私たちは、そこそこ上手くやっているのだと思う。
 定期的に私が彼の小屋を訪ねることによって、私たちの関係は穏やかに保たれているのだ――いや、もし数週間、数ヶ月、一年離れていても、私たちの関係は、こんなふうなのかもしれない。顔を会わせれば、いつもと同じように挨拶を交わし、言葉少なに相手が元気であるかを確認して、お茶を飲みつつ最近の出来事を語り合う。報道関係の仕事している私には多くのニュースがあるが、世間から離れている彼には研究と動物、少し足せばマーズ村の話題程度しかなくて、それがなんだか申し訳ないですと言うのを、私が「だったら私から伝え聞けばいいのよ、簡単じゃない」などとフォローしている。私たちは案外バランスのよい組み合わせなのかもしれなかった。常に最新鋭を求める私、のんびりとした自然の秩序に身を任せる彼。正反対の場所にいる分、互いにないものを補い合える。





 ある日のことだった。私は、休前日の夕方、ハーリーで適当な食料と酒を買い込み、馬車に乗り込んで森の出入り口まで行き、そこで下車して、徒歩で二十分強かけて彼の小屋に向かった。やっほう、ノエルと彼の小屋の戸を開けると、彼は川で捕ってきた魚でムニエルとスープを作って、それを食卓に並べている最中だった。私の分までちゃんと用意されているのは、前回ここに来たときに、来週もまた来ると伝えたためだ。彼は振り返り、ああ、チサトさん、といつもの優しげな微笑を浮かべた。私はそれに安心しながら荷物を置いて、差し入れを手渡し、食器運びを手伝って、いつも座っている席に着く。丁度白ワインを買っておいたので、それを開けてグラスに注ぎ、軽く乾杯(互いに酒にはあまり強くはないが、たしなむ程度に口にする)。美味しそうな焼き色のついたムニエルをナイフで切り、口に運ぶと、彼が育てているハーブの香りが口の中いっぱいに広がって、本当に美味だ。

「うーん、美味しい」
「そうですか? よかった」

 安心したように笑う彼も、私の買ってきた私おすすめの魚介類たっぷり海鮮サラダを一口。

「あ、これ美味しい」
「でしょ? カフェの人にお店を教えてもらったの、具材もドレッシングも新鮮で美味しいからって」
「魚屋さんで売ってるんですか?」
「ええ。他にもホタテの甘辛煮とかマグロのサラダとか面白いのがあるのよ。今度また別のを買ってみて、持ってくるわ」
「ありがとうございます」

 日常的な会話をしつつ、食べ終わると、紅茶で一服する。マーズ村に入荷しているクロス産の紅茶が、彼の好物らしい。少し赤みがかっていて、リンゴの香りが微かにするのだ。私もその紅茶を気に入っていて、いつも美味しくいただくのだが、なにやら今日はワインを飲み過ぎてしまったらしく、頬と額のあたりがぼんやりとして、会話の内容もいまいち頭の中に入ってこない。覚束ない様子で喋る私に気付いた彼が、心配そうな声で問いかけてきた。

「チサトさん、大丈夫ですか? 顔が……」
「赤い?」
「ええ」
「ああ、やっぱり酔っぱらっちゃったみたいだわ。変ね、そんな飲んだつもりはないんだけど」

 少し休みましょうとノエルは席を立ち、私の手を取って立ち上がらせた。少し頭がくらりとして、よろけるのを、彼が胸で支えてくれる。

「ちょっと、チサトさん? 大丈夫ですか」
「うーん」
「体調、悪いんですか?」

 体調が悪いから悪酔いしたのかということを尋ねられているのだとぼんやりする頭で判断しつつも、呂律が回らないために答えを言葉にすることができず、寄りかかったまま首を横に振った。彼は、ちょっと心配ですねと呟き、

「少し、失礼しますよ」

 と、私のことを抱き起こした――姫だっこというやつである。自分の体勢にハッとして暴れようとしたが、そのまま彼が歩き始めたので、私は恥ずかしさで絶叫したくなるのをぐっとこらえた。変に動いてしまっては、今度は彼の方がバランスを崩して二人とも床に倒れ込んでしまう。
 彼はベッドの方まで行き、靴を脱がせて、二段ベッドの下段に私をゆっくりと横たわらせた。ここはノエルの寝るベッドであるし、せっかく小屋に遊びに来たのに酔っ払ってままならない自分の情けなさと申し訳なさに、上手く動かない口でどうにか謝ると、彼は苦笑して、緩く首を横に振った。

