身体を撫でる手が、ただ愛しかった。
 それは本当に優しい仕草だった。
 人を愛す人の。





 ふと目を覚ますと、部屋は暗かった。天井から空調システムの音が聞こえ、物音はそれだけだった。いつ眠りに落ちたか定かではないが、もう皆が寝静まる頃なのだろうか。自分の身体を意識すると、何も着ていないところにガーゼケットをかけているようだ。そうだ、自分は先ほどまでリーベルと一緒にいた。ベッドの上で、意識が朦朧とするほどさんざん愛されて、最後には疲れ果てて眠ってしまったらしい。一体どのくらい眠っていたのだろう。
 視界にぼんやりと光る何かがあって、マリアは何度かまばたきをしてそちらを見た。暗がりに、男の背中がある。リーベルだ。すでに服を着ている。密かにマリアが好きな、すっきりした黒い七分袖のシャツ。彼の身体にぴったりとしていて、ほどよい筋肉のついた美しい線を浮かび上がらせている。彼はベッドに腰かけて、タブレット端末を見つめていた。こちらが起きたことに気付いていないようだ。
 もう少し見つめていようかとためらったが、マリアは声を出した。

「リーベル」

 ふっと意識がこちらに向くのが分かる。彼は背筋を伸ばし、タブレット端末を横に置きながら振り返った。

「マリアさん。起きましたか」

 いつもの優しい表情が見えて、マリアはほっとした。大丈夫ですかと、片手で額をそっと撫でてくる。

「疲れさせてしまったみたいで」
「ずっとここにいたの?」
「一度部屋に戻りました。洗濯室にも行かなくちゃいけなくて。黙って出て行ってしまってすみません」

 わざわざ起こさないよう配慮してくれたのだろう。マリアは微笑した。

「ううん。私こそ寝てしまって、ごめんなさい」
「いえ、オレがちょっと無理させすぎたかもしれません。すみません、いつも夢中になってしまって」

 申し訳なさそうに微笑んで、額の次に、子どもにするように髪を撫でてくれる。マリアは、彼が自分に触れてくる中で、この動作が一番好きだった。仮にも彼は年上だったし、自分よりも圧倒的に強い男性だったから、それを実感できる触れ合いは、ただ純粋に嬉しかった。傷つけないよう力の加減をしてくれることも。
 マリアは手のひらが優しく往復するのを存分に味わったあと、口を開いた。

「もう皆、寝ている頃?」
「ええ、深夜帯です。眠いでしょうマリアさん。出ていきますから、休んでください」

 え、と思わず身を起こす。そのとき自分が全裸でいることにハッとして、今更恥ずかしさを覚えてガーゼケットで胸元を隠した。しかし、それよりも彼が自室に戻ってしまうことのほうが嫌だった。

「ここにいて。一緒に寝ましょう」
「え? いや、マリアさんが寝にくいし」
「そんなことないわ。ベッドも二人は寝られる広さだもの」
「だめですよ。寝ている間、あなたを万一蹴とばしたりしたら怪我させてしまう」

 そう、リーベルは、クラウストロ人ゆえ自分が変な力を出してしまわないか常に気を遣っていて、意識がなくなってしまう睡眠をマリアの隣でとることに以前から抵抗があるらしい。だから交わった後などには、いつもマリアはリーベルより先に寝てしまっていた。きっと彼は寝たふりをして起きているか、こっそり寝床から抜け出すか、どちらかしかしないのだろう。彼の気持ちは理解しているつもりだが、マリアは寂しかった。一緒に眠ることは密かな夢だったのかもしれない。

「なら、私も起きているわ」
「えぇ……」

 マリアの語気強めな言葉に、困ったなあ、と眉を下げている。

「なら、寝るまでそばにいますよ」
「そうじゃない、一緒にいたいの」
「そう言ってくれるのは嬉しいですけど、体力を消耗しているだろうし、体調が心配ですから」
「それはあなただって同じでしょ」
「クラウストロ人って丈夫なんですよ」

 オレは馬鹿だから風邪を引かないだけかもしれないけど。にこりと笑いかけてくるリーベルに、話をはぐらかさないでと口を尖らせた。こうなったら色仕掛けしかないだろうか? だがそんなことをした経験のないマリアは、何をすればいいのか分からず、諦めてリーベルににじり寄り、胸元に身を預けた。
 いつもはすぐに腕を回してくる男だが、会話の流れからすると抵抗があるようで、マリアさん……と呆れの溜息が上から聞こえた。

「ねえ、誘ってます? クラウストロ人って丈夫だから疲れ知らずなんですけど?」
「そういうわけじゃなくて」

 ただこうしていたいだけ。わざとむすりとした声で返す。マリアとしては、シャツ越しにでも彼の体温を感じられるのは嬉しいことだ。恥ずかしいので言葉にはしないが。
 一方のリーベルは困惑した様子で、おずおずといったふうにマリアの肩を撫でた。

「風邪ひいちゃいますから、服を着ましょうよ」
「いいわ。その代わり朝まで一緒にいてね」
「ならマリアさんは寝てくださいね」
「リーベルも寝るの」
「んん……だーかーらー」

