陽光の中の、凪いだ海原にいるかのようだった。
 青い髪が散らばった白いシーツを背景にして、頬を染めた女性がいるのはとても絵画的で、リーベルは、少しのあいだ息を止めて、その光景に見入った。
 薄く開いた唇から漏れる吐息は熱く、青緑色の瞳が睫毛の縁から覗いている両目は少し虚ろで、横を向いているために見えるうなじが、なだらかな白い曲線を描いている様は、男の腕の中に囚われているその人が女であることを確信させた。美しいという言葉は、もはやリーベルには当たり前すぎて相応しくなく、神秘的という言葉も少しわざとらしい気がして、この様子を説明するに似つかわしい表現はないかと、今の状況を考えればどうでもよいことなのに、しつこく探していた。繋がろうと躍起になっているときは、恐ろしいほど神経が研ぎ澄まされているくせに、少し落ち着くと今の自分の状況が朧気に感じるようになるのは、一体なぜなのだろう。まるで夢とうつつの狭間だ。その中で、間違いなく鮮明だったのが、彼女の流水のような濃い青色の髪だった。
 もしかしたら、これは長い長い夢で、もしかしたらもう自分は死んでいるのかもしれない、宇宙の彼方で塵のように漂っていて、これは死ぬ間際の走馬燈であり、本当はマリアという女性の存在すら幻だったのではないだろうかと、そんなことを思い、馬鹿馬鹿しいと感じながらも、ならばどうして自分は今こんな幸福のただ中にあるのだろうと考えてしまうのだ。これまで手の届かない存在だった、心から尊敬する美しい女性と愛し合い、恋人たちの言葉を囁き、身体を重ねていることは、リーベルにとってあまりに非現実的で、嬉しいというより、もはや切ないことだった。心が軋んで、どうしようもないことだった。

「リーベル?」

 不安げに呼びかけるマリアの声に意識が引き戻され、リーベルは目の焦点を合わせた。額に汗を浮かべるマリアは未だ少し息切れしていて、一体どのくらいの時間、ぼうっと考え込んでいたのだろうと、申し訳なさを覚えて苦笑した。

「すみません」
「ううん……。でも、少し休みましょうか」

 長らく抱き合って、マリアも疲弊しているのだろう。リーベルは頷き、隣に静かに横になった。考えてみれば、マリアの要望に応えて部屋は薄暗くしてあるのに、どうして先ほど陽光の中の海原にいるように感じたのだろうか。明かりは天井から降る朱色の光だけで、色の判別などできないはずなのに。
 息が切れているのはリーベルも同じで、天井を見つめながら深く長い呼吸をしていた。マリアも息を整えつつ、リーベルの左腕に寄り添い、細い指先をそっと左手に絡ませている。熱を帯びている手を軽い力で握り返すと、マリアは小さく身じろぎした。

「私、変だったかしら」

 ぽつりと、そんなことを言う。リーベルはふっと笑った。

「変なんかじゃないですよ。とても可愛くて、美しかった」

 美しいという形容詞を実際に人に対して遣うのは妙な気がしたが、リーベルは素直にその言葉を声に出した。彼女の先ほどの姿を表現するには全然足りないのだけれど、と胸中では呟いて。

「オレなんかがいいのかなって、未だ思います」
「え?」
「あなたはオレの憧れだったから」

 リーベルは彼女に身体を向け、不安そうに見上げてくるマリアの頭を優しく撫でた。艶やかな髪が手のひらに心地よい。まるで作り物のように綺麗な髪だ。

「その憧れの人が自分の腕の中にいるんだと思うと、なんだか申し訳なくて、ちょっと心苦しかったです」

 マリアと愛し合っていることが判明したときから抱いていた気持ちを正直に告げる。そう、彼女から好きだという言葉を伝えられるたびに、本当に自分がこの女性に愛されていいのだろうかという疑問が生まれるのだ。以前はあれだけ恋い慕って追いかけ続けていたというのに、手に入った途端、現実味を帯びなくなった。相手からすれば腑に落ちないことだろう、それはリーベル自身も同じだった。
 いつもは気遣いをするはずの男の言い草が怖かったのか、マリアはますます心許なげに小さくなった。リーベルは、正直ではありたいが、愛する人を怯えさせたいわけではないので、そもそも普段からあまり深く考えて発言することができないこともあり、相手を安心させるために寄り添い、その背中をぽんぽんと愛撫した。