「疲れているのかもしれません。ゆっくり休んでください」
「でも、寝ちゃって、あんまり遅くなるのも……」
「その状態で暗い森を歩くのは、ランプがあっても危険ですよ。明日の朝まで、ここで身体を休めてください。朝になったら起こしますから」

 いつもと変わらない口調で言うが、実際、彼はかなり念を押しているつもりだということを、私にはなんとなく分かっていた。ここでいくら抵抗したとしても、彼は頑なに態度を崩さず、私が小屋から帰るのを許しはしないだろう。夜行の馬車があるから心配ないと言っても無駄だ。私は観念して、深く息をつき、ゆるゆると瞼を閉じた。この感じだとすぐ眠れると思っているうちに、私は眠ってしまったらしい。すぐそばで彼の食器を片づける音がしていたことだけが、眠る直前の最後の記憶に残っていることだった。





 ふと、目を覚ます。

「……」

 ベッドの右の壁にある窓にはカーテンがしてあるが、東側なので、日の光が漏れていた。私が目を覚ましたのは、その光に気が付いたからだろう。
 すぐ目の前にある天井のようなものを見て、ここはどこだろうという疑問を持った後、すぐに、自分は今、森の中の彼の小屋にいるということを思い出した。そうだ、私は昨日、情けなくも酔っ払って、彼の家に泊まったのだった。このすぐ差し迫った天井は、二段ベッドの下段だから見えるベッドの上段の底部だろう。おそらく、彼はこの上で就寝したのだ。
 すっかり酔いは醒めているようで、思いのほかすんなりベッドから起きあがることができた。部屋の中を見ると、昨日の食卓――独り身の彼には少し大きすぎる四人掛けの木製テーブルの上は片づけられていて、台所にも布巾が掛かっている程度で他に何も見あたらず、そしてまた、彼の姿も無かった。まだ寝ているのかしら? 私はベッドから降りると、小さく伸びをして、ベッドの上段を見上げた。掛かっているはしごを少し上らないと、上の段のきちんとした様子が見えないので、ベッドの傍に丁寧に揃えられていた靴を履き、はしごに足をかけて、数段上った。昨日とは違う部屋着に着替えている、寝ている様子の彼の背中が見えて、私はホッと安堵した。まだ寝ているのなら起こさない方がいいとはしごを下り、床に立って、さてどうしたものかと部屋の中を見回した。勝手に帰ってしまっても、色々世話をしてもらっただろうからなんだか悪い気がするし、ここは彼が起きるまで待っていた方がいいかもしれない。私は静かに歩いて小屋の出入り口まで行くと、ドアを開けた。外はすっかり明るく、鳥の鳴き声や木々のざわめく音が聞こえてきた。今日は快晴のようで、風もいつもより温かい。こんなところに住んでいれば、彼の心が常に穏やかなのも納得できる。しみじみしつつ、しばらく外を散歩することにした。
 小屋のそばを散策した数十分後に、また小屋に戻ってきた。玄関から中をのぞき込むと、ベッドの上段に彼がまだ横になっていた。だが、先ほどと違って、身体はこちらに向いている。彼はいつもこの時間まで寝ているのだろうか? 少し怪訝に思い、彼を玄関から観察していたとき、私は、ハッと気付いた。彼の顔が真っ青だったのだ。
 私は慌ててベッドに駆け寄り、はしごを登って、彼を見た。彼の身体は小刻みに震えていて、顔は蒼白になっており、額からは大量の汗が噴き出していた。ただ事ではない。

