「ねえ、リーベル」
「は、はい……うわっ」

 不意にマリアが呼んだので、リーベルは、手に持っていたコーヒーのトレイを思わずひっくり返しかけ、慌てて自分の胸元に引き寄せた。水平が保たれたおかげでトレイの上に載っているマグカップが落ちたり転がったりするということはなかったが、引き寄せたときの反動で、リーベルの部屋着がコーヒーで濡れてしまった。

「あ、やってしまった……」
「ちょっとリーベル、大丈夫!?」

 マリアは、ひどく焦った様子で手のトレイを奪い取り、それを素早く机の上に置いて、次に自室の棚から一枚のタオルを瞬時に掴み取ってくると、リーベルに駆け寄って濡れたシャツの胸元を指先で引っ張った。あっという間の出来事について行けず、リーベルが彼女の動作をぽかんとして追っていると、彼女は、ほら、さっさと服を脱ぐのよ、とさも当然のようにけしかけてきた。

「火傷してしまうわ」
「あ、ああ」

 だからコーヒーで濡れた服を肌に付かないよう指で引っ張っているのかと納得して、リーベルは戸惑いながら頷いた、が、

「いや、でも、あの、大丈夫です……」

 ここは、ディプロ艦内のマリアの自室であり、とてもではないが自らの上半身を裸体にする自信などなかった。マリアは、リーベルが謙虚に断るのをよそに、近くにあった椅子に無理矢理座らせて、必死な様子で濡れた服をタオルでトントンと叩いた。

「駄目よ、そのままの格好でいる気? コーヒーはすぐに洗わなければ色が付いてしまうわ」

 だからさっさとシャツを脱げと急かすマリアに、リーベルは拒否する勇気も沸いてこず、戸惑いつつも勇気を振り絞って濡れたシャツを素早く脱いだ。あいにく今日は一枚のシャツしか着ていなかったために、すぐ下は裸で、服越しにコーヒーで濡れた箇所が冷房の風に当たり、少し寒かった。
 マリアはリーベルから濡れた服を奪い取ってタオルを渡すと、それで濡れた場所を拭きなさい、と命じた。元とは言えリーダーの命令になど逆らったことのないリーベルは、ほとんど反射的に返事をして、タオルで自分の胸から腹にかけてを拭った。何やっているんだろうオレは……と情けない心地ではあったが、マリアが近くにいるという羞恥を忘れることはなく、一刻でも早くこの場を去りたくて仕方がなかった。

「リーベル。あなたの部屋に、すぐ入れるかしら?」

 言われ、リーベルは顔を上げて、側に立つマリアをきょとんと見た。

「え?」
「替えの服を取ってくるわ。部屋に予備はあるわよね?」
「えっ……い、いいっすよ、オレ自分で行きますから」

 別にやましいものを置いているわけではないのだが、彼女の提案が唐突だったので、リーベルは腰を浮かせてぶんぶんとかぶりを振った。しかし、マリアは「遠慮しないでいいわ」と腕を組み、頑として態度は崩さないわよと言うように、こちらを睨み上げた。

「その格好で私の部屋から出てきたところを見られてごらんなさい」
「あー……」

 スティングやランカー、マリエッタたち船員に目撃されたら厄介なことになるだろう。参ったなとリーベルが目を泳がせている間に、マリアは素早くドアの前に移動していた。ハッとして阻止を試みる。

「リ、リー……マリアさん! あの、オレまたその服を着ますから」
「ついでにこの服も洗濯場に置いてくるわ」
「だから、いいですってば。オレが全部やりますから」
「大丈夫、私は何食わぬ顔をしてあなたの部屋に入ればいいのよ」