「あなたは本当に綺麗で、凛としていて、オレにとって、同じ人間というより、もっと、なんだろうな……手の届かない神さまみたいな存在だったんです。年齢とか職業とか、そういうのはすべて飛び越えて、あなたはオレの尊敬する人だった。今も、その気持ちは変わりません」
「なら……リーベルは、幻滅した?」

 ぎょっとさせられる言葉だ。どうも悲観的になっているらしいマリアに慌て、リーベルはかぶりを振る。

「いや、幻滅なんてしませんよ、そんなこと。でも、ただ、あなたを抱いているときも、これは現実なんだろうか、目が覚めたらあなたの姿はどこにもなくて、すべてがオレの妄想だったんじゃないかと考えたりして、少し怖かったんです。すごく綺麗で、清らかなものを、オレが汚しているみたいで。もしかしたら、いつか誰かに怒られてしまうんじゃないかって……」

 本当は、このように恋人という立場で語らっているときでも、たとえ激しく交わった後であっても、懐にいる女性が自分の手の届く範囲にいる存在だと、なぜか素直に思えないのだ。このことは、マリアの憂慮を余計に強めるだけなので、言葉にはできなかったが。

「あなたは、こういうふうに思われるのは厭かもしれないけれど」
「厭というより、不安になるわ」
「そうですよね」

 だが、リーベルは「ならば、そう思うことはもうやめます」とは言えなかった。マリアという女性と常に隔たりを感じていることは、自分の中でどうにも覆せそうになかったからだ。なぜかと問われれば理由はわからない、が、きっと彼女のことが大切すぎるのだろう。同じ人間として、同じ場所にいる者として、同じ生き物として、時には男と女の生々しい関係で考えられたらいいのに、相手の身体を自分で貫いていたそのときでさえ、リーベルには、どうしてもマリアを支配しているという感覚は持てなかった。それが物理的に見て事実であったとしても、それはリーベルの中で事実にはなりえなかった。
 どうしてだろう……と遠い目をして考える。もしかして一生このままなのだろうか。このことはマリアを悲しませるのではないだろうか。そんなことはしたくないのに、仕方がないと諦めている自分もいる。
 マリアは、いつもは朗らかな男のいつにない態度を恐れたのだろう、掠れた声で名を呼び、リーベルの背中に手を回した。

「私たち、本当に愛し合っているの?」

 少し怒っているようにも聞こえる声に、えっとリーベルは瞠目した。それほどまで遡らなければならない話ではなかったはずだ。

「も、もちろんですよ。すみません、オレ、変なことを言って」
「……」

 しかしマリアは深刻そうに眉をひそめたままだ。そこまで思いつめなければならない話題ではないと考えたのだが、確かに、ついさっき抱き合ったばかりの人間に「実は行為に関して申し訳なかった」という言葉を聞かされたら、誰だって気分はよくないだろうと気が付いて、自分はこういうところに配慮が足りないのだと深く反省し、おろおろしながらマリアを腕で包み込んだ。

「ごめんなさい、不安がらせてしまいましたね。オレはあなたのことを愛しています。他の誰でもない、あなただけを……」

 もしマリアが自分と同じ気持ちでないなら、きっと悲しくて永遠に立ち直れない、と続ける。それが愛しているという証拠になるかどうかは分からなかったが、マリアは意外と単純な物言いを好むので、語彙の少ないリーベルとの相性の良さかもしれなかった。もともとこういった恋愛に関することに慣れていないせいもあり、端的に気持ちを伝えないと、彼女はひどく不安がってしまうのだ。
 最初から分かっていはずだろう、オレ……とますます恐縮し、リーベルはマリアの上に被さると、顔を上げさせて額や頬に口づけを繰り返した。同時に片手を腹や胸にあてがって、マリアが声を上げ始めた頃、リーベルは、唇が触れ合うすれすれのところで呟いた。

「ごめんなさい、マリアさん。オレは不器用だから、いつもあなたを困らせてしまう。悲しませたくないのに」
「……違うわ。リーベルにそうさせているのは、きっと私なのよ」

 独り言のような暗い声が聞こえてきて、リーベルは目を丸くした。身を起こし、違う、と下にいるマリアを見つめて、かぶりを振る。

「違います。オレがいつまでも情けないからなんです。オレは単純で馬鹿だから、あなたを知らず知らずのうちに傷つけてしまって」
「だって、リーベル、さっきの話を聞いていたら、こういうふうになっても、まるで私とあなたの距離は縮まっていないようだわ。それは、私が無意識にあなたを拒んでいるせいかもしれないし……」
「違う。違います、そうじゃありません」

