「ねえ、リーベル。
 一緒に、エリクールに行かない?」

 マリアさんが、急にオレに言ってきた。

 ディプロが、オレや兄貴、マリエッタたちを実家に戻らせるためにクラウストロ四号星に向かう途中のことだった。オレは不具合の修理を任されていて、あらゆるコンピュータが壁中に埋め込まれている誰もいない機関室で、懸命にパネルやキーボートと睨めっこしていた。お前は面子の中でも動体視力が優れているし検索も早いだろ、なんてクリフさんに無理矢理こじつけられて機関室に追いやられたわけだけれど、多分クリフさんはランカーさんと何か内密に話したいことがあって、その場からオレを遠ざけたのだと思う。
 けれど、不具合があるのは確かだった。こういうのはミラージュさんの方が向いているんだけどなあと心の中で愚痴りつつ、もう小一時間バグの修正をしていて、だんだん怠くなり、近くの台に頬杖をつきながら欠伸をしていた時だった。いきなり機関室のドアが開いて、びくりとして振り返ると(機関室なんて滅多に誰も来ない、というのは、メインコンピュータで大抵のバグは解消できるからだ)、そこには綺麗な青い髪を垂らしたマリアさんが立っていた。
 慌てて立ち上がって、姿勢を正す。すると、彼女はこちらに歩み寄ってきて、くすりと小さく笑みを浮かべた。

「ごめんなさい、クリフに聞いたの。あなたがここにいるって」
「え、あ、は、はい……」

 彼女がいると、どうにも呼吸が落ち着かない。それはそのはずだ、なぜならこの前オレから告白して、振られたばかりなのだから。でも、振られたからといってすぐに想いを断ち切れるわけではない。多分、オレはこの先しばらく彼女のことが忘れられないのだと思う。新しい恋愛に向かおうだなんて今の時点では全く思えないし、むしろ、この優しくて賢明な人を一生愛し続ける方がずっといいように思えていた。
 彼女を見下ろし、ひどく拍動する心臓と全身の体温が上がる感じを覚えながら、がちがちになって答えた。

「あの……バグの修正を、頼まれ、まして」
「ええ」

 マリアさんは、こちらを見上げて頷いた。綺麗な青緑色の瞳に見つめられて、もう恥ずかしくて目をそらしてしまいたい気分だった。けれど、そうすると何かとても勿体ない気がするので、衝動に耐えながらもオレも身長の低い彼女の顔をじっと見つめていた。
 彼女は、何か戸惑っている様子だった。つい最近告白してから、彼女はオレのことを少し遠ざけるようにしていたと思う。あまり話しかけてこないし、態度もぎこちなくて、何だか申し訳ない気がして、こちらも彼女をこっそり避けるようにしてしまっていた。廊下の向こう側で見つけたら、別のルートを通って目的地に行くというふうに。おそらく彼女も妙な態度に気付いていただろう。余計に悩ませてしまったのかなとも思うが、本来ならば、彼女が悩む必要なんてこれっぽっちも無いのだ。
 彼女は、しばらくオレを見ていて、ふっと視線を下ろした。

「ねえ……リーベル。明日、暇かしら」
「え」

 オレは固まった。今の状況で、そんな台詞が彼女から出てくるとは予想していなかったからだ。
 真っ白になりかける頭を必死に引き戻しながら、明日のことを考えた。明日は、まだクラウストロ星には着かない。溜まっている仕事があるので、それを片づけようとはしていたが、それは星に着いてからこなしても問題は無い報告書の作成だった。

「は、はい……」
「本当?」

 彼女が、再びこちらを見上げてくる。その表情は、どこかほっとしているように見えた。

「はい。仕事ですか?」
「ううん」

 彼女はゆるく首を横にして、小さく肩をすくめた。そして、少し言いづらそうに目線をずらして、

「プライベートなんだけど……」

 と、消え入りそうな声で言った。思わず彼女の台詞に発狂しそうになったけれど、どうにか正気を保って次の言葉を待った。プライベートという単語ほど期待させられる言葉は他にないが、あまり過度に期待しても後で落ち込むかもしれない。こうやって無意識にストッパーをかけているのだから、自分は本当に傷つくことを怖れる駄目な奴なんだろうなとぼんやり悲しくなった。
 しばらく黙っていた彼女だが、意を決したように三度オレに目を合わせると、先ほどより大きい声で言った。

