誰かを深く愛すると、今まで見えていた世界が変わる。
 どこで見かけたか覚えてはいないが、そんなフレーズを最近よく思い出すようになった。それは、きっとありきたりで、わざとらしくて、照れくさくて、もし自分がそうなったとしても認めたくなくて、私はそんなふうにならないわと、ひねくれてしまうだろうと思っていた。
 けれど、人を愛し、人から愛されていることを知ったことで、本当に視界が晴れたかのように、まるで眠っていた細胞の一つ一つが目覚めたかのように、マリアの世界はがらりと変わったのだった。その変化を自身で実感したとき、マリアは気付いた。
 愛することは、きっと、人間、いや生き物の中にある、とてつもなく純粋で痛烈な、しかし曖昧で儚げな、永遠の真理であるのだと。





「最近、リーベル変わったわ」

 共に食堂で朝食を終え、船の廊下を歩いているとき、マリアはリーベルに聞こえるか聞こえないか程度の音量でぽつりと言った。無論マリアの情報は余すところなく収集しようしているリーベルが聞き逃すわけもなく、えっ、そうですかと驚いた声を出された。
 マリアはリーベルをちらりと見上げた。クラウストロ人特有の色白な肌に、濃い黄金色の髪がぱらぱらとかかっている。中心に向かうにつれて色が黄味に変化するようなヘーゼルの瞳は、訊いたところ、人種の中でも珍しい色らしい。兄貴はもっとグレーがかった色だし……と言われて、確かに同じクラウストロ人であるクリフもスティングと似たグレーを帯びた青で、ミラージュも透きとおる色ガラスのような青だ。リーベルのこの瞳が滅多に見かけない色と知ったマリアは、自分のことではないのに、なんだか妙に得意になってしまった。
 その美しい両目で不思議そうに見下ろされるものだから、マリアは照れを覚えて、すぐに顔を伏せてしまった。

「そうよ、とっても格好よくなった気がするわ」

 まるでそれが不満というような口調になってしまうのは、あまり格好よくなっても彼の恋人である自分は困るという言い分からだ。誰かに横取りされる危険性がなくはない。しかもリーベルは二十代前半で、まだまだ可能性の満ち溢れた人間だし、ディプロには同世代の女性も大勢いる。この格好よさの原因がマリアと付き合ったことによるものであるならば文句など言えないが、その代償が周囲への警戒となると、素直に喜んでいられないのも事実だった。

「オレが、ですか? ……そうかなあ」

 案の定、困ったようなリーベルの声が降ってくる。

「むしろマリアさんの方がどんどん綺麗になっていくから、オレの方が心配かなあ」

 本気で心配している様子だ。意図して言っているわけではない(そもそもリーベルは天然なのである)と分かっているマリアは、目を伏せたまま頬を赤くし、もう、と口を尖らせた。

「誰のおかげで綺麗になってると思っているの?」
「え? ……あはは。いや、嬉しいんですけどね。でも、やっぱりオレにはもったいないくらい綺麗な人なんですよ。あなたとこういう関係にあることは、もうみんなにばれていて、いろんな人からどうなんだって訊かれるんですが、その都度”お前には高嶺の花なんだよ”って言われている気がして、やっぱりそう見えるのかなって、申し訳ないというか」

 さすがにマリアもここまで謙遜されると居たたまれななくなり、立ち止まってリーベルを上目遣いに見た。リーベルも少し驚いたように立ち止まって「マリアさん?」と困惑した目で見てくる。
 マリアは少し怒気を含む調子で言った。

「リーベルってば、そういうふうにあなた自身を卑下するような発言が私は好きではないって分かっているでしょう。私はあなたのことが好きなのに、その好きなものを否定されているような気になるし、私が好きでいるのが悪いことみたいに思えてくるわ。私が高嶺の花なのかどうかは知らないけれど、私はごく普通の女なの。あなたに敬われる必要なんてないし、私はあなたと同じ場所に立っていたいのよ。いつまで経っても距離が埋まらないことを突きつけられると私、すごく傷つくわ。私にはそんなつもりはないのに」
「す、すみません」

 青ざめてリーベルが謝ってくる。時おり垣間見える彼のこの情けなさに関してだけは正直あまりいい印象を持てなかったが、リーベルはマリアに嫌われるかもしれないという恐怖が先立って突発的に発言してしまうのだろう。よく言えば、嘘のつけない裏表のない性格なのだろうが。
 マリアは溜息をつき、リーベルの片手を取って指を絡ませた。廊下のような別の人間が通りかかる懸念のあるところで触れ合いをしないマリアが、急に手を握ってきたものだからリーベルはかなり動揺したようだった。

「マリアさん? あの」

 男の言葉を聞かず、マリアはリーベルの腕に寄り添う。

「あの……マリアさん。ごめんなさい、オレ」
「いいのよ、謝らないで」

 頬を腕につけたまま、見上げる。マリアが間近に迫っていることに照れたらしく、リーベルは顔を赤くした。本当に素直に感情が出てしまう人なのね、と少しおかしくなってマリアは微笑む。

「不安なのは私も同じだわ。人のことは言えないのよね。リーベルが、その……私とあれをしたときから、なんていうのかしら、とっても落ち着いた気がするの。大人っぽくなったっていうのかしら」
「え……」
「だから、だからね、こんな素敵なリーベルなら、きっと周りの女の子たちが放っておかないわって思うと、不安になるのよ」

 だんだん恥ずかしくなってきて、顔を隠すために額をリーベルの腕に押しつける。するとリーベルはマリアの手を握り返し、片腕を背中に回し引き寄せてきた。今度はマリアが驚いてしまう。

