「ミラージュさん」

 ディプロ艦内にある休憩室の自動ドアが開き、突然、ソフィアがぴょこんと中に入ってきた。
 それほど広くはないが、空調は整えられている部屋の中で雑誌をめくっていたミラージュは、顔を上げ、目を丸くしながら、何の前触れも無しに訪れた少女の姿を見る。

「あら、ソフィアさん」
「あ、あの、今大丈夫ですか?」

 そう言えば突然お邪魔してしまった、と慌てて申し訳なく思ったソフィアが、まずかったかなと言うように右手で口を塞いだので、ミラージュは微笑を浮かべながら首を横に振った。

「ええ、ちょっと休んでいただけですから。
 ところで、何だかいい香りがしますね」

 ソフィアの左手には白い皿がのっており、その上には香ばしい甘い香りのする小麦色をした何かが山積みになっていた。
 ソフィアは得意げに頷くと、おずおずとミラージュの前に歩み出で、その皿を両手でずいと差し出した。

「これ、クッキーです。ミラージュさんも召し上がってください。
 さっき、マリエッタさんに許可をもらって、台所を貸していただいて」

 皿の上には、食べきれないという程の四角いクッキーが、甘いメープルの香りを漂わせていた。ミラージュは、まあ美味しそう、と口の中で呟いて、嬉しそうな顔をしているソフィアを見上げつつ、ふふっと微笑した。

「許可だなんて、かまいませんよ。こんな美味しそうなクッキーを作って下さるのなら、いつでもキッチンを使っていただきたいですね」
「本当ですか?」

 ソフィアが、このディプロ内にある台所を借りた理由は、エリクールだと電気やガスオーブンが無く、かまどで菓子を焼かなければいけないからだということだ。一度、工房で試してみたことはあるのだが、火力の加減が分からず、焼き上がる頃には焦げた臭いを通り越して、菓子の材料全てが灰になっていた。
 そんなソフィアの言い訳を聞いたミラージュは、ひとまずソフィアを自分の前の席に座らせてから、それは気の毒でしたねとクッキーを一枚取りながら頷いた。

「時折、文明とは素晴らしいものだと感じますね……」
「はい。ディプロならクッキーも焦げませんし」

 悪戯っぽく笑い、ソフィアもクッキーを一枚手に取る。そして二人して同時に頬張ると、先にミラージュが感激したように目を瞬かせた。

「ま、美味しい……! こんな美味しいクッキー食べたことないわ。ソフィアさん、お菓子を作るのがお上手なんですね」
「本当ですか? 嬉しいです!」

 小さい頃からいつも作ってたから、とソフィアは顔を赤らめながら両手を前に合わせた。
 そんなソフィアの姿を見て可愛らしいわねと思いつつ、ミラージュは、もう一つクッキーを指先で取る。

「みんなにも、さっき食べてもらったんです。この量の倍以上作ったのに、クリフさんがすごい勢いで食べてくれて……」
「ああ」

 やや呆れて、ミラージュは苦笑した。

「クリフ、可愛い女の子が作ったものには目がないですから」
「うふふ……。マリアさんも、珍しく食べてくれたんです。普段はあんまり甘い物……というか、食事も取らないのに」
「そうなんですよねえ。マリアは、昔から少食だから」

 言いながら、さくさくと口の中に放り込んだクッキーを噛むと、優しいメープルの甘さが口いっぱいに広がる。先ほどミラージュがソフィアを褒めたのは、世辞ではなく、本気でこれ以上のクッキーはないというほどの美味しさだったからだ。
 ミラージュの、どこか諦めたような台詞を聞いたソフィアは、少し驚きながら聞き返した。

「やっぱり少食なんですか? マリアさん。充分細いのに……」
「そうね、クリフも食べろ食べろって普段から言ってるんだけど、ディプロに来た頃からずっと、あまり食べないの、彼女」
「そうなんだ……。
 実は、みんなも心配してるんです。時々、宿屋の朝食に来ない時もあるし」
「あら、それはいけないわ。私から言っておきますね」

 彼女の生態に慣れきっているミラージュは、あまり心配していないように言ってクッキーをまた一つ手に取った。
 今、ソフィア以外の他のメンツも同じディプロ艦内にいるが、ここに来た理由は、艦のメンテナンスに急遽クリフとマリアが呼ばれたからだった。一緒に来たフェイトは寝不足のため一室借りて爆睡していて、アルベルは慣れない環境に居心地悪さを覚えたらしく、ソフィアのクッキーを味見した後にどこかへ行ってしまった。ネルは、ディプロ艦内にいることは変わりないが、何をしているのかは誰にも分からないだろう。

