正直リーベルは照れくさくて、本当は頼まれるたびに断りたかった。しかし心から尊敬している女性の頼みだし、無下にすることもできず、やむを得ないといったふうに願いを聞いてやるのだった。なぜそんなことを頼むのだろうという疑問はあるが、うっとりとした様子で耳を澄ませている姿は実際大変かわいらしく、こんな無防備なマリアを見られるのは恋人となった自分だけの特権なのだと考えれば致し方ないとも思う。
 リーベルのこよなく愛する人マリアの頼みは、こういったものだった。

「ねえリーベル、歌をうたって」





 マリアは、夜になると恋人を自室に呼び出し、朝まで一緒に過ごすことが好きらしかった。二人きりだからといって男女の営みが行われるわけでもなく――というのは、マリアがいつまでも恥ずかしがって、なかなかリーベルに手を出させてくれないという男にとってのいわゆる拷問状態だったのだが――少し広めのベッドに二人で横になり、うとうとしているマリアの頭をリーベルが撫でたり、逆に眠たげにしているリーベルの懐でマリアが彼の抱き枕になったりしていた。
 マリアがリーベルに歌を要求してきたきっかけは、自室で部屋でコーヒーを淹れていたとき何気なく口ずさんだ歌を彼女が気に入ってしまったことだ。それは四号星で一時期流行った若者向けの曲で、当然、クラウストロで流行った楽曲など知らないマリアは、興味深そうに耳を傾け、眠る前にリーベルに「歌って」とねだるようになった。
 まるで子どものようにおねだりをするマリアは本当に愛らしかったが、歌をうたうことは気恥ずかしかった。歌がすごく得意というわけではないし、歌詞は男が女に捧げている恋の歌で、もしかしたらメロディより歌詞が彼女の気に入っているのかもしれないが、好きな人の前で歌うことがこんなに照れくさいものだとは思っていなかった。
 一度「恥ずかしいので……」と遠回しに断ったら、マリアは無邪気に微笑んで、

「どうして? 素敵よ、リーベルの歌っているときの声。優しくて、とても安心する」

 こう言われてしまえば、もう抵抗することなどできなかった。リーベルは、いつもの自分からは信じられないような細い声で、囁くように、隣で横になっているマリアの肩を撫でながら歌ってやった。その間、マリアは幸せそうに頬を染めて、大人しく歌声を聴いていた。毎回同じ歌なので、別の歌にしようかと提案したとき、彼女はどうしてそんなことを訊くのだろうとも言いたげな不思議そうな顔で、同じ歌がいいと言った。歌う側は別にかまわないのだが、いいかげん飽きはしないのかと、少し呆れてしまう。
 いつもは静かに耳を澄ませているマリアだったが、その日、初めて歌を中断させて、リーベルに問うた。

「ねえ、リーベル。
 歌詞の中の男性は、恋い焦がれて、結局好きな人のことを諦めるみたいだけど、クラウストロ人の男性は、皆こんなふうに恋愛をするの?」

 幼げな丸い目で見つめてくるマリアに拍子抜けしながら、リーベルは小さく笑った。

「ええ? いや、クラウストロ人にも、いろんな人がいると思いますよ」
「その歌詞の中の男性は、情熱的だけど、とっても冷静な感じがするのよね」
「そうですか? クラウストロ人は比較的自立心がある種族だと言われていますが、恋愛の仕方は、他の種族と共通なんじゃないかな。よく分からないけど」
「自立心……誰かと一緒にいることが少ないってこと?」

 質問の意図がよく分からず(彼女は表情があまり変化せず分かりやすい方ではないので、いつも慎重に真意を探らなければならなかった)、リーベルはうーんと唸る。

「どうなんだろう。クォークもかなり巨大化したけれど、オレは他の種族とほとんど話したことがないからな。比べるにしても知識がなくて」
「あなたたちクラウストロ人は、恋人とはどんなふうな関係を築くの?」

 これもまた難しい問いだ。リーベルは困ってしまい、マリアの頭を軽く撫でつつ、そうだなあ……と無難な答えを探した。マリアは若くしてクォークのリーダーに昇格したおそるべき才女だが、こういった日常の事柄については不思議なほど無知なのだ。誰もが振り返るほど美しい女性だというのに、これまで色恋沙汰から遠ざけられてきた要因は、全て保護者クリフにあると思われるが。

