お前のせいで死んだんだ!!





「――嫌だっ」

 反射的に起き上がっていた。背筋には悪寒が走り、身体は凍りついたように冷たく感じる。それなのに全身は汗びっしょりで、息は切れ、頭がズキズキと痛んだ。気分が悪い。吐けるなら吐いてしまいたかった。でも、何を?
 暗い部屋の中、しばらくの間、動悸が収まらず、ネルは慣れない瞳で辺りを見回した。さほど広くはない部屋だが、とにかく暗い。底知れぬ闇が目の前に広がっているような気がして恐怖を覚える。ぐしゃぐしゃな毛布を手で探り、胸元に持ってくると、そのままそこに顔を伏せて、小さくなった。
 ひたすら恐かった。夢に出てくる、あの無垢な瞳。その純白の心を憎悪で満たしたという強い罪悪感。あの子どもは、きっと一生救われないだろう。いつまでもその事を心に留めて、恨み、永遠の怒りと絶望を叫び続けるのだろう。
 ネルに向かって。

「違う……」

 自分は悪くない。今すぐにでも、あの子どもに言いたかった。実際そうなのだ、自分が直接あの子に関わったわけではない。
 だから、そんなに恨まないで。そんな目で見ないで。お願いだから、もう夢に出てこないで。
 だがそのような愚かなことは決して言えない。言ってはならない。
 悪いのは、この血塗られた手なのだから。





 ふらふらとした足取りで、カルサアの町をひっそりと歩いた。
 深い夜だ。静まりかえった埃っぽい町は、ところどころ明かりがついていたが、街路に人の姿は見あたらない。物思いにふけるのには持ってこいだった。 少し空気が湿っぽいので、もう一度宿屋に戻ろうかとも考えたが、先ほどの夢が唐突によみがえって断念した。再び眠りにつけば、また同じ夢を見てしまうような気がする。空模様もいまいち冴えず、雨になりそうな分厚い雲が、町全体をより一層暗くしていた。
 しばらく適当に歩いていると、路地裏に、古ぼけたベンチを見つけた。周囲に人の気配がないので、ここならいいだろうと腰掛けると、塵が舞い上がり、服が汚れてしまった。もうどうでもなれとネルは深く背をもたれ、溜息をつく。

「……疲れた」

 誰にでもなく、呟く。自分でも悲しくなるような声だった。
 すると。

「何してんだ」

 声がした方に、ネルは思い切り片方の短剣を投げつけた。キインと音がして、投げ上げた自分の剣が叩き落とされるのと同時、ネルは勢いよく地面を蹴り、大きく後方に飛びながらもう片方の短剣を取り出しつつ身構えた。投げた短剣を即座に判断できるとは、ただ者ではない。
 声の主は上方、建物の屋根にいた。その人物は短剣を叩き落としたであろう武器を仕舞い、呆れたように言葉を投げかけた。

「お前の方がよっぽど物騒だな」
「……アルベル」

 彼は二階の高さから着地すると、落ちた短剣をひょいと拾い上げてネルに歩み寄り、手渡した。

「一般人なら死んでたぞ」
「真夜中に屋根に登る普通の人間がどこにいるんだい」

 額の汗を拭いながら短剣を受け取って腰に戻す。

「何か用?」

 不審そうな問いに、アルベルはふんと息をついた。

「見回りだ」
「見回り?」
「一応、風雷の本拠地だからな。ジジイに頼まれてんだ」
「ウォルターか。でも、どうして屋根の上なんだい」
「俺は夜目がきくし、よく見えるだろ」
「……そう」

 別にどうでもいい内容だと、ネルはとりあえずそこで会話を中断すると、顔を伏せてアルベルの前から去ろうとした。正直なところ、今は誰とも顔を合わせたくなかった。

「仕事、せいぜい頑張るんだね」

 踵を返し、アルベルに背を向ける。またひとりになれる場所を探しにたかった。宿屋には、戻りたくない。酒場もこの時間帯だと物騒だろうし、他に行く当てはないが、朝日が出るまでどうにか起きていたかった。
 再び歩き出すと、アルベルが声を掛けてきた。

