震える白ウサギ。
 自分が勝手に決めたエリーゼのあだ名を頭の中で反芻して、グラオは笑った。
 可愛い名前ではないか。このアーリグリフでは太陽が顔を見せることが少ないので、色白だったり色素が薄かったりする人間がとても多いが、それほどまでのあだ名が付く女性には、未だかつて出くわしたことがなかった。
 エリーゼがこの城のメイドとして働き始めたのは最近のことだ。グラオは一見とっつきにくそうな彼女のことが、最初は少し苦手だった。アーリグリフ城の執務室の掃除をしてもらっている間、世間話でもと思い自分から話しかけてみるのだが、反応は鈍く、表情も少なく、もしかしたら男が苦手なのかもしれないな……と、ほうきで床を掃いている彼女の後ろ姿を眺めながら嘆息したものだ。そのうち、彼女が来る前に部屋を抜け出すようになっていた。正直、女性とも男性と同じように仲良くしたいと思っているグラオにとって、男が苦手な女性はこちらから願い下げだったのである。
 
(でも本当は、緊張してたんだってな)

 書き終えた巻物をくるくると閉じながら、グラオはくくっと笑った。
 ある日、いつものように彼女が当番で来る前に部屋を抜け出そうとしたら、なぜか彼女がドアの前に佇んでいた。目に涙を浮かべ、少し顔を赤らめて、自分はあなたに何か機嫌を損ねるようなことをしてしまっただろうか、と尋ねてくるのである。グラオは呆気にとられてしまったが、泣いている女性を放っておくわけにもいかず、よくよく話を聞くと、彼女はただ単に緊張していてグラオとまともに顔を合わすことができなかっただけとのこと。上手くグラオの言葉に受け答えできないのは、決してグラオを嫌っているのではなく、あまりに恥ずかしくて喉から声が出てきてくれないため、であった。
 エリーゼは、この世の人間とは思えないほどの美女である。だが、自分が美しい人間であることを、あまり自覚していないらしく、どちらかというと自分の引っ込み思案の方が気になってしまい、他人と喋るということ自体に抵抗を感じているらしいかった。周囲からすれば、あまりに美しく気高そうなので、むしろ近づきたくても近づきにくいといったところだろう。そのために、彼女はあまり人との関わりを持ったことがないようだった。
 つまり、エリーゼはグラオとは正反対の人間だった。グラオは人付き合いが好きだったし、他人と話したり遊んだりすることにも抵抗がなく、いつだって皆と笑い合っていたいと思っているタイプの人間だった。だからエリーゼの言っていることを聞いて、へええ、そういった人間もいるんだなあ、程度にしか思わなかったが、考えてみれば、自分もあまりそういった人間に関わったことがなかったような気がした。グラオの周りには、自然とグラオに似たタイプの人間ばかり集まってきてしまうのだ。
 グラオは、回転椅子をぐるりと回すと、部屋の出入り口付近で掃除用具を片づけているエリーゼの背中を見つつ、考えた。美しい銀色の髪は、邪魔にならないようにと上でまとめられている。そのため、細すぎる真っ白な首が綺麗に伸びているのが見えた。
 そのあまりの白さに目を細めつつ、グラオは尋ねた。

「ねえ、君」

 グラオが突然話しかけてきたので、エリーゼは、は、はい、とあからさまに驚いた声を上げて、グラオを振り返った。大げさな彼女の態度に、グラオは巻物を手に持ったまま、苦笑した。

「そんな驚く?」
「え、あ……す、すみません」

 みるみるうちに顔を紅潮させて、頭を下げてくる。彼女の色の白さは、むしろ病的といってもいいほどで、顔に登ってくる血が哀れなほど赤くなって見える。
 グラオは、ふと気になって問うた。

「もしかして、君、アルビノ?」

 グラオの問いに、エリーゼは、あ、と少し気まずそうな顔をして頷いた。

「あ、はい……完全なアルビノではないのですが……」
「そうなんだ。でもなんでそんな暗い顔すんの?」

 グラオは立ち上がり、エリーゼに歩み寄った。エリーゼは驚いてほうきを持ったまま身をすくめたが、グラオはかまわずエリーゼの前に立つと、彼女の銀髪を見下ろした。

(小さいな)