「ねえ、リーベル。一緒に、エリクールに行かない?」

 ―――― それから翌日までの記憶は、ほとんど残っていない。





 彼女は、シランドに行きたい、と言った。
 クルーは皆、なぜ今更エリクール二号星に戻る必要があるのだと怪訝な顔をしたけれど、マリアさんの表情が切実だったので、口をつぐんでエリクールに座標を合わせた。クラウストロに行くよりもエリクールに行く方が時間的に早かったこともあるかもしれない。無論オレの意見は「元リーダーの願いなのだから行くべきだ」というもので、お前ならそう言うよなと、後から兄貴ににやにや顔で言われて腹が立った。オレの意見なんてどうでもいい、重要なことは、あのマリアさんが意味深にエリクールに行きたいと言っているということなのだ。マリアさんは周りの空気を感じ取って、やっぱり遠慮しようかしらと言おうとしていたらしいが、オレが先回ってそれを阻止した。彼女は、こういう所がいけない。気が強くて人使いの荒い女性だと周りの奴らは見ているけれど、本当は繊細で傷つきやすい、周囲の顔色を窺ってしまう性質の人間なのだ。
 エリクール二号星に近づいた時点で、マリアさんとオレは転送されることになった。どうしてリーベルが行くんだという顔でクルーからは見られたけれど、それはオレ自身にも良く分からないので、答えようがなかった。マリエッタやスティングでも良かったのだろうにと思うが、それを言ったら「じゃあマリエッタにしようかしら」と返されるような気がして、口に出せなかった。たとえ振られても、好きな人と一緒にいたいのは、恋愛をしている人間の心理だろう。
 転送は一瞬だった。気がつけば、シランドという街中にいた。オレはこの星を歩き回ったことがないので、パネル上の地図しか知らなかった。今日になってから口数が極端に減ったマリアさんは、シランドの大通りらしき場所に着くと、すぐに歩き始めた。オレは彼女の後からついていくことしかできなかった。変わった服の人間が歩いていると思われるのが嫌だったらしく、彼女は、この星に来る前に、転送の際は船内服ではなく普段着を着用しろと言った。なのでオレは、首の三本線が隠れる長袖の灰色のシャツを着て、下には黒い長ズボンをはいていた。彼女も、彼女がリラックスウェアとして好んで着ている黒い長袖のワンピースを身につけていた。周囲を歩いているエリクールの人々の服もまた変わった様子だったが、どうにか街中に紛れることはできたらしく、特異な目で見られるということは無かった。
 歩いていると、人通りの少ない路地に入った。二階建ての木造建築が並び、じきに路地は下に降りる階段になった。長い階段を降りていくと、石畳が終わって、やや広がりのある芝生になった。あまり日当たりは良くないらしく、空気が少し湿っぽい感じがした。羽の生えた女性の像と、昔そこに神殿のようなものがあったと思わせる円柱が数本佇んでいて、朽ち果てて転がっている円柱は、長年同じ場所にあったように苔むしていた。芝生を突き進めば下方に湖を見下ろせる崖になっていて、マリアさんは、崖に近い場所に佇み、ぼんやりと水面を眺めているようだった。
 オレは、少し離れた場所で、彼女のことを待っていた。女神像のそばにいるじいさまが、不思議そうな顔でオレたちを眺めていたが、そのうち階段を上って消えていった。広場には、オレとマリアさんの二人きりになった。少し心臓がドキドキしていたが、彼女から漂う神妙な空気に、そんな馬鹿なことは言っていられないと自分を戒めた。何か、意味があるのだ。ここに来たことには、彼女にとって何か意味があるのだ。だからオレは、彼女から何か言ってくれるまで、円柱の上にとまって鳴いている鳥の声を聞きながら、彼女の青い髪が垂れる背中を見つめていた。
 どのくらい経ったか分からない頃、彼女は振り向いた。小さな笑みを浮かべて歩いて来ると、オレを見上げた。

