私は、彼が本当に笑っていないことを知っていた。

 彼はいつも元気で調子が良くて、誠実で正義感が強く、仲間のムードメーカーとして存在していた。誰かが落ち込んでいれば肩を叩いて話を聞き、盛り上がっている人たちがいれば輪の中に飛び込んで更に楽しくさせようとする。あまりにはしゃぎすぎて、後から大目玉をくらうこともあるけれど、それでも彼は前向きで、優しくて、強い人に見えた。
 でも私は知っていた。一見強い人は、大抵弱い部分を隠し持っているということを。私も、彼ほど気丈ではないけれど、同じように他人に心を閉ざし、本心を隠してしまうところがあったから、気持ちが分かるのだ。

 守る、と、彼から言われた時、私は正直驚いた。
 私は守る側の人間だった。帝国では上に立たなければいけないことも多々あって、時には恐怖や悲しみという人間らしさを捨てなければいけない場面に幾度も遭遇した。幼い頃から敷かれたレールの上を歩まされ、将軍として「こうあらねばならない」という意識がとても強かった。本来の自分には脆弱な部分があるのに、そのことにすら気が付けなかったほど、私は自分自身を殺していた。感覚が麻痺していたのだ。帝国のやり方が気にくわないと思えたことは人生の中で幸運だったと言える。

 帝国の中では、性別など関係がなかった。生き物として、女は男より力が弱いなどという理論は意味を為さなかった。
 力あるものこそ強い。ただそれだけが真実。

 けれど、彼が私に「守る」といったときに、私は自分が女であることを思い出した。
 彼は私に、私が人間であるという事実を呼び起こしたのだ。
 私という本来の、生き物としての自分を幾十にも覆っていた仮面を突き破り、私を根源からすくい上げたのが彼だった。

 私は彼が好きだった。
 だからこそ私は、彼がいつも遠いところを見ていることを知っていた。
 笑っているのに笑っていない。それは決して人を騙すためではない。
 彼は自分をひた隠すためにそうしている。

 事実がどうであれ、私は、自分の愛情をねじ曲げることはできないと分かっていた。
 そう簡単に諦められるならば、それは愛ではないだろう。
 彼が同じ愛をかつての人に抱いているのと同じように。

 私の向こう側に過去を見つめている彼に、そんな空ろな目で見ないで、と、口にすることはできなかった。
 彼がどこか狂気混じりに目的を達成しようとしていることを非難することもできなかった。
 それは他の仲間たちも同じ。彼の気持ちは彼自身にしか分からない。容易に彼の人生を否定してはいけない。
 しかし、きっと皆の中には「蘇生などという目的は過ちにすぎないといつか分かるだろう」という気持ちがあったのだろう。
 だから何も言わなかった。見守っているだけだった。それは間違いだよと言ってあげられる人間はいなかった。
 彼の狂気に気付いた時に、ただ気まずそうに沈黙するだけで。
 私たちは彼に対して残酷だったかもしれない。

 私は彼に愛されたその人が羨ましかった。
 死んでもなお愛され続け、彼が人生をつぎ込めるほどの人。
 きっと彼は失った日から毎日泣いていたのだろう。
 嘆き、悲しみ、苦痛に苛まれ、現実に絶望し、寝ても覚めても愛する人を思い出す。
 それはなんと純粋で哀れな恋慕なのだろう。
 なんと美しく醜い人間じみた想いだろう。
 私にも。
 私にもそんな想いを抱いてくれたらいいのに。
 私のこともそんなふうに愛してくれたらいいのに。

 心の中に、彼と似た狂気が生まれくるのが分かった。
 表裏一体の美醜。
 愛とは、きっとそういうものなのだ。





 深い夜だった。
 競売目的でジドールの宿屋に泊まった時、眠れないとティナが部屋を出たので、私まで眠れなくなってしまい心配になって探しに行った。つい最近ゾゾで再会したばかりの彼女はどこか放心していて、覚束なく、口数が少なかった。ティナは、私たちの中では特殊な存在で、彼女なりに苦しんでいることは分かっており周りもひどく心配していたが、どう対応していいか判断が付かず、結局見守ることしかできないという状態だった。
 人間とは、人が本当に救いを求めている時に案外、無力なものだ。助けたくても助けられない。ロックのことも相まって、見守るということは果たして優しさなのだろうかと疑問に感じる瞬間が多くなった。
 金持ちの町であるジドールの建物は皮肉なほど立派にできている。廊下は赤の絨毯張りで、歩き始めると足下がふかふかした。蝋燭の明かりを頼りに通路を進むと、ふと話し声がして立ち止まった。声は、廊下の右手から出られる広いバルコニーからだと分かった。そこにティナと、もう一人の姿を目撃して、情けないことに私は動揺した。彼女と話している相手はロックだった。私は無意識のうちに彼らから死角の位置、けれど声の届く場所に隠れた。
 彼も寝ようとして眠れなかったのだろうか。彼の気に入っているお洒落なバンダナはつけておらず、ティーシャツと緩いズボンの軽装だった。
 同じくシャツとスカートという部屋着を身に着けているティナは、彼と人ひとり離れた場所に佇み、欄干に手をかけて夜空を眺めているようだった。
 二人の会話に私は息を潜めた。

