瓦礫の山を踏みしめながら、折り重なったいびつな石を手で除けているときは、いつも周りの音が遠ざかっている錯覚に陥る。
視線の先にある、何度も石屑を握りしめた軍手はボロボロになっていて、また新しいものを用意しなければならないと思う。
周囲は乾いた風に舞い上がるほこりと火山灰で霞み、口を布で覆わなければ激しい咳に襲われてしまう。
無言で、もう何度と繰り返してきた作業を続けている。
むなしい景色を背景に、おびただしい量の瓦礫の中に佇むのは、自分だけだった。
理想を夢見た、あまりに潔癖すぎたがゆえに崩れ去った世界の中に、今もまだ彼女の姿を探している。
光の爆発と共に姿を消した彼女を。
どうして自分がこんなことをしているのだろう、と考える。
始めは慣れなかった朝から晩まで続く肉体労働も、一年も経てば疲れを感じにくくなった。
諦めればいいのにと多くの人から言われた。聞き飽きるほどに。それはもはや無意味な作業であると。
一年も瓦礫に埋もれている人間が生きているはずはない。今頃、骨になって朽ち果てているだろうと。
そんな言葉をかけられて、彼女の残酷な末路を思い描くたびに、強い吐き気がこみ上げた。
あんなに強くて真っ直ぐな彼女が、何も語らぬ物と成り果てている。
笑うこともできず、泣くこともできず、五感を失い、記憶も失い、二人で成し遂げたことも忘却の彼方にある。
光の世界であれほど男のことを心配していた彼女が、全てを忘れ、宇宙の果ての闇と同じものになっている。
ただ、無になっている。
あのとき、まばゆい光の渦の中で、彼女の不安げな意識が流れ込んできた。
あなたはどこにいるの、と。
無事なの、大丈夫なの、と。
自分は、それに応えたかった。
応えたはずだった。
けれど返事は聞こえなかった。返事を聞く前に光の爆発に飲み込まれたから。
そして元の世界に戻ってきたのは自分だけだった。
それから長いあいだ彼女の姿を探している。
この瓦礫のどこかでまだ生きているのではないかと期待しながら。
今も自分に助けを求めているのではないかと不安を抱きながら。
石くずをいくつも退けて、底から顔を出したものが平面な石畳だけだったとき、深い落胆に包まれる。
ここもだめだった。
さあ次に行かねば。
その繰り返し繰り返し。
町の人々が言っていることは正しい。
もし生身の身体で埋もれていたら、この瓦礫の中で生きているはずがない。
それでも探し続けるのは亡骸が見つからないからだ。
亡骸さえ見つかれば、骨の残骸ひとかけらでも見つかれば、彼女のことを諦められるのに。
服の破片でも、髪の一束でも見つかれば、自分は早々にこの町から去ることができるのに。
どうして彼女はどこにもいないのだろう。
いつまでも姿を見せず、期待を抱かせる彼女に、恨みが募る日もあった。
心の中で彼女を罵って、何度もここから立ち去ってやろうと思った。
けれど彼女の事を悪く思うたびに胸が痛くなる。
ああ、これは本心ではないのだ。
本当は姿を現してほしい。
一度でもいいから逢いたい。
また笑ってみせてほしい。
でも、いつまで願えばいい?
ここはいつか溶岩流に呑み込まれ、灰の町となるだろう。
そのとき果たして彼女は生きているだろうか?
灼熱に包まれて無事でいられるだろうか?
自分も一緒に灰となったとして、それを彼女が喜ぶだろうか?
ならば彼女を死の町に置き去りにしたまま自分は生きなければいけないというのだろうか?
