家のドアを開けると、台所に佇む寂しげな母の後ろ姿が見えた。
 肩胛骨のあたりで切り揃えた真っ直ぐな銀髪。腰をきつく締める暗い色のロングドレス。派手であることを好まないせいか、身に付ける装飾品は普段から少ない。
 少年は、雪が轟々と吹き込んでくる玄関のドアを閉め、玄関に敷いてあるマットで濡れたブーツの底を乱暴に拭い、手に紙袋を抱えたまま母親にそっと近づいた。ぱちんぱちんという暖炉の木の弾ける音が、左手の方から聞こえてくる。
 少年は、母の斜め後ろに立ったが、母は振り返らなかった。
 トントンと単調なリズムで包丁を動かす母親の背中をじいと眺めていたが、髪に被っていた雪が室温になって溶けて水となり、それが頬の上を滑っていったと同時、少年は意を決して話しかけた。

(母さん)

 少年の、何かを求めるような声に、母は振り返った。美しい、だがどこか冷たく感じる紅色の瞳が、ゆっくりと少年を見下ろす。
 恐ろしいほど整った顔立ちだった。生まれつき色素が作られにくいという希な体質のせいか、肌の色は雪のように白く、瞳は血のように赤かった。人形がそのまま人間の等身大になったような女性だと少年は思っていた。自分の母なのにそんなことを思うなんてと罪悪感を抱いたこともあるが、それでも少年には、この女性が母ではなく、どこか他人のような気がしてならなかった。
 だから、自分が家に入ってきても呼びかけても、母がなかなか振り返らないのは、もしかしたら自分が彼女の実の子ではないからかもしれないと疑問に思って、父親に尋ねたことがある。すると父は笑って、そんなことはない、お前は俺たちの子だよと言い、不安がらないようにと戸籍まで取り寄せ、見せてくれた。書類を確認すると、確かに自分は共に住んでいる父と母の子だった。それでもどこか納得いかないという面持ちをしていると、父は苦笑しながら、お前の瞳と肌を見てみなさい、その瞳の紅と肌の白は確実に母から受け継いだものだろう?と言った。確かにそうかもしれないと少年は思った。この国では日があまり照らない気候のせいで、色白な者が多いが、自分ほど白い人間はなかなか見かけないような気がした。滅多にいないと言われる色素のできにくい体質を受け継いでいるというのなら、同じ体質を持つこの女性の子であると考えた方が、まだ腑に落ちた。
 雪より冷たく美しい、母の顔を見上げながら、少年は手に持っていた大きな紙袋を掲げた。

(母さん。野菜、買ってきたよ)
(まあ、アルベル。どうもありがとう)

 そう礼を言うとき、母は、一般的な母親と変わりなく微笑する。綺麗で、凛としていて、町の者に言わせれば、どこか取っつきにくさを感じさせる笑顔だった。冷酷さを感じるためか、周りからの評判はあまりよくなかったが、それでも少年は、その母の笑顔が何よりも好きだった。無表情の母親は、まるで子どものことなど知らないような女の顔をしていたから、笑顔でいてくれた方がずっとましだった。
 少年から紙袋を受け取り、母は、あまり新鮮ではない野菜と保存食の芋を中から取り出した。野菜は近所の食料品店から買ってきたもの、芋は倉庫から少年が見繕ってきたものだ。
 このカルサアという街は、通常アーリグリフの城下町よりは積雪が少ないのだが、今冬は例外で、国土全体が積雪に見舞われていた。アーリグリフの城下町では、すさまじい降雪量により凍死者が何十人も出ているという有様で、国全体が深刻な食糧難となっていた。避難勧告によりアーリグリフから移動してきた人々も大勢いたが、そんな中、カルサアにまで雪が降るようになってしまい、もう二週間ほど降り止んでおらず、このカルサアで凍死者が出るようにまでなった。
 雪に閉ざされたアーリグリフの食料は極限まで減り、結局、アーリグリフの難民達はカルサアの食料庫を頼ることになった。二重の供給を求められるカルサアも同じく食糧不足に悩むことになり、鉱山は閉鎖され、仕事も無く、人々はただ家の中に籠もって雪がやむことを静かに待っていた。
 国がそんな危機に瀕している間でも、少年の心は平静だった。人々が雪が降る地域に勝手に町を作っただけだ、この国のどこにいようが、雪に悩まされることには変わりない。今更何を騒いでいるのだろうと、お遣いの帰路を辿っている間、冷めた目で雪に覆われた町を眺めていた。
 雪と共に生き、雪と共に死ぬのも、この国に生きる者の運命。
 父のその言葉が、少年の心にひっそりと宿っていた。
 母が野菜を水で洗い、夕食のために使い始めるのを見てようやく安心した少年は、台所の近くの木製テーブルの椅子を引き、そこに腰掛けた。父親の先代から大事に使っている、古びた焦げ茶色のテーブルだった。
 少年はそこに両腕を置き、顔を伏せて、母親の後ろ姿を見た。包丁を使っている手が揺れると、母親の身体と一緒に、さらさらとした銀髪が微動した。雪でもない、鉱石でもない、まるで絹糸のように滑らかな髪だった。触ってみたいと思っていたが、どこか遠慮があって、物心ついた頃から触ることができなかった。時折、母が鏡の前でその髪を結う姿を見かけるのだが、その母の姿も他人のような雰囲気を纏っていて、少年は遠くから見つめることしかできずにいた。
 母の髪を遠慮なく触れるのは、父だけだった。少年の父は母親に比べれば陽気で、人なつっこい性格をしていた。友人も多く、仕事仲間からも好かれているようだった。明るくて社交的な父が、どうして母親のような物静かな女性を選んだのか、少年にはよく分からなかった。以前なぜなのかと問うたことがあるが、その時、父親はけらけらと笑いながら答えた。それは大人になれば分かる、愛の前では性格なんて関係ないんだ、と。おそらく父は、少年の知らない母の一面を知っているのだと思われる。
 少年は、テーブルに顔を伏せたまま、母に言った。