「ごめんなさいね、リーベル」

 ここまで付き合わせて悪かった、という意味だろう。オレはかぶりを振った。彼女は前に流れてきた髪を耳にかけながら、その場にゆっくりと座り込んだ。湿った芝生で服が濡れてしまうのではないかと心配したが、そんなことは彼女も分かっているのだろう。戸惑いつつ、彼女の右隣に腰を下ろした。
 彼女の目鼻立ち整った顔がすぐそばにあって、頬がじわじわと熱くなっていくのを感じた。こんな時に不謹慎だと思いながらも、ほとんど反射的にそうなってしまうのだから仕方ない。たとえオレの顔の赤さに気付いたとしても、彼女は既にその理由を分かっているのだから、疑問視することも咎めることもしないはずだ。黙って彼女の言葉を待った。

「……ここね」

 微かな声で、彼女は呟いた。

「ここ、あの男の子――フェイトと、初めて自分たちのことを話した場所なのよ」

 フェイトという名を聞いて、オレの心はちくりと痛んだ。

「……そうなんですか」
「初めて、話したのよ。同じ境遇の人と、ようやく……」

 彼女はあくまで笑んでいたが、その目は悲しげだった。横で見下ろすオレの心は、じわじわと血を流し始めていた。醜い色の嫉妬心だった。もう嫉妬する資格すらないのに、まだオレはあの青年のことを憎んでいるのだ。青年は最終的にマリアさんのことを愛したわけではなかったけれど、それでも長い時間マリアさんの隣にいた男に強い嫉視を向けてしまっていたのは事実だった。マリアさんが悪いわけでも、フェイトという青年が悪いわけでもない、最も汚らわしくて卑しいのは、彼女の近くにいる男が全て敵に見えてしまうオレ自身なのだ。
 この、今にも溢れ出しそうな嫉妬心を彼女に悟られたくなくて、この場から逃げ出したくて仕方がなかった。オレは単純だから、すぐにボロが出てしまう。しかし、この場を離れるような真似はできなかった。彼女を置いていくことができないということももちろんあるが、それ以上に。

「マリアさん」

 訊きたいことがある。

「あの、どうして、オレなんですか」

 問いに、彼女はゆっくりとこちらを振り返り、不思議そうな目を向けた。オレはなるべく彼女と視線を合わさないように足下の草に視線を移し、後を続ける。

「その。マリエッタや……」

 言ったことで、後悔をするかもしれない。あなたじゃなくても別に良かった、と言われるかもしれない。しかし、疑問なのだ、どうしてオレと、最近振って振られたという関係である男と、二人きりで、こんな場所に来たのか。
 自分は傷ついても良いのだ。なぜなら、彼女に振られたという最大の傷を既に負ってしまっているのだし、これ以上の傷など大したものではないからだ。

「兄貴やクリフさんやランカーさん、ミラージュさんだって、ここに来られたはずでしょう? あなたと一緒に」

 視界の端でしか分からないが、疑問が通じたらしく、彼女はふっと顔をうつむかせたようだった。オレは気まずくて次の言葉を探していたけれど、自分からフォローを入れるのも変な気がするし、頭の中が混濁しているせいで新しい話題など出てこなかったので、沈鬱な空気が流れるこの場を、胃をきりきりさせながらやり過ごすしかなかった。
 しばらく気まずい時間が流れた後、彼女は口を開いた。

「そうね……」

 その肯定らしい台詞は、オレの心をざっくり切るのに十分だった。心の中に、血がみるみるうちに広がっていく。けれど船員までに嫉妬するのは嫌だったので、頭の中を白紙にさせることに必死だった。もう何も考えたくはなかった、何も……