 リーベルの言葉を無視しながら、あまり信頼性のないことを言い放ち、マリアはあっという間に部屋から出ていった。自動ドアが閉まり、マリアの部屋に一人きりになってしまったリーベルは呆然として、先ほど座らされた椅子に、すとんと、まるで重力が襲ってきたような感じで腰を下ろした。
 「状況が分からない」という言葉を、リーベルは頭の中で反芻した。そもそも、初めから分からない。シランドからマリアと二人で戻った翌々日、クラウストロ四号星に向かうディプロ艦内でマリアにこっそりと呼び出され、なぜか彼女の部屋まで案内されたのだった。今まで聖域だと思っていた場所に女神が突然入場許可を下したのが、およそ十分前。気が付いたら彼女から「コーヒーを淹れよう」という話をされていたのが、五分前。彼女の部屋にコーヒーメーカーがあるので、まさかマリアに茶の準備などさせることなどできないと思ったリーベルは、自分から進んでコーヒーを淹れますと言ったのだが、実際その辺りの記憶はあまり残っていない。自分が聖域に入ってコーヒーを淹れているという状況そのものが、夢にも思わない、というより、理解の域を超えたことだった。そして今、彼女の部屋に、自分が一人で半裸でいるということも、夢というより、たちの悪い冗談のような気がしてならなかった。
 膝の上に力無く置いたタオルを握りしめて、リーベルは息をついた。一体何が起きているのだろう、なぜ、マリアは自分などを自室に招こうなどと思ったのだろう。自分は男で、しかも最近彼女に振られたばかりなのだ。そんな人間と二人きりになろうという彼女の神経が、よく分からなかった。彼女がいくら鈍感といえども、半裸の男が部屋にいるのは、さすがにまずいと思うはずである。もしかしたら自分は男としてすら見られていないのではないか――考えているうちに情けなくなって、リーベルの目に涙が浮かんだ。

「すっげ、オレ、馬鹿じゃん……」

 好きで好きで仕方がなかったこの想いは、つい数日前、彼女に振られたことによって諦めざるを得ないものとなった。すぐに断ち切ることなどできないので、せめて彼女が近くにいる間は今までと同じように好きでい続け、いつか離れたならば、この切ない恋心を少しずつ消していこうと決心したところだった。だからもう、前以上に彼女と接触することなどあってはならないと思っていたのだが、エリクール二号星のシランドまで一緒について来てくれと言われたり、突然部屋に誘われたり、彼女のためにコーヒーを淹れたりと、むしろ拷問に思える仕打ちをマリアは提案してくるのだ。本当に、彼女の心理が分からない。恋愛をしたことがないと言っていたので、もしかしたらそのためなのかもしれないが、それにしても少しはリーベルの気持ちをくみ取ってもよいはずだった。マリアを嫌な女にしたくはなかったが、今回ばかりは他人の傷をえぐるような真似をする彼女に対し、少しの不信感を抱き始めていた。
 何だかオレは厄介な恋をしているのかもしれない……と濡れた目元を指先で拭っていると、急にドアが開いてマリアが入ってきたので、リーベルは慌てて立ち上がって彼女に向き直った。マリアの手には、リーベルにも見覚えがある、畳まれている黒い服が載っていた。

「これでよかったかしら?」

 言いながら、差し出してくる。最近リーベルが艦内で着ていたものなので、彼女にも見覚えがあったのだろう。リーベルは頷いた。

「はい、ありがとうございます……」
「あなたの濡れた服は、水でゆすいで、洗濯場の籠に入れておいたわ」

 彼女の言葉にもう一度礼を言い、リーベルはそそくさと黒い服を被った。七分袖のつるつるした生地の無地のシャツで、下に着けている黒いズボンも相まって、全身が真っ黒になってしまった。だがマリアは全く気にしていなさそうに、コーヒーが冷めてしまうわねと、先ほど作業机に避難させたトレイを持ってきて、それをリーベルの椅子とベッドの間に置いた白いテーブルの上に載せた後、ベッドに腰掛けた。
 リーベルは椅子に座り直すと、マリアに向き直って、小さく頭を下げた。

「すみません、迷惑かけてしまって」
「え? ううん」

 マリアはトレイに載っていた赤いマグカップを手に取り、優しげな笑みを浮かべた。

「いいのよ。それより、火傷してない?」
「あ、はい、それは平気です」
「そう、良かった」

 リーベルは、戸惑いながらもトレイに残っていた青いマグカップを取り、少し減ってしまった黒い液体を一瞥してから、口に含んだ。冷めてしまったかなと思ったが、まだほどよい温かさは残っているので、先ほど自分がコーヒーをこぼしてからマリアが戻ってくるまで、それほど時間は経っていなかったのだと気付く。マリアと一緒にいる時、頭の中が常にパニック状態のリーベルには、時間の感覚というものがないのだった。
 一通り口に入れて、トレイの上にマグカップを戻すと、テーブルを挟んで向こう側にいるマリアが、両手でマグカップを口元に持ち、少しぼんやりしていた。

「……あの、マリアさん?」

 声をかけると、マリアはハッとしたように背筋を伸ばした。

「あ、な、なあに?」
「いえ……その、ちょっとぼうっとしていたから、どうしたのかなって」

 素直に言うと、マリアは少し顔を赤らめつつ肩をすくめてみせた。

「そう、かしら」
「何か考え事ですか?」

 本来ならば、なぜ自分が現在ここに招待されているのかということを問いたかったのだが、悪意があって今こうなっているというわけではないと分かっているリーベルは、あえて当たり障りのない質問をした。
 マリアは、リーベルの問いに肯定するかのように沈黙した後、マグカップをトレイに置いて、小さく嘆息した。

