小さき種が大樹となることが、ディアスは尊いと思っていた。
 見上げても視界が追いつかないほど大きな樹が、注意深く探さなければ分からない可愛らしい種を生むことも。

 義兄弟たちに虐げられて、深く落ち込んだとき、ディアスはレノスの街角にある小教会の裏庭に来る。その小教会には一人の年老いた聖職者がいた。かつて教皇庁で仕事をしていた男だが、内部での些細な争い事に巻き込まれ、街の片隅に追いやられたのだった。白く長いひげを蓄えた、灰色の瞳を持つ優しい顔立ちの老人で、レノスの貧民街でアノイア教を健気に信仰し続ける人間たちのよりどころとなっていた。
 老人は、ディアスの幼少時を密かに知っていて、後にディアスがサン・タンジェロ城へと名を変えて引き取られたことを気の毒に思っていたようだ。時おりひどく傷ついた様子で庭に訪れる少年の肩を、彼は何も聞かず老いた手でそっと撫でてくれた。
 小教会の庭には、一本の大きなシナノキがあった。温かな季節になると白く可愛らしい花を咲かせ、寒くなると小さな果実をつけて、種は風に運ばれて地上へと落ちる。考え事をしながら地面に転がる小さな実を手のひらに拾い集め、老人に手渡すのが恒例だった。その実は再び老人の手によって再び地面に撒かれるのだが、それが無意味な行為だとしても、老人は笑顔でディアスに礼を言うのだった。

 ディアスは、樹という生き物を美しいと思っていた。何も語らず、そこに佇み、静寂のまま気の遠くなるような年月を過ごし、季節に忠実に従って、自身に比べて遥かに小さき命を土へと宿す。その繰り返しを否とも言わず、永い時間、動物たちに木陰を与えながら生き続けている。
 自分もそんな存在になれればいいのにと、広がる枝葉を見つめながらぼんやり物思いにふけるのだった。人間の醜い心や中傷に心を痛めることもなく、陰謀や権力とも無縁の世界で、慈悲深さを持ちながら静かな時を過ごす。なんと尊いのだろう、そんな穏やかさからほど遠い場所にいるからこそ、大樹の定めが心底羨ましく思える。自分が大樹たちに憧れることに対し、大樹たちは汚泥まみれの人間の世界に羨望を覚えることなどないのだろう。争いを繰り返す人間は愚かな生き物だと軽蔑しているに違いない。
 大樹になりたい。すべての土台になるものに。育むものに。広く優しきものに。
 汚れた出生である自分は決してそうなれないことを知っていたけれど。

 フィリアが戻ってきてから、ディアスは彼女とカルス・バスティードで数週間を過ごした。彼女曰く、光の中から戻ってときから具合がよくないということで、それがなかなか芳しくなく、日によっては体調を崩して自分の部屋のベッドで横たわることもあった。青白い顔で静かに呼吸しているフィリアの姿を見に来るたび、ディアスは彼女が死んでしまうのではないかと不安に駆られていた。自分でも驚くほどフィリアを看病し、彼女も申し訳なさそうに親切に甘えた。
 血の気のない顔で儚げに微笑みながら礼を言うのを、ディアスは抵抗せずに受け入れていた。感謝する、されるなどということよりも、自分の彼女に対するこの行為は当然のことであり、礼など言うまでもないことであると思っていることに、己の抱いている感情に改めて気付かされたのだった。
 自分は、彼女を愛しているのだ。