孤独になった自分だけが。
「ディアス」
急に声が聞こえ、肩が震えた。自分が右手に持っている歪な石に、急に意識が向く。
のろのろと顔を上げると、近くにファトゥムが佇んでいた。彼は無表情でこちらを見つめ、少し経ってから口を開いた。
「今日は切り上げた方がいい。お前は疲れ切っている」
短く提案され、ディアスは何も言わずに手に持っていた石を投げた。
石は積み重なる瓦礫の上を転がって、少しずつ砕けながら見えなくなった。
一年は、長いようで短かった。
明日は、明日こそはと思い続けて、今日まで経った。
彼女のかけらが見つからないということは、すなわちまだ希望があるということだった。
それは、ほんの些細な希望だろう。
以前の自分ならば、持っていても意味のない望みなどさっさと捨ててしまったはずだった。
けれど今は、どんなに小さな希望ですらすがりたいと思う。
それがまるで自分の生きる意味であるというかのように。
自分の命であるというかのように。
一体いつからこんなふうな考え方をするようになったのだろうと、ディアスは自分が不思議だった。
最初は彼女に対して何一つ温かな感情など抱かなかったのに。
人間は信用できない。
血の繋がった母親ですら信用できないのだから、兄弟や他人などますます信じられるはずがない。
だから、この町で偶然出会っただけの女など信じるに値しなかった。
しかし彼女はなぜかディアスという男が気になるらしかった。
冷酷なまでに現実主義な男と彼女の考え方が似ているのではなく、彼女には、男がなぜそういう考え方をするのだろうという疑問があったという。
あなたの考え方は正しい。
とても理に適っている。
彼女は、男の冷たさに大して動じもせず、そう微笑しながら言った。
でも、あなたの思想は、感情に揺さぶられがちな人間たちにとっては厳しすぎる。
あまりに崇高すぎる。
それは、まるで過去の人間たちがひどく潔癖で独善的な思想を抱いていたのと同じように。
そうはっきりと言われたとき、ディアスは彼女に対して、ある一つの考えを抱いた。
ああ、彼女は。
自分と同じところを視ている。
同じ地平線を見つめている。
どんなに走っても手を伸ばしても遠すぎて辿り着くことのできない、人間の最も合理的な在り方を知っている。
それが人間には未来永劫到達できない場所であるということも。
ただの駒、ただの駒と戒めるたび、彼女は不思議な微笑みをたたえながら自分の中に入り込んでいった。
それはとても不思議な感覚だった。
かつてほんの少しだけ得られた家族の温かさに似ていた。
彼女の介入は、どうやら過去のぬくもりの再現だったようだ。
自分の人生のうちで覚えている唯一の温かさの。
気づかないうちに、ディアスは彼女のその優しいぬくもりを愛おしんでいた。
たゆたう波に揺られているようで、心地よいと思っていた。
だからこそ危険だった。
人を信頼しては裏切られた自分が、まともに人を信じることなどできない。
信じたところで、また同じことが起きるだけだ。
彼女はいつか自分を裏切り、離れていくだろう。
信じたお前が悪いのだと突き放して嗤うのだろう。
そうなる前に自分が突き放さなければ。
人を傷つける冷たい言葉を遣って、心を沈ませるきつい態度を取って、一刻も早く彼女を遠ざけなければ。
実際ディアスは何度もそれを実行した。
さすがの彼女も悲しげな顔をするほどに。
しかし彼女は頑なに離れようとしなかった。
さあ、一緒に行こう、と部屋を訪ねに来た。
あんなに傷つけたはずなのに、突き放したはずなのに、いつもの優しい微笑を浮かべながら。
慈悲深く、賢明な瞳をこちらに向けながら。
いつしかディアスは彼女を遠ざけることができなくなった。
そうする自分に罪悪感を抱くようになったからだ。
彼女のひたむきな感情が少しずつ自分の中に侵入し、波紋のように広がっていったからだ。
それはディアスにとって決して嫌な感覚ではなかった。
あるときディアスは彼女に訊いた。
どうして、俺に関わろうとする。
すると彼女はくすりと笑い、小さく肩をすくめた。
あなたが好きだからです。
愛の感情など忘れてしまった自分に差し出された愛の言葉をすぐに信じることはできなかった。
彼女がディアスを愛し始めてもなお彼女を遠くに追いやろうとした。
今度は少し必死になりながら。
もしかしたらそれは、彼女をこれ以上傷つけないためだったのかもしれない。
彼女を傷つけたくなかったのかもしれない。
最初は自分が傷つきたくなかったからそうしていたのに、いつの間に理由が変わっていた。
そのときディアスは気がついたのだ。
おそらく自分も彼女と似た感情を抱いているということを。
「ディアス。ゆっくり休めているか」
瓦礫の山からの帰り、別れ際にファトゥムに問われた。
ディアスは頷いた。それは彼ら姉弟に心配をかけたくないがためだった。
ほぼ毎日、ファトゥムはディアスと瓦礫の山の探索をしていた。
それはディアスの手伝いだったが、彼はそうだとは言わなかった。
ディアスもまた何も言わなかった。
だんだんと男の希望が絶望に変わっていくのを、少年は気の毒に思っていたのかもしれない。
