「どうして選んだんだ?」と、彼はよく尋ねられていた。
 「どうしてあの人なんだ?」と問われると、彼は、いつも苦笑しながら首をかしげていた。
 周りが言いたいことは、グラオとは全く性質の異なる人間なのに、彼女と結婚して大丈夫なのか、ということなのだろう。
 合わないのではないか、だとか、彼女に無理をさせるのではないか、だとか。
 問うてくる人々の目が、密かにそう心配していた。
 そんな人々に、彼は常にこう返していた。

 「好きになるのに理由なんているのか?」





 アリアスの宿屋を出て、アイレの丘とカルサアの丘を通り、カルサアの自宅に戻る。
 自宅は三階建てで、敷地自体はそれほど大きくはない。この鉱山の町には木造建築と石造建築が混在しているが、彼の邸宅はその二つを組み合わせた家だった。これは建築家の友人に言ったグラオのわがままで、おかげで夏は涼しく冬は暖かいという理想の家ができあがった。敷地が狭いのは予算の都合のせいだった。ウォルターに「金を出すから、もっと大きな家を建てればどうだ?」と言われたが、グラオは丁重に断った。金の貸し借りや譲渡は大抵、ろくな結果にならないという考えがあった。
 グラオが家のドアを開けると、まず小さな玄関があり、正面左斜めに台所が見える。その近くには暖炉と食卓用テーブルがあり、ノックス一家はこの場所でよく家族団らんをしていた。真ん中の通路を挟んだ向かい側には本棚とソファがあるが、暖炉から遠いために、息子の読書量は少々乏しい。奥の方に行けば、風呂場と手洗いがある。二階には夫婦の寝室があり、グラオの書斎と妻の化粧室が併設されている。三階は、半ば屋根裏部屋のようになっており、息子の遊び場と寝室になっていた。
 今の季節は春だが、アーリグリフ地方であるカルサアの夕方から早朝にかけての冷え込みは厳しい。アリアスを出た頃から小雨が降っており、家に着いた頃には土砂降りになっていた。すでに子どもたちが寝静まる時間だ。傘を差さないグラオの服に染み込んだ雨は、彼の身体を凍えさせていた。
 そそくさとテーブルの上に土産物を置き、コートを脱ぎ捨て、グラオが暖炉に近づいて温まっていると、上の階から妻が静かに降りてきた。

「……あら」

 とりわけ強い感情もない声音である。
 かじかむ手を擦り合わせながら、グラオは彼女の方に振り返り、うっすらと笑った。

「ただいま」
「おかえりなさい。雨に降られてしまったでしょう、今、タオルを用意します」
「頼むよ」

 ああ寒い寒いと言いながらグラオが暖炉の前で前屈みになっているのを見て、妻は焦ったらしく、いつもより少し速い足取りで風呂場の方へと向かった。
 グラオの妻の名は、エリーゼという。恐ろしいほどの美女で、外を歩けば振り返らない人間などいない。このカルサア一、いやアーリグリフ一の美女だと言われていた。色素ができにくいという珍しい体質なので、肌の色は限りなく白に近く、瞳は血の色をしている。睫毛が長く、唇も赤いが、無の時の表情は美女ゆえに冷淡に見えた。
 背はそれほど高くはなく、もともと病弱なこともあって、体躯は華奢だった。その身体をきつめのドレスで締めつけているのだから、女というものは本当に大変だとグラオは思う。性格は、とにかく物静かだった。趣味は刺繍と読書という淑女ぶりである。
 風呂場から戻ってくると、エリーゼは、持ってきたタオルをグラオに手渡した。

「暖炉でよく温まって。風邪を引いてしまうわ」

 タオルを受け取りながら、グラオは彼女のくるぶしを見た。ドレスが長いので、見える部位はくるぶしだけだ、これがまた白く、骨が角張っていた。まるで先ほどまで雪に埋まっていたかのように白く寒々しい足首を眺め、グラオは不満そうに口を尖らせる。