「そう、そうね、多分、考え事……」

 明らかに動揺を含んだ声だった。様子が普段と違う気がする。緊張を覚え、リーベルは椅子の上で姿勢を正した。表情を観察する限り、落ち込んでいる態ではないが、どこかぼんやりしているのは、彼女が何かを抱えているという証拠だった。顔も赤いし、熱でも出ているのかもしれないと心配したものの、まさか彼女の額に手を当てることなどできないし、もし熱があったら彼女は感染を懸念して部屋に人など呼ばないはずである。
 もしかしたら、また自分一人で何かを抱え込もうとしているのかもしれない。不安になったリーベルは、身を乗り出して彼女に問うた。

「あの、マリアさん。オレに話せることなら話してみませんか?」

 リーベルの言葉に、マリアは不思議そうにリーベルを見た。リーベルは微笑み、

「オレじゃ役に立たないかもしれないけど。でも、オレを呼んだのって、きっとそのことでしょう?」

 するとマリアは目を伏せ、頬をほんのり赤くさせたまま、小さく身じろいだ。好きな人が恥じらっている姿を初めて見たリーベルは、マリアさんは最高に可愛いですと天に向かって叫び出したくなったが、実行すると部屋から追い出される可能性があるので、ここはこらえて彼女から何か言ってくれるのを待った。
 マリアはしばらく沈黙していたが、リーベルに再び視線を合わせると、ええ、と頷いた。
 ああ、また彼女に頼られることを許されたと、嬉しさでとろけてしまいそうな気持ちを隠しつつ、そうなんですねとリーベルは相槌を打った。

「マリアさんが話せる範囲で話してください」
「でも、リーベル、迷惑じゃないかしら」

 おずおずと言ってくるその態度が可愛らしくて、そのまま強く抱きしめて、あなたは可愛いです!と空に向かって絶叫したくなったが、そんなことをしてはクラウストロ人である男の力でマリアの身体が潰れてしまうので、ぐっと握り拳を作るだけに抑えて、いいえ、とかぶりを振った。

「迷惑だなんて思いませんよ。何か、悩み事ですか?」
「……うん」

 消え入りそうな声で相づちを打ち、マリアはリーベルから目をそらすと、じっと無機質な床の白いタイルを見つめた。

「マリアさんのペースで話してくださって結構ですよ」

 なるべく彼女を傷つけたり不安にさせたりしないようにと、リーベルは気遣うことに必死だった。本来はこのような性格ではなく、周りから「少しは空気を読め」と言われることの多いリーベルではあったが、マリアに恋をしてから、だいぶ性格が変わった気がしていた。「それでも一本気なのは変わりないがな」と兄からは言われているが、マリアへの告白を機に自分が優しい人間になったということについてリーベルにも自覚があった。好きという気持ちをぶつけることができなくなった今、相手を静かに思いやることしかリーベルには残っていなかった。好きになってもらえないのなら、せめて嫌われないようにしようという単純な考えではあったが、それが逆にリーベルにとってよい結果を生み出しているのかもしれなかった。
 恋って不思議だなと思いつつ、マリアが何か言ってくれるのを、時折コーヒーを口にしながら根気強く待った。マリアは、先ほどと全く同じ姿勢のまま床を見つめ、何かを考え込んでいるようだった。その無表情にリーベルは不安をあおられたが、ここは何も言わずに辛抱強く待たなければならない。座っている椅子を床についた足の力で左右に揺らしながら、両膝の間に両手をぶらんと垂らして、彼女が喋り出すのを黙って待ち続けていた。
 そのうちマリアが身動きしたので、リーベルも姿勢を正した。

「……あのね」

 ほとんど聞き取れないほど小さな声だったので、リーベルは息を潜めた。

「私……」

 彼女の顔色が徐々に赤くなっているのが疑問で、リーベルは、この人は熱を出しているのではないかと不安になったが、緊張のせいで言葉にはならなかった。
 マリアは、私ね、私……と一人称を何度か繰り返した後、意を決したようにリーベルに振り返ると、

「私、あなたに恋をしているかもしれないの」

 と、言った。
 リーベルは、とりあえず止まった。息さえも止まっていたかもしれない。一方のマリアは赤面したまま視線を落とし、両頬を手で押さえて、よく分からないのだけれど……と困ったように眉を寄せている。