「ノエル!?」

 かなり大きい声で呼びかけたが、彼は苦しげな顔で固く目を閉じたまま、小さく唸るだけだった。手を彼の額にあてると、信じられないほど熱かった。高熱が出ているのだ。

「ノエル!」

 もう一度呼びかけたが、無駄だった。私は戦慄し、はしごを勢いよく下りると、とりあえず台所で清潔なタオルを水で浸し、固く絞った。そして再び彼の元に行き、身体をどうにか仰向けにさせて、タオルを額の上に載せてやった。身体を拭こうにも、相手はそこそこ体格のいい男性だ、自分一人の力では無理だろう。こうなったら村に行って医者を呼んでくるしかない。「今から医者を呼んでくるわ」と叫んで小屋を飛び出した。マーズ村までの道のりはかなり遠いが、走ればいいのだ。私は森の中を駆け抜けた。
 息を荒げながらマーズ村に入ると、日向ぼっこをしていた知り合いの老人が、驚いた様子で私を見た。どうしたんだいチサトさんという心配そうな問いには、呼吸が上手く整えられなかったので答えられず、どうにかして息を落ち着かたあと、私は尋ねた。

「ねえ、今日、お医者様はいるかしら!?」
「え? ああ、先生かい? 先生はいると思うが、ただ、今日は休診で」
「ありがと!」

 私は老人が言うのを遮り、マーズ村の診療所まで走った。私が異様な様子で戸を叩くのに驚いた壮年の医者は、どうしたんだと目を丸くして家から出てきてくれた。私は、事情を説明した。私の取り乱し方が尋常でないと気付いたのだろう、医者は真剣な顔をして私の話に頷き、すぐに彼の小屋に向かいましょうと言った。片道一時間かかるのは申し訳ないが、ここからハーリー寄りの入り口まで行き森に入ったとしても同じだけの時間がかかるので、私と医者は、私が先ほど通った道を歩き始めた。かなり歩きますがと私が恐縮して謝ったが、医者は穏やかに笑んで、かまわないと言った。病人を診るのが私の使命ですから、と。





 彼を診た医者が放ったその一言に、私は驚愕した。

「今夜が峠かもしれません」

 聴診器を外しながら、医者は落胆したように嘆息し、後ろに立っている私に振り返った。私は今聞かされた言葉が一体何を意味するのかよく理解できず、ベッドの下段に寝かされている彼をぼんやりと見つめていた。
 今夜が峠?
 私が唖然として立ち尽くしている様子に気付いた医者は、気の毒そうな面持ちで、私から視線を外し、聴診器を使う際に彼のはだけさせた胸元のボタンを留め始めた。

「ノエルさんは、感染症にかかったんです」
「感染症?」

 私が即座に問い返すと、医者は振り返らず、こくりと頷いて、

「ええ。二十年ほど前に世界的に流行った感染症です。今ではもう免疫を持っていたり幼児期に予防接種をするために発症する人間はいませんが、彼は最近ここに来たのと自然の中で動物や土に触れる機会が多いために感染し、発症したんでしょう」
「その、病気は」

 医者の言葉に、私は目眩を感じながら、震える声で問いかけた。

「いのち、に……」
「ええ……かつて多くの死者を出した感染症です。現代では、もし発症したとしても早めに治療をすれば助かる可能性があるのですが、ノエルさんの場合、肺が冒されていて、今はもう呼吸すら苦しいはず」

 言われて、私は反射的に彼を見た。彼は、朝と同じで汗だくのまま、喉から奇妙な音を出して呼吸をしている。熱は四十度近くあるらしく、もし覚醒しているとしても、意識は混濁しているという。

(私の声も届いていないの?)

 唇が、震え始める。

「ただ、この感染症は、老人や子どもたちに多くの死亡者を出したものです。ノエルさんのように若くて健康的な方がかかるのも妙な話だ……もしかしたら、かかる前、身体が弱っていたのかもしれません。最近の彼の様子に異変などはありましたか?」

 医者に問われて、昨日や先週、先々週のことを必死に思い出したが、思い当たることは一つもなかった。風邪気味という様子でもなかったし、普段通り元気だったと思う。無理をしている感じがあったとも思えなかった。週一回程度しか会っていないので、その間のことはよく分からないが……

(考えてみれば、私、ほとんど彼に会っていないのね)

 ショックと後悔で涙が溢れ始める。

「もし、何もないようでしたら、体質かもしれません。一緒にいたチサトさんは発症していないようですし」
「……先生」

 涙が、静かに頬を滑る。
 私は、呆然とした心地の中で、医者に問うた。

「彼は、助からないんですか?」

 涙混じりの私の問いに、医者は私を見上げ、悲しげに眉を寄せた。

「難しいかもしれません」





 なぜ?