「でも、あなたのことしか浮かばなかったの」

 ふとした言葉が頭に響いて、少し考えた後、え、と彼女を振り返った。彼女はうつむき、睫毛を伏せて、体育座りをした両足のつま先を眺めている。
 彼女の口から出た言葉を頭の中で反芻しながら、何だかとても狂喜乱舞したい気持ちに駆られたが、何事においても早まるのはよくない。いつからオレはこんな慎重になったのだろうと、自分でも感心する。おそらくこれは、本当にマリアさんのことが好きで、マリアさんに迷惑をかけたくないというのと、彼女に嫌われたくないという一心で芽生えた警戒心なのだと思う。
 彼女は口をつぐんでいたが、こちらに振り返ると、小さく微笑んでみせた。

「だって、あなたは、私のことを傷つけたりしないから」

 泣き出しそうな笑顔をしていた。

「…………ごめんなさい」

 なぜか謝り、彼女は唇を噛み締め、また顔を伏せた。オレは、彼女がどうして悲痛な顔をするのか分からず、頭の中は緊張と衝撃のせいで真っ白になっていた。今まで彼女がオレの前でこんな表情をしたことはなかった。オレが彼女のことを傷つけてしまったのかもしれないとも思った。水のせせらぎと鳥の長閑な鳴き声が響く中、彼女は沈黙し、オレは止まっていた。階段の方から子どもたち数人の声がしたが、「誰かいる」という一声で、再び元来た道を戻っていったようだった。
 彼女を見下ろしたまま停止していたが、どこかで、また何か喋ってくれることを期待していたのだと思う。しかし彼女は落ち込んだように顔を伏せ、上げてくれる気配も見せなかった。どのくらい時が経ったのか分からないが、だんだんと舞い戻ってきた理性を頼りに、オレは震えながら口を開いた。

「どうして、謝るん、ですか」

 ロボットが喋っているような口調になってしまった。そんな片言でも、彼女は聞き届けたらしく、少し身じろぎして、うつむいたまま答えた。

「だって私、あなたのことを利用しているわ」

 それは、痛々しいほど小さな声だった。

「……最低ね」

 最低という、自分を罵る彼女の言葉に、反射的に首を振る。

「最低なんかじゃない」

 だが、それは、彼女を好きゆえの、彼女は何においても悪くないとしてしまうオレの、いつもの癖から出た台詞だった。それは彼女にも分かったらしい、苦笑しながらオレを見て、首をかしげた。

「どうして? 私、あなたは私のことを好きでいてくれるから、傷つけることはしないだろうって、先読みしてあなたを連れてきたのよ。あなたの心を利用……いえ、侮辱しているわ。最低だわ、私」
「そんな」

 しかし、それでも、オレには彼女が悪いなどとはどうしても思えなかった。

「オレは嬉しいです」
「……どうして? だって私、あなたの気持ちに応えられなかったくせに、あなたを」
「そんなことで自分を責めて欲しくなんかない」

 自分の声が一生懸命であることに、オレ自身も気付いていた。自責の念を彼女から取り払ってやらなければならないと必死だった。

「あなたは、何も悪くない」
「リーベル……違うわ。私、ここに来て、感傷に浸りたかっただけなのよ。もう二度とここには来ないだろうと思ったから、想い出と決別しようって……。けれど、一人で来ることが怖かったのよ」

 彼女は笑顔を消し、落ち込んだように瞳に陰を差して、じっと前方を見つめた。

「私自身も、気持ちが渦を巻いていて、よく分からないの。
 けれど今、なぜか寂しくて、怖くて、悲しいの。寂しいのは、共に戦った仲間たちと一緒にいる理由が無くなったからかもしれない。怖いのは、また一人になるからかもしれない。悲しいのは、本当に彼らと別れたからなのかもしれない……
 とても一人ではここに来られなかった。ここは、この星には、私たちが守ったものが、たくさんあるから」
「……」
「だからって、リーベルに一緒に来てもらおうだなんて、ほんと、愚かよね、馬鹿よね。リーベルの気持ちを利用して……」
「マリアさん」