(ねえ、母さん)

 母は、振り返らずに答えた。

(なあに)
(父さんは、今日、帰ってくる?)

 少年の問いに、母は一瞬手を止めたが、再び野菜を切る手を動かした。

(なぜ、そんなことを訊くの)
(だって、父さん、もう一週間も帰ってきてないよ。お仕事だから仕方ないけど、一週間も僕たちのことを放っておくなんて。雪もやまないし、僕だって母さんだって毎日大変で、寂しいのに)

 すると、不意に、母親の手の動きが止まった。
 しばらくの間、母が作業を再開する気配がなかったので、少年は不思議に思い、伏せていた顔を上げた。
 母は、包丁を手に持った状態で静止している。

(……母さん?)

 少年が呼びかけると、母は身体ごとぐるりと振り返り、包丁を手にしたまま少年を見た。
 少年は、こちらに振り返った母親の顔を見て、戦慄した。
 母は、煮えたぎる血のような瞳を少年に向け、今まで少年が見たこともない憎しみに歪んだ鬼の形相をしていた。

(あなたが殺したのよ)

 少年は雷が落ちたように身体が強張るのを感じた。

(あなたが殺したのよ、アルベル)

 母さん?

(あなたが、パパを殺したのよ)

 母さん。

(私の愛する人がどうして死んだか知ってる?)

 母さん。
 やめて。

(グラオを殺したのは)

 やめて。

(あなたなのよ、アルベル!!)

 やめて!
 母さん!!





 ガシャーン

「……え?」

 何かが割れる音がして、宿屋の一室で読書をしていたネルは、ふと顔を上げた。
 ネルは片手に持っていた本を閉じ、それをベッドの上に置くと、ベッドの上からブーツを履いて降りた。音の正体が気になり、部屋のベランダを出て二階からシランドの町中を眺めてみたが、街の住人たちは何事もない様子で歩いているだけだった。休日の晴れた日には散歩に出たい者が多いのか、街にはいつもより人が歩いていたが、今の音に対して変わった様子が見られないということは、音はどこかの家の中からしたものだと思われる。
 ネルは考え込み、自分のいる室内を見た。ソフィアと同室だが、彼女はフェイトやマリアと一緒に工房へ向かっている最中だ。ネルの部屋の左隣は外壁で他の部屋はなく、右隣をひとつ挟んで向こう側が仲間の男たちの泊まっている部屋である。この宿はシランドの中でも小さい宿で、二階には三室しか部屋がない。なんとなくだが、戦場にいた経験があり慎重さで耳が良くなっているからだろうか、今の音はこの宿屋の内部からしていたような気がした。かなり大きな物音だったので、破片が床に散らばるほどの割れ方であるとは予測できる。もしクリフが何か失敗して割ったとしても、もしそうなら直後に悲劇を嘆く大声が聞こえているはずだ。すると、仲間内で他に考えられる人物はアルベルなのだが――

