「ごめんなさい、マリアさん。オレ、あなたと一緒にいられません」

 ディプロ船内のマリアの自室のドアを開けたとたん、リーベルがそんなことを言い出したので度肝を抜かれた。マリアはベッドに腰かけて洗濯物をたたんでいる最中で、両手にキャミソールの肩紐を持ったまま停止した。
 こちらを見ているリーベルの顔色は青白く、その表情は悲しげというよりも絶望に満ちていた。

「本当に……ごめんなさい」

 続けざまにまた謝ってくるので、それが一体なんのための謝罪なのか、マリアは必死に頭を回転させた。リーベルとは昨日一日会っていないのだが、そのことが原因なのだろうか。昨日マリアはミラージュと共にシステム更新を行っており、ほとんど一日中仕事をしていたせいでリーベルと会うことがままならなかった。今や彼はマリアの恋人であり、だからこそ「この仕事が終われば明日はリーベルとゆっくりできる」と楽しみにしていたほどだった。なので、リーベルがついさっき部屋の向こうから名を告げたときには胸が高鳴ったのだが、部屋に入って開口一番、別れ話だったため、予想だにしなかったマリアへの衝撃は大変大きかったのである。
 マリアは手からキャミソールを床に落とし、背中に冷たいものを感じつつ立ち上がった。

「な……に」
「すみません、失礼します」

 口早に言ってリーベルは出ていってしまった。マリアは慌てて走り出し、閉まりそうになる自動ドアを自分の存在で開け、廊下に出て声を上げた。

「ちょっと待ってよ、リーベル! どういうこと!?」

 マリアの呼びかけを絶対に無視したりしないリーベルが、今回は振り返らなかった。早歩きで進み、廊下の角を曲がると見えなくなってしまう。近くには通りすがりの船員がいて、驚いたようにリーベルとマリアを見比べていたが、マリアは気にせずに走ってリーベルの後を追った。曲がり角にさしかかり、廊下の先を確認したが、リーベルの姿はすでになく、マリアが血相を変えて息を切らしている様子に目をぱちくりさせている女性船員二人がいただけだった。
 マリアは立ち尽くした。
 リーベルの言葉が頭に甦る。まさか、あの青年が、時にこちらがいたたまれなくなるほど従順で、マリアのことを好きで好きで仕方ないと本人に向かって言うほどの男が、自ら別れ話を切り出すなど信じられなかった。たとえ宇宙が崩壊したとしても、彼に限ってそんなことはないと自負していただけに、マリアのショックは計り知れないほど大きかった。

「……リーベル……」

 呟きは、当然、届かなかった。





 リーベルがマリアと別れたいという意識を持つきっかけについて、思い当たることが一つだけあった。本人に確認していないので予測の段階だが、多分これが原因だとマリアは確信していた。
 二日前、マリアとリーベルが船内を歩きながら他愛もない話をしていたときのことだ。下りの階段に差し掛かったとき、変な位置に足を置いてしまいマリアは階段を踏み外しかけた。その瞬間、リーベルが腕を掴んでくれて難は逃れたのだが、彼の掴む手の力が強く、痛みを感じて、マリアはうっかり悲鳴を上げてしまったのだ。
 リーベルがびくっと身体を震わせるのに気付き、咄嗟に悲鳴の理由をごまかした。階段から落ちそうになって怖かったわ、と。その後すぐに彼とは別れたのだが、それ以来、今日までずっと顔を合わせていなかった。
 リーベルには悲鳴の意味が分かっていたのだ。彼はクラウストロ人であり、地球人を遥かに凌ぐ身体能力を持っている。そのため非常に力が強く、体勢を崩すマリアを支えたときは反射的だったので加減ができなかったのだろう。確かに、風呂に入っているときにマリアが自分の姿を鏡で見ると、掴まれた部分に赤い手形が残っていた。痛みはほとんどなく、クラウストロ人の握力ってすごいのねえと感心するだけだったが、一方のリーベルは今日の今日まで気にしていたらしい。日頃からマリアに対して変な力を出さないよう非常に気をつけていることを恋人同士になってからマリアも理解していて、その気遣いに心震える想いだったが、誓いが守れなかったときのリーベルが己の不注意に落ち込むのは、よく考えれば分かることだった。
 マリアもまた恋人と別離の状態になりかけているショックと自分の配慮が足りなかった反省でパニックになり、ミラージュの部屋に転がり込んだ。

「……うーん」

 椅子に座り、ぐすぐずと泣いているマリアの肩を撫でながら、ミラージュが戸惑いの声を出す。

「状況的に、そのときは不可抗力だったと思いますし、リーベルもそれほど気にすることはないと思うんですけどね」
「私がいけないの。悲鳴を上げてしまった私がいけなかったの」
「それも不可抗力でしょう。すべては刹那的に起こったことなのよ。こんなことでいちいち別れ話になっていたら、たまったものではありません、と言いたいところだけど、きっとリーベルにとっては致命的な出来事だったのでしょうしねえ……」