「なんだか、変なの。あなたに会いたいと思うのよ。同じ艦内にいるっていうのに」

 その声は、羞恥からか震えていた。

「でも、よく、分からないのよ。私、なんだか、ぼんやりしていて……
 おととい、あなたと一緒にシランドに行って、帰ってきた時からドキドキしているの。でも、どうしてこんなに動悸がするのか分からなくて、もしかして病気にかかったのかしらと思ったのだけれど、一番動悸がひどい時が、あなたのことをふと考えた時で……」

 普段の彼女とはまるで違う、空気に解けていってしまいそうなか細い声。これ以上ないのではというほど耳まで赤くなり、小さく身を縮めて震えている。次の言葉を言い出すことをためらうように沈黙しつつ、だが、本当は言いたくて仕方ないのか、彼女は自信なさげではあったが、後を続けた。

「あなたとすれ違うときも動悸がひどくて、それはもう、あなたに聞こえてしまうんじゃないかっていうくらいで。でも、だからって、あなたを避けることなんてできないし、そう自分に言い聞かせたのだけれど、それではずっと心が苦しいままのかしらと思って……
 そのとき、なんとなく気がついたの」

 眉間にしわが寄り、眉がハの字になっている。マリアは顔から手をどけて、ほとんど涙声で言った。

「ああ、私、もしかしたら、リーベルのことを好きになってしまったのかもしれないって」

 その、二度目の言葉が頭の中にこだました時、ようやくリーベルは、停止させた全身の営みを取り戻した。ほとんど息をしていなかったためか、途端に現れたのは激しい肺の動きだった。
 とっさに前屈みになり、呼吸困難にも近い息をするリーベルを見て、マリアは慌てて駆け寄った。

「リーベル? どうしたの!?」

 異様な息をして苦しむリーベルを見て驚愕したマリアは、蒼白になって、助けを呼ぶために部屋を飛び出そうとした。しかし、とっさにマリアの服を引っ張って、リーベルは彼女を止めた。

「リーベル!? 誰か呼ばないと」
「いい、え……」

 息を整えながら、リーベルは適度な酸素を吸うために、もう片方の手で口を覆いながら言った。

「平、気、です……」
「え、で、でも」

 先ほどまで紅潮していた顔がすっかり青くなっているマリアを見つめ、リーベルは、可笑しくなって、少し笑った。呼吸困難になっておきながら、なぜか笑みを見せるリーベルに、マリアが首をかしげている。
 呼吸が落ち着いてきた頃、マリアの服を掴んでいた手を放した。

「もう、大丈夫です」
「そ、そう?」
「大丈夫、なんですが……」

 途端に、リーベルは、先ほどのマリアに引けを取らないほど顔を赤くさせて、うつむいた。彼の仕草で、今までの会話の流れを思い出したマリアも、またたく間に頬を紅潮させ、両手でぎゅっとスカートを握りしめて顔を伏せた。

「……」
「……」

 全身が火照るような長い静寂の後、先に口を開いたのは、リーベルだった。

「……あの。マリアさん。オレのことを……好きかもしれないというのは」

 自分自身が今こんなことを言っているという事実も未だ信じられない。負けじと真っ赤になっているマリアの姿が目の前にあるということは、これはおそらく都合のいい夢かあまりにも突拍子な現実のどちらかなのだろうとリーベルは考えた。
 幸福感のせいか身体が浮遊しているような感じを覚えつつ、どうかこれが前者ではありませんようにと必死に意識を保って、一つ一つ言葉を紡ぎ出していく。

「本当、なんですか?」
「……」
「あの、その、疑うわけでは、なくて……その」
「……うん」

 マリアが頷いたので、リーベルは口を閉じた。今度は、彼女が話す番だ。
 マリアは息を整えるために小さく息をつくと、ふらふらとおぼつかない足取りで歩いて、先ほど座っていたベッドの上に、ふわりと、まるで可愛らしい妖精が座るように静かに腰掛けた。リーベルも椅子を回転させて、彼女の方に身体を向ける。

「よく分からなかったのだけれど……
 でも、あなたが近くにいると、息がつまったり、苦しくなったり、動悸がしたり、顔をまともに見られなかったりし始めたの。
 も、もしかしたら」

