視界は、暗い。

「うっ……わ、恐い!」

 ネルの背中を覆うようにして座り、手綱を引いているアルベルは、顔に当たる雪を鬱陶しく思いながら、雪と風の音に負けないように声を張り上げた。

「雪にぶつかるぞ。下を向いておけ」
「下を向いたら地上が見えるじゃないか」
「なら上でも向いてろよ。つうかお前、高いところは平気だろ?」
「平気だけど、こういう不安定な所はだめ……! それに、これは生き物だろ!?」
「ああ? よく聞こえねえ」
「もういいよっ」

 叫ぶなり両手でフードを押さえ、背を曲げて小さくなっているネルを見てアルベルはほくそ笑み、ぐっと手綱を引く。

「さっさと行くぜ」
「え、ちょ、は、早いって!」

 吹きすさぶ雪を物ともせず、飛竜は空を滑る。



 扉を閉めつつ、飛竜の見張り番は考えた。
 見張り番は、アルベルに寝酒を持って行った、あの兵士である。若いので、いろいろと雑用を任されている。アルベルが夜中に飛竜に乗りに来たことなどは、今まで一度もなかった。そもそも彼はそれほど飛竜の操縦が上手くない。しかも、何者かを連れていた。体型からすると女性だろう。手にはしゃれたランプ。先ほどコートを着て、見回りではないが外へ行くと言っていた。
 カルサアから来て帰れなくなったと話していたが、こんな吹雪の日に、女性ひとりが豪雪の外を歩き回っているだろうか? 帰れなさそうだと思った時点で、アーリグリフという国の人間なら普通、宿を取る。金がなかったのだろうか? 確かに、手荷物は全く見あたらなかった。仮に夜盗に会って荷物を奪われたりでもしたのなら、アルベルは彼女に金を渡せばいいだけの話である。

「夜盗さえ出ないよ、こんな雪じゃ」

 扉に背を預け、ずるりと座り込む。腕を組んで、考え込んだ。
 手ぶら。
 ランプ。
 コート。
 外。
 送る。
 送る、という選択。
 もしや、と見張り番は思う。アルベルが、こんな吹雪の夜にわざわざ飛竜を出して、行き場を失った女性を送るなどと考えるだろうか。城の召使いにでも頼み、一晩泊まらせてやればいいだけのことだ。つまり、女は城にはいられないということになる。早く帰らなければならない理由があるとしても、もうすぐ夜明けだ、明るい時間帯に動き回った方がましに決まっている。
 そして何より、あの女性は姿を隠そうとしていた――いや、アルベルが、彼女の姿が分からないようにさせたと見受けられる。

「……やっぱり!」

 見張り番は顔を輝かせ、ぽん、と手を叩いた。

「あの人か」

 答えを導き出したが、大して驚きもしなかった。



 ネルをカルサアの向こうまで送って帰った頃には、夜が明けていた。幸い雪は止み、朝日が見える。アーリグリフの人々が朝食を取り、動き始める時間帯だ。
 飛竜を塔に戻して階段を下り、城内へと入った。城の朝はとても早い。アルベルはぎりぎりまで寝ていることが多く、起きた頃には、あらゆる人々がせわしなく動いている。今日は珍しくアルベルが早起きをしているので、城の奴らに驚かれるだろう――そう思っていたのだが、何やら周囲の視線がおかしい。
 皆、にやにやしている。

「……?」

 二階のホールで、怪訝な顔をして佇んでいると、執務室から国王が現れた。アルベルの姿を見かけると、楽しそうに笑みを浮かべて、

「アルベル。聞いたぞ。ネル・ゼルファーが来ていたとな」

 ――は?
 アルベルは、目をまん丸くして国王を見つめた。頭の中が真っ白になる。
 そんな男の心境を知ってか知らずか、国王はひょうひょうと喋り始めた。

「ネル殿にお忍びでもさせているのか。やれやれ……お前という奴は。いくらなんでも気の毒だろう。別に隠すこともないのに、なあ?」

 国王の呼びかけに、いつの間に集まっていた聴衆が同時に「うん」と頷いている。

「私も挨拶をすべきだったのに、飛竜に乗って行ってしまったと見張り番から」

 国王が言い切らないうちに、アルベルは、足早にその場から歩き始めた。

「おい? アルベル?」

 国王の呼びかけにも止まらない。行く先は、あの螺旋階段の上。
 ――ぶっ殺す。
 耳の先まで熱くなった。



 その直後、城の最上階から、大地が割れるのではないかというほどの絶叫が響き渡った。



 しばらくの間、アルベルは誰ともまともに口を聞かなかった。城の中の兵士や召使いなどは、すれ違うことさえ恐れ、「アルベルは今日どこを通るのか」と出現率を調べたりしていた。が、それでも、一度目が合っただけで蹴飛ばされる男たちが絶えなかった。
 しかし、アーリグリフの人々は知らない。いや、知らないふりをしているだけかもしれない。
 月に一回あるかどうか分からない、真夜中の屋根の上で、密かな逢瀬を重ねていること。その状況だけは誰にも見つかるまいと、アルベルが細心の注意を払ってネルを隠していること。逢う理由などない。それでも逢わずにいられないこと。
 きっと、それは、いつまでも「なんとなく」のままだ。
 世にいる結ばれた恋人達の大半は、この不器用な二人を理解できないだろう。愛を囁くわけでもなく、身体に触れるわけでもない。星さえ輝かない暗い空の下、寒々とした空気の中で、人ひとり分の空間を空けて、淡々と他愛ない言葉を交わす。ふたりの間には小さなランプがあり、濁った光が足下に漏れ、時たま男はブリキの缶に紅茶を淹れて持ってきて、それを女にも分けてやる。ついでに毛布も持参し、さりげなく女の肩にかけてやるのだ。そのまま夜明け前まで屋根の上に座って、寒い寒いと言いながら、それでも部屋の中には入らない。同じ距離を感じて、同じ罪を背負って、いつまでも遠さを抱えて、いつ終わるか分からない不安をぬぐえず、それでも。
 同じ幸福を、ふたり、噛みしめている。