 オレは、泣きそうになりながら彼女に訴えかけた。

「オレは、あなたに利用されたなんて思っていない。もしあなたがそう思っていたとしても、オレは傷つかないし、つらくもない」

 彼女が、自分の隣で、自分のせいで、苦しげな顔をしているのを見ていられなかった。

「オレがあなたを頼ってくれて、嬉しいです。本当に、それだけです。あなたが寂しいのは当たり前だ、だってずっと一緒にいた人たちと離れなくてはならなかったんだから」

 本当は、こういう時に、彼女の心を一瞬で射抜けるような、ハッとさせられるような言葉を言うべきなのだと思う。けれど、オレはそんな立派な人間ではないから、彼女の心を鷲づかみにしてしまえるような語彙も、知識も、判断力も、何も持っていない。
 単純な自分には、思ったことをぶつけることしかできないのだ。

「ディプロの人たちがいるでしょうと言っても、あなたにとって、それはそういうことではないんだっていうことも、オレには分かります。あなたは、ずっとあのフェイトという青年を捜していた。あなたの希望はそこにあった。その青年と離れてしまった今、その希望が叶った場所にもう一度戻りたいと思うのは、当然のことだと思います。誰もあなたを責めたりはしません。兄貴だって、マリエッタだって……」
「そう……かしら」
「そうです。
 けれど、あなたは、ここに来て、一緒に付き添ってもらった誰かに“今更”と言われるのが怖かった。
 そうでしょう?」

 オレのこの言葉に、彼女は小さく肩を震わせ始めた。
 泣かせたのだ。
 気付いたオレの心は、一瞬で凍り付いた。

「……」

 泣かせたのだ。

「……マリ、ア、さん」
「ごめんなさい」

 掠れた、涙混じりの声が顔を伏せた彼女から聞こえて、ザッと全身の血の気が引いた。どうしようと焦っても、もう遅かった。彼女は小さくしゃくりあげ始めた。泣いているところを直接見たのは初めてだった。彼女は泣く時、いつも部屋に籠もって誰にも見られないようにして泣いた。オレが何か声をかけたくても、一切自分の領域に人を近づけさせなかった。オレは慰めることさえ許されていなかった。唯一彼女を慰めることが可能だったのは、クリフさんとミラージュさんだけだった。オレは、彼らのようにマリアさんの親のような立場の人間ではないし、単なる乗組員というだけの存在だったので、彼女の泣き声と二人の慰める声のする部屋の前で、ただ佇むことしかできなかった。ドアはすぐそこにあるのに、その部屋は、どうしても届かない、遙か遠くにある場所のように思えていた。泣いている声を聞いていても、オレは顔を見ることすら許されなかった。
 それが、今、その姿も、泣き声も届く、たった二人きりという場面の元で舞い降りてきた。手の届く場所で、彼女は小さくなって泣いている。しかし、いざとなると、頭の中には何も無かった。彼女への慰めの言葉も、気遣いも、仕草も、オレは何一つ持っていないということが分かった。クリフさんとミラージュさんは、泣いているマリアさんに一体どのような言葉をかけていたのだろう。いっそ、彼らにすがりたい気持ちになった。
 それに、オレがマリアさんを慰めていいのかさえ分からなかった。ディプロのただの同僚でしかない自分に、彼女をいたわるような資格があるのだろうかと。
 それでも。

「……マリアさん」

 今、ここには、オレ以外に彼女を慰めてやれる人間などいないのだ。

「マリアさん、泣かないでください……」

 何と言っていいか分からずに、月並みの台詞が出て、オレはがっかりした。彼女は、膝に頭を押しつけ、声を押し殺して泣き続けている。恋人たちなら、頭を撫でたり肩を抱いたりすることができるのだろう、しかし二人はそういう関係ではない。
 オレにできることは、つたない言葉を彼女にかけてやることだけだ。