「……フェイトとアルベルさんも食べてくれたんです。アルベルさんは甘い物がそんなに好きじゃないから、無理しなくていいって言ったのに、何も言わずに一つ食べてくれて」

 ネルさんに申し訳ないんですけどね、と言いつつも嬉しげな笑顔でいるソフィアを眺め、ミラージュは微笑みながら頬杖をついた。

「彼は、優しい人ですね」
「はい、そう思います。
 フェイトは、昨日あんまり寝てなくて、お部屋を借りて寝ちゃったんだけど、寝る前に、美味しそうだねって言って食べてくれたんです。フェイトは昔から私のお菓子を食べてくれていて、滅多に合格点はもらえないんだけど、今日はすごく美味しいって言ってくれて、じゃあミラージュさんも美味しいって言ってくれるかなと思って……」

 恐縮そうに身を縮めて言うソフィアに、ミラージュはいつになく大げさな声を出してみせた。

「ええ、とても美味しいですよ、ありがとう、ソフィアさん。後で艦内のクルーにも分けてあげたいのだけれど、いいかしら?」
「え、あ、はい! もちろんです。まだ食べ切れないくらいあるし……」

 皿にのった大量のクッキーを眺め、ソフィアが感激しながらこくこくと頷く。
 皿に残るこのクッキーが二人分というつもりではなかったことに心の片隅で安堵しつつ、ミラージュは、ふと思ってソフィアに問うた。

「ところで……ソフィアさんは、ずいぶんとフェイトさんのことを慕っているようだけれど、彼との付き合いはもう長いんですよね?」

 訊かれたソフィアは、一瞬何を言われたのか分からなかったようで目をぱちくりさせたが、彼女の台詞の中の"慕っている"という言葉に、頬を紅潮させた。

「えっ、あ、し、慕ってるって……
 その、フェイトは、幼なじみなんです。だから、小さい頃から一緒にいました」
「やっぱりそうなの。なんだかね、フェイトさんが、ソフィアさんの前だと、どこかくつろいで見えるから」

 興味深げなミラージュの視線を受け止めながら、ソフィアは少しの間考え込み、

「くつろいでる、のかな……私には、よく分からないんですけど……
 もしかしたら、私がフェイトの前だとくつろげるから、フェイトもそう思ってくれるのかもしれません……」
「そう」
「昔から一緒にいるからかなあ……フェイトも、わりと素の自分を出してくれるかも……
 フェイトは、いつもそういう感じの男の子ですけどね」

 だから人見知りをする自分にとってはフェイトのような性格が羨ましい、とソフィアは続ける。

「私はいつも後ろからついていくような感じでした。もちろん一緒に遊んだりすることもよくあったけど。
 それでも、フェイトは前にいてくれたかな。私が困ってる時も助けてくれたし、やっぱりフェイトの方がずっと大人で……」
「そうなの。ソフィアさんにとっては、フェイトさんはとても大切な存在なのね」

 思慮深く言うミラージュに、ソフィアは素直にこっくりと頷いた。

「はい、きっと。フェイトがいたから頑張れたことも、たくさんありました」
「そう……ソフィアさんは、フェイトさんが好きなのね」

 ミラージュの言葉に、ソフィアは指の先まで真っ赤になったが、ミラージュは決してからかいでそういったことを言う女性ではないと分かっているソフィアは、心臓がバクバクと音を立てるのを感じながらも、ゆっくりと、確かめるように、もう一度頷いた。

「はい。
 一度、フェイトが、私のことを守ってくれたことがあるんです」
「守ってくれた?」
「はい」

 ソフィアは静かに目を伏せて、先ほどよりは落ち着いた声音で、続けた。

「昔、私とフェイトがバカンスで海に行ったときのことで……」

 休暇中、保養惑星ハイダに訪れるのは、フェイトとソフィアそれぞれの一家にとっては恒例となっていた。
 紋章遺伝子学の研究で日々忙しい両親が、せっかくの休暇だからとフェイトも連れてくるのだが、フェイトがそれにあまり乗り気ではないのもソフィアは知っていた。フェイトと両親は特別仲が良いというわけではなく、フェイトにとっては、休暇中は友人達と過ごす方が楽しいらしい。それでも付き合うのは、フェイトが両親を想っているからだともソフィアは分かっていた。
 リゾートホテル内に、家族ぐるみで一週間の宿泊。ソフィアは普段からフェイトに会っているので、彼と顔を会わせることにそれほど新鮮味は感じていなかったが、美しい海で朝から晩まで泳げる最高なビーチがあり、二人で遊ばないわけにはいかなかった。このハイダの海で泳ぐことは、ソフィアにとって楽しみな恒例行事だった。ここに来た日から、もう二日連続で海で遊んでいて、その次の日は、さすがのフェイトもソフィアもぐったりしてホテル内で過ごし、そのまた翌日、ソフィアがフェイトに海で泳ごうという提案をした。朝、一緒に食事を取っている時点では、フェイトは「またあ?」と不満げだったが、リゾート地に来て何もしないのも癪だったのだろう、午前中からビーチでのんびりしようという話になった。ちなみに両親たち四人は、昨日の夜から洞窟探索に行くと言い、今日の夕方頃に戻ってくる予定だった。
 ホテル一階にある更衣室で水着に着替えれば、そのままビーチに出られるようになっている。ソフィアは、水色の地に白いドット模様がついている可愛らしいビキニを身に着け、砂浜を踏みながらビーチに出た。明るい空ときらきら光る水面が目に眩しく、ビーチには朝から泳ぎに来た先客がいたが、数はそれほど多くは無かった(おそらく皆そろそろ泳ぎ疲れが出ているのだろう)。目線を降ろし、自分の足が砂浜を踏んでいくのを見ながら波打ち際まで数メートルのところまで行くと、左手からフェイトの声がした。

