「あら、この花きれいね」

 不意に、マリアがディプロ船内の廊下で立ち止まった。横を歩いていたリーベル――今やディプロ船員公認のマリアの彼氏なのであるが――も慌てて歩みを止め、マリアの視線が向けられている先を見やった。宇宙船の廊下は金属製の壁や床ばかりで覆われており殺風景なため、船内の女子たちが所々に植物を飾っているのだが、マリアが見ていたものは、壁に埋め込まれた一輪挿しに飾ってある青い花だった。花弁が何重にもなり、一見するとバラのようだが八重桜にも似ていて、どこか儚げな印象を受ける花である。
 マリアが興味を持った花を見て、リーベルは心の中でガッツポーズを取った。実は、この花はリーベルが用意したものだった。じいと青い花に見入っているマリアの背後から、リーベルは少し得意げになって話しかけた。

「好きですか? そういう花」

 マリアは花を眺めたまま頷き、手を伸ばして軽く花びらに触れている。

「ええ、宇宙では花なんて見られないから。みんなが物資補給の際に色々と買ってきて、船内を飾ってくれているみたいだけど」

 私にはそういうセンスがないのよね、とマリアは苦笑しながらリーベルを見上げる。リーベルは、そんなことないですよ、とにこにこ笑い、再び歩み始めたマリアに歩を合わせた。

「実はあれ、オレが買ってきたんです」

 リーベルが白状すると、あらそうなの?とマリアは意外そうに目を丸くした。

「いつ?」
「この前、セクターθの基地に降りたときに、ついでに買ってきたんですよ」
「あら、あの慌ただしかった時?」

 セクターθは太陽系やエクスペル、ロークなどの惑星がある区画だが、第一深宇宙基地で物資を買い込んだとき、やたら改変改良されているディプロに疑いを持った警備官に尋問されかかって、早急に基地を発ったのである。面倒なことを避けるために一時間程度で事を済ませたせいで、結局別の基地で再び足りないものを買い出しに行く羽目になってしまった。

「基地の商業地区にちょっとした雑貨屋があって。その時、青い花なんて珍しいなと思って買ったんです」
「そうね……確かに見かけない花だわ」
「店員は、ロークから持ってきた苗を品種改良して云々って言ってました。すごく綺麗だから、マリアさんが見たら喜ぶかなって」
「あら」

 リーベルの言葉に目を瞬かせ、マリアは立ち止まった。リーベルも再びそれに従い、マリアを見下ろす。

「私?」
「あ……はい」

 首を傾げるマリアの可愛らしさにきゅんとしつつ、リーベルは照れて首の後ろを撫でた。困ったように微笑し、マリアから視線を外して、先ほどの一輪挿しがある壁の方を眺める。

「その……見たときに、マリアさんみたく綺麗だなと思ったんです。色も、マリアさんの髪の色みたいでいいなって」
「そ……それは、嬉しい、けど……」

 戸惑ったマリアの表情を見たくて、瞬間的にリーベルは再びマリアに視線を移した。マリアは少し頬を赤らめ、うつむいて、腹の前でもじもじと指先を絡めている。彼女がこういった態度を見せてくれるようになったのは本当に奇跡だよなあと、リーベルは心底感動した。

「でも……言ってくれれば良かったのに」
「え?」
「花、買ってきたって。セクターθに行ったのも、けっこう前だし。あの調子だとリーベルは、私が気が付くまで何も言わなかったでしょう?」

 目元を赤らめたまま見上げてくる恋人を抱きしめたい衝動を抑えつつ、リーベルは、そうですねえ……と頬を掻き掻き苦笑した。

「マリアさんが気が付いてくれるのを待ってみたかったっていうか……」
「? どうして?」
「だって、自分から“これオレが買ってきたんですよ”って言ったら、マリアさん、きっと気を遣って“そうね”って言ってくれるでしょう? マリアさんが自然と綺麗だって思ってくれるのを待ってたんです。その方が、オレも嬉しいし」
「……」
「だから、今回は、やった!って感じです」

 心の底から喜びがわき上がってくるのを笑顔に変えて、リーベルは両手を握りしめてガッツポーズを取って見せた。マリアは更に顔を赤くしてうつむき、もう、とリーベルの胸元を拳で軽く小突く。

「リーベル可愛いわね」
「えっ? いや、マリアさんの方が可愛いですよ」
「もういいわっ」

 くるりと背を向け、すたすたと歩き始める。怒らせたのかと思い、リーベルは慌てて追いかけた。「すみません」だの「怒ったんですか」だの話しかけるが、マリアは答えないままだった。しかし、廊下の角までやってくると、彼女は人気のない場所でいきなり振り返り、リーベルにぎゅっと抱きついた。
 その時のリーベルの顔の緩み様は、表現のしようがないほどである。





 この日の夜、ディプロ内のバーでランカーと酒を飲んでいたクリフが、べろんべろんになりながら「死ねばいいのに」と吐き捨てたことについては、マリアもリーベルも知る由もないところであろう。