(でも、まさかねえ……)

 ネルは部屋をうろうろしつつ、考えた。もし、アルベルが部屋の備品を割ったとしても、そこに自分が干渉する意味があるかどうかだ。もし彼が原因だったとしても、余計な面倒ごとには巻き込まれたくないし、本人もネルを巻き込みたくないだろう。壺やガラス戸を割ったとしても、ネルが様子を見に行ったら心底嫌な顔をするに決まっている。まあ、宿の備品を壊したとなると弁償しなければならないし、今ネルが行かなくても、後々フェイトとマリアが激怒するだろうが……

(……ああ、やだやだ!)

 そこまで熟考して、ネルはぶんぶんと頭を振った。第一、身内の部屋から――いや、宿屋内から先ほどの音が聞こえたと決まったわけではないではないし、いちいち余計なことを考えてしまうからいけないんだ自分は、とベッドに腰掛け、先ほど読んでいた本を手に取って開いた。自分は関係ない、何かを割ったのが自分だというわけではないのだから―― そう憤慨しながら本の続きを読もうとしたのだが、うっかり栞を挟み忘れてしまい、どの辺りまで読んだのか分からなかった。
 ええと、どの文章だっけ、とネルが本とにらめっこを始めたとき、再び先ほどと同じ音がして、ネルは反射的に立ち上がった。
 間違いない、この音は宿屋の中からしている。それほど大きい物を割っているわけではないようだが、どうやらわざと割っているらしい。
 ネルは足早に部屋を出て、廊下を進み、隣の部屋のドアを抜かしてもうひとつ向こう側のドアの前に立った。耳を澄ますと、中からカチャリカチャリという音が聞こえた。割ったのは、どうやら身内の男のようだ。
 ネルは、ノックをせずにドアノブに手をかけた。押し下げ、扉を少し押すと、鍵はかかっておらず、中に入れた。そのまま勢いよくドアを向こう側に押しやると、部屋の中心に、ひとりの男がしゃがみ込んでいるのが目に入った。
 男は、ネルが入ってきたことで瞬間的に顔を上げた。

「……」

 紅の瞳を長い前髪の合間から覗かせ、こちらを驚いた様子で見る男の前には、部屋の手鏡と壁掛けの鏡を割ったらしき破片があった。

「……アルベル?」

 ネルは怪訝な顔をしながら中に入り、男の前まで来ると、その破片を見下ろした。鏡の破片は、ただ割っただけというには粉々な状態になっており、まるで砂のごとく粉砕されている部分は、力一杯踏み砕かれたようにも見えた。
 アルベルは、ネルの存在を初めて知った人間のように、驚愕の目でネルを見上げている。ネルは、上から凄みをつけて言った。

「あんた、一体何してるんだい?」

 ネルも同じくしゃがみ込み、前にいるアルベルに向き直った。アルベルは視線を逸らすと、破片を片づけようとしていた右手と義手を力なく下に降ろした。
 様子がおかしい。この男なら、まずネルが勝手に部屋に入ってきたことに対し怒りの言葉を吐き捨てるはずだ。ネルは眉をひそめながらアルベルが何か言うのを待っていたが、彼はうつむいたまま唇を噛んでいるだけだった。
 ネルは、怒りを覚えながら低い声で言った。

「これは、この宿の鏡だろう? こんなことをして、一体どうしたんだい? 二回も音が聞こえたんだ。これは、あんたがわざとやったんだね?」

 アルベルは、微動だにしなかった。

「何があったんだい? 宿屋に後で弁償しなきゃいけなくなるよ」
「……」
「フェイトたちもカンカンに怒るよ」
「……」
「ねえ、あんたさ……ムシャクシャして鏡を割ったとしても、それは大の大人の行為としてどうなの?」
「黙れ」

 急に、アルベルが唸るような声を出した。ネルは「なにそれ」と眉を寄せる。

「私の言ってることが間違ってる?」
「黙れクソ女」

 最近は滅多に使われなくなった蔑称で呼ばれ、ネルは憤慨した。

「なんなの……?」

 声は怒りに震えていたが、アルベルは、ネルから顔をそらす態度を一切変えなかった。いつもは痛いくらいに真っ直ぐな紅い目で見つめてくるというのに、そこまでネルの存在が気に食わないというのだろうか。
 ネルはアルベルの右腕を掴んで揺すった。