「ソフィア、こっち」

 顔を上げて振り向くと、海パンとライトブルーのティーシャツを身に付けたフェイトが、さくさくと砂を踏み締めながらやって来た。

「今日は波が静かだね。ま、保養惑星だから、その辺は操作できると思うけど」

 ソフィアが彼の側まで走っていくと、フェイトは彼女の隣に立ち、片手でサンシェードを作って海を見た。

「でも今日は早めに切り上げよう……僕もう筋肉痛で死にそう」
「フェイト、いっつも運動ばっかりしてるのに、もう筋肉痛?」
「使わない筋肉使うんだって、水泳は」

 肩をばきばきと鳴らしながら、フェイトは嘆息した。無理をして欲しいわけではないソフィアは、海に行こうと誘ってしまったことに罪悪感を感じつつ、それでも他にすることがないからと気を取り直して、両手を組んで背伸びをした。

「頑張ろうよ、疲れたら切り上げるって条件で」
「そうしよう」

 フェイトも気を取り直し、準備運動のために脚を伸ばそうと腰を降ろして膝に手をかけた時――はっと思いついたように姿勢を正した。

「やば、僕、ロッカーの鍵、閉め忘れてきたかも」
「えっ?」
「ごめん、ソフィア。ロッカーに財布が入ってるから、ちょっと見てくるね」

 慌てた様子でフェイトが言うので、ソフィアは「急いで」と頷いた。自分はここで待っているというソフィアの言葉を確認してから、フェイトは更衣室に向かって走り出した。
 遠ざかっていく姿を見送りながら、ソフィアは、ひとまずその場に腰を下ろし、砂の上に体育座りをした。キラキラと輝く水面を眺めながら、膝の上にあごをのせる。
 休暇中いつも訪れるハイダのホテルのプライベートビーチは、ソフィアには見慣れた景色だった。たまに別の観光地に行くこともあるが、フェイトの両親がこのホテルのお得意様らしく、色々な優待券やら割引やらを受けているそうだ。さすがにソフィア一家も誘われたら断れず、どうせなら安価な方にあやかろうと毎年ここに来ているわけだが、最近のフェイトは、あまり楽しそうではなかった。
 そのことをこっそり母のキョウコに話したら、「きっと思春期なのよ」という、お決まりの文句で返された。確かにそうかもしれないが、思春期真っ直中にいる当人達にとっては、その言葉の意味はいまいちよく分からないものだ。
 休暇中たった一週間この星にいるだけで、他の日ともなればフェイトは友達の家でゲームしてバスケやらしてるだけじゃない、とソフィアは不満げに口を尖らせながら、ぼんやりと海を見つめ、フェイトが戻ってくるのを待っていた。すると、背後に何やら気配を感じ、ソフィアはフェイトが帰ってきたのかと思い、ぱっと振り返った。
 まず脚が見え、上へ上へとたどっていくと、フェイトではない、ひとりの若い男が立っていた。金髪でスタイルのいい、顔は良くも悪くもない男だったが、ソフィアには見覚えがない。
 ソフィアがきょとんとしていると、男はにっこりと笑い、ソフィアの左隣にしゃがみ込んできた。

「君、ひとりなの?」

 ナンパのようである。
 ソフィアは警戒し、身をすくめた。

「あ……あの……
 ひとりじゃないんです、けど……」
「え、でもひとりじゃん」

 どさりと、砂に腰を下ろしてくる。

「なんか後ろ姿が可愛いからさあ」

 長い金色の前髪から、同じく淡黄色をした瞳が覗く。とても綺麗な目だとは思ったが、顔が怪しく微笑しているため、ソフィアには気味悪くしか映らなかった。

「顔も見たいなーって思って。思った通り可愛いね」
「え、い、いえ、あの……」
「っていうか君をここに放っておくツレってどうなの?」

 信じられないよ、と男は呆れたように首を左右に振った。

「オレだったら君のこと、こんな場所に置き去りにしないんだけど」
「あ、で、でも、私、待ってるだけなんで……」

 ソフィアが恐怖で立ち上がろうとすると、男は強い力でソフィアの腕を掴み、それを引き留めた。
 掴まれた部分から、ソフィアの全身に怖気が走る。

「もうちょっと話そうよ。ツレが来るまででいいからさあ」
「あ、あの、やです」
「あのさー、大きな声出すと襲っちゃうよ?」

 くくく、と喉の奥で笑い、青ざめているソフィアの顔を眺め、男はニタニタと笑った。

「君ってすっごいスタイルいいよねー」

 男の浮かべている笑みが気持ち悪く、ソフィアは離れようと必死になって腰を浮かせるのだが、ぐいぐいと下に引っ張ってくる男の力にソフィアが勝てるはずもなかった。左腕が掴まれていて、左手が使えない。使える右手で男の手を剥がそうと力を込めるが、逆に男が痛いくらいに腕を握り締めるので、ソフィアは顔をしかめてしまう。