 彼女は顔を上げると、リーベルを必死な様子で見据えた。

「私の思い違いかもしれない。最近あなたに言われたことで、恋という言葉を考え始めた延長の、勘違いなのかもしれないわ」

 マリアにとってはなんということはない弁解なのだろうが、聞いたリーベルは少し傷ついて苦笑した。

「初めてなのよ、こんな自分の心の乱れ様は。ただ事ではないわ。今だって、あなたにこんなことを言って、なんだか情けなくて、恥ずかしくて、ぼんやりしているの。夢を見ているみたいだわ。夢だったら、こんな恥ずかしいことが全て嘘だったと思って、後で安心するのかもしれない。けれど、夢であっても、目覚めたら同じように激しい動悸がすると思うわ。
 私も、実際はすごく混乱していて、自分の気持ちがよく分からなくて」
「マリアさん」

 耐えきれず、リーベルは遮った。混濁した気持ちを吐き出すために叫びたくなる衝動を感じつつも、不安げな彼女を安堵させるために、ぎこちない微笑を浮かべた。

「マリアさん、あのね」

 彼女が、まるい目で自分を見つめてくるのが可愛らしかった。歳もほとんど違わない女性だというのに、まるで少女みたいに純真だ。そんな女性が自分のことをこんなにも意識してくれているのが、リーベルは嬉しくてたまらなかったが、先立った不安で素直に喜べないというのもまた事実だった。
 リーベルは、一語一語噛み締めるようにして彼女に告げた。

「オレにも、あなたのオレに抱いてくれている気持ちが、恋なのか、愛なのか、勘違いなのか、判断することはできません」

 おそらくあなたはそれを訊きに来たのだろうけれど、とリーベルは言いかけたが、口を噤んだ。恋愛などまるでしたことがないというマリアは、どんな些細な言葉でも簡単に傷つくだろう。特に、自身の無知を突きつけるようなものであれば。

「オレは、あなたに恋愛しているから、なんとなく分かるのですが……
 たぶん、オレにも、あなたに抱いている想いを言葉で説明しろと言われても、上手く言うことはできないと思います」
「そうなの?」
「想いには、形なんてないでしょう?」

 言葉に、マリアはふっと目を伏せて考え込んだ後、再びリーベルを見て、納得したのか、うん、と小さく頷いた。しかし、どこか腑に落ちなさそうなので、リーベルは姿勢を正し、コホンと咳払いをして、言いたいことを整理しながら、ゆっくりと言葉を発していった。

「その、マリアさんが、オレのことを好きかもと言ってくれたのは、マリアさんを好きなオレにとって、なんかもう発狂したいくらい嬉しいことだし、今も叫び出したくて、あなたのことを抱きしめたくて仕方ないくらいなんですが……
 でも、あの、オレは少し心配で……」

 頭をかきつつ、マリアに顔を見られなくて、うつむく。

「もし、マリアさんが、オレの言葉に影響を受けて……」

 話しながら、自分はもしかしてものすごく情けないことを言わんとしているのではないという気になったが、それでもリーベルには心配で、訊かずにいられなかった。マリアが急にこんなことを言いだしたのは、本当に彼女が混乱した気持ちを恋愛だと勘違いしているのではないか、あるいは、振ってしまったリーベルに気を遣い、無意識にそう思い込むように暗示をかけてしまっているのではないか、と。

「オレのために……いや、オレのせいで、あなたが動揺してしまっているのではないかと思って……」

 その後しばらくの間、マリアの返答はなかった。リーベルは、マリアが自分の言葉で失望してしまったかもしれないという恐怖で顔を上げられなかったが、相手の身動きする気配が先ほどから全く感じられなかったので、思い切って面を上げた。
 そして。

「――」

 絶句した。
 マリアは、リーベルを見つめて、静かに涙を流していた。
 リーベルは一瞬呼吸を失い、茫然自失の状態で、彼女の顔を凝視した。なぜ泣き出されるのか分からず――しかし原因は自分以外にないだろうと自覚すると、ザッと全身から血の気が引いた。涙を拭ってやりたいと思ったが、まさか自分にそんなことができるはずがなく、目の前にいる女性が涙をぽろぽろと落としていくのを絶望的な心地で眺めやることしか今のリーベルには残されていなかった。
 マリアは、初めて気付いたように流れた涙を片手でそっと拭い、リーベルから顔を背けた。その仕草を見たリーベルの胸に、もうだめだ、という暗い気持ちが沸き起こる。

「マリア……さん」
「リーベル」

 彼女が、鼻をすすりながら名を呼んだ。

「わた、し、また……」

 マリアは、くしゃくしゃな顔に涙を流して、掠れた声で呟いた。

「また、あなたのことを傷つけるのかしら」

 リーベルは目を見開く。

「……」
「もし、この気持ちが本当に私の勘違いだったとしたら、私……また、あなたのことを傷つけてしまうんだわ。あなたが私を好きでいてくれる気持ちを踏みにじって……」
「違う」