「お前の方が寒そうだよ」

 濡れた頭を乱暴に拭きつつ言うと、エリーゼは、「何?」と不思議そうに首を傾けた。

「私?」
「ああ。一緒に温まるのはどうだい?」

 グラオが言うと、エリーゼは困ったように笑み、少し頬を赤らめた。肌が白いので、上ってくる血液の色が正直に現れてしまい、通常の人間が照れるよりも、もっと赤くなっているように見えた。美人ゆえに冷淡に感じられる彼女の笑顔は、実は非常に可愛らしい。小さな口元がより小さくなり、長い睫毛の目の瞬きが多くなり、首が細いためにグラグラと揺れ動いてしまいそうな頭が小さく傾くのも、とても綺麗な人形が自分の言葉に反応して動いているかのようだった。
 グラオは、コートの下に着ていた上着を脱ぎ、薄手の黒いシャツ一枚になると、傍に佇んでいるエリーゼの手を取って、下に引っ張った。突然の行為に、エリーゼは更に頬を紅潮させて、慌てたように声を出した。

「ま、まあ、グラオ、何かしら」
「一緒なら、より温まるだろ?」

 幸い、中に着ていた黒いシャツは濡れていない。ズボンは濡れているのでそれに気をつけながら、グラオは隣に座らせた妻の肩を軽く抱いた。
 たくましい腕に抱かれ、エリーゼは、ますます沸騰しながら目線を右往左往させた。

「グ、グラオ……」
「アルベルは寝たんだろ?」

 まだ十二歳の息子に刺激的な場面は見せられないしなあ、とグラオは続ける。

「今だけ今だけ」

 いたずらっぽく言う夫に、エリーゼは、もう、と口を尖らせた。
 周囲から「冷たそう、淡泊そう」と言われている彼女からすると、考えられないほど可愛らしい一面だ。実は、彼女の本性はこれなのだ。恐ろしそうに見えるのは、彼女が美人すぎるのと、物静かなうえ無口なので、相手に彼女自身の情報が伝わりにくいせいだった。
 グラオがエリーゼに出会ったのは、彼女が城のメイドとして働き始めた時のことである。普段グラオは、同僚や部下からは「明るくてひょうきん、陽気で人なつっこい」と評されていた。自分でも少なからずそう思っていた部分はある。だから、彼女が初めて自分の部屋の掃除に来たとき、この女は苦手な部類だなという印象しか抱かなかった。あまり笑わないし、喋らないし、取っつきにくく、話しかけても曖昧な返事しかない。彼女が当番の日になると、何かにつけて早々に部屋から逃げ出すようにしていたほどである。
 だが、ある時、いつものように彼女が来る前に部屋から抜け出そうとすると、なぜかドアの前にほうきを持った彼女が立っていて、泣き出しそうな顔でグラオを見上げて言うのだった。

「私、何かしてしまったでしょうか」

 今まで淡泊な表情を一切崩さなかった彼女が、いきなり泣きそうになっているので、グラオは、あっけにとられてしまった。だが彼女は泣くまいと思っているらしく、懸命に涙を目尻に溜めてこらえていた。
 どうやら彼女は、グラオに避けられていると思っていたらしい。お掃除に伺うと、いつも部屋にいらっしゃらないし、前の担当はそんなことなかったと言っていました、だから私のせいなんだって……と小さく震えながら言う彼女を見て、グラオの心は揺れ動いた。
 可愛いじゃないかよ!!
 それなりに女性関係はあったグラオだが、八方美人なので、本命とは上手くいかないことが多かった。恋愛なんて面倒くさいと思い始めていた矢先、震える白ウサギのようなエリーゼが現れたことで、グラオの人生は変わった。
 ああ、彼女を幸せにしてあげよう。
 理由もなく、きっかけもなく、妥協も嘘も違和感もなく、グラオは純粋にそう思った。

(愛ってものは、前触れどころか前後関係さえないのさ)

 暖炉の火を見つめている彼女の横顔を見下ろしながら、グラオは思う。

(だから、どうしてエリーゼなのかという問いは、はっきり言って愚問だな)

 肩を抱いていた手で頭を撫でてやると、エリーゼは困惑したようだが、すぐに小さくはにかんでみせる。
 グラオはたまらなくなって、エリーゼを引き寄せて両腕で抱きしめた。