(何が起こったの?)

 ベッドの傍に椅子を置いて座り、横たわったまま夜も意識を取り戻さない彼を見つめて、ただ、ひたすら問うていた。

(意味が分からないわ)

 重く、暗くて冷たいものが頭上からのしかかっている感覚が、医者の宣告を受けた時から離れない。数時間泣き続けていたが、夕方には、涙はもはや枯れ果ててしまった。
 私は、ひどい熱さを持つ彼の左手を、両手で握りしめていた。時おり力を入れたり指を曲げたりして彼に合図を送っているが、気付くことはなく、ただ妙な呼吸をして、目を固く閉じているだけだった。こんなに近くにいるのに、遠い。彼には、私がここにいることすら分からないかもしれない。名前を呼んでも返事はなく、ひっきりなしに汗を拭いてあげても、全く反応をしない。

(今夜が峠って)

 告げられた言葉を思い出すたび泣きたくなる。しかし、涙は出尽くされて、溢れる気配すら感じなかった。
 今夜。
 今夜、彼は死ぬのだろうか?

「いや……!」

 突発的に、拒絶の言葉が口をつく。彼の寝ているベッドに頭を伏せ、目を瞑って、ただ叫ぶ。

「どうして? あんな元気だったじゃない、ご飯を食べて、お喋りをして、酔っ払った私の世話すらしていたじゃない! もしかしてその時も無理をしていたの? こうなるって分かっていたら、私は昨日、意地でもあなたを休ませるために小屋を出たわ」

 私の叫びに、医者が「チサトさん、静かにしてあげてください」と駆け寄ってくる。マーズの医者は、彼を診察した後、一度村に戻って医療器具と薬剤を持ち出し、再び小屋に戻って来てくれた。昏睡状態の彼にどうにか投薬し、私と共にずっと看病をしているが、飲ませた薬は気休め程度にしかならないという。
 彼を助ける手段を失ったということに、私はただ驚愕した。ネーデなら――ネーデにいたならば、こんな病、きっとワクチンひとつですっかり治ってしまうのに。そう思うと、とんでもなくつらくなって、顔すら上げていられなかった。ネーデにいたならばだなんて、彼が最も嫌う言葉だろうに。
 精一杯彼の手を握り締めて、祈るように吐き捨てた。

「ねえ、こんなのってないわよ。私、まだあなたに何のお返しもしてないわ。あなたにもらった優しさを一つも返しきれてない」

 私たちの頭には、ネーデで得た多くの知識がある。彼の病を治す方法も、調べればすぐに分かるだろう。
 しかし、知識など、持っていただけで何になろう? それを実践できなければ、なんの意味もないのだ。命を救ってあげられないのだ。もちろん私は翻訳機に内蔵されている百科全書で、彼の病に近しい項目を全て漁った。だが、百科全書と言っても、全宇宙の病の全ての治療法が載っているわけではない、もし見つけたとしても、治す手段がなければ意味がない。案の定、何も手がかりは見つからなかった。これかもしれないと思うものがあっても、確信が持てない。エクスペルの医者に説明したところで、そのワクチンの名すら分からないだろう。
 すがれるものが、何もない。

「ノエル……目を覚まして」

 語尾が震え、情けないほど声が小さくなっていく。こんな声では、きっと彼には届いていない。

「死なないでよ」

 その時。
 ある声が、ぼんやりと遠くから甦った。

 チサト、お前は、あの男がある日突然いなくなったら、と考えたことはあるか?

