静かな眠りの中で、夢を見た。
 一体どこなのだろう、おぼろげな陽光の中で、誰かと手をつないで歩いていた。足元は短い草がたくさん生えた平原で、優しい風が吹き、長い髪をさらさらと流していた。どこまでも続く青い空と平原は、果てを知らないようだった。どこかの星にようやく降り立ち、愛する人と平和に暮らし始めた景色なのだろうか。
 隣にいる人間を見上げたが、逆光で顔はよく見えなかった。ただ口元と髪の色だけは分かった。優しい微笑みときらきらと煌めく深い黄金色を見たとき、これはきっと彼であるとマリアは思った。

 手を包む温もりに妙な現実感があって、目を覚まして薄暗いディプロ船内で天井が見えたときも、自分の手のひらを目の前にかざして、表裏を返しながらまじまじと見つめてしまった。誰かがそばにいて、ずっと手を握ってくれたのではないか? けれど、それはないだろうと、首を動かして横を見ると、案の定、黄金色の髪を持つ青年は、ベッドから少し離れたソファの上に仰向けに寝ていて、黒いシャツを着た胸元は、ゆっくりと上下に呼吸していた。
 マリアは、身体をソファの方に向けて、リーベルの姿を見つめた。暗がりの中に眠る彼には、最近マリアの部屋に用意した二人掛けのソファは狭いようで、脚をまっすぐ伸ばせなかった。そのこともあって、せめて彼の身長が収まるものを買おうと事前に提案したのだが、それだとマリアの部屋が狭くなりすぎると却下されたのだった。そもそもソファなど置く必要はないだろうと言われたのだが、その申し出はマリアが拒否した。妥協案で二人掛けのソファを購入したのは、他の誰でもないリーベルのためだった。彼は、地球人と比べれば遙かに強い自分の力を恐れ、恋人と一緒のベッドでは決して寝てくれないのだ。隣にいたとしてもそれは寝たふりで、そのうちベッドから降りて船内の自室へと帰ってしまう。いつも、目を覚ますといつの間に恋人がいなくなっていて、そのたびにマリアは溜息をついて考え込むのだった。本当に、根気よく、恋人と臥所を共にすることを拒むものだわ、行為の後などくたくたに疲れて眠たいだろうに、私が眠るまで辛抱強く待って、絶対に一緒にはいてくれないのだから。もし、自分が彼と同じクラウストロ人だったら、そんなことはなかったのかしら?
 何度も考え、マリアは自分にうんざりしていた。どうすることもできない仮定をするのは無駄なことなのに、恋人が地球人でなければ、リーベルは人の温もりの中で眠りにつけたのではないだろうか――
 自信がないことで自分を卑下したりするなと、リーベルには言っておきながら、当人の頭の中はこうなのだ。口に出すつもりはないが、きっと幻滅されるだろうから彼には知られたくない。マリアは、リーベルがかけてくれたであろう毛布から這い出し、脱ぎ捨てた下着と黒のキャミソールワンピースを着て、足音に気を付けながら、ソファの前まで歩んだ。そっとしゃがみこんで、瞼を閉じる端正な横顔をじいと見る。実は、マリアはリーベルのこれまでの配慮もあって、恋人の寝顔をほとんど見たことがなかった。薄く唇が開き、長い前髪がばらばらとかかる顔は、きっと誰が見ても美しいものだ。船にいるクラウストロ人は皆、美しい顔立ちをしている。首の三本線だけでなく、色白で背が高く、ほどよい筋肉がついてスタイルがいいのは、人種としての傾向なのだろう。
 素敵ね。マリアは黄金色の髪に手を伸ばしかけたが、寸前で止めた。起こしてしまっては勿体ない。マリアのわがままを聞いて、わざわざ狭いソファで眠ってくれているのだから。寝ているときもそばにいてほしいのと繰り返したマリアの望みを叶えたいと思う彼の心理は充分に分かるが、今更申し訳ない気持ちになって、ここでは満足な睡眠がとれないだろうから次は自室で寝てほしいと言おうか悩んでしまう。それではリーベルが振り回されているだけだろう。
 首の三本線を見る。それは間違いなく彼がマリアとは違うことを示すものだった。右手を伸ばし、人差し指でなぞる真似をする。三重に刻印された印に、クリフたちに出会った頃は違和感を感じたものだが、それが当たり前のような環境で育ってきたので、長らく意識を向けることはなかった。再び気にするようになったのは、リーベルと恋人の関係になってからだ。それは二人の間にある違いだったから、何も感じないようにすることはできなかった。恋人を傷つけないために、普段の彼からはあまり想像できないほど慎重になる姿は、マリアがいかにクラウストロ人たちに配慮されてきたかという反省を呼び起こすものだった。
 他の船員と同じように、きっと、リーベルは以前から優しかったのだろう。恋人になる前からずっと想い続けていました、と告げられたのだから。初めはピンとこなかったマリアだが、今となっては、それがどれだけ切ないことか分かる。恋人である彼がマリアに関して行うことは、何もかもが優しかった。手のひらで撫でる行為ひとつ取っても、思慮深さがうかがえた。手をつなぐ時も、抱きしめるときも、抱き上げるときも、身体で愛し合うときも。
 マリアは、その美しい寝顔に意識を向けると、思わずといったふうに指を触れた。頬をなぞったので、リーベルの瞼がぴくりと動いた。起こしてはいけないのだが、なんだか我慢ができなくなって、次に前髪に触れた。マリアが大好きな髪だった。あなたのためには、いつでも格好よくありたいです、だからそのために努力をするんです。にこりと無邪気に笑って言った恋人の姿を思い出す。彼はいつでも純粋で、マリアのことが大好きだった。どうしたらそんなに相手のことを想えるのかと、羨ましく思うほど真摯だった。私もあなたくらい深くて真っ直ぐな愛を抱いてみたいわ。まるで他人事のように言ってみたとき、リーベルは困ったように笑った。オレと同じなんて、きっと無理ですよ、だってオレはこの宇宙で、誰よりも何よりも、あなたを一番に愛しているんですから。
 よみがえった記憶の中の声の響きに、たまらなくなってリーベルの髪を撫でつけると、さすがに彼の両目が開いた。