「きゃ」
「あー、もお、エリーゼ可愛い」
「グ、グラオ、何なの」 
「可愛い〜」

 ぐりぐりと顎を頭頂部に押しつけて、柔らかい石けんの香りを満喫しながら、背中を両手でゆっくりと撫でる。彼女が大人しくなったので、グラオはしてやったりと笑んだ。

「あーあ。エリーゼ、本当に可愛いなあ」
「も、もう、アルベルが起きたらどうするの」
「起きないって。あいつ寝たら爆睡だし」

 きっちり八時間は睡眠し、八時間後には必ず起きるという便利な体質を持っている息子である。夫婦としても色々と夜の計画を立てやすい。そうエリーゼに話したら、もう!と顔を真っ赤にしてベッドに潜ってしまったことがあった。

「幸せだよ、俺は」

 グラオは、エリーゼの頭に自分の頬をくっつけて、そっと呟いた。先ほどよりかは真剣な語調に、エリーゼは沈黙する。
 ぱちぱちという木のはじける音が続いた後、グラオは、ひっそりと声を出した。

「……アリアスで、ネーベル・ゼルファーに会ったよ」

 その言葉に、エリーゼはハッとしてグラオを見上げた。

「まあ。あなた、無事だったの?」

 グラオは、彼女の顔を見下ろしながら頷いた。

「見逃してくれたさ。俺が偵察目的で来たということも知っていただろうけどな」
「そう……」
「アリアスのジャムを買いに来ていた」

 そういえば俺も買ってきたよ、プリンとヨーグルトのジャムだ、とテーブルの上にある紙袋を指差すと、エリーゼは、プリンとヨーグルトのジャム?と怪訝そうな顔をしたが、グラオは気にしないで後を続けた。

「彼の妻は、三年前に亡くなっていたらしい」

 グラオの低い言葉に、エリーゼは驚いたような顔をし、すぐに悲しげに眉を下げた。

「……そうなの。エマが……」

 目を伏せて、エリーゼは、小さく息をついた。
 エリーゼは、もともとアーリグリフ地方の人間ではない。彼女は、アリアスの孤児院出身の人間だった。理由は分からないが、生まれてまもなく両親に捨てられて、教会の前に置き去りにされていたらしい。ミレーニアというアリアスで孤児院を経営していた女性が赤子を拾い、孤児院の中でエリーゼを育て上げた。
 孤児院はそれほど大きい施設ではなかったが、親に捨てられたり引き取り手がないという理由等で、いつでも少なからず孤児がいた。エリーゼは、そこでネーベルの妻となるエマという少女に出会っていて、彼女と一緒に十代後半まで育ってきたのである。
 アリアスはシーハーツ領だが、孤児院は必ずしも国の傘下にあるわけではなかった。引き取り手がアーリグリフであれば、アーリグリフに戸籍を移す手続きも案外安易にできた。エリーゼは十八歳の時、アーリグリフで身体の自由がきかない老夫婦の家に養子として入った。とても優しく、エリーゼに対し理解のある夫婦だったが、一年後両方とも亡くなってしまい、困っていたところをアルゼイが城のメイドとして雇ってくれたのである。というのは、老夫婦にアルゼイがよく世話になっていたという縁からだった。
 エマは、エリーゼより後に孤児院を出た。詳しいことは分からないが、かの有名なネーベル・ゼルファーと熱い恋に落ちたという噂が入ってきた時、エリーゼは腰を抜かしてしまった。ネーベル・ゼルファーと言えば、施術士かつシーハーツ一の短刀の使い手で、しかも貴族の血統である。おそらく、ネーベルの方がエマに惚れたのだ。人生はよく分からないものだわと思っている間に、エリーゼも、アーリグリフ一と呼ばれている騎士グラオ・ノックスと婚約してしまったのだが。
 エマは、エリーゼの親友のような立場である人間だったということを、グラオは記憶していた。ネーベルに彼の妻のことについて尋ねたのもエリーゼのためだったが、もたらされたのは悲しい訃報だけだった。
 だが、彼女に言うことをためらうことはなかった。それは、昔からのグラオの性格である。
 真実には向き合わなければいけない。