消耗が激しいくせに疲労を忘れて作業し続ける男をいつも止めるのがファトゥムだった。
もう帰ろう。
明日にしよう。
彼ら姉弟も危機迫るこの町から逃げればいいのに、彼らはなぜかディアスのそばにいた。
どうしてここに留まるのだと尋ねたとき、彼らは「救ってくれた恩があるから」と淡々と答えた。
ディアスはそれ以上何も問わなかった。
彼らも同じなのだ。彼らもまた必死に彼女を探しているのだ。
彼らが真に礼を言うべきは、未だ見つからない彼女に対してなのだから。
いつまでこんなことを続けるのだろう。
無情な風が吹く中で、ディアスは独りごちる。
いつになったら彼女は見つかるのだろう。
うつむき、朽ちた壁を拳で殴る。
世界はこんなに冷たくて悲しかっただろうか。
ぬくもりを忘れていたとき、世界はあまりにも無味だった。
生きる価値がないほどに、温かくも冷たくもなく、悲しくも優しくもなかった。
それはきっと自分が何も感じないようにしていたせいなのだろう。
けれど、今は違う。
今、世界は冷たくて悲しいと感じる。
彼女がいたときはあんなに温かくて優しかった世界が、彼女を失ったことで凍りつき、閉ざされてしまった。
だが、もはやディアスの世界は忘れ去ったはずの温度を取り戻していた。
彼女がまだどこかにいるかもしれないという希望によって、その温度は保たれていた。
たとえ凍えるほど冷たくても、ディアスの世界は今も温度を覚えている。
この温度が消えてなくなるときが、彼女の死を確信したときだ。
この冷たい世界が温かな世界に変わる日は来るのだろうか。
ディアスは祈っていた。
ただ祈っていた。
曇りがちで陰鬱な空に。
炭となった木々に。
枯れ果てた草花に。
乾いた大地に。
無機質な瓦礫の山に。
彼女が現れ、一瞬ですべてが色を取り戻す日を。
「……あなたは」
かろうじて足場の残っている、吹きさらしの石の建造物の上で、ナーダが声を上げた。
先ほどまで彼女と会話を交わしていたディアスも顔を上げて、彼女の視線の先を辿った。
そこに見えたものが何であるかを悟り、ディアスの心臓は止まりかけた。
ナーダがゆっくりとこちらを振り向く気配がある。
もしかして、という意味で。
ディアスはそれに返事をすることを忘れ、ただ見つめた。
瞳に映るものを。
走ってくる。
長いあいだ求めていたものが。
生きている。
ほとんど諦めかけていたものが。
名を呼んでいる。
もう二度と聞けないと思っていた声で。
ディアスは思わず足を前に踏み出していた。
色を失いかけていた世界に、彼女の走る軌跡一歩一歩から、あらゆる彩りが溢れて広がる。
彼女は走り込み、ディアスの前に立ち止まった。
以前と変わらない容姿で、自分が好きだった清く聡い目を向けて。
ディアスは震える手で彼女の髪を触った。
彼女は身長差のあるディアスの顔を見上げて、どこか不思議そうにしていた。
どうしたの、と首をかしげている。
ディアスは無邪気な彼女の態度に少し腹が立って、皮肉を言った。
いいご身分だな。
すると、ますます彼女は困惑したようだった。
ディアス、私、光の中で、ずっとあなたを探していたの。
目覚めたらここにいたの。
ねえ、あれからどのくらい時間が経った? ずいぶん景色が変わっているけれど……
ディアスが正直に答えると、彼女は目をまん丸くして口を塞いだ。
しばらく目の前の男を凝視して言葉を失っていたが、そのうち彼女の手が小刻みに震え始めて、ディアスはうろたえた。
彼女は目に涙をいっぱいに溜めていた。それはいつしか溜め切れなくなって頬を流れていった。
どうした、と問う。
彼女は口を開いたが息詰まって上手く言えず、呼吸を整えたあと、ようやく掠れた声を出した。
そんなに、あなたが……
言いかけて、とうとう彼女は両手に顔を伏せ、しゃくり上げ始めた。
ディアスはどうしていいか分からずに、彼女の小さな頭を戸惑いがちに撫でた。
触れた。
彼女にようやく触れられた。
ディアスはそのとき初めて彼女の体温を知ったのだった。
彼女は生きている。
呼吸をし、声を出し、身体を動かし、血を巡らせ、ディアスという男のことを覚えている。
彼女は忘れてなどいなかった。
光の中でディアスのことを探し続けていた。
幾度となく、こんなにもつらいのならばいっそ捨ててしまおうと考えた自分自身を、ディアスは憎く思った。
彼女は自分を求めていてくれたのに。
ずっと。
変わらずに。
そっと両肩に触れると、彼女は耐え切れなくなったようにディアスの懐に身を預けて、わあわあと泣き始めた。
彼女の嗚咽を耳にして、ディアスもまた少し泣きそうになった。
全身から温かな感情が生まれ、彼女と自分が生きる世界に少しずつ解放されていった。
それは心の奥がぎゅうと軋むような切ない気持ちだった。
この想いはいつか二人の世界を優しく満たすのだろう。
あらゆる彩りをもって。
ディアスには判っていた。この感情が何であるかということを。
それは彼女がディアスに抱いているものと同じものであるということを。
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