 笑顔の一つもなくなってしまったマリアを見て、リーベルは先ほど自分が話したことを激しく後悔した。身体の関係まで持ったにもかかわらず、いつまでも手の届かない存在のようであるなどと言われて嬉しがる人間などいないだろう。なんと馬鹿なことを言ってしまったのだと、今度は彼女が二度と以前のように愛してくれなくなるかもしれないという強い恐怖に襲われて、ごめんなさい、ごめんなさいと額に額を合わせながら何度も謝った。

「マリアさん……ああ、どう言えばいいんだろう。本当に、オレはあなたを愛しているんです。でも、あなたをあまりに想いすぎて、自分の中にある気持ちを全て出し切ってしまったら、あなたに嫌われてしまうような気がして、怖くて」
「あなたの中にある気持ち?」

 それはいったい何なのだと言いたげに訊き返されて、リーベルはぐっと口を噤む。

「……」
「私の知らないリーベルの気持ちがあるなら、すべて教えてほしいわ」

 マリアはリーベルの両頬に手をあてがいながら、はっきりとそう言った。憂いというよりは怒りと懇願が含まれている声に、リーベルは、どうしてこんな会話の流れになってしまったのだろうと、己の拙さに呆れた。眉間にしわを寄せ、険しい表情で目を伏せる。言いたくない。言葉にしたら本当に嫌われてしまうかもしれない。もしかしたら、この気持ちは女を愛する男は当たり前のように抱くものなのかもしれないが、相手は今回初めて男に抱かれたような潔白な女性なのだ。まるで人の心を糧にしながら胸の奥に巣食っているような感情をぶちまけてしまえば、恋人どころか人間としても嫌悪されてしまうかもしれない。
 いやだ、と思った。彼女の問いに答えることは。けれど、拒絶の言葉を口に出すことはできなかった。もはやリーベルは、マリアに抵抗するすべなど何一つ持たなかったのだ。

「……オレは……」

 マリアという女性が、自分にとって神聖な存在であることは揺るぎなく、それが覆せないことは、永遠の真実でしかない。
 しかし、

「オレは、あなたを侵したいんです」

 それが永遠の真実であっても、その不可侵な存在を隅々まで浸食したいと熱望することもまた、永遠に並行して存在し続ける事実なのだ。

「清らかなあなたの中に、さっきみたいに入り込んで、あなたの苦しげな声を聴きながら、リーベルという男のことしか考えられないようにしてしまいたいんです。あなたの目も髪も手も足も、何もかもオレだけのものにして、誰にも渡したくない、言葉だって声だって、オレにしか向けてほしくないし、別の人にオレに向けているのと同じことを言おうものなら、オレはあなたに何をしてしまうかわからない、そんなことにならないように、本当はどこかに閉じ込めてしまいたいんです、オレしか見られないように、触れられないようにして、ただ自分だけがあなたを愛していたいんです。ああ、あなたの身体を食べてしまえればいいのに、そうしたら、あなたはオレと本当の意味で一つになる、あなたはどこにもいかないで、オレの中に居続けてくれる」

 それは感情と本能の渦であり、人間にある激しい無意識と意識であり、表に出してしまえば社会とのつながりを失ってしまうほどの、おぞましく、純粋で、混じり気のない、強烈な願望だった。
 言葉という単なる文字の羅列だけで、この身体にほとばしるものを表現するには足りない、それはまるで全身の皮膚を突き破って奥から破裂するような、とてつもなく強く激しい衝動だった。
 リーベルは、きっと、狂気の入り混じる瞳でマリアを見下ろしていただろう。
 暗闇の中で、二つのヘーゼルの瞳だけが鋭く光っていただろう。
 視界いっぱいに愛する女性が広がるはずなのに、その表情を解読しようという気も、今のリーベルには起きてはいなかった。
 今、男は、ただひとり狂乱の世界にいた。

「オレはいつも怯えています、あなたはときどき、あなたの中に宿された力によって、意識を彼方へ飛ばしているときがあるんです、ご存じでしたか、一点を見つめて動かず、まるで人形のような姿をしているときが、その時のオレの気持ちが分かりますか、呼びかけても呼びかけてもあなたは身動き一つせず、オレが泣きながらあなたの名を何度も呼んで、ようやく意識を取り戻したかと思うと、あなたは無邪気にオレに微笑んで、どうしたのって訊くんですよ、そのとき、オレはいつも無理して笑ってた、あなたを不安がらせたくなくて、無理やり笑っているんです、マリアさん、ねえ、あなたを失うかもしれない恐怖でオレは気が狂いそうなのに、あなたは何一つ知らないまま」
「リーベル」
「ああ、ああ……だから言いたくなかったのに、こんな醜い感情があるなんて、あなたに知られたくなかったのに、口に出せば嫌われてしまうのに、どうしてこんなことをしてしまったんだろう、ねえ、マリアさん、オレの中には狂気があるんです、あなたのことが好きすぎて、どうにかなってしまいそうなんです、どうにかなってしまえば楽なのに、オレはあなたに嫌われたくなくて、必死に自分を抑えているんです、ああ、いやだ、マリアさん、嫌わないで、オレのことを嫌わないで」