 口が、とっさに否定の言葉をつく。

「違う、マリアさん。そういうことをオレは心配してるんじゃない。オレは、ただ、オレのせいであなたの心が乱されているのが我慢ならなくて」
「でも!」

 急に、マリアは声を荒げた。

「でも、あなたは傷つくわ。私の曖昧な言葉や気持ちのせいで」
「違うよ、マリアさん、違うんだ。オレは傷つかないし、自分の気持ちが踏みにじられたなんて思っていない。あなたの今抱いている気持ちがどんなものであれ、オレはあなたに対して嫌な気持ちになったりはしないし、苦しくもない」
「嘘よ」

 リーベルを睨み、マリアは涙のにじんだ声で強く遮った。リーベルは口を閉じる。

「……」
「嘘よ、傷つかないなんて、嘘だわ。
 ねえリーベル、本当のことを言って。あなたが私を傷つけないために嘘をつくなら、私もあなたを傷つけないために嘘をつこうとするわ。もちろん、今まで私が言ったことは嘘じゃないし、あなたのことが好きかもしれないというのも、私が自分自身で思ったからこそ言ったことよ。
 ただ……この先、あなたが、本当は傷ついているのにそれを隠すようなことをするのなら、私はどうしていいか分からなくなってしまうわ」
「……マリアさん。それは」
「リーベル。私は、まだ自分で自分がどうなっているのか判断できないから、はっきりしたことは言えないわ。
 でも、ねえ、あなたは、私があなたに抱く気持ちをどう思う?」

 こんなことをあなたに訊くなんて、とても愚かなことだけれど、と彼女は悔しげに唇を噛んだ。

「私は、この気持ちが、もしかしたら恋愛に近いものなのかもしれないって自分自身で気付いて、けれど確信が持てなくて、あなたに訊きたかったのだと思うの。私は恋愛に疎いし、普段も他人の心に気付けないことがあるから、こんな無様な格好でしか解決する方法を見つけ出すことができなくて」
「……マリアさんは、残酷ですよ」

 今度はマリアが口を噤む番だった。リーベルは、暗く悲しい笑みを浮かべながら続ける。

「マリアさん。あなたの気持ちが、もし恋愛だというのなら、ひとつ、お訊きしたいことがあります」
「……なに?」
「あなたにこんなことを言うのは憚られるのですが」

 リーベルは下を向いて、吐き捨てるように言った。

「あなたは、オレと、キスをしたり、セックスをしたいと思いますか?」

 マリアは明らかに身体を強ばらせた。

「……」
「無論、全ての恋愛が、そういった身体に関することに繋がるとは思えません。プラトニックな愛も、もちろんあると思います。けれど……
 こんなこと、恋人でもないのにあなたに言ったら嫌われるかもしれない。でもオレは、あなたとキスをしたいと思いますし、身体でも愛し合いたいと思っています。もし、オレたちが本当に恋人同士になれるのならばですが……」

 リーベルの言葉を聞いているのかいないのか、マリアは沈黙していた。ものすごい勢いで色んなことを考えているふうに、戸惑いで口に拳を当てながらじっと宙を睨んでいる。

「……私は……」
「マリアさん」

 マリアを眺めていたリーベルは、崩れ落ちそうな苦笑を浮かべ、ゆるくかぶりを振った。

「いいんですよ、マリアさん。いいんです、すぐに答えを出さなくても。あなたが混乱しているのは分かるし、そこまで考えが及んでいなかったというのも、今、なんとなく分かりましたから」

 その諦め半分の言葉を聞き、マリアは、ぱっと顔を上げた。

「リーベル、違うの、私は……」
「無理をしないでほしいんです。オレは、あなたのことが大切で、あなたがそんなことで悩むのを見ていられないんです」
「そんなこと?」

 マリアは急に目をつり上げた。

「そんなこと、なの? あなたが私に告白してきたのは、そんなふうに言えてしまうことなの?」
「え……」

 リーベルは一瞬何を問われているのか分からなかったが、自分の言葉を頭の中で反芻してハッと気付くと、慌てて両手を振った。

「え、あ……いえ、あの」
「あなたが私と繋がりたいと思うのは、そんなこと、なの?」
「い、いえ、その」
「私が」

 マリアは再び涙を溢れさせながら、ベッドのシーツを強く片手で握りしめた。

「私が、あなたに抱く気持ちも、その程度のことになってしまうって、リーベルは思っているの?」
「マリアさん、それは」
「私は!」

 マリアは立ち上がり、小テーブルを避けてリーベルの前に回り込むと、涙をこぼして、男の不安げな顔を見下ろした。いつにないその怒りの形相に、リーベルは戸惑いと恐怖を覚えて固まった。
 