「ごめんなさい、マリアさん。オレは、あなたを泣かせるつもりなんてなくて……」

 オレは、どうしてこんなにも無力なのだろう。

「ただ、その……
 あなたは、悪くない……」

 馬鹿みたいに、繰り返し繰り返し、大好きな人に、空っぽな言葉しか言えない。

「……悪く、ないんだ。だって、傷ついているのは、きっと、あなただから……」

 ごめんなさい、マリアさん。
 ごめんね。





「違うの……リーベル、違うのよ……」

 膝に顔を押しつけたまま、ひどい泣き声混じりで彼女は言った。相変わらず肩は震えていたが、先ほどより呼吸は楽になっているようだった。

「あなたが、謝る必要なんて、なくて……」

 オレは、もう何も言うことができず、ただ黙ってうつむいているしかなかった。これ以上何かを言って、彼女を余計に傷つけるのも怖かった。
 彼女は顔を上げると、両手の指先で懸命に涙を拭った。見ると、真っ赤になっている目が垣間見えて、オレの心はちりちりと痛んだ。泣いているのなら慰めてやりたいと常々思っていたが、好きな人の泣き顔を見ることほどつらいものはないのだと、今、分かった。
 彼女は一通り涙を拭い、小さく息を吐いてから、後を続けた。

「私……あなたに、好かれるほど、立派でも、優しくもないわ……
 こんなふうに、人の心を踏みにじって……」

 違う、とオレは声を上げたかった。もうオレは傷ついていない、怒っても、苦しんでもいないのだと彼女が納得するまで説明したかった。けれど、もう、彼女の中では、それが彼女の真実になってしまっているのだ。彼女は、まるで、あの神経質そうな青髪の青年のように頑固で、融通の利かない、どうしようもない人だった。だからこそ、彼女はいつでも苦しんでいた。強く聡明に見られがちな自分は決して弱くあってはいけないと言い聞かせるように、いつも張りつめていた彼女の空気くらい、オレには――ずっと想い続けていたオレには分かっていた。だからこそ、彼女のそばにいてあげたかった。そばにいて、彼女が押し込めている弱い部分を全て見せて欲しかった、苦しいならば、オレの前で吐き出して欲しかった。
 けれど、オレには、理由がない。彼女の傍にいる理由がないのだ。だから、いつも悲しくてたまらなかった。オレは絶対にクリフさんやミラージュさんのようにはなれない、彼女と同じ境遇にいるフェイトという青年にもなれない。オレは彼女にとって、彼らよりずっと遠い場所にいる人間だった。自分が彼女にしてあげられることは、彼女が安心してディプロに戻ることができる環境を作ってやること、それだけだった。
 それゆえに、こうやって彼女に頼られたことが、本当に嬉しくてたまらなかったのだ。

「マリアさん」

 彼女が自分自身を憎む理由など、どこにも無いのだ。

「オレは、あなたが好きです」

 言葉に、彼女はゆるゆると顔を上げて、充血して真っ赤になった目をこちらに向けた。不思議そうな顔をしている彼女を見て、オレは微笑んだ。

「好きです」

 彼女は睫毛を伏せて、小さな雫をこぼし、少しのあいだ黙った後、再び目を上げた。

「……リーベル?」
「あなたのことが好きです。
 だから、オレは、あなたと一緒にいられて嬉しい」

 そうだ、こんな、頑固で融通の利かない、どうしようもない人には――――

「好きだから、あなたがオレを頼ってくれたのが、嬉しい。
 今、二人きりで嬉しい。
 いつもは絶対に人前で泣かないのに、オレの前で泣いてくれて、嬉しい」

 きちんと、分かりやすく、ごく単純に、そしてまっすぐに真実を言ってあげなければならないのだ。

「ねえ、マリアさん。人を好きになるって、そういうことです。あなたのことを好きなオレにとっては、あなたが申し訳なく思っているその理由なんて、どうでもいいんです。
 あなたの全てがオレは好きなんですから。それ以外に、もう、オレは何も持ってない」