「あんたさ、いくらなんでも幼稚だよ? 私が何か変なこと言ってる? 間違ってる? この行為がみんなに迷惑かけるってこと、あんた分かってるよねえ!?」
「黙れっつってんだろ!!」

 叫ばれ、ネルは一瞬身をすくめた。本気と思われる憎悪の声はひどく恐ろしく、とうとうこちらに向けられた瞳は、まるで氷のように冷たい静かな怒りに満ちていた。

(歪のアルベル)

 ただ事では、ない。

「……出て行け」

 アルベルは、今度はネルの顔を凝視しながら、そう厳かな声で吐き捨てた。ネルは恐怖で身体が震えているのが分かったが、なぜか彼の腕を掴んだ左手は外せなかった。
 ネルが固まってしまったのを見て、アルベルは義手でゆっくりとネルの手を腕から遠ざけた。そしてネルの腕を掴むと、その場から勢いよく立ち上がった。その反動で、ネルの腕が上に思いっきり引っ張られる。

「い、痛いっ」

 思わず悲鳴を上げるが、それでもアルベルは容赦しなかった。引きずるようにネルを部屋の入り口まで持って行くと、そのままネルを廊下側に放り出し、大きな音を立てて部屋の扉を閉めた。ネルは慌ててドアノブをがちゃがちゃといじったが、すでに鍵がかけられていて中には入れなかった。
 しばし、ドアの前に佇み呆然としていると、廊下の向こうからクリフがやってきた。

「ネル? 何してんだ俺たちの部屋の前で」

 近くまで来てネルを見下ろしてきたので、ネルは振り返った。

「いや……」
「部屋に誰もいないんか? アルベルは?」

 不思議そうに言いながらドアノブに手をかけようとするので、ネルは慌ててクリフの腕を掴んだ。

「あ、今は」
「え?」

 ネルがドアを開けるのを拒んだので、クリフはひとまず腕を引いた。だが、彼にとってここは自分たちの泊まっていた部屋である。クリフは怪訝そうにネルを見た。

「どうした? 何かあるのか?」
「今、入らない方がいいかもしれない。というか、入れない」
「は? なんで」

 一応ここは俺たちの部屋なんですけど、とクリフは口を尖らせるが、ネルが深刻そうにしているので、戸惑いがちに問うた。

「アルベル? フェイト?」
「アルベル」
「まじでか」

 クリフはドアのすぐ横の壁に背をつけて、腕を組み、訊いた。

「一体どうしたんだ?」
「分からない。鏡を割ってた」
「鏡?」

 なんで鏡なんか割る必要があるんだ?とクリフが首をかしげるので、ネルはドアを見つめて肩をすくめた。

「知らない」
「鏡が落ちて割れたんじゃなくて、自分で割ってたのか? わざと?」
「みたいだ。二回も音が聞こえたから」
「……」

 しばらく無言で廊下に佇んでいた二人だが、しばらくして、ネルはクリフに視線を送った。

「ねえ」

 クリフも、冷静な視線を送り返す。

「あん?」
「あんたさ、アルベルの左腕がなくなった話、詳しく聞いてる?」
「俺もその可能性が一番かと思ったんだが」

 クリフは溜息をつき、扉の向こうには聞こえない程度の小声で答えた。

「フラッシュバックってやつだろうな」
「ふら?」
「何かをきっかけに昔の嫌な思い出が突然甦っちまうってやつだ。以前からそういう節はあった。俺たちは、奴が義手を外しているところを何度か見ているんだが、あまり人目にさらしたくないようでな。義手に関しての話題も上らない。そこら辺は、俺もフェイトもタブーだと思って特に訊いたりしねえんだ」
「そうなんだ……」
「しかし鏡に関してはよく分からん。わざと割る云々どころか、鏡がどうなんて話もなかったぜ」
「……」
「だが、鏡を割るってのも、おそらく奴の過去に関係することだろう」
「そうだね」

 ネルは、扉をするりと手のひらで撫でた。

「過去、か……」





 アルベルは、無惨に割られた鏡を見下ろしながら、体中が冷えていく錯覚を覚えた。それなのに左腕は燃えたぎるように熱く、目の前が暗くなる感覚を抱きながら、ブーツで鏡を踏み砕いている片足を見つめていた。
 そのうちゆっくりとしゃがみ込み、先ほどネルの腕をきつく掴んでしまった自分の右手のひらを凝視した。無事で、やけどの跡も後遺症もなく、母の肌そのままに白く、カタナを握ることで堅くなったマメがあるだけの綺麗な手だった。手は震えており、少し指先を折り曲げると、城のメイドたちから綺麗だと言われていた形の爪が見えた。