「……」
「私は、あなたに好きと言ってもらえて嬉しかったわ。シランドに一緒に行ってくれて、悲しんでもいいって言われて、本当に嬉しかったわ! だって、そんなこと誰も私に言ってくれないと思ってたから……私は強い人間だと思われていたから!
 リーベルが本当に私のことを好きでいてくれるんだって確信したとき、あなたに愛してるって言われたときに、私、心から安心したのよ。この人なら、弱い私を憎んだり蔑んだりしないだろうって。そう理解して、私、リーベルとなら幸せになれるかもしれないって思ったの。私は、本当は臆病で……素直にものも言えなくて、物事を真面目にしか考えられなくて、どうしようもなく不器用な人間なのに、あなたは私のことを好きと言ってくれた。恋愛のことなんてろくに分からない私のことを好きだと言うこの人は、どうして私のことを愛してくれるんだろうって疑問に思ったわ。だって私、人の想いにも応えられないような、情けない人間なのよ」
「マリアさん」
「そうしたら私、なんだか嬉しくて悲しくて仕方がなかった。あなたの言葉が頭の中で繰り返し響いて、本当に幸せで、逆につらくてたまらなかった。これからどこへ行っていいか分からない私が、目的を失ってしまった私が、誰かのために生きていられる理由が見つかったという喜びと、私なんて愛される資格はないんじゃないかという不安でいっぱいになって」
「マリアさん」

 リーベルは泣きじゃくる彼女の腕を引っ張り、座っている自分の懐に、マリアの身体を引き寄せた。マリアは小さく声を上げ、リーベルの懐に収まると、二つの長い腕にゆっくりと包まれた。

「……リー、ベル」
「マリアさん」

 名を呼び、下手に力を入れて苦しまない程度に彼女を抱きしめた。

「自分を貶めないでください。あなたは、立派で、美しくて、優しい、素敵な女性なんですから。こんなことをして、ごめんなさい。これが最後でも、オレはかまわない。あなたの泣き顔は、もう見たくないから」
「……」
「あなたの心をこんなにも乱したのは、オレです」

 リーベルは少し笑み、腕を緩めて、マリアの頬にそっと両手を回し、彼女の顔を自分から遠ざけた。体重をリーベルに預けていたマリアは、リーベルの肩に両手を置いて身体を支えると正面から見据えた。鼻と鼻が触れそうな距離に、マリアもリーベルも頬を赤らめる。

「マリアさん、もう苦しまないでほしい。オレたちは、少し離れた方がいいのだと思います。あなたには、気持ちの整理が必要です。オレから近づいたのに、こんなことを言うのはずるいけれど……
 恋愛がどんな形をしているものかと問われても、オレにはまだ答えられない。オレでさえ、これが愛なのだという確信は持てていないんですから」
「でも、リーベル。私があなたに抱いたこの気持ちは……だったら、何だというの?」

 マリアの無邪気で可愛らしい問いに、リーベルは優しく笑んだ。

「本当の恋心か、あるいは、気の迷いなのでしょう」
「……気の、迷い」

 マリアは、ショックを受けたようにその言葉を繰り返した後、違うわ、と慌てて首を横にした。

「気の迷いなら、こんな……こんなに心が傷つくことはないわ!」
「……え?」
「今、あなたに、この気持ちは気の迷いだと言われて、とても悲しくなったのよ」

 本当に悲しげな顔をしてマリアが見つめてくるので、リーベルも彼女につられ、似たような顔つきになってしまう。

「マリアさん、オレはそれでも……」
「お願い、否定しないで。否定されると、私、悲しくて仕方がないの。あなたに拒否されている気がして」
「拒否だなんて、そんな」
「もしこれが気の迷いであったら、私、こんなつらくない」

 リーベルの額に自分の額をくっつけ、マリアは言う。ほとんど唇が触れ合ってしまう距離に、リーベルは恥じらいと緊張で思わず瞼を伏せた。心臓がありえないほど高鳴り、このまま気を失ってしまえたらどんなにいいだろうと考えてしまう。

「リーベル、私……あなたに嫌われたくないの」

 マリアの小さな、しかし必死な呟きに、リーベルはゆるゆると目を上げた。すぐ近くに大きな目があり、その中の青緑色の瞳は、漆黒の宇宙の中にある水の豊かな惑星を思い起こさせた。
 リーベルは、マリアの頬を押さえている手で、その滑らかな肌をそっと撫でてやりながら、震える声で尋ねた。