「いっ……た」
「あ、ごめんね。でも君がどっかいっちゃうと、オレすごく寂しいんだよね」
「本当に離し……いっ……」
「君の腕細いねー」

 感情のない声で言い、男が更に手に力を入れてくる。骨が折れてしまうのではないかという程の痛みに、ソフィアの目元に涙が溜まった。

「うっ……ほ、ほんと、痛」
「あーごめんねー。でもちょっと触りたいんだけど、いいかなー?」

 妙に語尾を伸ばして言いながら、男が即座に手を背中に回した。戦慄したソフィアが男から逃れようとする前に、背中にある水着のブラのホックに手をかけられる。ブツンという音がしたと同時、今まで押さえつけられていた胸が軽くなるような感じがした。
 ソフィアは蒼白になり、とっさに前屈みになった。

「……!?」
「うわ。その姿エロ」

 ぷっと吹き出しながら、男は面白がって言う。

「前なんか隠さない方がいいよ。だってご立派じゃん?
 出してた方が男も寄ってくると思うよ? 冷たいツレなんかよりよっぽどいいのがさあ」

 この男は痴漢なのだと確信したソフィアは、目から涙をこぼしながら懸命にかぶりを振った。

「うっ……や、めてくださいっ!」
「うっせえよ」

 急に口調を変え、男はギリギリと掴んだ手に力を込めながら、低い声でソフィアの耳元で囁く。

「でけぇ声出すとここで犯すぞ」

 小さく縮こまったソフィアはガタガタと震え、外された水着をひたすら押さえつけるのに必死だった。
 助けて。
 そう声を出したいのに、恐怖と痛みで声で出てこない。男は気持ち悪い動作で背中を撫でながらも、周りにいる人々の視線を気にしているようだった。生憎、今日はそれほどビーチに人が出ていないため、丁度ひとりでいたソフィアに目をつけて行為に走ったのだと思われるが、このような場所で痴漢行為をする男の心理が全く分からない。
 このまま誰も気付かずにいたら、この男に何かされるのは目に見えている。何か叫ばなくてはと思うのだが、血流を止められた左手がどんどん青白くなっていくのを見て、ソフィアは泣きながら掠れた声を出すことしかできなくなった。

「う……ほ、んと……や……」
「ははっ、何泣いてんの?」

 小馬鹿にしたように男は嘲笑し、いきなりソフィアの外れた水着をとぐい引っ張ると、ソフィアの胸元からそれを引き抜いた。その反動で、ホックが腋の辺りを傷つけていくのを感じ、また「痛い」と悲鳴を上げると、男は面白がってけらけらと笑った。

「うわーエロいねーかわいいねー。泣いてるのもかわいいねー」

 上半身が裸になってしまい、ソフィアは胸を隠すために背中を丸めた。

「え、てか、前も見たいんだけどさー。見せてくんない?」

 言いながら、男がソフィアの肩を起こそうと、今度は肩を掴んで後ろに押すように力を入れてくる。
 ソフィアは泣きながら懸命に抵抗した。

「イヤですっ!!」
「でけぇ声出すなっつってんだろうがよ!!」
「やだ……や、フェイト!!」

 そう、彼の名を呼んだ瞬間だった。

「っ、がっ」

 男が急に声を上げ、ソフィアの肩から手を外した。ソフィアは何が起こったのか分からず、ただ震えて縮こまった。
 どさりと何かが倒れる音が聞こえ、砂が舞い上がったのか、ソフィアの脚もとにザラリと大量の砂がかかった。その直後、ソフィアの両肩に誰かの両手が乗ってきて、びくりと身体を震わせると、聞き覚えのある声が耳元でした。

「ソフィア、大丈夫、僕だ」

 フェイトの声だ。
 ソフィアは途端に顔を上げ、自分の顔もとに来たフェイトの顔を見ると、安堵したようにどっと涙を流した。

「フェイト……!!」
「ちっ……ツレかよ」

 フェイトに蹴られたらしい、近くに倒れた男はそう舌打ちすると、死ねよガキなどと汚い言葉を吐きながら、慌てた様子で砂を蹴ってその場を逃げていった。
 ソフィアは前を押さえつけているため身動きすることができず、依然ガタガタと震えてフェイトに身を寄せると、フェイトは来ていたティーシャツを素早く脱いで、これを着て、とソフィアに差し出した。

