓すら無いのでしょう。墓すら。墓すら無いのですよ」
「――私はな、フランシス」

 椅子の背もたれに気怠そうに体重をかけ、天井を眺めやり、

「一時、お前を救うことは出来るか、と考えていたのだ」

 クラヴィスがそっと言うと、フランシスは目をぱちくりさせ、くすくすと笑った。それは半ば小馬鹿にしている笑い方だった。

「それは、ありがたいですね。けれど、興味がない話です」
「だが救われることを望んでいない者を救うことなど出来ないと思ってな。きっと、セイランも同じだったのだろう。あれは誰よりもそれを望んでいた。お前を助けたくて仕方が無かったようだ」
「可哀想ですよね」

 他人事のようにフランシスは呟いた。その態度の悪さに、クラヴィスの眉がぴくりと上がる。だが何も言わなかった。
 フランシスは虚ろな瞳で自分のカップの中身を見つめていた。ほとんど減っていない赤茶色の透きとおった水面を。

「墓すら無いのですよ」

 再び彼の心はこの部屋から消えたようだった。憂鬱というよりは虚無の表情を見て、クラヴィスは、この男は過去と対話することしかしていないのだと改めて思った。フランシスは未来に希望を抱いていない。この聖地を出て行った後も、特に目的もなく生きるのだろう。生きるのは、命を終わらせるため。きっとそんな考え方で後の生の時間が過ぎるのを待っている。
 フランシスはクラヴィスに似ているが、やはりまるで違った。救いようのない人間。そう言ってしまえば終わる。

「お前の寂しいという感情は、聖地に召喚されるより以前に置いてきたのだな」

 それはつまり、聖地に未練など一つも無いであろう、という意味だった。案の定、意識を再び部屋に舞い戻らせたフランシスは、こくりと頷いた。

「ええ」

 無の青い瞳で、壊れたように、フランシスは笑う。

「私が戻りたいのは召喚されるより前。しかも、それよりあと少し前なのですよ」