「うん……マリアさん?」

 視界をはっきりさせようと何度かまばたきをしたのち、はっと目を見開く。

「どうしました?」

 慌てて起き上がるリーベルと同時にマリアはうつむいた。

「どうして泣いてるんですか、マリアさん」

 すかさず髪を撫でてくれる大きな手のひらを感じて、マリアの目からボタボタと涙が落ちた。床の上に雫が散らばるのが見えて、羞恥を覚えて小さくなる。

「マリアさん」

 リーベルもソファから降り、マリアの隣にしゃがみ込んで、顔を覗き込んだ。その間も彼の手がマリアの髪や肩を撫でていて、それを感じるたびに涙が溢れた。涙は止まりそうになかった。どうしようもなく胸が痛み、心がきしんで、手が震えた。マリアの恐れに気付いたリーベルが、力の加減をしながら片手を握ってくれる。目を上げると本当に心配そうな彼の表情が見えて、マリアはたまらず両手を伸ばしてリーベルに抱きついた。驚いたリーベルは身体でマリアを支え、戸惑いがちに恋人の背中をそっと撫でた。

「マリアさん? 大丈夫ですか……何かありましたか?」
「リーベル」

 肩に顔をうずめ、マリアはくしゃくしゃな表情で泣きながら言った。

「大好き」

 その、普通でない様子のマリアの単純な一言に、リーベルは少し考え込むように、背中を撫でる手を止めた。

「……」
「大好きよ。大好き。大好き……」

 絞り出すような声は掠れていて無様なほどだったが、それでも何とも表現できない気持ちが溢れて止まらなかった。飽和した感情で、指の先から崩れ落ちてしまいそうだった。

「愛しているの。ごめんなさい。リーベル。
 ごめんなさい……」

 間近に首の三本線が見えて、マリアはますます泣いた。あらゆる想いが入り混じって、気が狂いそうだった。リーベルは何も言わずにいたが、そのうちマリアの首元に何度か口づけをして、髪を撫で、背中を両手でゆっくりと往復すると、謝らなくていいんですよと、小さな声で呟いた。

「愛することを謝らなくていいんです、マリアさん」

 それは昔から誰かに言って欲しかった言葉なのかもしれない。

「愛していいんですよ。オレはあなた以上にあなたを愛していますから、何も心配することなんてないんです」

 彼の言葉はまるで刻むようにマリアの心に印をつけて、何かあるたびに何度も何度も胸に響き渡るのだ。
 頬に口づけてくれる青年のぬくもりは、まるで湯の中にいるように心地よく、このまま眠りにつきたいと思った。それが永遠の眠りでも構わなかった。男の腕の中で、愛していると、マリアは彼に向って何度も言った。繰り返し繰り返し、まるでそれしか覚えていないかのように。そのたびにリーベルは相槌を打った。オレもですよ、愛しています、この宇宙の何よりも。そのありがちな言葉は、全て彼の真実だった。そのことを思うたび、マリアは気が変になりそうなほど幸福だった。きっと呆れられてしまうほど長い間そうしていたのに、リーベルは何も言わずにただマリアを抱いていた。時おり額や頬に口づけをしながら、愛の言葉を落ち着いた様子で言いながら。
 その温かさは間違いなく、夢に見た陽光と同じだった。目がくらむような光の中で、マリアの手を取って微笑む青年の顔が、今、見い出される。美しい黄金色の髪と、優しい眼差し。
 それは二人の姿だった。不確定な未来の中にある、紛うことなき二人の姿だった。