 リーベルは急に重力が襲ってきたかのように崩れ落ち、マリアの首元で悲鳴のような声を上げた。マリアの両手がリーベルの背中に回される。

「マリアさん、こんなことを言ってごめんなさい。嫌わないで、お願いです、あなたに嫌われたら、オレはもう生きていけない。あなたを抱いたら、自分はおかしくなってしまうと思ってた、だから、オレは、あなたがオレを拒んでいたことが悲しいのと同時に安心してた、今日もあなたを傷つけずに済んだって、でも今、オレはあなたを抱いてしまった、もう戻れない、あなたは汚されてはいけなかったのに、オレが汚した、オレが汚したんだ」
「リーベル!」

 一閃の光のようなマリアの声が、闇の世界に差し込む。
 それに反応した自分の身体が、びくっと震えるのが分かった。
 刹那、真っ暗だった視界が、まるで早送りのように晴れていく。
 間近に迫ったマリアの首が見える。
 訪れたのは、深い静寂だった。

「……」

 リーベルは自分がいま何をしていたのか思い出すことができず、一点を見つめて身動きしなかった。
 ただ静かに呼吸をしていた。
 しばらくして、マリアのか細い声がすぐそばから聞こえた。

「リーベル……私だって、同じよ」

 それは、潰れた声音だった。

「私だって、リーベルと同じ気持ちを抱いている。口に出すのも憚られるような、おぞましい気持ちを……」

 何を言われているのか、リーベルにはよく分からなかった。ただ、囁くような女の声が、耳に心地よいとだけ感じていた。

「あなたが私以外の人を好きになるなんて、厭よ。絶対に許さないわ。私以外を抱いたりなんてしたら、気が狂ってしまうわ。あなたの瞳には私だけが映るの。あなたの腕は私を抱くためだけにあるの。あなたの指は私の身体を触るためだけにあるの。あなたの声は私と話すためだけにあるの。あなたを縛りたいし、縛られたいわ。もうどこにも行けないように、私とあなたを鎖で繋いでしまいたいくらいよ。あなたにとって私が汚れのない存在だというのなら、なおさら私はあなたに汚されたいわ。世界でただ一人、あなただけに。身体も心も浸食されて、あなたの音や形や匂いしか分からないようになりたいの。本当よ、リーベル、私を汚すことができるのはあなただけよ」

 リーベルはマリアの言葉を聞きながら、気だるげに身を起こし、再びマリアの上に乗って、彼女の顎に下から強く口づけた。
 マリアは続ける。

「ごめんなさいだなんて、どうして謝るの? 私たち、何も悪いことなんてしていないわ。私たちはただ愛し合っているだけよ。誰にも邪魔できないわ、宇宙にある何ものも、私たちを阻むことなんてできないわ。私とあなたは、ベッドの上で、深い闇の中で、永遠に愛し合うの、自分たちのことしか視えずに、知らずに、感じずに、交わって、一つになるの。それ以外、何もないわ、何も必要ないのよ、リーベル、私には、あなた以外必要ない。だから愛して、これからも同じように愛して、その心のままに、何も隠さずに、私を食べてしまうほどに」

 マリアが言い切ると同時にベッドに顔を埋め、シーツの上に横たわる長い髪をひと房噛み、リーベルは起き上がった。
 マリアの目には、髪の毛を口にくわえて、感情を失った目を向けるリーベルの姿が見えるだろう。
 暗闇の中で浮かびあがる男の白い肌が、ぼんやりと光っているように見えるだろう。
 男が口にくわえている髪は、まるでマリアを繋ぐ頑丈な鎖のように見えるだろう。
 それでいい。
 それでいいのだ。

「……マリアさん」

 呼ぶ名は、恍惚と本能そのものを表す、尊い言葉だった。
 リーベルが口を開くと同時に、マリアの髪がばらばらと下に落ちていった。もはやこんなものは必要ないというかのように。

「もう、あなたは、逃げられません。
 永遠に」

 その狂おしくも愛らしい男の言葉に、女は、ただ嬉しそうに笑った。