 慰めているのか叱咤しているのか分からないことを言ってくるのにマリアはますます混乱し、涙でぐしゃぐしゃに濡れた頬を同じく涙で湿っているタオルで何度も拭いた。

「あんなリーベル初めて見た。私は気にしないのに、まるでもう終わりみたいな言い方で行ってしまったの。ひどいわ、私の意見なんて全然聞いてないのよ」
「彼は以前からクルーに相談していたみたいですけどね」
「相談?」
「地球人と付き合ったことがなくて、力の加減が分からないって。皆もクラウストロ人なんだから、答えようがないでしょうに」

 マリアはずっと鼻をすすり、腫れぼったい目で床を睨みつけた。

「私が地球人だから、なんだっていうの。私、リーベルがクラウストロ人だからどうのなんて思ったことないわ」
「マリア……あのね。もしかしたらリーベルをかばっているように聞こえるかもしれないけれど、私やクリフも、あなたに護身術を教えるときは気を遣ったんですよ。加減をしていたし、うっかり吹っ飛ばしてしまったらと思って、道場の壁に緩衝材を張り付けていたのだって覚えているでしょう。私たちに比べて地球人であるあなたはとても脆いの。あなたと触れ合う機会の多いリーベルが、必要以上に気を遣うのも分かるでしょう」

 なら別れろっていうの? マリアが再びしゃくり上げると、ミラージュもそろそろ呆れたように溜息をついた。

「別れなさいなんて一言も言っていません。とにかく、私のところに来ても意味がありませんよ。本人と話し合ってください。私からリーベルに言ってあげてもいいけれど、もとよりあの子はマリア以外の話は聞いてません。近道をするのが一番です」

 いつになく厳しい調子で言い渡され、マリアは落ち込んだが、ミラージュの言うことは常に正しかった。だからこそ、マリアも彼女を頼ってここに来たのである。
 分かったわ……とふてくされたように言うマリアに苦笑してから、ミラージュは温かな茶を淹れてそっと慰めてくれた。





 翌日、マリアはリーベルを部屋に呼びつけた。最初は適当な理由をつけて断っていたリーベルだが、さすがに彼にも説明不足だった自覚はあるようで、しぶしぶといった様子で承諾し、昨日と同じ青い顔をしながらマリアの部屋の自動ドアを開けた。
 ドアがリーベルの後ろで閉まると同時、マリアは入り口付近から動かないリーベルにつかつかと歩み寄り、彼をねめつけた。

「私は別れたくないわ」
「ああ……マリアさん」

 リーベルは落胆したように頭を抱えた。

「分かるでしょう。オレは、あなたを傷つけたくないんです」
「私が傷ついたかどうかなんて、私じゃないあなたに分かるはずないでしょう。むしろ私は一方的に別れを告げるあなたに傷ついたわ。ひどいわよ、理由も知らされず吐き捨てて出ていかれたんだから。私だって昨日一日どうしていいか分からずに右往左往してばかりだったわ。会おうとしても逃げられるし、皆には勘づかれて気の毒そうにされるし、クラウストロ人にとって重大な問題であることは分かるけど、リーベルには覚悟があるんだと思ってたわ」

 地球人と付き合うという覚悟がね?と嫌味混じりで詰め寄る。リーベルはマリアを一瞥し、苦々しげに眉を寄せた。

「あのとき、ぞっとしたんです。もし腕を折るまでしていたらと思うと、オレはもうあなたのそばにいられないと思った」
「自分勝手だわ。別にあなたに力の加減を誤るなと言っているわけじゃないわよ。そんなことはどうだっていいの」
「どうだっていいわけありません」

 リーベルも強気になってきたらしく、怒ったように目をつり上げてマリアを見下ろした。

「クリフさんを見ていれば分かると思いますけど、オレたちクラウストロ人は本当に怪力なんです。種族の説明の中でも筆頭に上げられるくらい身体能力のことが言われている。やろうと思えば相手の骨を折ったり砕いたりできてしまうんです。この前みたいな咄嗟の場面は、一緒にいる限り今後もあるはずだし、あなたの身体をこれ以上傷つけたらオレにはもう耐えられません。船から降ります」
「降……ばか言わないで」

 力無く下ろされているリーベルの右手を両手で掴み、マリアは必死に言った。

「それはあなたでなく他の船員も同じことよ。私がいる限り皆が気遣うのなら、私が下船するのが筋でしょう。もちろん、今まで降りずに済んでいたのは皆の気遣いがあったからに違いないけど、私だってそれなりの覚悟があってこの船に乗っているの。うっかり傷つけられたところで、私は相手を責めはしないわよ。リーベル、あなたのこともね」

