トン、と肩がぶつかって、三つ編みをした長い黒髪を持つ男は謝った。

「あ……すみません」

 ぶつかった先の人を見やると、それは、肩に触れないくらいの所で紅色の髪をバッサリと切った、三十歳前後の若い男だった。
 ぶつかられた紅髪の男は、うっすらと微笑してかぶりを振る。

「いえ」

 紅髪の男は、透明な紫の瞳が美しい男だった。体型が随分と華奢だなと、黒髪の男は紅髪の男を見て思う。
 こちらの国は裕福な人間が多いこともあって、病的に痩せた者はあまり見かけないが、その中では、この紅髪の男の容姿は珍しい方だろう。線が細いくせに背が高く、腕は女のようにほっそりとしているので、まるでモヤシがひょろりと突っ立っているような印象を受けた。しかし、ぴったりと肌に密着する灰色のシャツから、脂肪と筋肉のバランスが取れた美しい肉体を持っていることが分かる。
 ぶつかって謝った経緯で会話は終了したはずなのだが、ぶつかってきた黒髪の男が妙に自分のことを眺めてくるので、紅髪の男は微笑したまま、長い睫毛をぱしぱしと上下させた。

「……あの」

 紅髪の男が、自分を見て戸惑いの表情を浮かべているのに気付き、黒髪の男は苦笑した。

「あ……その、すまない。別に、何でもないんだが……」

 黒髪の男は、ぽりぽりと頬を掻き、目線を紅髪の男から外す。その視線の先にあるものは、アリアスで有名なプリンジャムとヨーグルトジャム、唐辛子ジャム(各六百フォル)が並んでいる棚だった。
 ここは大陸でも評判の、アリアス村のパン屋である。
 ぼんやりとジャム瓶を眺めている黒髪の男を見つめて、紅髪の男は、今回の会話の助け船を出した。

「あなたも、ジャムを買いに来られたのですか?」

 急に話を振られ、黒髪の男は少し驚いたような顔をして紅髪の男に振り返った後、ああ、と素直に頷いた。

「息子のためにね」
「息子さんのためですか」
「今年、十二歳になるんだ。育ち盛りだから色々食べさせたくて」

 十二歳の息子とやらを思い出しているのか、黒髪の男の顔が、急に父親じみた優しげなものになる。
 ああ、これはきっと良い父親だ、と紅髪の男は彼の顔を見て確信し、そうですかと相づちを打った。

「私にも、今年十一になる娘がいます」
「へえ、じゃあ同じくらいだな」

 しかし、この紅髪の男は涼しげに喋るなと感心しつつ、黒髪の男は顔を明るくさせた。

「あんたは、この店にはよく来るのか?」
「ええ、わりと」

 出会ったばかりなのにあんた呼ばわりする男も珍しいと礼節に厳しい紅髪の男は胸中で思ったが、咎めず、ジャム瓶をひとつ手に取って答える。

「私の娘、このヨーグルトジャムが気に入っているんです」
「美味いのか? それは」
「まずくはないと思いますよ。私自身はジャム自体あまり口にしませんが、子どもは女の子なので、甘いものが好きなのかもしれません。
 切らせてしまったから買ってきて欲しい、と娘に頼まれまして」

 だからアリアスまで買いに来ましたと、紅髪の男は、瓶を黒髪の男に見せるように軽く掲げながら言う。
 黒髪の男は、ふうんと頷き、彼と同じように一つのジャム瓶を手に取った。

「ヨーグルトジャムねえ。俺は、このプリンジャムってのが気になるな」
「娘曰く"それは甘すぎる"だそうです。息子さんは、甘いものがお好きなんですか?」
「いや」

 黒髪の男はジャム瓶のラベルを見つめたまま、苦笑して、首を横に振った。

「よく分からないんだ」
「おや」
「仕事が忙しくてね。あまり息子の傍にはいてやれない」

 悲しげに笑う黒髪の男の横顔をじっと見つめ、紅髪の男は、静かに同意した。

「それは、私も同じです」
「へえ?」

 黒髪の男が、不思議そうに顔を上げる。
 紅髪の男は、ヨーグルトジャムをもう一瓶手に取りながら、続けた。

「私も、あなたと同じように、仕事のせいで娘のもとに帰ってやれない。
 娘のお気に入りがヨーグルトジャムなのは、一度、アリアスでの仕事帰りに買ってきた土産物、つまりこれが、たまたま彼女の気に入ったからなんです」

 両手に持った瓶を見せ、紅髪の男は小さく嘆息した。

「娘の好みを知っているから買ったわけではないのですよ。
 皮肉でしょう」

 会計のために、ジャム棚のすぐ横にあるショーケースの上に瓶をふたつ置き、紅髪の男は、スリムなズボンの後ろポケットから革の財布を出す。
 黒髪の男は彼の行動を目で追いつつ、そうかな……と肩をすくめた。