 エリーゼは、間近に迫ったグラオをおそるおそる上目遣いで見た。血の色の視線が、グラオの灰色の視線と交差する。

「あの……その」

 エリーゼは、残像が残りそうなほど赤い目を右往左往させつつ、

「この、瞳の色、が……気持ち悪いと、よく……言われていた、ので……」

 今にも消え入りそうな声で、言う。エリーゼの心配の種を知ったグラオは、手を腰に当て、えぇ?と眉を上げた。

「なんで? 綺麗な色じゃん」
「そ、そうでしょうか……」

 そんなことを言われるなんて心底不思議だ、といったふうな表情で再び自分を見上げてくるので、グラオは思わず吹き出した。

「あははっ、面白いな君。えっと、エリーゼだっけ。どこ出身なの?」
「あ……ええと、出身は、アリアスです」
「あれっ」

 シーハーツ籍なの?とグラオが目を丸くして問うと、エリーゼは緩慢な動作で、いいえと首を横に振った。

「私、孤児で。アリアスの孤児院で、十八歳まで過ごしていました」
「ふーん、そうなんだ。で、最近アーリグリフに来たんだ?」
「あ、いえ、私を養子にして下さったアーリグリフのご夫婦の元で少しのあいだ暮らしていましたが、つい最近どちらも亡くなられて。行き場をなくしていた所を、アルゼイ様がこのお城の使用人として斡旋して下さいました」
「えっ!? 君、アルゼイの知り合いなの?」
「あ、その、養母が、アルゼイ様の幼少時にお世話係をしていらしたとかで……」

 世話係と聞き、ああ、マーネ夫妻か、とグラオは納得した。アルゼイはシランド留学から帰って来たばかりで今現在ばたばたしているが、さすがに乳母にも近い世話係が亡くなったとなると無視するわけにはいかなかったのだろう。ましてや、その養子が路頭に迷うことになるかもしれないのならば。
 マーネ夫妻ならばよいところに養子に入ったなと思いつつ、グラオは尋ねる。

「んで、今はどこに住んでるの?」

 先ほどよりは慣れたのか、エリーゼはどもることもなく――しかし未だ目はしっかりと合わせられず、視線は挙動不審になっているが――グラオの問いに答えた。

「使用人の女子寮の、一室をお借りしています」
「なるほどね。そうすると今は……十九歳か二十歳くらいなのかな? 失礼だけど」
「今は、十九です」
「じゃ、いっこ違いなんだね」

 グラオの言葉に、エリーゼは「えっ!?」と目を丸くしてグラオを見上げた。

「い、いっこ?」
「あれ……違う? 俺いま二十歳なんだけど」
「そ……」

 そうなんですか、と言いかけて、エリーゼは再び顔を真っ赤にさせてうつむいた。失礼なことが口から出る寸前だったので、慌てて言い噤んだのである。
 そんな彼女の様子にグラオはとりわけ気にすることもなく、軽快に笑った。

「ははっ、もっと上に見えた?」
「い、いえ」
「大丈夫、俺、年相応に見られないんだよね。年下にも年上にも見られちゃって」

 でも実際は今二十歳ですと言いつつ、うつむいてしまったエリーゼの顔を身をかがめて覗き込む。エリーゼは耳まで真っ赤になって、近づいてきたグラオにびっくりしたように、少し身体を引いた。
 グラオはにんまりと笑うと、腰を戻して身を起こした。

「でも、ま、君のこと、知ることができたし。ねえ、エリーゼのこの部屋の掃除当番はいつなの?」
「え、と、ほとんど、毎日で……五日にいっぺん、お休みを頂いています……」
「そっか」

 グラオは、自分よりずっと背の小さなエリーゼの頭を、片手で軽くぽんぽんと撫でた。

「じゃあ、また、喋ろう。俺が席を外していない限り、毎日、喋ろう?」

 グラオが再び顔を覗き込んで言うと、しばらくの間、エリーゼは可哀想なほど真っ赤になって硬直していたが――そのうち、ハッと気が付いたように間近になったグラオの両目を見つめると、ふんわりと笑った。
 その、初めて見るエリーゼの微笑みに、思わず。

(うわ、めちゃくちゃ可愛いじゃん……)

 その後、他の部屋の掃除に行かなければならないと慌て始めたエリーゼを、それは大変だ、とグラオは送り出した。自分以外に誰もいなくなった見慣れた部屋で、グラオは、うわ、やべえ、としゃがみ込み、顔を赤くして頭を抱えた。

「マジかもしんない……」

 グラオが人生で初めて真の恋に落ちた瞬間が、実は、この時だったりするのである。