「それ、は……
 オレのことが好きだということに、なるのですか?」

 リーベルの問いに、マリアは、今度は確信を持ったように、一度も目をそらさずに答える。

「きっと、そうだわ」
「……“きっと”」
「もちろん、あなたが言ったように、私も、これが愛だという信念を持って言うことはできないわ。だって私があなたを想う証拠なんて、形にはならないものなんだもの。
 でも」

 マリアは、不意に、悲しげな笑みを浮かべ、リーベルの頭に片手を回し、首もとに顔を伏せた。

「でも、それは一生そのままだと思うの。お互い、気持ちなんて、目に見える形で現すことなんてできないわ。だから恋人たちっていつも不安そうなんでしょう? クルーたちが恋人とのことで悩んでいるところを、私、もう何度も見たわ。疑問だったの。どうして、二人、愛し合っているのに、そんなに不安になるのかしらって」

 リーベルは、マリアがそこまで考えていると思っておらず、彼女がそんな先のことにまで気付いてしまっているのだと思うと、胸の痛みを覚えた。

「……」
「私、何となく分かったの。彼らは私がいま抱いている気持ちと同じ気持ちでいて、だからこそ、不安になるんだわ。いつまでも愛は目に見えなくて、確信が持てなくて、互いを信じられなくて。私たちも、それは同じことね」

 マリアは再び顔を上げると、頬を染めて照れたように笑った。それはまるで幼い少女のように可愛らしい微笑みだった。

「多分、ずっと、私たちは自分と相手の気持ちに確信が持てなくて、同じ事を言い続けるんだわ。けれど、私、もうそのことが分かったから、少し安心したの」

 無邪気な笑顔を見せる彼女はなんと可愛らしいのだろうと、リーベルは胸がいっぱいになって眉を寄せた。

「マリアさん」
「私、リーベルのこと、きっと好きよ」

 リーベルは身体が痺れていく感じを覚え、耐えきれずに目を閉じた。暗闇の中で、もう一度目を開けて腕の中から彼女がいなくなっていたらどうしよう、ベッドの中で眠っていただけだったらどうしようと、不安でたまらなくなる。これが夢なのだとしたら、なんと幸福な夢を見ていたのだろう、こんな優しい夢を見ただけでも嬉しくてたまらないというのに、ああ、もし、これが、現実だとしたら?
 リーベルは、おそるおそる、半ば決死の思いで目を開けた。

「…………
 マリアさん」

 やはりそこにはマリアがいて、ほとんど唇が触れ合うその場所で、女神のように美しく微笑んでいた。
 リーベルは、おぼろげな心地で、静かに問うた。

「キスをしても、いいですか」

 リーベルの問いかけに、マリアは少し驚いたが、すぐに口元を笑わせて、うん、と小さく頷いた。リーベルは幸福で身体に微かな震えが走るのを感じながら、彼女の垂れてきた髪を両手の指先で絡め取ると、後頭部に手を滑らせて、優しく頭を押さえた。ゆっくりと唇を近づけ、無防備な彼女の赤い唇にそれを重ねて、何秒ほど経ったのだろうか、ただ触れ合わせているだけで、そのうちゆっくりと顔を遠ざけた。
 マリアの頬は林檎のように真っ赤になっていたが、その顔は幸福そうだった。好きな人の、こんなに嬉しそうな顔を見るのは初めてだった。そのとき、リーベルには、自分はこの女性に愛されるかもしれない、だから、自分は彼女を変わらず愛していていいのだという確信が芽生えるのが分かった。
 リーベルは指先に絡まったマリアの長い髪をもてあそびながら、額を彼女の額にくっつけて、呟いた。

「マリアさん」

 ああ、これ以上の幸福が、この世にあるとは思えない。

「好きです」

 リーベルの言葉に、マリアは頷く。もう上気している顔を見られるのは耐え難いというふうに、首に抱きつくと、その小さな力で懸命にリーベルを抱きしめた。リーベルも同じくらい強くマリアのことを抱きしめたかったが、そんなことをしてはクラウストロ人の力が彼女の身体を潰してしまう。だから、リーベルは軽い、本当に軽い力で彼女を長い腕で包み込み、近づいた白い頬に優しい口づけを施した。マリアがくすぐったそうに身じろぎして、微かに笑い声を上げているのが可愛くて、幸せで、嬉しくて、リーベルは、半ば泣きたい心地だった。