 彼女の顔が少しずつ赤らんでいるのが、可愛くて、面白くて、たまらなかった。オレもだんだんと顔が紅潮していくのが分かったけれど、気にせず、笑みを浮かべたまま喋り続けた。

「あなたが、ここにいるだけで、近くにいるだけで、生きているだけで、オレは幸せです。オレはまだガキだし、愛だとかそういうの、本当は分かっていないかもしれない。けれど、オレは、愛ってこういうことをいうんじゃないかっていう、ぼんやりした確信は持っています。
 曖昧な確信だから、あなたを納得させることなんてできないだろうけれど」

 本当は、その綺麗な瞳で。

「けれど、オレには。
 この先、あなたを愛せる自信があります。
 あなたをずっと想い続けられます。
 あなたを守っていきたいと思う理由が、その全てです」

 オレのことを見ていて欲しかった。
 この先の未来でも、ずっと。

「マリアさん。
 オレに気を遣わないでください。想いに応えられなかったと、自分を責めないでください。人の気持ちは変えられません。オレがあなたを好きでいることを変えられないように、あなたがオレのことを想えないという気持ちを変えることも、またできません。恋愛は、そういうものですから」
「……」
「ね、リーダー」

 ほとんど無意識に、草むらに置かれた彼女の右手を両手で取り、そっと包み込んで、彼女の泣き疲れた顔を見つめて、言った。

「あなたの苦しみを、オレに分けてください。
 あなたの全ての苦痛を受け止められるくらい、オレは、あなたのことが好きです。
 愛とは、きっと、そういうことをいうのだと思います」

 彼女は、驚いたようにしていたが、そのうち、また泣き出しそうになって、きゅっと唇を噛み締めながら、目から涙をこぼしていた。
 オレもなんだか泣きそうになって、少し目を伏せた。

「……マリアさん」

 両手で包んだ彼女の手は、なんて小さいのだろう。

「愛しています」





 彼女は、その後、しばらく泣いていた。支えを無くした彼女の身体を、オレは懐で受け止めていた。小さな肩が震え、小さな細い手がシャツを懸命に握りしめているのが、とても愛おしくて、悲しくて、つらかった。彼女の頭を撫でてやることも、肩を抱いてやることもできなかった。彼女は微かに声を上げながら、必死に呼吸を殺して泣き続けていた。
 彼女の泣いている理由は、実際のところよく分からなかった。きっと色々な気持ちが相まって、感極まって涙が出てしまったのだと思う。青髪の青年たちと別れたこと、共有するものが無くなったこと、使命を終えて空っぽになってしまったこと、真実を知って乗り越えなければならなかったものがたくさんあったこと、この先の未来に感じる終わらない不安と、今後自分はどう在ればいいのかという疑問、そして、オレの気持ちの扱い方が分からずに、密かに自らを責めていたこと。
 あなたが泣く必要はないのだ、だって、オレはあなたが好きなのだから。彼女の泣く姿を見下ろしながら、そればかり繰り返していた。我ながら、他に言える言葉は無いのかと呆れてしまったほどだった。けれど、声をかけるたびに、彼女が小さく頷くのが嬉しくて、たまらなかった。彼女は決してこの気持ちを厭がったりはしていないのだと分かれば、それだけで十分だった。
 彼女のことを好きでいてもいいのだ、愛していてもいいのだ。彼女の泣く姿を見て、声をかけることを、ようやく許されたのだ。彼女に自分の想いを伝えてよかったと心底思う。彼女が少しでもオレのことを意識してくれたのだから。

「マリアさん、好きです。
 好きだ」

 そう呟くたびに、彼女は頷く。決して同意を――同じ言葉を、彼女から得られることはないけれど、それが今の全てだというのなら、オレはもうそれで満足だった。何度言っても、繰り返しても、全て同じ重さの想いがこもっている「好きだ」という言葉を、彼女が今、受け入れてくれている。それ以外に一体何を望めるというのだろう。

「好きだよ」

 この言葉をあなたに言える、それだけで幸せだった。