それは恐ろしいほどの悲しみだった。
 君がいない。俺の前からある日突然消えてしまった。
 確かにいるのにそこにはいない。手を伸ばせば触れられるのに君はこの世に存在していない。
 君の美しい亡骸。しかしぞっとするほどおぞましい姿。
 俺は君の肢体を見つめて立ちつくす。

 最期に名を呼んだのかい、君は。

 ああ、この凍えるような孤独から救って欲しい。
 あんまりだ、神さま。どうして俺から彼女を奪った?
 愛している。君に愛していると伝えたい。
 伝えられない。君の耳はもう何の音も聞こえない。
 俺の姿を見て欲しい。俺に微笑みかけて欲しい。
 君のあんなにきれいだった目はもう何ものも映さない。

 最期に名を、俺の名を呼んだのかい、君は、君は――――

「レイ   チェ ル」

 掠れた自分の声で目が覚めた。
 頭上から降り注ぐ光に目の奥がギンと痛くなる。身体を動かすと頭のてっぺんから首にかけて痛みが走った。頭痛だ、しかも重度の。なぜだろうと考えて、昨日エドガーたちとナルシェの酒場で飲みまくったことを思い出した。
 二日酔い。ばかばかしさにうんざりしながら身を起こすと、近くに人の気配を感じた。ティナが、俺の寝ていたベッドの横で、俺を不思議そうに見つめてしゃがみ込んでいた。両手をほっぺたに当てて、まるで小さな子どもが何かを初めて目撃したような顔つきだ。何が起きたのかよく分からない。うつむいて、乱れているだろう髪をわしゃわしゃと乱暴に掻き上げ、もう一度ティナを振り返ったとき、彼女は俺が視線を寄越すのを待っていたかのように口を開いた。

「ロック、おはよう。ね、みんなは先に準備して外にいるわ」
「ああ……そう」

 吐く息が酒臭い。

「すぐ準備する」
「でも……」

 不意に、ティナが珍しく戸惑うような声を出したので、どうしたと尋ねると、彼女は長い睫毛を伏せ、少し経ってから目を上げた。

「私、こういうとき、どうしていいか分からないの……」

 彼女のお決まりの台詞が出て、微笑ましさというよりも、苛立ちがつのった。

「つらい、の? ロック」
「別に」

 少し冷たい声で返してしまったが、俺は言い直さなかった。むしろ俺の反応は当然だと思っていた。
 いらいらする。
 ティナは不思議そうにゆっくりと首をかしげ、立ち上がって俺を見下ろした。

「だいじょうぶ?」
「ああ」
「……」
「ごめん、立つからどいてくれる」

 彼女が数歩下がるとすぐに俺はベッドから降りた。身体にかかっていた毛布を投げ捨て、床に置いてあった荷物を取り上げて部屋の出入り口に向かう。起こしに来てくれたティナを半ば無視するような形だった。罪悪感を抱いたが、それ以上に怒りの方が強かった。

「ロック」

 背後から呼ばれる。立ち止まって、振り返らずに彼女に返す。

「ごめん。こういうときは、そっとしておくものだよ」

 俺の言葉に、彼女は何も言わなかった。俺は皆と合流するために部屋を後にした。





 君は、最低だと、罵るだろう。





「ヴァカロック!」

 べし、と後頭部をかなり強い力で叩かれて、前のめりになった。痛え、と叩いた奴に振り返ると、それはエドガーだった。監視所に行く前にナルシェで買い出しをし、合流しようと入り口に向かう所で出くわした。かなり恐い顔をしている。いつもつかみ所のない彼にしては珍しい。