 私がアシュトンに、彼と気まずくなったという悩みを話した時の、ギョロとウルルンの言葉だ。

「いなくなったら? 考えたこと、なかったわ。だって、いるのが……」

 ああ、心が。

「当たり、前、だと……」

 砕けそうよ。
 失って初めて気付くものが愛であり、失った時のことを常に考えている者は、失う前に愛に気付くという。
 彼は、おそらく私を失う恐怖に気付いていて、会わなくても、私のことを遠くから思いやってくれていたのだろう。私が怪我をした時ひどく怒ったのは、きっとそのせいだ。

(私)

 私は、私が彼をその恐怖に陥れてしまったことを、治療してくれたことに対して礼を言うことで、償おうとしたが。

(なんにも、分かって、ない)

 それだけだったのだ。
 私は、単に彼が私のことを大切に想っているということに気付いただけで、ただ、それだけだったのだ。知ったからといって、私は彼に対し何もしなかった。彼がいなくなったら悲しいと思ったことくらいはある、同じ最後のネーデ人として、失いたくないと思ったことはある。
 違う。
 違うのだ、そうではないのだ。最後のネーデ人だから失いたくないというのは、自分の孤独を恐れるために抱くエゴなのだ。彼が私に対し抱いていた気持ちは、そんなことではないのだ。アシュトンたちが言った言葉が本当ならば、私がネーデ人だからということは、さして重要な事実ではなくて。

「ノエル」

 私は、彼に、人間として愛されていたのだ。

「私、なにも」

 ようやく、また、悲しみの涙が溢れ出た。

「なに、も、して、あげられ、な、い」

 私は、愛を知っていた。
 家族に抱く愛、恋する人に抱く愛、仕事仲間に注ぐ愛。
 だからこそ、愛が恐かった。
 失うことによって気付くだなんて、気付いた頃にはもう遅いのに、なんて愛は残酷なのだろうと。

「なんにも、準備も、心、も……」

 全てを失って、また全てを失うのが恐くて、愛を失うことが恐くて、残酷なその愛を、私はもうこれ以上抱くのが、ただ恐く。

「なん、に、も、知らなく、て……」

 それなのに、私とまるで同じ状況にいる彼は、そんな恐ろしく残酷な愛というものをネーデにいた時から抱き続け、ネーデという彼の愛するものたちが住んでいた星が消え去った後も抱き続け、失った多くの愛と引き替えに与えられた星のもとでも、未だ、私に対して抱き続けていた。

(星を失ったあなたの痛みと、私の痛みは、同じ。
 あなたは、数多くの愛しい生命たちを失ってしまった)

 彼の手をきつく両手で握りしめ、涙を流したまま、そっと目を閉じた。涙がこぼれ落ち、私と彼の手の上を滑り落ちる。

(私よりも多くの命たちを、あなたは、きっと愛していたのよ。愛していた者たちを星ごと失ったあなたの苦痛は、私よりも遥かに大きなものだったでしょう)

 そして、暗闇になった視界の中、いつか母親から教わった紋章を脳裏に描く。

(それなのに、失えば膨大な苦痛をもたらす愛を、あなたはまだ、抱き続けるというの)

 必死に記憶を辿り、治癒の図形を思い出す。

(この星の生き物たちに、人間に、子どもたちに、そして。
 私に)

 遠い記憶から引きずり出した、いびつな形の紋章は、役に立たないかもしれない。
 ネーデ人たちは皆、紋章術の能力を生来携えていたが、私は、自分の中で上手く紋章術を構成することができなかった。もし組み立てて放ったとしても、失敗して何も起こらないことが常だった。体術に頼っているのもそのせいで、以前、ネーデで彼にそのことを漏らしたら、彼は薄く微笑みながらこう言った。
 どうして悩むのです? あなたには身体で戦う力がある、僕には術で戦う力がある。それでいいではないですか、必要なら支え合えば、それでいいではないですか。

(私、その時だって、その言葉を綺麗事だと思ったのよ)

 思い返せば、彼に対して、私は一体どれだけの罪を重ねていたのだろうか。
 気持ちが揺らぎ、頭の中にでき上がろうとしていた紋章が総崩れになる。ああ、と私がうなだれるのを見たらしい医者が、怪訝そうな様子で訊いてくる。

「あの、チサトさん、一体何を……
 光が……」

 言われ、私はハッとして顔を上げて、隣で腰をかがめながら私たちの様子を窺っていた医者を見上げた。

「なんですって?」
「いや、白い光が、あなたの手から出ていて……」
「本当!?」

 上手くいくかもしれない。
 そう思った私は、今度は不安定にならないよう気をつけながら、彼の手を握る自分の両手に意識を集中した。目を閉じて、先ほどの呪紋を更に複雑化した高度なものを構成しようとするが、なかなか上手くいかない。下手に難しいものを実行するよりは、簡単なものを何度も重ねて使った方がいいかもしれない。気を取り直し、闇の中に光で線を描いていく。