「彼女は、病で亡くなったそうだ」

 悲しいと無言で訴えている彼女の小さな肩を強く抱きしめて、グラオは言った。エリーゼは何も言わず、ただひとつ頷いただけだった。
 エリーゼもまた、グラオの性格を理解している女性だった。グラオ・ノックスは曲がったことが嫌いで誠実な男だ。どんなにつらい事実であっても、立ち向かうことを恐れない。純真で真っ直ぐで、この上もなく強く美しい男性だとエリーゼは思っていた。
 グラオより先に恋し始めたのは自分だと、エリーゼは信じている。メイドとして雇われ、緊張でガタガタと震えながら初めて城の彼の仕事部屋に掃除しに入った時、目がくらむような美しい黒髪が目に飛び込んできた。机に向かっている彼が振り向いた時、なんと美人な男性なのだろうと感心してしまったが、あいにく感情表現の乏しい自分は思っていることを表に出せず、挨拶をして淡々と床を掃き始めてしまった。話しかけられても、上手く言葉が出てこず、どうしようとパニックになっている間に、グラオは居心地悪そうに部屋から出て行った。それから毎回、自分が当番になるとグラオが部屋から消えているので、嫌われてしまったのだと掃除をしながら一人で泣いていたこともある。
 グラオは、アーリグリフの人間ならば少なからず憧れる男性だ。まるで高嶺の花であるグラオが、自分の旦那になって、いま自分を抱きしめているのだと思うと、これは長い夢なのではないかと不安になることもしばしばある。
 だからこそ、彼と一緒に生きている今の生活を大切にしようと、エリーゼは思っていた。妻は夫を支えるものであると信じ、実際にはあまり仕事で家に戻ってこない夫だが、戻ってきたときに居心地がよいと思ってくれるような家にしたかった。仮にも夫は軍人であり、過酷な任務を果たして帰ってくるのだ。それを癒せない妻でどうするのだと、エリーゼは普段から自分によく言い聞かせ、不満や愚痴はこぼさないようにしようという信念を持っていた。もともと内面が表に出にくいせいで、周りの者から言わせれば「毎日淡々と生きていて得体が知れない女性」だそうだが、夫は全て分かってくれていた。帰ってくるたび、自分が家にいられないことを謝り、いつも家と息子を守ってくれてありがとうと感謝してくれた。いつか平和になったら家族みんなでずっと幸せに生きようとも言ってくれた。
 その言葉を支えにして、エリーゼは毎日懸命に生きていた。アルベルという息子が二人の間に生まれたことも、グラオとエリーゼの間に愛があるという事実そのものなのだ。

「残念だね……」

 エリーゼの髪をゆっくりと撫でながら、グラオは痛切な声で呟いた。エリーゼが声を押し殺しながら泣いているのには気付いていた。国民という縛りを受けて互いに敵同士になりかかっているという、遠く離れた場所にいながらも、彼女は常に親友のことを心配していた。親友が三年も前に亡くなっていたというショックは、計り知れないものだろう。
 外見で損はしているが、努力家で何事にも真摯な態度を見せる彼女だからこそ、悲しい思いなどさせたくはなかった。それでも、時代が時代なために、自分が軍人であるために、彼女に他の者より多く苦労をかけなければいけない事実は避けられない。だが、グラオは、それに絶望するような男ではなかった。真実は、常に真実として受け入れなければならない。そして、決してそれを悪い方向に捉えていてはいけない。

 大切なのは、真実を認め、そこから生み出される意味を見い出すことだ。

「今度、墓参りに行こうな。
 いつになるかは分からないけど」

 嗚咽をこらえながら震えている彼女の頭をぽんぽんと撫で、グラオは言った。

「でも、きっとすぐさ。争いごとのない平和な世の中が、すぐに来るよ。
 俺が導くから」

 自分の強い言葉に彼女が頷くのを確認すると、グラオは微笑し、また強く彼女を抱きしめた。