「……ロックは悲しい気持ちでいっぱいなのね……」

 ガラス越しのためにくぐもって聞こえるが、ティナの一言で私の心は乱れた。私が彼に言いたくても言えないことを、彼女はためらいなく口にする。それはおそらくティナがティナだからこそできることなのだ。私にはできない。彼に嫌われたくない一心で沈黙する私には、できない。

「悲しい気持ちでロックが壊れてしまいそうに見えるの」

 ロックは、ティナと同じく空の闇を眺めているようだった。彼女の言葉を黙って聞いている広い背中は、どこか悲痛さが滲み出ている。ティナはそんな彼を見上げ、小さく首をかしげた。

「でも私、悲しい気持ちがなんなのか、どうして悲しいのか、分からない。だからロックの気持ちを分かってあげられない。私、みんなが羨ましいの。みんなはロックの気持ち、少しでも分かるわ。私は分からないせいで、ロックのことを傷つけてしまう……」

 まるで子どものような口調だった。それは私でさえ愛おしさを覚えるほどの、一生懸命なたどたどしさだった。ロックが彼女を守りたいと言ったのは――というのをティナの口から聞かされて私は複雑だったのだが――ごく自然な流れだったのかもしれない。きっと、私も、彼と似たような立場だったら、ティナに「守ってあげる」と言ってあげただろう。だからこんなことに妬みを覚える自分は本当に愚かなのだが。

「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」

 遮るように、ロックは言った。怒りではなく、苦笑混じりの声だった。彼はくしゃくしゃと頭を掻いた。

「みんなは、きっと、俺の気持ちは分からないよ。分かってあげたいと思ってるのだろうけれど、分かることができないからね。理解したいけど、できないんだ。俺のことを気に懸けてくれる奴らも、きっと苦しいと思う」
「そうなの? みんなも、分からないの?」
「そうだよ」

 その、ティナをあやすような優しい声に心が震えて、私は泣きたくなった。

「だからティナは自分を責めなくていい。誰も、自分を責めることなんてないんだ。俺が俺自身を責め続けることだけは、誰にも止めることができないけれど」
「どうして? ロックは悲しんで苦しいのに、どうしてもっとつらい思いをしようとするの?」
「俺自身にも止められないから」

 彼はティナを振り返り、微笑した。崩れ落ちそうな笑顔だった。

「でもいつかティナにも分かるときが来るかもしれない。愛おしさを知った後の失うことの痛みとか、苦しみとか。分からないほうがいいようなことだけれど、でも、きっと、分かったら――そして道を間違えなければ、豊かになれる」
「間違う?」

 それは一体どういう意味だというふうに、彼女は聞き返す。ロックは、困ったように瞬きし、苦笑して再び空を見上げた。

「俺は、間違っているから、きっと」

 悲しみに満ち、痛々しく吐き出された声。
 私の目から涙がこぼれる。嗚咽が出そうになって、両手で口を塞ぐ。しっかりした体つきなのに、足下から崩れていってしまいそうな、ひどく脆い彼の姿。それでも月夜に照らされる容赦なく美しい銀髪に、胸がいっぱいになった。

「間違っている……? ロックは間違っているの?」

 訳が分からないと混乱した様子で、ティナが心配そうに訊く。ロックは、彼女に振り返らないまま頷く。

「うん。きっとね。俺は豊かになれないかもしれない。でも誰も俺を止めることはできないんだ。
 今止まったら、きっと俺は壊れてしまうから」

 そんな、ロックが壊れるなんて嫌だわと必死に首を横に振るティナに、ロックは泣き出しそうに笑った。ティナもつらい思いをしたんだよなあ、と頭を撫でると、彼女は黙ってうつむいた。だから俺を気に懸けることなんてないんだよ、ティナまでつらくなっちゃうだろ、と、彼は、笑う。あの、嘘の微笑みを浮かべる。見ていてこちらの胸が痛くなるような微笑みを。
 私は廊下を戻った。気付かれないように静かに、けれど足早に。目の前が涙でにじんで見えない。苦しみと、愛おしさと、慈しみで心が飽和している。神さま、あんまりだわと理由も分からず頭の中で叫ぶ。部屋に戻り、ベッドに潜り込むと、私は声を押し殺して泣いた。足音が聞こえる。ティナが戻ってくるのだろう。彼女にばれずにいられるだろうか。ばれないようにしなくては彼女が驚いてしまうだろう。
 どうか、どうか、神さま、いるのなら、彼を幸せにしてあげてください。幸せの形がなんなのか分からないけれど、それがたとえ間違いでもいいから、彼には幸せになって欲しいんです。
 ぐちゃぐちゃな思考の中で祈っていると足音が止み、ドアの開く耳障りな音がした。私は懸命に息を潜め、かたく目を閉じ、暗闇の中に逃げ込んだ。