「やあエリーゼちゃん元気ィ〜!!!!」

 ひゃっほーいと言いながら勢いよく家のドアを開けた男の顔面に投げつけられたのは正方形のクッションだった。ふがっという声を上げ反動で大きく後ろに仰け反っている男を睨み、ものを投げた姿勢のまま、この家の主であるアーリグリフの疾風の団長グラオは唸る。

「出てけ」
「いたたた……おい息子、父に向かってなぜものを投げるんだ」

 ああ痛い痛いと頬をさすりながら眉をハの字にし、涙目でぶつぶつ言っている(埃でも入ったのだろう)。家に入ってくるなりナンパし始めたのは、グラオより少しだけ背が高く、灰色の癖のある髪と青みがかったグレーの瞳が美しいスレンダーな男だった。先ほどのおちゃらけた様子とは裏腹に歳は五十代前半で、かなり落ち着きのない大人である。
 グラオは妻エリーゼを庇うように立っていた。「グラオ、なんてことを」と後ろから彼女がくいくい服の裾を引っ張ってくるのを無視し、低い声で更に続ける。

「エリーゼに用があるときは俺を通せ」
「なっ……お前なあ、エリーゼちゃんはお前の妻、お前は俺の息子、となると俺とエリーゼちゃんは親子の関係なんだぞ? 義理の関係であっても親子ってのは仲良しでないといけないんだ。仲良くなるためのコミュニケーションを取るのに、なぜお前を介さないとならんのだ」
「用件を言え」

 今にもカタナを持ち出してきそうな夫の気迫に、背後にいるエリーゼが押し黙る。彼女が怯えていることは分かっているものの、この父親は女性となると見境がないため、何がなんでも後ろにいる美しき妻は死守しなければならず、この場を離れるわけにはいかなかった。もちろん二人は舅と嫁の関係であり、父が変な気を持って彼女に近づこうとしているわけではないのは承知している。しかし、この目の前にいる女好き、酒好き、遊び好きの三拍子がそろった男――グラオは“駄目な大人”と呼んでいるが、そんな輩を清純という単語の代表ともいえるエリーゼに近づけさせるわけにはいかないのだ。
 一歩も引こうとしない息子に溜息をつき、やれやれ、とシャオアは肩をすくめた。

「お前は昔から頑なだな。そんな頑固な子に生んだ覚えはないぞ」
「あんたが生んだんじゃないだろ」
「つ、冷たい! そんなんじゃエリーゼちゃんがかわいそうですっ。アルベルの教育にも悪いぞ。そういえばアルベルはどこだ、アルベル、アルベルうー!!」

 上の階に向かって絶叫する父親を冷ややかな半眼で見つめ、グラオは構えていた姿勢を元に戻した。肩越しに振り返り、エリーゼに「近づくなよ、面倒くさくなるから」と念を押すと、麗しき妻は銀の髪を揺らしてこくこくと頷いた。
 上の階からアルベルがどたどたと足音を立てて降りてくる。肩胛骨くらいまで伸びた黒髪を一つに束ね、寒さからか鼻を少し赤くしている少年は、じーちゃん!と嬉しそうな声を上げながらシャオアに向かって突進、足もとに抱きついた。表情をほころばせたシャオアはアルベルをひょいと抱き上げる。

「アルベル、久しぶりだなあ、元気だったか?」
「元気だよ! じーちゃんはどこいってたの」
「シャオアのじーちゃんはお仕事だったんだよ〜」

 くいくいとアルベルの頬をつまんでいる。やめろよ!と気恥ずかしそうに肩を叩いてくる孫に、シャオアはますます笑みを深めた。
 自分の息子のことで嬉しそうでいる父親を見ると、駄目な大人だが、いいじいさまではあるんだよなあと、グラオは小さく嘆息した。

「アルベルいま何歳だ?」
「七さい!」
「パパと一緒に稽古してるのか?」
「してるよ。木刀でね、打ち合いしてるんだ」
「そうかあ。アルベル、お前は強くなるぞ、なんてったって俺の家系だからな」

 かけい?と意味が分からず首をかしげているアルベルの髪をわしゃわしゃと撫で、シャオアは孫を下ろすと、グラオの方に歩み寄った。近づいてくるとは予測していなかったグラオはぎくっとして身構える。
 やれやれと呆れた表情だが、その父親の目つきが真面目であることに気づいたグラオは、そのまま身動きしなかった。シャオアは近づくと向こう側に見えるエリーゼに微笑みつつ、そっとグラオに耳打ちした。

「次期王の料理に毒が盛られた」

 囁かれた言葉に、グラオは前方を見つめたまま眉間にしわを寄せた。次期王というのは言い換えで、アルゼイのことだ。また面倒なことになったなとグラオは溜息をついた。
 シャオアはすぐに数歩後ろに下がり、傍らで不思議そうに祖父と父のやりとりを見ていたアルベルを振り返った。

「よーし、アルベル、じーちゃんと遊びにいくぞ! 何がしたい?」
「えっ、いいの!? えっとね、えっとね……お城の中を見学したい! そんで竜に乗りたい!!」
「分かった。ついでに城の食堂でうずまきパスタを食べような」

 ちょっと待てなんだその不安な名前の食い物は、とグラオは腕を伸ばしかけたが、シャオアとアルベルが仲良く手を繋いでいる後ろ姿を見ると、止める気も失せてしまった。
 意気揚々と息子たちが出て行ったあと、グラオは先ほどから従順に後ろに控えていたエリーゼを見下ろした。彼女もまた二人の姿を視線だけで見送っていて、グラオの視線に気がつくと薄く笑んだ。

「私、お義父様がとても好きです。明るくて、優しくて、お強くて、すてきな方だわ」

 滅多に自分の心の内を見せないエリーゼがそう言ったことに面食らったが、グラオにも彼女の気持ちはよく分かっていた。父親は俗にいう“天才”というやつで、グラオが悔しくなるほど文武両道でなんでもこなし、おまけに性格は陽気で人なつっこく、更に賢くて思慮深いときた。欠点といえば酒が入ると泣き始めるという程度で、他に類を見ないすばらしい男性が尊敬されない方がおかしいだろう。ジェラシーは抱いていたが、本当に自慢の父親だった。
 頼むからその言葉は親父の前では言わないでくれよと、グラオは苦笑しながらエリーゼの額をこつんと指で軽く小突いた。