「結婚」
「ああ」

 王子アルゼイの質素な部屋にある花瓶を手に取って眺めつつ、グラオは小さく笑み、頷いた。
 王位継承権からは遠い王室の一子と言えども王子は王子、そんな人物に背を向けたまま会話ができるのは、アルゼイとグラオがかつてから親密な関係にあったためである。王室の中でも抜きん出ていたアルゼイの才を見抜いたのがグラオの父シャオアであり、アルゼイを一国の王に仕立て上げようと企てているのが、まさに王族付きの騎士ノックス家だった。
 他の兄弟である王子や王女たちに比べ、アルゼイが並々ならぬ知性と野心を持つ人間であることは一目瞭然だった。そのため、彼の身内である王室と、その甘い汁を吸っているアーリグリフの貴族たちは、当然ながらアルゼイのことを快く思っていなかった。彼の兄弟たちは両親に取り入り、目障りなアルゼイを街の古びた一軒家に隔離し、しばらくシランドへ留学させたりして、アーリグリフの王政から遠ざけようとしていた。
 そのようにアルゼイが身内から虐げられている事実こそが、かねてからアーリグリフという国の改革を臨んでいたノックス家にとって、まさに好都合なことだった。多くの国民たちも感じ取っているように、王室は、今や貴族たちが裏で揺り動かしている傀儡と化していた。徳よりも金銭が力を持ち、経済力だけが物を言う時代だった。そのため、国民の貧富の差は激しくなり、雪道で凍死したり餓死する者も珍しくはなかった。
 そういう国民たちを目前にし、哀れみや同情よりも怒りを覚えるアルゼイの気質こそ、シャオアが見抜いた上に立つ者としての資質だったのである。

「グラオ……あなたは、まだ若いのではないですか」

 花瓶を棚に戻し、グラオはそう言ったアルゼイの方を振り返った。顔立ちからして利発そうな黒髪の十六才の王子は、今までその上で勉強していた机を背にし、椅子に腰掛け、面白がるような瞳でグラオを見つめていた。
 グラオも同じように挑発するような笑みを浮かべ、近くの丸椅子にどかりと腰を下ろした。

「アルゼイなら、真っ先に祝ってくれると思ったんだけどなあ」
「おめでたいことは確かです。しかし、子を為してから婚儀を挙げるのは、この国ではあまり良しとされていませんからね」
「恋愛結婚だよ、アルゼイ」

 今流行のお見合いなんてくそ食らえだ、とグラオはふんぞり返って堂々と脚を組んだ。アルゼイはくすくす笑い、あなたらしいですね、と言いながら立ち上がると、古びた勉強机の隣にある年季の入った本棚の前に立ち、何やら本を探し始めた。ロウソクを節約しながら生活しているので、部屋全体が薄暗く、かなり近づかないと壁のランプの明かりが届いてくれない。そのせいで、あまり視力の良くないアルゼイは、ほとんど棚に寄り添うような形で本の背表紙を目で追っている。

「エリーゼという女性でしょう。マーネ夫妻の養女だった」
「ああ」
「シャオア殿が喜んでいるのではないですか」

 父親の名前が出てきて、グラオは「ああ……」とうんざりしたように天井を仰ぎ見、眉間に指先をあてた。

「親父の名を出さないでくれよ……気分が悪くなる。俺の婚儀だぜ」
「ふふっ、美人には目がない方ですからね。
 ところで、あなたたちの婚儀は大々的に挙げるわけではないのでしょう?」
「ああ。婚姻届を出す程度だな」
「幸い、エリーゼはアリアス出身で身分を持たない女性です。貴族の関心も薄いですから、受理されないということはないとは思いますが、問題は夫婦となった後でしょう」

 アルゼイの淡々とした言葉に、そうだなと素直に頷く。ノックス家は元々貴族の家系だが、傍流のため父シャオアの爵位は低く、シャオアが庶民の女性と結婚したため、息子であるグラオは爵位を与えられなかった。つまり、現在のノックス家は、その実力で王族付きの騎士という身分を持っているようなものだった。
 むろん、ノックス家が王族の傍で働けるのは、王子アルゼイの庇護のおかげもある。貴族の巣窟と化した王家を、同じく王家の一員であるアルゼイは信頼しておらず、聡明な彼が唯一よりどころとしているのは、貴族の中でも“まだまし”であるシャオアとグラオという二人の身分の低い騎士だけだった。彼の能力を見い出したシャオアが近づいた時、アルゼイは十才だったが、若き王子はうろたえることもなく「あなたを待っていました」と一言口にしたのだという。
 この王位継承権の低い王子こそが、後の世に君臨する者となるだろう。ふさわしい、ではなく、なる、のである。シャオアもグラオも、それを確信していた。しかし、未だ貴族の妨害が多い上層界である、アルゼイ一人の力で上の兄弟たちを蹴散らすには無理があった。そこに協力しているのが“夜”の姓にふさわしい、一つの眠れる光を輝かせるために影となる存在、シャオアとグラオの二人だった。
 ノックス家がアルゼイの味方であることを他の貴族たちは知っているため、同じくノックス家に対しても彼らは敵意に近いものを抱いていた。それでも二人を追い払うことができないのは、軍事的にも頭脳的にも二人があまりに優秀だったためだ。もし二人が王家に対立する立場を取れば、国が傾く危険性さえあると見なされていた。そのため、王族は、あくまで上層界の底辺という条件付きで、ノックス家を王家側に置いているのである。
 もし、そのノックス家に弱い存在が加われば、ノックス家を敵視する者に利用されるであろうことは目に見えていた。

「でも、問題ないさ」

 グラオは、今度は前かがみになって組んだ脚の腿の上に頬杖をつくと、ふふんと笑った。本を取り出してパラパラとめくっていたアルゼイは、おや、と言いたそうな顔でグラオに振り返る。

「問題ないのですか?」
「ああ。俺が守るからな」

 迷いなく、グラオは言った。アルゼイはきょとんとしていたが、声を上げて笑い、あなたらしいやと楽しげに言いながら、本を持ったままグラオの方に近づいた。グラオが何だろうと思って背筋を伸ばすと、アルゼイはいたずらっぽい笑みを浮かべたまま、グラオに分厚い本を差し出した。

「はい、これ、参考にどうぞ」

 手渡された本の表紙を怪訝な顔をしながら見やると、そこには「姓名判断事典」と書かれていた。グラオの仕草を眺めていたアルゼイは、面白がる声で付け足した。

「縁起のよい名を付けてくださいね」

 アルゼイの一言に、グラオは、破裂したように笑った。俺が画数を気にする男に見えるかよ!と大笑いした後、とりあえず気持ちだけはもらっておくぜと言って立ち上がり、アルゼイの肩をぽんと叩いた。
 アルゼイは、嬉しそうな顔をして、グラオの顔を眺めているだけだった。