「なんだよ?」

 問うと、彼は横を向いて呆れたような溜息をついた後、眉間に皺を寄せて再び俺を見た。

「子どもにはな」

 ずい、と人差し指を立ててせり出してくるものだから、思わず後ずさる。

「言い方ってもんがある」
「子ども? ティナは子どもじゃないぜ」

 どうせその話だろうとさっさと彼女の名を出すと、エドガーは目を細めてますます俺を睨んだ。

「人にあてつけるなと言っている」
「分かってるよ。でも、どうしようもないときがあるんだ」

 うんざりしてきびすを返し、前に進もうとすると腕を掴まれた。揺さぶられたせいで二日酔いの頭痛が走る。さすがに俺もたまらなくなってエドガーを睨み返した。

「やめてくれ」
「お前が弱い人間になることを私は望んでいない」

 それは真剣な口調だった。彼の、ひょうきんさの中に隠れているとても知的で冷静な部分が、俺を諭そうとしている。そんな考え方しかできないのは、俺が苛立っているからだろう。記憶によって、過去の痛みによって、理不尽さと悲しみに押し潰された心が自衛している。
 お前に何が分かる。
 そんな本音が出たが、心の中だけに留めた。この言葉を口に出すことがどれだけ愚かなことかくらいは分かっている。
 ナルシェの空気は冷たい。怒りと寒さで会話を切り上げたくて腕を掴む手を振り払おうとしたが、エドガーも抵抗してますます力を込めてきた。

「苦痛を苦痛で返してはならない」
「分かってる! 分かってるから放してくれ」
「分かっていない。もし分かっているのなら彼女にそんな態度は取らなかっただろう」

 低い声で言われ、俺は押し黙った。彼の口にしていることは正論だ。俺自身も、頭の中では理解していた。そのことをエドガーもまた認めてくれている。だからこそ、短い言葉で諭そうとするのだ。

「……」
「彼女は無垢だ。無垢であることは美しいということではない。ただ白紙であるだけだ」

 エドガーは、ようやく手の力を抜いて俺の腕を解放した。振り払って行くことも可能だったが、それを今するということはよくないことだった。

「……」
「白紙にはどのように描いても許される。だからこそ、醜い色で塗り潰してはいけないよ」

 いちいちきざな男だ。

「どうせなら美しいひとであってほしいだろう」

 美しいひと、という言葉に、俺の心は揺さぶられた。

 美しいひと。女性。
 傷。悲しみ。痛み。
 綺麗な花に囲まれた身体。
 愛した人。今も愛しているはずの人。

「我々は、彼女を変えうる」

 眠る彼女の顔が脳裏を過ぎる。
 美しい寝顔。永久に目覚めることはない。
 願っても泣いても叫んでも、その優しい唇で俺の名を呼んでくれることはない。

(レイチェル)

 二日酔いのせいかは分からないが、目の前がちかちかした。

「……ロック? 大丈夫か」

 心配そうな声で問われ、いつの間に頭を抱えていた俺は顔を上げる。

「……ああ」
「……悪いな。行こう。みんな集まっている」

 俺の横を通り過ぎて、エドガーは前へ進んだ。彼の遠ざかっていく背中を見つめ、俺ものろのろと歩き始めた。





 今、を。
 生きる自分と、過去に留まり続ける愛する人。
 今を見ろと賢明な王は言っている。

(でも。
 今を見たら、俺は消えてしまうんだ)

 冷たく凍えた街路を踏みしめて、ナルシェの入り口ですでに集合している仲間たちの姿を遠目に見る。その時の俺の目には、彼らがまるで全く知らない人たちのように映った。

(俺には目的がある。手に入れなければならないものがある……それを否定しないでくれ)

 目的を否定されてしまえば、俺は、今の俺であることを失ってしまうのだ。
 今生きているものたち、俺と実際に関わるものたちがどれだけ大切かは分かり切っている。過去にいつまでもすがっている自分がどこか間違っていることも、皆も同じことを思うだろうことも、頭では理解している。
 それでも。

(それでも、それよりも大事なものがあるんだ……)

 自分の姿を見つけたティナが、俺の名を呼んでいる。その顔は少しこわばっている。あんな表情をさせた人間は俺だ。その隣にはエドガーがいて、複雑な面持ちで俺をじっと眺めている。まるでティナを守るかのように。

 “俺が守る”。

 いつか自分が放った言葉が思い出され、俺は、彼らの視線から逃げるように目を伏せた。