(お願い、どうか、上手くいって)

 ほとんど紋章力を持っていない私に、大したことはできないかもしれない。治癒の能力も、成功したとしても、せいぜいかすり傷を治せる程度のものだろう。
 だが、もう、黙っているのは嫌だった。彼に対し、なんの受け答えもせず、彼から優しさや愛を受け取るだけでいるのは嫌だった。
 私も、彼にお返しをしたいのだ。

(そのためなら、私の命が削がれてもいいわ)

 私は、紋章を組み立てるための反作用で出る強い圧迫感を心臓に受けながら、何度も紋章を組み立ては彼に放ち、また崩しては元に戻して彼に放つことを繰り返した。全身が汗だくになっても、頭が朦朧としてきても、私はそれを実行し続けた。知識だけでは意味がない、それを使わなければ、知は何の意味も持たない。彼が、自ら持つ知恵を子どもたちに与えていくように。
 目を開けてしまえば集中力が途絶えるので、ずっと目は閉じたままだった。両手にある彼の体温だけを頼りに、延々と術を唱え、放ち続けていく。

(もう何も失いたくないの)

 瞼から透き通る、淡い光が、どうか途絶えないように。





 私、また失うの?



 いいえ



 私、また失うの?



 いいえ



 私、もういやだわ



 ええ



 かなしいのは、いやだわ



 ええ



 もう、なにも、失いたくないの



 ええ



 ねえ、私、また失うの?



 いいえ、あなたは、もう失いません



 私は、また失うの?



 あなたは、もう失いません。
 この世には多くの失わねばならないものがあるけれど、あなたがその悲しみに呑み込まれないように、僕があなたを守ります。
 あなたは、決して僕を失うことはないでしょう。
 あなたの傍らに、僕はいます。
 あなたが、それを望むのであれば……











 ふと、目を覚ます。
 見えたのは、何かの底だった。木製の、差し迫った天井のような底。これは毎朝、僕のいつも見る景色だった。僕は今、ベッドの下段に寝ているらしい。
 何度か瞬きをすると、辺りが明るいことに気付いた。右手にある窓からこぼれる、淡い光。まぶしくて、視力が落ち着くまで目を慣らす。
 朝だ。ベッドから身体を起こすために、まず左手を動かした。だが、なぜか上手く動かなかった。何かか僕の手をつかんでいるようだった。疑問に思い、目だけでそちらを見やると、赤い何かが――赤い髪が見えた。見覚えのある、燃えるように赤い、しかし柔らかな優しさを持っている、あの美しい髪が。
 彼女は、僕のベッドに顔を伏せて、僕の手を握ったまま寝ているらしかった。定期的に、肩が上下している。左手を動かさないように、右手だけを使って起きようとしたが、あいにくベッドの上段と下段の合間の高さが足りず、起きあがった瞬間に上に頭をぶつけてしまった。
 びくん、と彼女の肩が揺れる。

「あ」

 僕が思わず小さな声を上げると、目覚めたらしい彼女はゆるゆると顔を上げた。彼女も朝の光が眩しかったようで、少ししかめ面をしてから、僕を見る。途端に彼女は目を丸くした。美しい、水晶玉のように透き通った視線が、僕を貫く。

「……ノエル」

 彼女が、驚愕したような声を出した。僕は何事かと思いながら、彼女を見つめ、何かを不安がっているのかと思い、彼女がきつく握る左手で、同じく強く握り返した。
 彼女の目に、みるみるうちに涙が溜まる。それは透き通る青い宝石が独りでに水を溢れさせたように、清く、美しい光景だった。

「起、き……た……」

 掠れた声で、彼女が言う。唇を噛み締めている彼女の顔が泣き崩れようとしているのを心配に思って、僕は、彼女の左頬に自分の右手で触れた。

「チサトさん?」

 僕が彼女の名を呼ぶと、彼女は、くしゃりと顔を歪め、両目から涙を流し始めた。僕の左手を痛いほど握ってくるので、僕も彼女が痛くならない程度に、同じだけ握り返した。頬は、涙でカサカサになっているらしかった。そこにまた涙を流せば、もっと肌が荒れてしまうだろう。僕は彼女の涙が頬を襲わないように、手のひらをぴったりと頬にくっつけてやった――右頬は、左手が握りしめられているために覆ってあげられなかったが。