「でも、土産物として買っていかなかったら、娘さんはそれがお気に入りにならなかったってわけだろう? 結果オーライだと思うけどね、俺は」

 念のため、紅髪の男の娘が好きだというヨーグルトジャムも試してみようと手に取りつつ、黒髪の男は言った。
 紅髪の男は、目をぱちくりさせながら、ジャムふたつ分の千二百フォルを財布から出し、

「それは道理ですけど、楽観的ですね」

 片方の肩をひょいと上げて、言う。
 思ったよりもきつい言葉で返された黒髪の男は、びっくりしたように紅髪の男を振り返った。

「そうかい?
 あんたは、楽観的なのは嫌いかい?」
「いいえ、好きですけど、自分には無理だなと思って」

 レジの娘がジャム瓶を紙で包んでいくのを見つめ、紅髪の男は苦笑いを浮かべた。

「娘の好みを知らないのも、父親として失格だと思ってしまいますから」

 どことなく寂しげな、罪悪感を纏っている男の横顔を見つめて、ああ、これはきっと良い父親だと黒髪の男は思う。
 黒髪の男は、とりあえず手に持っていたプリンジャムとヨーグルトジャムを会計の台の上に置いた。

「まあ、それは俺も同感だけど」

 懐から黒い財布を取り出し、溜息混じりに言う。

「仕事っていうのは、家庭を顧みられない言い訳にはできないしな」
「そう思いますね。娘が寂しい思いをしているのは確かです」
「寂しいのは奥方もだろ?」

 紅髪の男と同じ値段の千二百フォルを取り出し、それを台に置いたジャム瓶の隣に早々に沿えて、黒髪の男が尋ねる。
 すると、紅髪の男は目を伏せ、小さく首を横に振った。

「いえ、妻はいませんから」
「え」
「三年前に病で亡くなりました」

 紙袋に入れられた瓶を受け取り、それを小脇に抱えて、紅髪の男は一歩後ろに下がる。
 その空いた空間に、次に黒髪の男が入り、台に置いたジャムと代金を、レジの方に手で寄せた。

「そうなのか。それは、あんたにも娘さんにも気の毒だったな」
「強い子ですからね。仕事で私がいなくても、親しい友人と一緒にいることで気丈に振る舞ってはいますが」
「いくら強そうに見えても、子どもは子どもさ。親が守ってやらなきゃならないのは変わらないだろう」
「おっしゃる通りです」

 しばしの沈黙の後、黒髪の男が品物を受け取ってこちらに振り向くと、紅髪の男は店のドアを開け、先に行けと促した。
 礼節に厳しそうな男だなと何となく思いながら、男は軽く頭を下げて礼を言い、外に出た。後から、紅髪の男もついてくる。
 この日は、少し雲がある晴れた天候で、土の地面を踏みしめ柔らかな日差しを受けると、黒髪の男はうーんと背伸びをした。

「いい天気だな」
「ええ」

 パン屋の向かいの宿屋の前まで進み背伸びをしている黒髪の男の背中を眺めて、紅髪の男は、首をかしげて訊いた。

「ここにお泊まりですか?」

 問われた黒髪の男は、え?と振り返り、頷いた。

「ああ。昨日から一泊してる。今日は、もうここを出るんだ。宿屋に荷物を置かせてもらっているから、それを取ってから帰らないといけない」
「そうですか」

 紅髪の男は、薄く笑みながら相づちを打ち、

「ならば、早々に出た方が良いでしょう」

 と、静かに忠告した。
 黒髪の男は、沈黙した後、きちんと紅髪の男に向き合うと、微笑を浮かべた。

「そうだな」

 黒髪の男が同意すると、紅色の髪をした男は、やはり笑んだまま頷き、

「"夜"の姓を持つあなたに申し上げる。
 次に会ったときは、容易には、このアリアスからは逃れられません」

 言いながら、目を伏せる。
 黒髪の男は、得意げに鼻をフフンと鳴らし、ジャム瓶の袋を持っていない方の手を腰に当てた。

「そうだろうな、"霧"の名を持つ人よ。
 今回は見逃すのかい?」

 黒髪の男の言葉に、紅髪の男は深い笑みを浮かべる。

「今のあなたは、国の剣先ではありません。
 ただの父親です」
「あんたもな」

 黒髪の男は、無邪気に笑う。

「ありがたいね。
 願わくば、愛しい家族のために死なんことを」
「ええ、それが父親としての務めですから」

 紅髪の男が賛同するのを確かめると、黒髪の男は、ジャム瓶の袋を片手に踵を返し、宿屋のドアを開けて中へと消えていった。
 紅髪の男も踵を返し、ジャム瓶の袋を片手に、娘の待つ家がある街の方へと歩き始めた。

 夜と霧が微かに触れ合ったのは、まるでその暗さとは矛盾している、穏やかに晴れた、優しい日でのことだった。