「ちょ、ちょっと?」
「オレは、マリアさんのものですよ」

 近くから低い声で囁かれ、どきっと心臓が打つ。その言葉を嬉しいと思っている自分に気付いて、マリアは同時に罪悪感を抱いて眉を寄せた。
 リーベルはマリアのもの。それは、誰の目から見ても、自分たちからしても、きっと事実なのだろう。この従順すぎるほど従順で真っ直ぐな青年が、マリア以外の人間に傾くことなど絶対にありえないと思えるのだから。一生や永遠という不確かな言葉が、彼の中ではまさしく真実なのだ。だが、本当にそれでいいのだろうか、それはリーベルという本来自由なはずの人間を拘束していることにならないのだろうか――そう思うことが罪悪感やうしろめたさとなって、マリアの中に芽を出しているのかもしれなかった。
 リーベル……と呟いて、マリアもまたリーベルの腰にそっと手を回した。

「私、あなたのことが本当に好きよ。あなたにそんなことを言われたら、束縛したいって思ってしまうし、きっとあなたに関わるたくさんの人に嫉妬してしまうようになると思うわ……」
「別にかまいませんよ」

 即答してくる。その声が、やはり以前より落ち着いていて、大人びていて、確固たるものがあって、マリアはどきどきしてしまう。彼のこの変化は一体何なのだろうと、緊張にも似た感情を抱く。一度女を抱いた男は、皆こうなるのだろうか。

「オレはあなたに束縛されたいし、オレのことで嫉妬してほしいと思ってます。前にも言ったけれど、あなたにはオレのことしか考えてほしくないんです。あなたの世界にはリーベルという男だけがいればいいのにって、愚かにも考えてしまうんですから。もちろん普段はこんなことを表には出せないけれど、本当は、あなたがディプロの誰かと、たとえ兄貴と話していたってオレは嫉妬してしまうんです。あなたを連れ去ってしまう可能性があるものが憎くて、どうしようもないんです。ああ……マリアさん、こんなオレのこと、軽蔑しました?」

 マリアは言葉ではなく首を横に振ることで返事をした。顔はまだ上げられない。きっと真っ赤になっているからだ。早く懐から這い出なければ誰かに見られる可能性があるのに、そうしてしまうのがもったいないと考える自分がいる。

「あなたがいなくなってしまったら、オレはもう生きていけません。オレはあなたのものなんだから、あなたがいなくなるときは、オレも一緒に消えます。それを分かっていてほしい。あなたと一つになりたいという気持ちが、あなたを好きになったときから、ずっと胸の中にあるんです」
「ああ……リーベル」

 たまらなくなって、マリアは遮るように声を上げた。もそもそと身動き、勇気を出して男の顔を見上げる。
 ヘーゼルの、不思議に輝く瞳の色が、優しい雨のようにマリアに降り注ぐ。

「そんなことを言われてしまったら、私、二度とあなたと離れることはできないわ」

 マリアは掠れた声で言った。

「離れるつもりもないのよ。この身体の隅々まで、心のひとかけらまで、全てあなたのものなんだから」

 男の目が、優しく笑む。マリアさん、と、切なくなるほど穏やかな声で呼ばれて、彼の顔が迫る。こんなところでだめよ――そう心の中で叫びながらも、マリアは抵抗しなかった。する必要などなかった。頬に大きな手があてがわれる。赤面しているので、その手は冷たく感じられた。そっと、唇が触れ合う。そのぬくもりに、マリアはゆっくりと目を伏せた。
 そこにあるのは、泣きたくなるような感情だった。なんと表現してよいか分からなくて、たぶん、きっとこれが愛なのだとマリアは思う。この言葉にできない感情こそが、愛なのだと。万人の奥に眠るその尊い真理に気付くきっかけが、まさに人を愛し、愛されることなのだろう。この男性は、自分にそれを気付かせてくれた。目覚めさせてくれた。
 いつかマリアは、この船から降りるだろう。自分の得体の知れない力は、きっと力を求める者たちに狙われるだろうから、大切な人たちに迷惑をかけないために、自らどこか別の場所に降り立ち、ひっそりと暮らすことだろう。そのとき、この男が隣にいてくれなければ困ると思った。もちろんリーベルにだって迷惑をかけたくないのだ。マリアと共にいれば、彼は巻き込まれ、狙われるものの一部となる。それでも、彼に側にいてほしいと思っていた。それだけは譲れなかった。自分と一緒に苦しんでほしいと思った。それは本当に申し訳ないことだったが、リーベルを愛するがゆえの、マリアのわがままだった。
 リーベルは、恋人の懇願に抵抗しないだろう。あなたを守ると真っ直ぐに言うだろう。優しい輝きのヘーゼルの瞳で見つめて、低く落ち着いた声で、マリアを抱きながら、そう言うだろう。返事を聞いたマリアは、彼に向かって嬉しそうに微笑むだろう。
 誰かを深く愛すると、今まで見えていた世界が変わる。
 愛することを一度識った人生ならば、いつ死んだとしても、後悔はないと思った。

「いつか、私はこの世界から消えるのね」

 男の吐息を感じながら、マリアはそっと呟く。
 その目の前には、宇宙が広がっていた。真の闇の中に、色とりどりの星々の輝く果てのない大海が。

「それがあなたと同時なら、私、なにもこわくないの」

 途方もない闇の恐怖すらも陵駕する感情を抱いた自分は、幸福だと思った。