 いい加減、自分もわがままを言っているだけだし、困り果てた様子の(それでも恋人相手には怒らないのが彼の甘いところだ)リーベルが可哀想になってきて、マリアは苦笑を浮かべて懐に顔をうずめた。

「ごめんなさい。ちゃんと服を着て寝るわ。リーベルも自分の部屋に戻ってね」
「うん? うん……急に素直になりましたね」
「あら、私はいつだって素直で正直よ」

 いたずらっぽく言うと、「もちろん知っていますよ」と落ち着いた声が聞こえてくる。その声音に妙なときめきを感じ、マリアはなんだかうずうずしてしまった。話しながら優しく背中を撫でる手にうっとりしてしまう。
 離れがたいわ――本音ではもちろんリーベルに朝まで一緒にいてほしいのだ。けれど彼の抵抗は気遣いなのだから、これ以上反発してはいけないだろう。それでもあと少し会話を続けたくて、マリアはリーベルにすり寄ったまま尋ねた。

「何か調べものをしていたの?」
「ん? ああ……いや、この前第一深宇宙基地で補給したときに、やたらマリアさんを見ていた奴らがいたじゃないですか。遠目からヒューマンだと思ったんですけど、あそこを利用する輩って他に何が考えられるかなと」

 まあそれが分かったとしても、今更どうしようもないんですが。リーベルはそう続けた。
 一昨日、物資の補給でセクターθにディプロから降り立ったときのことだ。用事を終え、船に乗り込むためマリアとリーベルが道を歩いていたとき、なんとなく視線を感じて振り返ると、離れた場所から男性二人組がマリアを見つめ、ひそひそ話をしていた。その空気は決して穏やかなものではなく、気付いたリーベルがマリアを隠すように移動し、それ以上何かあったわけではないのだが、戻ってきたあと警戒して念のため早々に基地を離れたのである。

「今まであんなふうにマリアさんを気にする奴なんていなかったから、心配で。なんとなく目つきもやばかったし」
「そうね……」
「オレだけ残って尋問しようとか考えてましたよ、あの時」
 
 本当にマリアが狙われていたのなら、もちろんクリフも黙ってはいないだろうが、あの現場にいたのはリーベルだけだった。彼も銃使いなのでそう簡単にやられはしない。しかし基地に一人きりで残るのはいささか危険な行為だ。マリアはリーベルの袖を引っ張ってふるふるとかぶりを振った。

「だめよ、そんなこと。ちゃんと一緒に行動してちょうだい。もし一人で残ったりしたら許さないから」
「はは……まあ、マリアさんを一人にはしませんよ。何事もなくてよかったです」

 言いながら、リーベルはマリアの背中をぽんぽんと撫でて腰を上げ、タブレット端末を拾い上げた。

「さ、服を着て寝てください。また朝、様子を見に来ますから。起床までそんなに時間はないけど、ちゃんとひと眠りしてくださいね」 
「ええ……」

 頷きながら、去ろうとするリーベルの黒いシャツの裾を掴む。

「……
 なんですかマリアさん」
「戻るの?」
「戻りますよ」
「何もせずに?」
「え?」
「何もしないで戻ろうっていうの?」

 睨みつけ、低い声で言う。リーベルは困ったように首をかしげて、目をぱちくりさせながらマリアを見ているだけだ。
 ああもう。じれったいわね。
 マリアは素早く立ち上がると、リーベルの正面から抱きついた。身体にかかっていたガーゼケットが落ちる。裸で寒そうだと心配したのか、リーベルがケットを取り上げようとするので、マリアはそれを阻止するためにますます強く抱きついた。

「マ、マリアさん?」
「……」

 自分は素直で正直者。
 そう自負しながら、こういうときになると、素直な言葉は出てこないのだ。

「……」
「もしかして、キスですか?」

 あっさり答えを言われてしまう。彼があまりに平然としているものだから、急に恥ずかしくなって顔を胸元に押しつけた。
 リーベルはくすりと笑うと、マリアの耳元までかがんで囁いた。

「いいですよ」

 低い声に、身体が震える。これはきっと歓喜の震えなのだ。ああ、頬が熱い――その頬に、大きな手のひらが触れる。きっと耳まで赤くなっていることがばれてしまうだろう。男の唇が、かすかに口角に触れて、それから唇に触れて、ほんの少し押しやられて、温かさが優しく伝わる。その温かさで、キスのたびに泣きたくなる。じきに唇と唇は離れる。切なさを覚えて胸がきしむ。一つになりたいと願う心が、声なき悲鳴を上げる。
 けれど、我慢をする。大丈夫だと自分に言い聞かせて、もっとしてほしいというわがままを封印する。この先いくらでも彼はキスをしてくれる。いくらでもマリアのそばにいて、いくらでもマリアを守ってくれる。間違いなく信じられる真実が、彼の中には、自分の中にはある。

「おやすみなさい、マリアさん」

 人を愛す人の優しい声は、耳元で永遠に愛を囁いてくれるだろう。