「何が嫌なんだ?」

 ネルは一瞬立ち止まったが、そのまま振り返らずに耳元で片手を振った。

「何の話か分からないね。また今度でいいかい」

 なるべく動揺を隠しながら言ってのけるが、どうやらアルベルには通用しなかったらしい。彼は、先ほどより少しばかり大きな声で、

「お前のせいで足止め食らうのはごめんだからな」

 そう言う。ネルはたまらなくなって振り返り、アルベルを睨みつけた。

「悪かったね」
「本当にそう思ってんのか、お前は」

 アルベルの凄む声音に、ネルも負けずと手を腰に当てて憤慨してみせた。

「一体何を言いたい」
「部屋を出た時、たまたまお前の悲鳴が聞こえたんだよ」
「ああ、うるさかったのならすまないね、夢を見てたのさ。別に大したことじゃないだろう」
「単なる夢か?」
「そうさ」
「どうして外に出る必要があるんだ」

 ネルは上手い答えが見つからずに沈黙した。この小憎たらしい男に何か文句を言ってやりたかった。言葉を探しているうちに、すかさずアルベルが追い打ちをかけてくる。

「阿呆が。そうやって一人で悶々と悩んで、終いにゃぶっ倒れんだろ」
「……悪かったね」
「甘ったれんのもいい加減にしろ。巻き添えを食うのは俺たちだ」
「悪かったね」
「本気で迷惑かけたくねえと思うんなら最初から夢なんか見るなよ」
「うるさいねっ!」

 夜の町に、ネルの声が響く。悪寒と動悸が収まらない。先ほどと同じように。

「やっぱりあんたなんかにゃ分かんないよっ! 無神経で平然としていられる、あんたなんかには……!」

 どんなに抑え込んでいても、憎悪は胸の奥に寄生虫のように巣食い、時々顔を出しては暴れ出すのだ。

「あんたは楽しんでるからいいんだよ、でも、私はそう思えない!」

 熱を出したあの日、背中を撫でてくれた驚くほど優しい手つきを覚えているはずだ。なのに、憎悪が視界を覆うと、そのとき交わされた言葉の数々を思い出せなくなる。

「割り切れたら楽かもね! けど、そうはいかない! 戦争が終わっても癒されない心はあるんだ!」

 誰かの良心さえ思い出せなくなる自分の方が、よほど愚かなのではないだろうか。視界はいつまでも曇ったままで、心は、身体は、血塗られた人生は、癒され救われることなどないのだろうか。

「言われてごらん――言われてごらんよ! あの幼い声で言われてみな、お前のせいで死んだんだって!  言われてごらんよ!!」

 力んだ手を、はたかれるように捕まれた。
 いつの間に、アルベルが目の前まで来ていた。その顔は無表情で、紅色の瞳が暗闇の中に鋭く浮かび上がっている。静かな呼吸がすぐ側で流れ、乱れた激しい呼吸を落ち着かせる、そんな空気だった。
 ネルは肩で息をしながら、アルベルをゆっくりと見上げた。

「……なんだい」

 ネルの冷ややかな瞳にも微動だにせず、アルベルは、ただそれが目的なんだというような口調で言った。

「何を、誰から、どう言われたんだ」
「……あんたには関係ない」
「もう俺に言っちまったよな。誰から言われたんだ」

 ネルは捕まれた手を勢いよく振り払い、アルベルに背を向けた。激しい鼓動が、今もずっと続いている。腹の底からこみ上げる感情が、怒濤のように押し寄せる。
 さあ吐いてしまいなさい、と。
 体中が、優しく諭しているようだった。

「……あんたなんかに、話しても」
「意味ねえのか?」
「……」

 ネルは沈黙したまま、空を見上げた。今にも雨が降り出しそうだ。こんな所で喋っていたら、アルベルの仕事も滞ってしまうだろう。言うべきではない。言っても伝わらない。本当は、挫けている場合ではないのだ。彼の言うとおり、誰にも迷惑をかけたくないのならば、ばれないように自分の中に秘めていればいい。それは、強がりではない。本当に強くなって中に留めていれば、他人に悟られることはないし、それで全て済むことなのだ。現に、ネルはそうしているはずだった。
 そうしているはずなのに。

「……
 こ、どもに」

 声が震えているのが伝わってしまっただろう。だが泣いているわけではないと示したくて振り向き、アルベルを見た。男の表情は、いつものように冷めている。それに少し安心した。

「言われたのさ。アーリグリフの小さな子どもに。私が街を歩いていたら、急に呼び止められてね。すごい形相で」

 おまえ、クリムゾンブレイドか
 シーハーツの人間なんだな
 父ちゃんをかえせ

「……すごい目で」

 かえせよ。おまえがころしたんだろ
 父ちゃんはおまえたちにころされて死んだんだ

「子どもじゃ……ないみたいに」

 お前のせいで死んだんだ!!