 いよいよ火山の噴火が怪しくなってきた頃、ディアスは、ベッドに腰掛けるフィリアに提案した。
 町を出よう。
 短い言葉に、フィリアは振り向き、
 ええ。
 何の抗いもなく頷いた。フィリアはどうやらすでにディアスと共にいることを決心しているらしかった。その根拠は単純にディアスのことを好いているからだというが、未だ彼女の心の内が見えてこなくて、愛の感情らしきものを抱いているとしても、ディアスは真っ直ぐに信用することはできなかった。ただ、もしいつかフィリアと離れてしまう運命にあるのだとしたら、それは死をもっての離別でありたいと望んでいた。そのきっかけが、たとえ裏切りであっても。
 ディアスは、フィリアの部屋の窓辺から宿舎の庭を眺め、再び口を開いた。
 レノスの教皇派と反教皇派の対立が激しくなっている。事を起こすのならば、俺はそろそろ行動しなければならん。
 フィリアは、はい、と静かに返事をし、
 私は、あなたの手足となります。
 迷いなく言う。ディアスはなぜか苛立ちに近い感情を覚えて、たまらず彼女を見た。
 よく、そこまで奉仕が思いつくものだ。俺に利用されていて屈辱だと思わないのか。
 それは、彼女が彼女自身を卑下して欲しくないと感じるからこそ出た言葉だった。フィリアはディアスが感心するほど強く凛とした女性だ、下手すると聖職者の息子である自分よりもずっと高潔で立派な。
 フィリアは、ディアスを見つめ返して曖昧に微笑み、
 利用や屈辱などという言葉は、私の中にはありません。
 いっそ頑固にも感じられる態度で言った。
 あなたも誰かを愛せば、きっと分かるわ。
 言葉に、ディアスはわずかに眉を上げた。一年間も探し続けたのに、なお男の中にはフィリアへの愛は無いなどと考えているのだろうか。愛でないというならば、この感情は一体なんだというのか。ときに弱々しく映る彼女を守ってやりたい、死が分かつまで離れたくないと願う心は。
 ディアスはフィリアの前に立ち、冷たい目で彼女を見下ろした。
 愛という感情以前に、俺に協力すれば、死ぬ運命が確定したようなものなのだぞ。
 まだ詳しいことも話していないのに、簡単に男の申し出を受け入れる女に腹が立った。他の男であっても彼女は同じ態度を取るのだろうか、慈悲に溢れる聖母のような潔い姿を見せて。
 フィリアは青い両目をディアスを向け、
 私は覚悟しています。あなたが私を必要とするのであれば、私はあなたの側にいる。邪魔だと思った時には突き放せばいい。
 ディアスは急に怒りを覚えて彼女の肩をドンと片手で押すと、彼女をベッドの上に仰向けに倒した。上から覗き込み、華奢な細い顎を手でぐっと持ち上げる。
 裏切るなら今のうちに裏切れ。信頼を築き上げた後の背信は、憎悪しか残らない。
 フィリアは抵抗せず、いつも浮かべている笑みを消して、ディアスを悲しげな目をして見つめた。
 分かっています。でも私はあなたを裏切りません。
 ディアスは自分の中からどうしても消えようとしない不信感に嫌悪を覚え始めた。
 どう保証する? 愛などという曖昧な単語で相手の信用を得ようとするのか?
 視線をそらすことなく、フィリアはディアスの頬に手を当てた。その両の瞳は、目の前にいる男を憐れんでいるようだった。
 それ以外に言葉が見つからないの。
 彼女の声音の中に嘘偽りはない――分かっているのだが、それでもディアスのむかつきは収まらなかった。自分の心があまりに頑なすぎて、どうしたらそれを自身で打ち砕けるのか分からなかった。いつの間にフィリアの顎を掴む指先に力がこもっていて、白い肌が赤らんでいるのにハッとし、手を遠ざける。身体を支えるために、彼女の顔の横に右腕をついた。
 俺は。
 溜息交じりに言う。
 誰も信用することはできない。たとえ貴様が俺を愛していても、俺が貴様を愛したとしても、互いは個々の人間で孤独だと考えている。人間はどんなに努力しても相手の心を真の意味で共有することはできない。俺の中に、疑念は残り続けるだろう。
 言葉に、フィリアは小さく苦笑した。
 それは、仕方がないことだけれど、どこか寂しいですね。
 彼女はディアスの頬を撫で、
 初めに言ったと思うけれど、あなたは私を信じる必要はない。裏切ってもいい。けれど、私は、あなたを信じている。その理由は、あなたを愛しているから。信頼の中には、少なからず友愛の感情があるわ。あなたがその感情を私に対して抱いていなくてもいいの。でも、あなたがこうして私と関わり合いを持とうとしてくれるのは、あなたの中に少しでも私を信じる心があるからではないのかしら。
 図星を指され、ディアスは面食らった。一体この女性は何なのだろう、まるで賢者のような物言いをする。
 確かに、
 ディアスは身を起こし、ベッドの上に疲れたように座った。
 少なからずは、な。しかし、繰り返しになるが、俺には真に人間を信じる瞬間など訪れない。それはもはや俺の過ごしてきた時が築き上げてきたもので、俺自身にもどうすることもできないことだ。
 フィリアも起き上がり、シーツの上に座り込んで、ディアスに向き直った。彼女は依然、憐みの宿る視線をディアスに注いでいる。ディアスはいたたまれなくなって沈黙していたが、ふと思いついて右腕を伸ばすと、フィリアの後頭部に手を当てて顔を引き寄せた。少し驚いた表情が間近にある。
 唇を近づけたが、彼女は微動だにしなかった。ディアスは目を細める。
 ならば、今は貴様を信頼しよう。だが我々の関係に亀裂が入ったとき、俺はかまわず貴様に責任を押しつけるぞ。
 フィリアは真っ直ぐにディアスを見て頷き、
 分かってい――
 言いかけた口をディアスは唇で塞いだ。フィリアはかなり驚いたようだが、抵抗しなかった。それは嬉しい反面、悔しくもあり、そして不可解だった。
 彼女の言葉を遮ったのは、答えを聞きたくなかったからなのかもしれなかった。