朽ち果てた建築物の上でおよそ一年ぶりの再会を果たし、ディアスは未だこれは夢ではないかと疑いながら、フィリアを連れて宿場へと向かった。
 散々探して見つからなかったくせに、光の渦とやらからひょっこりと姿を現した彼女に腹が立ちつつも、それ以上に、何の怪我や病気もなく依然と変わらない元気な様子でいてくれたことが嬉しかった。
 フィリアは未だ自分の状況をよく分かっておらず、町へと戻る道すがら、他の仲間たちもひどく心配して彼女をずっと探し続けていたこと、町が最近活発に活動し始めた火山の影響下にあること、そのため町からはどんどん人が出ていき、一年前に比べて人口のほとんどがいなくなってしまったことを伝えた。フィリアは目をまん丸くしながら聞いていて、ディアスが話し終えると申し訳なさそうな顔でうつむいた。
 みんなにお礼も言えていないのね。
 そう暗い声で呟く。

 ディアスはつくづく不思議だった。彼女は、ディアスが感心するくらいに優しい心を持っている女性なのだが、必要以上に周囲の人間と関わり合おうとしなかった。初めて出会った時の印象は、きっとこの女性も己の正義を振りかざして合理的な考え方のできない愚かな人間の一人にすぎないだろうというものだったが、彼女は仲間の危機に対して消極的で、まるで初めからディアスと友好を築く目的があったかのようにディアスだけに近づいてきたのだった。
 得体が知れず、気味が悪いと思いつつも、フィリアの戦闘能力は高く、危険の多い地下世界を探索するためには使い勝手のいい存在だった。彼女の方から近づいてくるというのなら尚更だ。ディアスは彼女を利用し続けた。
 二人の間にあるものが徐々に信頼や親愛といったものに変わり始めたとき、ディアスは慌てた。この流れは危険だ、人間は信用ならない存在で、どんなに互いに利益があったとしても、頼る頼られるという関係になってはいけない。どうせこの女はディアスを裏切る。ディアスもまた彼女を裏切るだろう。その先にあるものは憎しみだけだ。憎悪の関係はなんの利にもならない。だからそんなものは初めから生み出してはいけないのだ。
 だが、もはや遅かった。
 彼女はディアスの心に深く入り込み、寄生し、芽を出し始めていた。
 近づくなと初対面から威嚇したつもりだったのに、どんなに傷つけても、冷たい態度を取っても、いつまでも朗らかなまま、不思議な微笑と優しさを保ちながら、彼女は冷徹な男の側にいた。
 どんなに遠ざけようとしても離れようとしないフィリアに、ディアスはたまらず訊いたのだった。
 どうして、俺に関わる。
 すると、彼女は当然のように言った。
 好きだから。あなたのことが大切だから。
 真っ直ぐな愛の告白に驚くというよりも、彼女の言いたいことが一体何なのか分からないという不信感の方が強かった。嬉しいというよりは不快だった。いきなり目の前に現れて仲間という関係を持とうとしている行動が不可解で、一体どうしてこれほど穏やかで純粋な人間が、その正反対に存在しているともいえる男の近くに留まり続けようとするのか意味不明だった。もしディアスの側にいなければ、彼女は他の仲間たちに毛嫌いされずに済んだだろうに。
 いや、小さな町で暫定的な同盟を結ぶ人間にすぎないのだ、相手の気持ちなど考える必要などない――ディアスはそう自分に言い聞かせたが、彼女から向けられる眼差しと柔らかな言葉に、貧しかった心はすでに満たされていた。
 ディアスもまた、フィリアという女性を愛し始めていたのだ。遠い昔に忘れ去ったはずの、家族のように優しいぬくもりを与えてくれる彼女のことを。

 宿場に戻る前に酒場へ行こうかと思ったが、おそらくナーダがフィリアの出現について連中に話しているだろうと予測し、ディアスはひとまず自分の部屋へと彼女を連れて行った。フィリアは男の自室に入ることに戸惑っていたようだが、彼女が使っていた部屋はいまだ残されているものの長いあいだ出入りしていないので埃がたまっているだろう、後で掃除をしてから入るべきだと言うと、彼女はなるほどといった様子で頷いた。
 本当に時間の感覚がなかったのだなと、椅子に腰かけながらディアスは窓際に佇むフィリアの横顔を見つめた。髪も伸びていないし、経年の服の傷みも見当たらない。地上でいう一年間、あの光の渦の中にいたというが、精神世界は爆発と共に遺跡もろとも崩壊したのではなかったのだろうか。
 色々と問い詰めたいところだが、彼女自身もよく分かっていないようだし、こちらに振り向いたフィリアに薄く微笑みを返すだけにして、ディアスはとりあえず無難なことを尋ねた。
 腹は減っていないか。
 もしかしたら一年間も食べていなかったかもしれないのだ。フィリアは一瞬きょとんとして、ふふっと口元に手を当てて笑った。
 少し。
 短い返事にディアスは頷き、男の部屋に二人きりでも気まずいだろうということもあり、彼女を町の食堂に連れていくことにした。
 宿場の近くにある壮年の夫婦が経営しているこの食堂は、町がまだ賑わっていた頃、多くの旅人たちの憩いの場となっていた。人口流出が激しいせいで以前のような賑わいはなくなってしまったが、未だ町に留まり続ける者たちのために開いてくれているのだった。
 食堂に訪れたディアスと、連れであるフィリアを見た店主は目を丸くした。
 見つかったのかい!?