「あいつ、ソフィアの水着を持っていったみたいだ」

 怒りのこもった声でフェイトは呟き、ソフィアが震えで上手くシャツを着られないのを後ろから手伝った。すっかり上半身をシャツで隠すと、ソフィアは両手の甲で涙を拭いながら、礼を言おうと口を開きかけるのだが、しゃくり上げてしまって上手く声が出なかった。
 フェイトはソフィアの身体を抱きしめて、落ち着かせようと髪を撫でた。

「ごめん……! ソフィア、僕が離れたのがいけなかったんだ……」

 財布なんてどうでもいいものなのに、と悔やんだ声を出すフェイトに驚き、ソフィアはフェイトの腕の中でぶんぶんと首を振った。

「う、ううん……」
「本当にごめん……
 ……あ、これ!?」

 フェイトはハッと驚愕して、ソフィアの腕にできた大きな紫色の痣に手を触れる。

「これ、あいつにやられたのか!?」
「う……うん」
「なんてひどい、痛かっただろ!? 本当に許せないなあいつ!
 とりあえずちゃんと手当しないと」

 立てるか?とフェイトが訊いてくるのでソフィアは頷き、フェイトの手を借りながらその場に立ち上がった。ティーシャツを着ていても、胸がすかすかするため前は押さえたままである。
 まだ脚が震えていて上手く歩けず、フェイトに肩を支えられながら、更衣室への方へと連れていってもらった。その間にもフェイトが何度も自分の迂闊さを悔やみ、安心させるよう声をかけてくるので、ソフィアもだんだんと落ち着きを取り戻した。更衣室で着替えている余裕などなく、ホテルの従業員に事情を話し、荷物は後ほど持ってくるように頼んで、ソフィアとフェイトは泊まっている自分の部屋に水着のままで戻った。

「腕の他に、どこか怪我したところあるか?」

 ひとまずシャワーで砂を落とし普段着に着替えたソフィアの腕にシップを施したフェイトは、心配そうに眉をひそめてベッドに腰かけているソフィアに尋ねた。ソフィアは、そういえばブラを外された時に腋の辺りをホックで引っかかれた、と説明したが、まさかフェイトに治療してもらえる所ではないため、後で自分でやると言うと、フェイトはソフィアの頭を優しく撫でながら頷いた。

「そうか。も、ごめんなソフィア、本当に……」
「ううん、大丈夫。何かされる前に、フェイトが来てくれたから」
「充分されてるよ!」

 怒りで目をつり上げて、フェイトは声を荒げた。

「許せないよ、あの男。水着も盗っていったし、蹴っただけじゃ全然足りない!」
「うん……」

 無理矢理剥がし盗られた水着が、まだあの男の手の中にあると思うと鳥肌が立つ。
 ソフィアが不安そうな顔で俯くのを見て、側に立っていたフェイトはその場にしゃがみ込み、今度はソフィアを下から覗き込んだ。そして、瞳に怒りを宿しながら、

「大丈夫、僕が取り返してくるから」
「えっ」

 フェイトが真面目な顔をして言うのを聞き、ソフィアは、強い目で見つめてくるフェイトに目をまん丸くして、慌てて両手を振った。

「い、いいよ、危険だから!」
「平気さ。気持ち悪いと思ったまま休暇を過ごすなんて、あんまりだろ?」
「で、でも」
「僕だってあの男にソフィアの水着に盗られたままなんてイヤだよ。水着をどうするか分からないし。
 ちゃんと取り返してこないと」

 フェイトが立ち上がり、踵を返そうとするので、フェイトのシャツをとっさに握り締め、ソフィアは必死にかぶりを振った。いくらフェイトの運動神経がよくても相手は犯罪者だ。あの男が何を持っているのか分からないし、無事に済むとは思えない。

「フェイト、いいの、私は大丈夫。フェイトが怪我しちゃう方がもっと嫌だよ」

 また涙目になって声を上げるソフィアに、フェイトは苦笑した。

「僕は大丈夫。これでもけっこう喧嘩に強いんだから。
 ホテルの人には事情を話してあるし、いざとなれば助けてもらうからさ」
「フェ、フェイト」
「大丈夫」

 またぽんぽんと髪を撫でられる。

「とにかく変質者がこの近くにいるなんて、ただ事じゃないだろ? みんなが不快な思いをしてバカンスを台無しにするなんて勿体ないさ。
 あいつに報復するしないは別にしても、とりあえず、あの男はさっさと見つけないと」


 きっと水着もあいつが持ったままだ、変態なんだから、とフェイトが意気込んで言うので、ソフィアも返す言葉を失ってしまう。
 不安になって口を手で塞ぎ、ぽろぽろと涙を流し始めるソフィアを眺めながら、フェイトは優しく笑った。