(ああ、神さま)

 無意識に、神に懇願していた。それはきっと、己の罪から逃げたいがためだった。
 憎しみに歪んだ子供の顔が、瞼の裏によみがえる。それがあまりに鮮やかで、苦しくて、ネルはアルベルから視線を外し、彼の足元を見つめた。

「言われて当然のことだったけどさ。
 その後、子どもの母親が出てきて、子どもを慌てて引っ込めて……私に……」

 こみ上げてくる感情に、もう駄目かもしれないと、ネルは強く拳を握りしめた。
 目に浮かぶあのひどい情景を、脳裏から消したくて。
 消すために。

「私に……ごめんなさいって……言うんだ……」

 涙が出るのかもしれなかった。
 どうにも抑えられなくなった涙が、つるりとネルの頬を滑る。
 あの子どもの心は、今も闇に覆われているのだろう。次に会うときは、あの小さな手で鋭い刃物でも持ち出してくるかもしれない。それでも、この先にやるべきことがある自分は、死なないために武器を取って、冷徹にその子どもに刃を向けるだろう。自分を殺そうとする者は、殺すべき対象。
 それが戦争なのだ。

「私、もう……それから、自分が許せなくてさあ……」

 ポロポロと涙がこぼれ落ちる。腕で何度も拭うが、多分しばらくは止まらないだろうと分かっていた。

「考えても考えてもその子の気持ちなんか救えないだろう……? 戦争が落ち着いたからといって死んだ人間が帰ってくるわけじゃない……」

 癒されない傷は永遠に息づいている。あの子どもにとってクリムゾンブレイドという存在は永遠に父親を殺されたという憎しみの対象でしかない。
 母親だって、言いたかったはずだ。ごめんなさいという言葉よりも、愛すべき人を殺した人間に向かって言いたかったはずだ。
 返してくださいと。

「お前が変に悩み始めたのは、それのせいか」
「……そう……だけど、もう。
 嫌だ……」

 拭っても拭っても意志とは裏腹に流れ落ちる涙が恨めしい。元敵である人間に、心の中をぶちまけてもどうにもならないのに。
 ネルにはもう何も言う言葉がなく、一方のアルベルも沈黙していたが、そのうち、ぽつりと話し始めた。

「なあ。前にも言ったけどな……」

 アルベルは小さな溜息をつくと、

「斬るか?」

 音もなく、自分のカタナを左手に持ち、前に構えた。

「お前が苦しみにのたうち回ってどうしようもないなら、ひと思いに斬るぞ。苦しむ暇もないくらいに惨殺してやる」
「……何を」
「俺は子どもに罵られようが世間一般から石投げられようが青髪たちから非情者扱いされようが全然かまわねんだよな。慣れてんだ。今までがそうだったから。
 俺は、お前に言われたように自分が楽しければいいと思っている人間だから、お前ほど悩んじゃいないし、むしろそれが当たり前で、別に今ここでお前を斬っても、俺は単なる殺人者になるだけだ。大したことじゃねえよ」

 男の目は、本気だった。魔物を狙う視線と同じ鋭気を宿らせている。許可すれば、すぐにでも斬りつけてくるだろう。ネルの身体はその凄まじい殺気を感じて硬直していたが、なぜか恐怖はなかった。