 より近くにいるのだから、より気にしないのは当然でしょうというマリアの言い分に、それでもリーベルは納得しないようだった。暗い顔をし、横を向いて沈黙してしまったので、マリアはリーベルの手を引っ張ってベッドに無理矢理座らせた。マリアも隣にどかりと腰かける。

「別れろというなら、私は船を降ります」
「……マリアさん。あのね」
「もう決めました。別れろというなら、私は船を降ります」

 腕を組んで二度断言すると、リーベルは小さく呻きながら前かがみになって深い溜息をついた。

「もう、どうしたらいいのか……。オレだって別れたくないんですよ。あなたのような素晴らしい人と恋人同士になるなんて、夢のまた夢のようなことが現実になってるんだから、この状態を自分から壊してしまうなんて、つらくてたまらないんです。でも、この身体があなたに怪我をさせるかもしれないと思うと、自分のことが許せなくて、マリアさんのそばにいることが苦しくなってしまって」
「あなたは何を言っているの? 私に怪我をさせるかどうかに人種なんて関係ないでしょう。地球人だって同じ地球人を怪我させたりするのよ」
「それはそうですけど」

 リーベルは顔を上げ、じっとマリアを見た。悲しみと怒りが混じっている表情の中に、ヘーゼルの瞳が鋭く光っていて、マリアは少し緊張した。
 しばらく黙っていたリーベルだが、そのうち「分かりました、別れません……」と呟くのが聞こえてきて、マリアは心底ほっとした。だが依然、彼の顔は冴えない。機嫌を損ねているようにも見え、マリアはどうしたものやらと悩んでいたが、ふと思いついて話し始めた。

「ねえ、リーベル」
「……はい」
「私、あなたに抱っこしてもらうことがあるじゃない? 届かないものがあるときに持ち上げてもらったり」

 リーベルは少し考えるふうにしたのち、マリアを見て頷いた。ディプロ船内において、そういう場面は何度かあった。届かない場所にあるものは大抵、背の高いリーベルが難なく取ってくれるのだが、高いところに固定されている機材などにマリアが手を伸ばしたいときに、リーベルが腰に手を添えて持ち上げてくれることがあった。それ以外にも、ふざけ半分でマリアをお姫様抱っこするときもあったし、この前は、マリアが欲しかった本をリーベルが補給地で偶然手に入れてくれたことが嬉しくて、思わず抱きついたら、リーベルが身体を持ち上げてマリアを嬉しそうに見上げるようなこともあった。

「私、そういうときにリーベルが軽々と持ち上げてくれるのが嬉しいの」

 言いながら、少し恥ずかしくなってきて、マリアは頬をほんのりと赤くした。

「まるで自分が軽いものになったみたい。私にだって体重があるもの、地球人には決してあなたのようにはできないわ。そういうときにね、リーベルが羨ましい、あなたがクラウストロ人でよかったって思うのよ」

 急にリーベルは片手の甲を口元に当て、じっと前方を睨みつけた。険しく眉を寄せているので、マリアは要らないところで彼を怒らせてしまったのではないかと不安になり、リーベル?とジャケットの袖を軽く引っ張った。
 するとリーベルはみるみるうちに耳まで真っ赤になり、口に手を当てたまま、ぼそりと言った。

「……かわいくて」
「え?」
「マリアさんが……かわいくて」

 リーベルはさっと立ち上がると、いきなりマリアの身体を両手に抱え、二人きりのときにたまにするお姫様抱っこを実行した。驚いたマリアはバランスを取るためにリーベルの首元に抱きつく。

「なっ、何!?」
「マリアさん、かわいい」

 リーベルもまたマリアを抱きかかえたまま、マリアの首元に顔をうずめた。

「大好きです、マリアさん」

 呟きが間近に聞こえ、マリアも負けないくらい首まで赤くなった。「私も大好きよ」と囁くと、リーベルは顔を上げ、マリアを見つめて笑った。それはこちらが泣きそうになってしまうくらい、本当に幸福そうな笑顔だった。





「……で。
 結局、あいつらは仲直りしたわけか……」

 ミラージュの部屋のテーブルに突っ伏しているクリフが、暗い声で言った。ミニキッチンの前でカップを拭いているミラージュは、そのようですよと淡々と返した。

「なんだったんでしょうねえ、本当に」
「……あーあ!」

 どこの馬の骨とも分からない男に大事な娘を取られたというように悲嘆に暮れている保護者を見つめ、ミラージュは苦笑しながら肩をすくめた。