(アルベル様って本当にお綺麗ね)
(男性なのに)

 アルベルは、ゆっくりと右手を閉じた。

(アルベル様はきっとお父様に似たんだわ)

 ガタガタと全身が震え、骨も肉も凍りつくような悪寒を覚えて、アルベルは身体を縮こまらせた。
 目の奥に、チカチカした光を感じる。

(アルベル様はグラオ様そっくり)
(お母様のお美しさも継いでいらっしゃるわ)
(髪の色、瞳の色、肌の色)
(やはりアルベル様はお二人の御子ね)

 光が弾ける。

(アルベル様は、グラオ様の、ご立派なご子息だわ)

 やめろ!!

 アルベルはとっさに義手で床に落ちていた一つの大きなガラスの破片を寄せると、破片を義手の指と指の間に挟ませた。
 そして。

「俺は」

 その破片を右手の甲に突き刺す。

「俺は、父に似ていない」

 右手の甲から鮮血が溢れ出した。
 もう一度破片を突き刺す。

「俺は、父に似てなんかいない」

 肉を切り裂く感触には、痛みもなく、恐怖もなく、あるのはただ。

「俺は、あんな立派な父に似てはいけない!!」

 悲しみだけだった。

「あああ……!」





 母は、夫を殺した息子を憎んで死んでいったのだろう。
 愛しい人を失って、どれだけの悲しみの中で苦しんでいたのだろうか。

 父が死んだのは、自分のせいだった。
 自分が自分を甘やかして、未曾有の力を追い求めたりしたから。
 父は、ドラゴンから放たれる業火から息子を守って死んだ。
 本当は、あの場では、継承に失敗した自分が死ぬはずだった。
 ドラゴンの業火は、力を闇雲に求めた自分への罰だったのだから。

 けれど、父が。
 自分が継承に失敗し、炎に包まれた瞬間。
 背後から、父が。
 飛び出してきて。
 自分の右手を、引っ張って。
 転ばせて、炎から遠ざけて、こちらを振り返って。





 笑ったんだ。





「くっ……う、う、うぅ……」

 緩やかな、優しい、まるで死を思わせない父の笑顔が、未だに瞼の裏に残っている。
 自分の左手が燃えているのにも関わらず、なぜ目の前の父は今笑っているのだろうと、立ち尽くして、ぼんやり思っていた。
 周りで父の同僚の兵士たち数人が何かを叫んでいたが、何を言っていたのかは分からない。
 父の美しい黒髪が炎でちりちりと焦げていくのを見て、とうとう声を張り上げた。
 親父、親父、親父、親父、父さん、父さん、父さん!
 何度叫んでも父には届かなかった。
 兵士たちが自分を炎から遠ざけてしまったから。
 ただ、赤く、青く燃えたぎる炎の中に、黒い影だけが見えていた。
 父親だったものが。
 影が、ゆっくりと崩れ落ちて、地面にボロボロと砕けていくのを見て、あまりの衝撃に、意識を失った。

「……お、れ……は……」

 あの時。
 自分の力を過信しなければ、父は今も生きていた。
 父が自分のために死ぬことなどなかった。
 母親も幸せに生きていたかもしれない。
 父も母も、あの美しい顔で、笑顔で、優しい声で。
 自分に微笑みかけて、頭を撫でてくれていたはずなのに。

「……俺は……」





「……アルベル」

 自分のすすり泣く声だけが聞こえる静かな部屋を、一閃の光のように声が貫いた。
 アルベルは声の主を振り返る。そこにはひとりの女性がいた。綺麗な紅色の髪をした、紫水晶の瞳を持つ美しい女性だった。彼女はアルベルに近づくと前にしゃがみ、傷ついた血まみれの右手を取って小さく詠唱し始めた。
 アルベルは無言で彼女の行為を見つめていた。詠唱が終わったあと右手の甲を見ると、傷口が塞がっていた。みみず腫れのようになってはいたが、血はもう出ていなかった。
 その場から遠ざかろうとすると、彼女は引き止めるようにアルベルの右手を握った。

