「ねえ、ネルは父親の死をどうやって乗り越えたの?」

 夜、アルベルが外の空気を吸いにペターニの宿屋の二階から一階に降りようとしたとき、そんな言葉がロビーから聞こえてきて足を止めた。もう時刻は真夜中で、皆すっかり寝静まっているだろうと踏んで部屋を抜け出してきたのだが(クリフのいびきがうるさくて眠れなかったのもある)、受付係すらいなくなったらロビーに人間二人分の気配があった。
 ネルに問いかけた声の主は、マリアだった。マリアはつい最近、ネルを憎むというアーリグリフの女性の暗殺に巻き込まれて毒殺されかけたところだった。ディプロの先進医療のおかげで無事に済んだものの、フェイトの勧奨によりパーティに復帰したネルは依然自分自身を許せないらしく、夜中にマリアを呼び出して謝ることでもしていたようだ。
 因果があるにしても珍しい組み合わせだなと、アルベルは彼らから死角のところで佇み、二人の会話を聞くことにした。

「お父様もネルと同じ職業に就いていたと聞いているわ」
「職業……職業なのかな、これ」

 苦笑交じりのネルの声が聞こえる。

「死を乗り越えたのかどうかは分からないな、未だに。でも、父親が死んだと知らされたとき、自分でも驚くくらい動揺しなかったんだ」
「そうなの?」
「いずれそうなるだろうという覚悟はあったから。ただ、実際に父がウォルターとの戦闘時に死を覚悟していたかどうかは分からない。実力はほとんど互角で、ずいぶん長く戦っていたようだから」

 予測で話しているのはシーハーツ側の目撃者が誰もおらず、アーリグリフから派生した噂やウォルター自身から聞いた話しかネルは知らないからだということだった。
 マリアは、とりわけ感動もない調子で相槌を打った。

「ふうん。お父様はどんな方だったの?」
「どんな……うーん、あまり深く考えたことはないんだけど、ちょっと変わってたかな」
「変わってた?」
「ああ。娘の私も感心するくらい美人で綺麗な男の人だったけど、淡々としていて表情が少なくて、周りからは冷たい印象を持たれていたみたい。まあ、実際は冷静なだけで、性根の優しい人だったけどね。人と必要以上の関わり合いを持たないだけで」

 妻が病死したあと数年間は、クリムゾン・ブレイドのせわしない仕事の中で男手一つでネルを育てていたほどだし、父親としての面倒見はよかったという。体調を崩しかけたあたりで、リーゼルという彼の従姉弟にあたる女性が後妻になった。彼女はシランドでいまだ健在だ。

「正直、若くして母親が亡くなったときの父の姿は痛々しくて見てられなかった。淡白なぶん、家族愛に自分の全てを注いでいた人だから、食事も受けつけなくなって、ただでさえ細すぎるくらいなのにどんどん痩せ細って……でも、国の重役に就いているから、無理矢理に自分を奮い立たせていた。
 実母が亡くなったのは私が八歳のときだったんだけど、父の悲惨な姿を見ていたから、私が父の跡を継がなくてはと決心したんだ。とにかく父のことを助けたかった。早く強くなって、父の仕事を代わってあげなくてはと……」
「そうなの……大変だったのね」

 先ほどに比べれば同情交じりにマリアが言うが、それでも淡白に聞こえるのは、もはや彼女の性格だった。
 二人とも少し沈黙したのち、再びマリアから口を開いた。

「ネルは、お父様のことが好きだったのね」
「ん? あ、ああ……そうだね。亡くなったとき動揺しなかったって言ったけど、悲しかったのは当たり前だからね。今でも会いたいなと思うよ。仕事で行き詰ったときとか、悩んでいるときとか、父なら答えを出してくれると考えると」

 どうやら、そこで会話は切り上げられたらしい。マリアは「話してくれてありがとう」と短く礼をネルに言い、階段を上ってきた。ロビーから死角の位置にいたアルベルの姿に気付いて、あら、と声を出す。

「盗み聞き?」
「いや……水を差すのもどうかと思ってな」
「そう。ごゆっくり」

 意味深な言葉を投げかけ、マリアはさっさと自室へと戻っていった。
 さて、とアルベルは嘆息する。ネルが上がってくるまで待つべきか、彼女の前を横切って外に出るか――考えている間に階段を上ってくるだろうと思ったが、なぜかネルは現れなかった。不思議に思い、ゆっくり降りていくと、ネルは階段の下で腕を組んで佇み、こちらを見上げていた。かろうじて階段脇に一つだけある小さなオイルランプが彼女の無表情を分かるようにしている。
 何か用事があるのだろうかと怪訝に思ったが、自分から話しかけるのも変な気がして、そのまま彼女の前を横切ろうとした。

「私の父は」

 アルベルが目の前に来たとき、ネルは待っていたかのように口を開いた。

「あんたの国の人間に殺された」

 それは単調で、感情のない声音だった。
 アルベルは立ち止まって振り返り、彼女と同じく無の表情で紫の瞳を見つめ返した。

「けれど、父が殺されたのは戦争が理由だった。だから仕方のないことだと割り切っている」

 彼女の言いたいことが何なのかよく分からず、反応は見せないまま耳を傾ける。ネルは、ふとアルベルから視線を反らし、全く関係のない明後日の方向を見て続けた。

「それでも私はあんたと剣を交えるのだろうと思っていた」

 アルベルは片眉を上げた。

「恨みを晴らしたいのならウォルターを相手にしろよ」

 いくら戦争が理由で集団責任だからと言っても、仇が生きているのであれば当事者を指名すればいい話だ。どうしてそこで自分の名が出てくるのだとアルベルは少し不快に思った。そして彼女が依然何の感情も表さないことに苛立ちを覚えた。