「ソフィアは臆病で優しいから、なかなか大きな声も出せなかったんだよな。
 今度何かあったら、僕のことをすぐに大声で呼んで。僕がソフィアを助けに行くから」

 手を握り締め、ね、と念を押してくるフェイトに、ソフィアは小さく頷いた。それを確認すると、フェイトは踵を返して部屋のドアの方へと向かった。ソフィアが思わず立ち上がると、フェイトは振り向き、持っていたソフィアの部屋の鍵をかざしてみせた。

「これ、ここの部屋の鍵。ちゃんと部屋に置いておくから。外から入ってくる人なんて、誰もいないからね」

 言いながら、ドアの近くにあるフックに部屋の鍵を引っかける。次に、窓の方を指差し、

「それから、窓は全部鍵を閉めてあるよ。ここは四階だから、誰も入ってこられないけどね」

 と、肩をすくめて説明する。だから誰かが入ってくることなんて絶対ないから、と自信を持って言うフェイトの優しさに、ソフィアはポロポロと涙を流しながら何度も頷いた。

「……うん……!」
「じゃあ、僕は行ってくるよ。ホテルの人と一緒に探すから、怪我することもないよ。安心して。
 僕が戻ってくるまで、できれば部屋を出ないでね」
「うん」
「じゃあね」

 ドアノブに手をかけ、ソフィアの顔を最後まで確認しながら、フェイトはゆっくりと部屋のドアを閉めた。オートロックなので、内から、または外から鍵で開けない限り、ドアは絶対に開かないようになっている。
 ソフィアはフェイトが出て行った後もしばらく立ち尽くし、不意に、全身の力が抜けてベッドに腰かけると、腋に走った痛みに目を細めた。

「痛……」

 先ほどの男の、背中を撫でる感触が未だに離れず、ソフィアの恐怖が舞い戻ってくる。気持ち悪い笑みが脳裏をよぎると、ソフィアは叫び出したくなった。
 だが、フェイトに手当てしてもらった左腕のシップを眺めると、ふと、心が落ち着いた。
 なんて優しい男の子なんだろう。心が震えてソフィアは目を閉じた。フェイトは全く悪くない、財布と鍵のために更衣室に戻ることを咎める人はいないし、悪いのは、あのいやらしい男と、男に襲われたときに恐怖で助けてと言い出せなかった自分なのだ。
 今度はフェイトへの感激と自己嫌悪で涙が溢れてきたが、とりあえずもう一つの箇所を手当しなければと思い、ソフィアは部屋にあった救急セットを取り出して、ドレッサーの前で治療し始めた。



 夕方になってもフェイトが帰ってこない。
 ベッドの上で小さく丸まっていたソフィアは、進む時計の針を見つめながら、じっと考え込んでいた。まだ両親たちが戻ってくる気配もなく、連絡もなく、誰かが部屋のドアをノックすることもなかった。だんだんと不安になってきて、部屋の外に出てフェイトを探したい気持ちに駆られるのだが、もし入れ違いになってしまえばフェイトが不安がるだろう。それに、外に出るのがまだ恐ろしいという気持ちもある。
 あの変質者は見つかったのだろうか、それともまだなのか、あるいは見つかったのか、フェイトに何かあったのか……と考え込んでいるうちにどんどん不安になってしまい、ソフィアはベッドから起き上がって立ち上がり、またベッドに戻って腰かけたり転がったりということばかりを繰り返していた。携帯電話で連絡を取ろうとしたら、部屋の中から音がして、確認するとフェイトが更衣室から持ってきた荷物の中に彼の携帯電話が入っていた。いつもは身に付けているのに、今回は浜辺に出ていたということと変質者がいきなり現れたと言うことで、そこまで気が回らなかったのだろう。ホテルのフロントにも電話で聞いてみたのだが、先ほどかけた時は、まだ変質者は見つかっていなかった。
 もう暗くなっていたので、ソフィアは電気を付けなければと思い、ベッドから立ち上がって大きな窓ガラスにロールスクリーンを降ろした。それから部屋の電気をつけ、ふう、と溜息をつきながらベッドの端に腰かけた瞬間、コンコンとドアからノック音が聞こえて、ソフィアは反射的に身体を起こした。

「は……はい!」

 呼びかけると、ソフィア、と名前を呼ぶ声がした。フェイトである。
 ソフィアは慌ててドアの方へ駆け寄り、覗き穴で向こう側にいるのがフェイトであることを確認すると、急いで鍵を解除してドアを開けた。
 そして、驚愕した。立っていたフェイトは、傷だらけだったのだ。

「フェイト!?」

 驚愕して口を塞ぎ、フェイトを部屋の中に誘導する。ドアが閉まると、フェイトはソフィアに小さな不透明のビニール袋を差し出した。

「はい、これ」

 いつもと同じ、ごくごく普通の調子で言い、フェイトはソフィアの手のひらに袋を置く。その重さと入っているものの感じから、それが盗られたソフィアの水着であることが分かった。