「説明が難しいんですが……。結婚して家庭を持つ人もいるし、籍を入れないで同棲し続ける人もいるし」
「リーベルは、どんなふうになりたいと思ってる?」

 急に尋ねられ、リーベルの胸がどきっと鳴る。目をしばたたかせながらマリアを見ると、彼女はいつになく真剣な表情でリーベルを見つめ返した。どうやら真面目な質問のようだ、彼女が気に病んでしまうような回答は絶対にできない……と必死に頭を回転させて慎重に言葉を探す。
 沈黙が長かったのだろうか。マリアは視線をリーベルの首に落とすと、いきなり指先でクラウストロ人特有の首筋の線を撫でてきた。こそばゆさに思わずうっと声を上げたが、彼女は、首の三本線を穴が開きそうなほど見つめたまま、その細い指で何度かなぞることを繰り返した。敏感なところに触れられ、背中がぞわぞわしてくる。たまらなくなって、リーベルはマリアの手を掴んだ。

「マ、マリアさん」
「リーベル」

 マリアはどこか不安の混じる目を上げ、

「リーベルは、私と一緒にいたいと思ってくれてる?」

 そんなことを問うてくる。彼女の二つの蒼い瞳には、愛しさと恐怖が入り混じっていた。長く青い色の睫毛に整った顔立ち、すべすべとして白い肌に急激に意識が向いて、リーベルは、先ほど背筋に感じた妖しい痺れを思い出し、何も言わずにゆっくりとマリアの上に覆いかぶさった。マリアもつられて仰向けになり、間近に迫った男の顔を少し驚いたように見上げた。
 リーベルは、マリアがそうしたように彼女の首筋に指の腹をあてがい、ゆっくりと鎖骨まで動かした。その動作で生まれた奇妙な感覚に驚いたらしく、マリアは思わずといった様子で声を上げた。
 それは少し、いやらしい声だった。
 リーベルの中に何かが込み上げてくる。普段、マリアの許可が出ない限り口づけたりしないのだが、今回は我慢できなくて、彼女の頬に手を当てながら、吸うようにして唇を重ねた。マリアが身をこわばらせていることに気付いていたが、リーベルは解放せず、口づけを数度繰り返した。呼吸の際に唇を舐めるとマリアの甘い声が漏れて、それを聴くたび電流が走るように身体が疼く。
 もう限界が来ているとリーベルは思った。

「マリアさん。オレは、あなたと一緒にいたい。この先も、ずっと」

 口づけの合間にそう呟き、マリアが何か言い返そうとした瞬間また唇を重ねて、それを許さなかった。答えを聞くのが怖かった。
 ああ、このまま抱いてしまいたい。彼女が嫌がらないのならば、服を取り払って、隠されている白い身体を隅々までこの目に焼きつけたい。けれど彼女を抱いたら自分はきっと幸福と罪悪感で気が変になってしまう。あまりに欲しくて、愛しくて、飽和した想いが溢れていって。
 マリアも、リーベルがどれだけ我慢しているのかよく分かっているのだろう、這い出ようとはせず、されるがままになっていた。だが時おり呼吸が苦しそうで、リーベルは彼女が息を整えるのを待ち、いい加減もうここまでにしなければと思いながらも、まだ足りなくて、何度も口づけを繰り返した。このままでは、ほとばしる激しい欲望に身体が負けてしまう。マリアを傷つける前にやめなければいけないのに。
 唇が離れたわずかな隙に、彼女が声を上げた。

「リーベル、苦しいわ……」

 いつもなら慌てて飛び退いているところだが、今日はそうすることが本当につらくて、リーベルは眉間に深くしわを寄せて目を閉じ、マリアの額に自分の額を載せた。心を落ちつかせなければ、身体が勝手に動き出してしまいそうだった。苦しげな面持ちでいる男に気付いたマリアは、不安そうにリーベルの胸元にそっと手をあてた。

「リーベル? ごめんなさい……」

 リーベルはマリアの上から退いて、隣にぱたりと横になった。片腕を額の上にかざして、じっと天井を見る。続く静寂にマリアは怯えたのだろうか、リーベルの名を微かな声で呼んで、ごめんなさいと再び呟いた。

「私……」
「いいんですよ、マリアさん。謝らないで」

 リーベルは仰向けになったまま薄く苦笑した。欲望が身体の奥に渦を巻き、それでも抑えなければならない歯がゆさで、半ばやけくそな気持ちだった。

「オレがいけないんですから。すみません、いきなり」

 振り返ると、マリアは悲しげに眉を下げ、リーベルの肩の辺りを深刻そうに見つめていた。申し訳なさと戸惑いに満ちた表情だった。男を拒絶してしまったことに落ち込んでいるのだろう。
 リーベルは身体をマリアに向け、心配するなと頭を軽く撫でてやった。

「マリアさんが、いいと思ったときでいいんです」
「……」
「正直言うとね、やっぱり愛し合いたい。でも、マリアさんが苦しんだり怖がったりする方が嫌だから、待ちます。いくらでも」