「楽になるぞ」

 ネルは刃を見つめたまま、何も言わずにいた。

「ここで俺はお前を殺す。俺は仲間を裏切った……お前を殺したということで。それから、あいつらは俺を敵に回す。それで済むじゃねえか」

 少しずつ、その切っ先がネルの顔へ迫る。

「お前は楽になってあいつらは俺を憎む。俺は別に何とも思わない。それだけだ。それだけで済むなら、安い方だろう」

 なぜ、こんなにも。

「さて、どうする」

 こんなにも。

「お前が決めろ」

 彼は。

「……苦しいんだろう?」

 彼の右手が、ネルの頬に当てられた。涙を拭うようにゆっくりと動かすその指は、ひどく優しかった。首元に当てられた刃が肌に触れ、その冷たさがネルの全身を震わせる。男の体温と刃の無機質さが行き交う感覚は、不思議だった。
 苦しい。
 ああ、苦しいとも。
 色々な想いに挟みうちにされて、逃げ場がないんだ。
 悲しみに知らん顔して生きていけたら、さぞかし楽だろう。
 けれど、自分にはそれができない。
 一生、できない。

「死も」

 アルベルの低い声が、耳元で聞こえる。

「永遠だ」

 悲しみから永久に追放された場所なら笑うことができるだろうか。あの悪夢を見て恐怖で目覚めることもないのだろうか。
 全てを忘れ、全ては癒され、罵倒も苦悩も痛みも存在しない場所があるとしたら、自分は救われるのだろうか。それが救いという言葉が持つ意味なのだろうか。

「……アルベル……」

 ネルは、ほとんど男に体重を任せていた。頭を彼の肩の端にのせて、ただ生きるだけの呼吸していた。アルベルはネルの頬から移した手を背中の方に軽く回すと、そっと支えるように包み込んだ。そして突きつけた刃をさらに近づけ、もうひといきで皮膚が切れてしまうだろうというところで止めた。

「アルベル」

 ぼうっとする思考の中で、ネルは男の名を呼んだ。

「私が、あの子のためにできることは、なんだろう」
「……」
「多くの悲しみを癒すためにできることはなんだろう。それが見つからない。だから苦しいんだ。私にはいま別の目的があって、全てが終わったら皆と別れて自分のいるべき場所に戻る。そこでまた、あの子のことを思い出し、毎夜夢を見て、一生うなされる。そういう人生が決定されている気がしてならないんだ」
「……」
「逃げ口は、今のあんたしか持ってないのかな」

 ネルはゆっくりと目を閉じた。
 静まりかえった町。ささやかな夜風。
 心臓の音。
 自分の呼吸。
 そのうち空からは雨が降り出す。
 今日、この場所は、鮮やかな鮮血に染まるだろう選択にかけられていた。
 さぞ美しいだろう、雨ににじむ、安らいだ紅の涙。

 さあ吐いてしまいなさい

 再び、身体の奥が言ってくる。
 でも、何を? 何を吐けというのだ?

「アルベル」

 分かっている。
 吐けるものなど、もうないのだ。

「私は、いつかあんたに殺されるかもしれない」

 ネルは、先ほどとはうって変わった強い口調で告げた。

「あんたが気に入らなくなったら、いつでも私を殺せばいい」
「……ああ?」
「私はきっと抵抗する。無論あんたにはかなわない。あんたは私を確実に仕留めてくれればいい」
「なんだ?」
「あんたは弱い私が嫌いなんだ」

 アルベルの肩を少しだけ押すと、

「少しだけ生かしておいてくれるかい」

 アルベルの腕から離れ、

「またあの夢を見ていたら、殺しておくれよ」

 言いながら、アルベルのカタナを持つ手を操り、自分の首を切る真似をする。

「未熟な証拠、だからさ」
「他人の夢なんか分かるわけねえだろ」

 カタナをしまい、ついと顔を背けて舌打ちするアルベルに、ネルは微笑した。

「本気で迷惑かけたくないと思うんなら最初から夢なんか見るな、だっけ。その通りだ。私が悪い」
「根本的な解決になってねえだろ」

 どことなく心配顔をしたアルベルを不覚にも可愛く思いつつ、ネルは深呼吸をした。

「私の心は、もう生きていても死んでいても癒えることはないんだよ」

 アルベルは目を丸くしてネルを見つめた。

「……お前」
「あんたに賭けた」
「……嫌な賭だな」
「確率は低いね……あんたが八割」
「二割の命か」
「悪夢ばっかりはどうにもならない」

 悲しげに目を伏せ、ネルはそれでも笑みを浮かべながら、

「……それが、私の罪なんだ」

 そう、小さく呟いた。