「フェ……イト」

 彼の顔にも、いくつかの擦り傷がついている。

「どうしたの……?」
「実はそれ、崖の上にあってさ」

 ソフィアを見つめ返したフェイトは、平然として、ひょいと肩をすくめた。

「あいつ、ホテルの人と協力して探したら市街地の方で見つかったんだけど、水着が無くて。水着はどこにやったんだよって問いつめたら、崖の方に捨ててきたって言われて」
「が、崖?」
「海ぎわの岩場だった。そこに少しのあいだ隠れてて、ふとした弾みに水着を落としたらしいんだ。で、見に行ったら、あいつの言ったとおりソフィアの水着が落ちてて、あいつは、もう取れないと思って諦めたんだろうけど、僕はどうにかすれば取れそうだと思ったから、取ってきた」

 海の潮で汚れた顔を拭いながら、フェイトが説明する。よくよく見れば、手の甲も腕も傷だらけだ。海の潮に触れれば軽い傷でも数倍は痛くなるだろうに。
 ソフィアの目が、みるみるうちに涙でいっぱいになった。

「フェイト……」
「大丈夫、あいつ、すぐに事情聴取になったから。ソフィアにも来て欲しいって言われたんだけど、でもソフィアもそんなことしてたら疲れちゃうだろ? だから後日でいいですかって言っておいた。一応、僕も証人だしね」

 もう安心していいよ、と頭を撫でてくるフェイトを見つめて、ソフィアは顔をくしゃりと歪ませた。持っていた水着を力いっぱい握り締めて、震える手で口を塞ぐ。

「ごめん、ごめんね……!」
「うん?」
「ごめんなさい、こんな水着のために、フェイト……本当にごめんなさい!」

 大量の涙がこぼれてきたので、ソフィアは袋を手に持ったまま両手で顔を覆う。
 フェイトは困ったように笑いながら、ソフィアの肩を軽く抱いた。

「どうしてソフィアが謝るんだよ? 何も悪いことなんてしてないだろ?」
「でも、でも……!」
「水着が見つかって良かった。男も捕まったし、これで安心だよ、ね」

 髪を撫で、フェイトはソフィアの頭にこつんと自分の頭を寄せた。

「明日は父さんたちもいるし、みんなでいっぱい遊ぼう」

 フェイトの優しい、囁くような低い声音に、ソフィアは何度もしゃくり上げながらフェイトの言葉に頷いた。
 本当に優しくて、他人のことを思い遣ることのできる人。いつも助けてもらってはいたけれど、こんなにも自分のために奔走してくれることなど初めてだった。いや、もしかしたら自分が普段同じくらい助けられていることに気付けていなかっただけかもしれない。怪我をして、散々駆け回って疲れているだろうに、ソフィアが今回のことでどれだけ傷ついて、どれだけ悲しかったかをこの幼なじみの彼は分かってくれているのだ。だからこそ、ソフィアがどうすれば安心するのか、慰められるのかも全部理解していて、かけてくれる言葉も丁寧で優しいのだ。
 本当にこの人が自分の幼なじみで良かった、自分はこの人の側にいられて良かったと、ソフィアは強く思った。そして、ずっとこの人の側にいたい、自分はこの男の子にたくさんの恩返しをしなければならないと、そのとき心に誓ったのだ。





「ふうん……」

 ソフィアの話を聞いていたミラージュは、うっすらと微笑を浮かべながら、小さく相槌を打った。

「フェイトさんってば、格好いいんですね」

 ミラージュの感心したような口ぶりに、ソフィアは嬉しそうに頷く。

「はい。
 私、フェイトのことが大好きなんです。この人の側にいられたらいいなあっていつも思う。でも守られてるばかりじゃいけないから、今度は私がたくさんお返ししてあげなきゃいけない」
「そうね。けれど、私が見ている限り、フェイトさんはあなたに救われていると思いますよ」

 先ほどまで黙ってソフィアの話を聞いていたので、息抜きにとクッキーを取って食べながら、ミラージュは言った。

「ソフィアさんと一緒にいる時のフェイトさんって、とても自然で楽しそうなんですもの。戦いの中で疲れている時の……そう、たぶん、癒しというやつではないかしら?」
「い、癒し?」
「ソフィアさんがフェイトさんのことをよく分かっているように、フェイトさんもソフィアさんのことをよく分かっている。きっとあなたたちは互いに必要な存在なのでしょう。それに、幼なじみだなんて、そう滅多にいないものですよ」

 だからその関係でいられることに誇りを持ちなさい、とミラージュが満足げに続けると、ソフィアはこっくりと頷いた。

「はい……支えてあげられたらいいなと思います」
「ええ、あなたならできるわ」

 そのとき部屋のドアが開き、二人が振り向くと、そこにはマリアが立っていた。マリアは初めミラージュに声をかけようとしたらしいが、前にソフィアが座っているのを見て、開きかけた口を一度閉じた。