「年寄りだが今でも現役の軍人だ」
「私は憎かったんだ、あんたが」

 男の言葉を無視し、ネルは淡々と告げた。

「シーハーツにもともとあった噂の先入観もあるかもしれないけれど、アルベルは殺戮を楽しむ非常な男だという考えが私の中にあった。卓越した戦闘能力を持っているが、その心は冷酷で、非道で、武器が血を吸うことを楽しんでいる人間なのだと。私は許せなかった。そんな野蛮な人間が生きている国の者に父が殺されたなんて、父を侮辱されたような気がして」

 アルベルは彼女の華奢な横顔を見つつ、沈黙していた。その面の中に少しでも感情的な変化がないだろうかと探っていたのだが、何も見つからなかった。あまりに不動な姿が人形のようにも思えてくる。
 ネルは、いつからこんな人間になったのだろう。もし軍人でなかったら、もっと明るくて健やかな人間だったのだろうか。殺め合う苦しみや、寂しさや空虚さなど知らず、平和な街に住むごく一般的な女性と同じ暮らしをしていたのだろうか。その方が、武器を持つには優しすぎるネルにとっては心穏やかだったはずだ――そう考えて、アルベルは密かに苦笑した。このような空想など何の意味もないというのに。
 だが、ネルはアルベルにそう思わせるのだ。本当にあるべき彼女の姿はどのようにあるのだろうと、探させるのだ。

「でも」

 ネルはアルベルを再び見て、

「あんたは、そんな恐ろしい人間ではなかった」

 言う。アルベルは瞠目し、正直に怪訝な顔をしてみせた。

「へえ……意外だな。そちら様の大半の人間は、俺のことを野蛮かつ残忍だと思っているようだが」
「あんたは正しい」

 その言葉は真っ直ぐに届いたが、どこか悔しさ混じっているようにも響いた。
 アルベルは平然を装いつつも、心の中ではかなり動揺していた。まさかネルが、このプライドの塊のような女性が、初っぱなから敵視していた男にそんな評価を下すとは思っていなかったからだ。万が一、心の中でそう考えていたとしても、それを表に出すのは軍事に携わる国民としての威信にも関わるはずだ。
 アルベルの中で、ネルは歪の男に容易に心許してはならない存在だと思っていた。それは、どこかで彼女を想っている自身の中で矛盾している事実だったのだが、それでも彼女の誇り高さは揺らいではいけないもののような気がしていた。
 不穏を感じ取るアルベルの心情にはまったく気付かない様子で、ネルは後を次いだ。

「少なくとも、おべっかを使う貴族どもや、手を汚さないまま高慢な態度を取る人間たちに比べれば。
 私はあんたの正しさを心のどこかでうらやましいと思っている。私は正しさが何かを知っていながら理論的に考えることを拒む時がある。軍人にあるまじき行為だと思いつつも、それを止めることができない時がある。武器を握ることさえ迷っている自分もいて、そんなとき、いつも私は父を想っていた。父は、冷静な人だった。父ならばこんな時どうするだろうと考えれば答えが分かった。
 ――でも」

 ネルは無表情のまま瞼を伏せ、

「父は、死んだ。軍人として。軍人の誇りを守りながら」

 暗い声で呟く。

「その事実を突きつけられるたび、私は父にはなれないのだと思い知らされる。父の正しさも、あんたの正しさも、沈着さも、理性も、私はどうしても持つことができない。感情が先走って取り乱してしまう。あんたの姿を見るたび、私は軍人としての自分に劣等感を抱くんだ。まるであんたが父のように映って」
「父?」

 咄嗟にアルベルは聞き返していた。強い苛立ちが生まれる。まさかネルが彼女の父親であるネーベル・ゼルファーの影を自分に重ねているとは考えてもみなかったのだ。
 馬鹿にするなと心の中で唱えながら、アルベルは憎悪を隠しきれずに唸った。

「屈辱だな、敵国の男に重ねられるとは」
「……」
「俺と剣を交えたいのならいつでも相手をするぜ。どうせ俺が勝つが」
「あんたは正しい」

 なぜか、ネルはそう繰り返した。同じ言葉を耳にしても、驚きより遥かに怒りが勝り、この不快感から逃れるために女の前から立ち去るか、あるいは無理にでも口を封じてしまいたいと考えた。しかし彼女を傷つけたくないがゆえに衝動を抑え込む。
 男の葛藤などつゆ知らず、ネルは冷徹にも感じられる態度で言葉を紡いでいく。

「だから本当は、あんたみたいな人間が生き残るべきなのだと」
「ふざけるなよ」

 刹那的に、アルベルは遮っていた。女をきつく睨みつけ、吐き捨てる。

「俺はお前がどう思っていようがどうでもいい人間だが、“俺にお前を憎ませるな”よ。俺は他人の感情を押しつけられることが大嫌いなんだ。
 お前がしていることはただの責任転嫁だろ。自分は被害者ですみたいな顔をして、不幸な感情の中にいる原因は俺だとぬかしてやがる。クソが、独りで自分を哀れんでろ」

 憤怒が渦巻き、アルベルは冷たい目でネルを一瞥してから立ち去った。ネルの表情は無のまま凍りついていて、宿屋のドアを乱暴に閉めたあともアルベルの目には残像として残り、怒りでたまらず近くにあった金属製のゴミ箱を蹴り倒した。がらんがらんと大きな音を立てて転がり、中身が街路に散乱したがかまわなかった。
 大股で街路を進んだあと、立ち止まって空を見上げる。晴れ渡った夜空には美しい星々が輝いていた。

「俺に重ねているだと……?」

 今度は怒りよりも頭がくらくらするような絶望感が募り、言い知れぬ悲しみが心にわき上がった。