 するとマリアはリーベルの懐に自ら収まり、苦しげな表情で目を閉じた。

「どうして、あなたはこんなに優しいの」
「え?」
「どうして、私のことがそんなに好きなの……」

 それは、喜びというよりはつらさを表している声で、リーベルはどう返してよいか分からず、戸惑いがちに抱くことしかできなかった。マリアは黙っていたが、そのうち腕の中でリーベルを無表情で見上げた。泣いているのかと思ったが、その気配はないようなので、密かに安心する。
 マリアは、普段の彼女からは想像もつかない、たどたどしく自信なさげな声で言った。

「私……リーベルに優しさをもらうたび、嬉しくて、申し訳なくて、なんだか気が狂ってしまいそうになるの。同じだけの優しさをあなたにあげたいのに、その方法がよく分からないし。本当は、リーベルに嫌われてしまうんじゃないかって、いつも不安なのよ……」

 恋人を見つめ、リーベルは優しい笑みを浮かべた。

「嫌うなんて、ありえません。オレは、あなたから同じだけ、いやそれ以上の幸せをもらってます。心配しないで」
「うそ。だって私、不器用で無知だもの。リーベルが呆れてしまうことだって、たくさんしていると思うわ」
「そんなこと思いませんよ」
「だって、さっきみたいに……」

 あなたを拒んでしまったり……と暗い顔をして言うので、リーベルはマリアの身体を、いつもより少し強く――とはいっても、クラウストロ人としての加減は絶対に忘れないのだが――抱いた。石鹸の香りが漂う青い髪に軽く口づけを落とし、華奢な背中を撫でる。

「マリアさん。オレは、本当にあなたのことが大事で、大好きだから、どんなことがあっても大丈夫なんです。大切で、愛しくて、この先もずっと一緒にいたいし、守り続けたいから。不安がらないでほしい。焦らなくていいんです」
「……」
「オレね、愛っていう言葉、すごく曖昧でよく分からないなって前は思ってたけど、この気持ちがまさしく愛なんだって、最近になって確信できるようになりました。こんなことを言っても、あなたは信じられないかもしれないけど、この愛を永遠にマリアさんに捧げたいと思ってる。これは一生変わらない想いだと分かるんです」

 言いながら、リーベルは少し恥ずかしくなって頬を染めた。彼女は懐に顔をうずめているから、この表情がばれることはないけれど。

「あなたを愛しています」

 それは、台詞としてよく耳にするが、実際に口に出すのが難しい言葉だった。しかし、今はもう素直に、両腕の中にいる女性のためだけに、いつでも捧げられるとリーベルは感じていた。

「愛の前に立ちはだかるものなんて、何もないんだ」

 言葉に込めたものは、自分の心にある確かな真実だった。マリアを好きになり、愛し合うことで生まれた、気が遠くなるほど透きとおっている、リーベルという人間の人生のすべてを表現するに匹敵するほどの、闇の中にある巨大な光だった。

「だから、安心して、マリアさん」

 その光の名を、きっと希望というのだろう。この光が灯る限り、決して迷うことなどない。





 きみは ぼくの注ぐ視線が
 いとしくて かなしいって言ってた
 わたしには まだほんとうの愛がわからないからと
 泣きながら去るきみを ぼくは追わなかった
 きみのほんとうの愛は どんなかたちをしているのだろう
 その愛をいつかきみが捧げるひとは 誰なんだろう





「リーベル。
 私が私の愛を捧げるのは、あなたよ」

 マリアは身を起こし、リーベルの額に自分の額を合わせて、祈るように言った。間近に迫る、睫毛の合間から覗く青い星の色をした瞳に、リーベルは吸い込まれそうになる。

「あなたのうたう歌みたいに、あなたがいなくなってしまったら悲しいわ」

 すぐ近くに聞こえる、しとしとと降る雨のように優しい声の響きに、気が遠くなる。

「でも私、本当の愛が何なのか、分かってきた気がするの」

 彼女の長く青い髪が、顔の横にカーテンをつくった。
 ああ、青に囚われる。
 視界がぼんやりしてきて、身体がふわりと浮かび上がるような浮遊感が生まれた。

「リーベル、あなたが私に愛を教えてくれたわ」

 紡ぎ出される言葉の尊さに眩暈を覚え、

「だから私、もう怖がるのはやめるの」

 この女性が愛しいと思う。

「明日は、歌をうたわないで」

 だから、彼女に、

「私を抱いてね」

 溢れんばかりの愛を込めた口づけを捧げよう。





 その愛をいつかきみが捧げるひとは 誰なんだろう
 青い惑星みたく美しい瞳に ぼくは映っているかな

 きみのほんとうの愛は どんなかたちをしているのだろう
 きみのほんとうの愛を ぼくは知りたかった
 本当は 知りたかった