 夫の声に驚いたらしい、彼の妻が奥の厨房から出てくる。
 見つかったって!?
 二人の驚き様にフィリアはかなり戸惑ってしまい、ええと……とまごついているのをディアスがフォローしてやった。
 こいつに何か作ってやってくれ。
 夫婦は涙ぐみながら頷き、あまり材料がないからいいものは作れないが、と申し訳なさそうに言いながら厨房へと入っていった。
 近くのテーブル席に向かい合って座る。初めて来た場所でもないだろうに、フィリアは身を縮めて居心地悪そうにしていた。ディアスはそんな彼女の態度が不思議で、少し様子を窺った後に問いかけた。
 どうした。
 するとフィリアは苦笑いを浮かべ、
 いえ、ずいぶん町の景色が変わってしまったと思って。
 控えめに言った。確かに、時間の経過の感覚がないのに周囲の環境が変わっていては、違和感を覚えても仕方がない。
 一年経ったし、火山の活動も活発だからな。
 淡々と説明してやる。フィリアは考え込む仕草をしたあと、顔を上げてディアスに訊いた。
 ディアス、どうして私を待っていたの。
 訊かれるだろうとは思っていたが、いざその瞬間が訪れるとディアスは言葉に詰まった。
 フィリアは真剣な瞳でこちらを見つめている。ディアスはテーブルの木目を意味もなく目で追いながら黙っていたが、彼女が頑なに返事を待っているので、しぶしぶ口を開いた。
 どうしてだろうな、分からない。
 それは半分は照れ隠しで、半分は本当の疑問だった。どうして自分が、他人と関わり合いを持とうとしない自分が、一年間も一人の女性のことを待ち続けていたのだろうか。たとえ再会したとしても、その後のことなど考えてはいなかった。ほとんど無意味な努力と言ってもいいのに、延々と瓦礫の山を這いまわって彼女を探していた。自分でも馬鹿だと感じるほどに、長い間。
 ディアスが思考を巡らせていることに気付いたのか、今度はフィリアが口を開いた。
 でも、もし私があなたなら、私もきっとあなたと同じことをしたわ。
 そんなことを言われたので、ディアスは驚いてフィリアを見た。彼女はいつもの、あの不思議な微笑を浮かべていた。
 なぜ、同じことをする?