「アルベル。これは、あんたの嫌いな弱いものいじめなのかい?」

 その口調は、どこか怒っているようにも感じられた。
 アルベルは彼女の顔を見つめ、口を噤んだ。いつもなら言い返しているのに、今はそれさえ思いつかなかった。

「あんたの中にある弱さを、あんたはいじめているわけかい?」

 冷静で、ひどく冷ややかな声に、アルベルは少しの恐怖を感じる。自分はこんな弱い人間ではない、こんなみっともなくて無様な姿など、認めたくはないのに。
 よりによって、この女性の前で。

「だから、こうやって自分を傷つけてきたのかい?」

 いや。

「鏡を割って、自分の姿を壊してきたのかい?」

 彼女の前だからこそ。

「アルベル」

 ネルは強くアルベルの右手を握りしめ、彼の名を静かに呼んだ。

「あんたより、私の方がもっと弱い」

 その強く凛とした両目を見つめ返し、アルベルは波紋のように鼓膜に響き渡る彼女の言葉を聞いていた。それは優しく、悲しく、どこまでも澄んでいて、確実に自分の前で響いている。

「もしあんたが、今、自分の信念に反して弱いものいじめをしたいのなら、私を傷つければいい。あんたが傷つく理由なんてどこにもない。目の前にいる私の方が、あんたよりよっぽど弱いのだから、私には、あんたにいじめられる権利がある」

 そんな、堅苦しくておかしな台詞でしか表現できない、

「自分を傷つけるくらいならば、私を傷つけていいよ」

 優しくて悲しい、とんでもなく綺麗な、彼女の言葉。





 なあ、親父
 聞いてくれよ。

 俺には、今、彼女を抱きしめる腕さえないんだ。





 アルベルは、ネルの肩に頭をもたれ、本当に小さな声で彼女の名を呼んだ。だがそれは声にはならず、ただ微かな息が漏れただけだった。ネルは体重をかけてきたアルベルの身体を受け止め、自分よりずっと体格の大きな男の背中に腕を回し、それを優しく抱いた。
 その彼女の優しさに、愛がないということは、アルベルには分かっていた。好きだとか、愛しているとか、同情だとかいう気持ちなど何一つなく、あるのはただ目の前で苦しんでいる人間を助けようという聖母のような想いだけだということを、アルベルは知っていた。
 しかも、

(自分を犠牲にして)

 ネルは、その自覚一つ持っていない。
 ネルが自分のことを何とも想っていないからこそ、アルベルは今、救われていた。
 もし想われていたら、自分は壊れてしまうと思った。
 心を犠牲にし続ける彼女を見ることなど、自分には、耐えられない。

「……アルベル」

 ネルは、まるで母のような穏やかさでその名を呼び、アルベルの背中を両手で優しく撫でた。
 アルベルは、背中を愛撫される心地よさに、ゆっくりと目を閉じた。目尻から涙がこぼれ、それはネルの服に染み込んで消えていった。





 アルベルは、ネルの身体に手を回すことができなかった。
 右手だけでも無理だった。
 もしそんなことをすれば、自分が彼女を想っていることがばれてしまうかもしれない。それに気づかれたら、彼女は、きっと苦しむだろう。アルベルのことを心から憎みきれないというのなら、ネルは告白に嫌悪を覚えながらもその愛を受け止めて、いかにアルベルを傷つけないで済むかを考え始めるに決まっている。
 それは、優しすぎる彼女にとって、恐ろしくつらい苦悩になりかねない。そんなことになるくらいなら、自分が彼女への気持ちを潰した方がいい。

(それでも)

 ネルがアルベルという男を意識し始めるのが、嫌だった。

(お前の手のひらが、心地いいと、思っているんだ。
 俺は)

 ネルが自分のせいで苦しむのが、一番嫌だった。憎悪以外の理由で敵国の男について考え、悲しむなどということは、あってはならない。

(お前のことを、想ってしまうんだ)

 彼女が自分を気にかけるなんて、あっては、ならない。

(ネル)





 名さえ呼べない。
 抱きしめることもできない。
 この涙の意味を説明することもできない。
 自分がしていることといったら、汚い言葉で彼女を罵ることだけだ。
 なのに、彼女は、憎いはずの男を優しい両腕で抱きしめるのだ。
 ただ、慈悲が心の中にあるという理由だけで。





 それはまるで、父親の、あの最期の微笑みのようだと、アルベルは思った。