「……あら」
「どうしました、マリア」

 マリアはソフィアから視線を戻し、ミラージュを見て、やや困惑したような表情を浮かべた。おそらく、ミラージュとソフィアという珍しい組み合わせに戸惑っているのだろう。

「取り込み中かしら」
「いいえ、ソフィアちゃんからクッキーをいただいたの」

 にっこりと笑い、ミラージュが言う。マリアは思いついたように「ああさっきのクッキーね」と頷いて、

「邪魔したのならごめんなさいね。
 ミラージュ、私から休憩しててと言っておいて悪いけど、会議室のパネルが上手く作動しないの。あなたの方が得意だわ、ちょっと来てくれるかしら」

 マリアが会議室の方を指差しながら言うので、ミラージュは「あらあら」と立ち上がった。気を遣ってかソフィアに目配せしたが、ソフィアはパタパタと手を振って自分のことにはかまうな、と合図した。
 それでは、とミラージュは先に出て行ったマリアに続いて休憩室を後にした。
 残されたソフィアは、エアコンの音だけが静かに響く部屋の中で、急に話し相手がいなくなった少しの寂しさのせいで溜息をつてた。まだひとりでは食べきれないほど皿の上に残っているクッキーを見つめながら、先ほどの会話を思い起こす。

 きっとあなたたちは互いに必要な存在なのでしょう

(……フェイトも、そう思ってくれてるのかな)

 どこか漠然とした不安が姿を現す。
 フェイトは、星々を移動し始めてから変わったとソフィアは感じていた。普通の、どこにでもいるような男の子だったのに、知らず知らずのうちに――ファイトシミュレータではない――本物の剣を持って、立ち塞がる敵を切り裂いている。それは自分にも言えることだが、クリフやミラージュ、ネル、マリア、アルベルたちと出会い、彼の心は確実に"ソフィアから離れていった"。
 フェイトは、かつて依存性が強かった。それほど真面目に勉強しているタイプでもなく、学校を抵抗無くサボるような子だったし、その割には両親の血もあってか成績が良く、何かとフェイトに振り回されているソフィアは苦労してばかりだった。明日の予定はなんだ、今度は何をすればいいのかと、年下であるソフィアに何でもかんでも聞くような素振りもあった。だが、面倒見の良いソフィアは、仄かな恋心も相まって、フェイトにそれほどきついことを言うことができなかった。それではいけない、甘やかしてはフェイトのためにならないと何度も思ったが、フェイトに嫌われたらどうしようと思うと、容易に叱ることもできなかった。ソフィアは、自分のそんなところが嫌だった。
 大人になったらちゃんと言える人間になろうと心に誓ったこともあるが、その前に、彼は別の頼れる仲間たちに出会ってしまった。前に比べれば、フェイトはソフィアがいなくても問題のない人間になっているだろう。ソフィアは、それが不安でたまらなかった。いつか「お前など必要ない」と言われてしまう日が来るのではないかと思ってしまうのだ。
 フェイトが一番頼りにしている、自分の代わりになりうる可能性のある人――そう。

(マリアさん……)

 フェイトがマリアを頼っているのは目に見えていた。何も分からない自分に比べ、マリアは非常に頭が良く判断力もあり、何より固い信念のようなものを持っている。気丈で冷静沈着、そのうえ戦闘能力も高く、クォークのリーダーまで務めているのだ。フェイトにとって頼り甲斐があるのがどちらかと言えば、マリアに決まっているだろう。いくら遺伝子操作を受け、ただならぬ力を持っているとしても、人間としてはごく一般人にすぎない自分が、マリアの立場まで成長できるとは思えなかった。
 そう考えるたびに、心が沈んだ。いつかフェイトは自分を置いて、別の頼れる人間の側に行ってしまうのではないかと。

「もっと、強ければよかったのに……」

 自分でも悲しくなるような声で言いながら、ソフィアは机に両腕を置き、そこに顔を伏せた。
 強くなりたいとは何度も思った。そのための努力は惜しまないとも誓っている。だが、常に前を進み続けるあの女性はあまりにも強く、自分とは違いすぎた。戦闘に出ても、ディプロにいても、仲間同士の話し合いの時でさえ、ソフィアはマリアに劣等感を感じずにはいられなかった。
 フェイトは、いつかマリアのもとへ行くのだろうか。

「強ければ……」

 僻む自分に嫌悪を覚え、じんわりと涙が出てきて、ソフィアは目を拭った。こんなところで泣いてはいられない。自分は、自分にできることをやるしかないのだ。
 ソフィアは立ち上がり、クッキーの皿を持ってその部屋を出た。ミラージュに頼まれたように、このディプロ内にいるクルーたち、それからまだ試食をしてもらっていないネルに、このクッキーを食べてもらおう。自分にできることはそんな些細なことしかない。しかし、そんな些細なことで喜んでくれる人がいるのなら、自分はいくらでもできることをやってみせる。
 そんな自分を、きっと優しいフェイトは拒みはしないだろうから。