 自分でもどうしてこんな問いが出たのかよく分からなかったが、そう尋ねていた。
 フィリアは肩をすくめ、
 あなたが好きだからです。
 また、そんなことを言う。ディアスは眉間にしわを寄せた。
 なぜ、俺のことを好くのだ。
 訝しげに訊くと、彼女はくすくすと笑った。
 理由なんてないです。
 そのとき料理が来たので、二人は会話を中断した。店の主人が作ってくれたのは湯気の立っているトマトソースのパスタだった。二人前差し出されて、どうして自分の分があるのだと困惑したが、フィリアが料理を目の前にして嬉しそうな顔をしているのを見て、一緒に食事をするのも悪くないかもしれないと、ディアスもまた素直にフォークを取った。

 再びディアスの部屋に戻ってくると、急にフィリアが具合が悪いと言い出した。顔をのぞき込むと青白くて、貧血でも起こしたのだろうかと彼女を自分のベッドに横にさせた。食堂を往復しただけだが彼女は妙に疲労しているらしく、寒がるように毛布の中にうずくまった。
 椅子をベッドの側に持ってきて腰かけ、青ざめたまま横たわるフィリアをディアスは不安になって見つめた。彼女はうっすらと目を開き、心配かけまいとするかのように小さく微笑んでみせた。
 なんだか、瓦礫の山で目覚めてから、身体がだるいの。
 手のひらを彼女の額に当ててみたが、熱が出ている様子はない。
 よく分からないが、環境が急に変わったからかもしれんな。
 喉が渇いたというので、ディアスは一度部屋を出て、宿場の給湯室からカラフに入れたお湯を持ってくると、コップに注いで一口フィリアに飲ませてやった。フィリアは他人の部屋で寝ていることもあってか恐縮しているようで言葉がなく、しばし二人意味もなく無言で見つめ合っていた。
 不意に、フィリアが口を開いた。
 あなたは、これからどうしますか。
 一年間も待っていたというが、ディアスにはその間に成し遂げたかった別の目的があったのではと心配しているらしい。
 ディアスは曖昧に微笑し、窓の外を眺めながら答えた。
 目的はある。だが、それは貴様を見つけてからでも遅くはなかった。
 フィリアは少しのあいだ沈黙し、
 あなたの駒なのであれば、私は、この先もあなたの側にいます。
 などという。彼女の口から出た言葉に、ディアスは複雑な気持ちを抱いて彼女を振り返った。駒という単語は散々自分が彼女に対して放っていたものだが、それをいざ当人に使われると、どうしてか胸が痛んだ。だが、お前は駒ではないと言い返すこともできなかった。もしかしたら無意識にでも未だに彼女のことを利用できる駒としか思っていない自分がいるかもしれない。ただ、彼女が、ディアスという男を彼女の苦労も顧みない非情な男であると考えているのだとしたら、それはとても不愉快なことに思われた。
 ただの駒なら要らない。
 低い声で唸る。
 しかし互いの利になるならば、一時的に同盟を……
 言いかけて、ディアスは自分の態度に嫌悪を覚えて言葉を切った。言いたいことは、こんなことではないはずだ。だがどう言葉にしてよいのか分からない。妥当な言葉を探していると、ディアスの心境が分かったのか、フィリアが苦笑しながら言った。
 あなたが私をどう思っていたとしても、私はあなたの側にいます。あなたが、それをわずかでも望むのであれば。
 ディアスは彼女の優しい眼差しを受け止め、どうしてこの女性はこれほどまでに穏やかな静けさを持っているのだろうと胸が切なくなる感じを覚えた。そっと片手を差し伸べ、顔にかかっている濃い色をした髪を除けてやる。フィリアはその仕草に抵抗せず、むしろ嬉しそうに小さく笑んだ。
 その思慮深い微笑を見たとき、ディアスはほとんど無意識に腰を上げ、彼女に屈み込むと、そのこめかみに小さな口づけをしていた。彼女の顔が間近にあってハッと我に返り、椅子に座り直しながら、すまないと小さな声で謝る。急に羞恥が込み上げてきて視線を合わせることができず、瞼を伏せる。一体自分は何をしているのだろう。もしこの女性に恋をしているのだとしても、その恋の先に幸福があるとは限らないのに。
 自分は信じるか裏切るかでしか他人を判断できない人間なのだ――そんな己がたまらなく厭だった。自己嫌悪に陥っていると、不意にフィリアが身を起こし、ベッドの上に座りつつ、ディアスの顔を下から覗き込んできた。
 ディアス。
 その呼びかけは、ひどく優しかった。
 私を信じてとは言わないわ。けれど、私はあなたを信じている。それは、あなたが好きだからです。
 ディアスは目線だけを上げた。
 どうして、俺などを好く。
 再三、疑い深く問う。フィリアは片手をそっとディアスの頬に当て、それはとても難しい質問だと言った。
 理由があってあなたを好きになるのではないもの。
 手のひらから伝わってくる体温が愛おしくて、ディアスは自戒のためにそれを遠ざけたかったが、やはり突き放すことができなかった。彼女の小さな手の上に――それは武器を握っていることが信じられないほど華奢な手だ――自分の手を載せて、フィリア、と名を呼んだ。そういえば、いつから自分はこの女性を名で呼ぶようになったのだろう。これまで人の名前を呼ぶことすら躊躇っていたとは――この世界の一員なのに、あまりに世界を拒絶していた自分が馬鹿馬鹿しく思えてきて、ディアスはふっと苦笑を浮かべた。
 フィリア。
 ディアスを見つめる青色の瞳が綺麗だと思った。
 俺と共に来るのならば、死を覚悟して欲しい。

 フィリアは微笑んだ。まるで清純な女神のように、慈悲深く、美しく、憧憬のような空気をたたえて。