「ノ、エル……ノエル、ノエ、ル」
「はい」

 彼女は顔を伏せると、震え、繋がれている僕と自分の手の上に、自分の額をくっつけた。僕の指先を、彼女の髪が微かにくすぐる。

「良かった……」
「……」
「良かった、ほ、ん……良かっ……」

 顔を伏せてしまったせいで、頬を覆っていた僕の右手が行き場をなくしたので、今度は、泣いている彼女の頭をゆっくりと撫でてやった。肩を震わせて、ひたすらしゃくり上げている彼女を見つめながら、僕は沈黙していた。どうして彼女は泣くのだろう、確か、僕は、昨日(だろうか?)の夜、妙に身体が寒かった。酔ってしまった彼女を介抱し、論文を少し進めた後にベッドの上段で就寝したのだが、その時、異様な寒気を感じていたのを覚えている。熱でも出たのかと思い、念のために薬用ハーブを服用して眠ったのだが、そういえば、それ以降の記憶はない気がする。そもそも自分はなぜベッドの下段に眠っているのだろうか? 彼女が下段で寝たために、僕は上で横になっていたはずなのだが――

「チサトさん。あの……」

 僕は戸惑いを覚えつつ、泣きじゃくる彼女にそっと呼びかけた。だが彼女は顔を上げられないようで、僕は、泣き続ける彼女の髪を、落ち着くまで撫で続けていた。ふと気が付くと、部屋のテーブルに、誰かが伏せって眠っている。男性のようだが、顔が見られないので、誰だかは分からない。
 一体、何があったのだろう。
 しばらくして、呼吸がようやく落ち着いた彼女が、頭を上げた。僕は彼女を撫でる手を下ろし、泣いてボロボロになっている顔を見つめた。

「チサトさん? あの、何が……」

 彼女は息を整えるために何度か鼻をすすり、

「ううん。なんでも、ないのよ」
「なんでもなくないでしょう? 泣いているんですから」
「これは、嬉しくて泣いているのよ」

 目元を指先で拭い、微笑みながら、言う。

「ノエルが私の傍にいてくれて、私、とても嬉しいの」
「僕が?」
「私、ただ」

 彼女は僕の左手を両手で包み込み、また、強く握った。

「ただ、あなたのそばにいたいのよ。あなたを失わないために。あなたが元気でいることを、ずっと、ずっと知っているために」

 彼女の言葉に、僕は、純粋に驚いて、目を見開いた。彼女は、僕の驚愕した顔を見て可笑しそうに笑み、片手を伸ばして僕の頬に軽く触れた。彼女がまさか今そんなことをするとは思わなくて、僕は、少し動揺した。

「チサトさん?」
「汗をかいてしまったみたいだから、お風呂に入ってくるといいわ。あ、でも……術がないと沸かせないか」
「いや、それは、僕がやりますが……」
「私が火を熾せるかしら?」
「え? いえ、実際に手で火を熾すとなると、かなり大変ですから、僕がやります」

 僕がベッドから降りようとすると、彼女は、急に僕に抱きついてきた。

「チ、チサトさん!?」

 すぐ横に来た赤毛を見て、僕は慌てふためく。彼女はかまわないといった様子で、僕の首元に強く抱きつき、言った。

「私、またここに来てもいい?」

 彼女の言葉に――彼女の、まるで祈りのようなその響きに、僕は少し神妙な気分になり、おそるおそる彼女の背中を抱き返した。普段、彼女は格闘技をしている人間ではあるが、女性であるし、華奢な身体だと思った。僕が背中を撫でてやると、彼女はくすぐったそうに笑い声を漏らす。
 僕は、彼女の耳元で、彼女の問いに答えた。

「ええ、もちろん。いつでも、いらっしゃい」

 彼女は僕からそっと身体を離し、満面の笑みを浮かべて、うん、と頷いた。





 途方もない時間、つたない祈りの呪紋を作り出し、その負担で意識が薄れていくことに、彼女が必死に抵抗していた時。
 彼女の意識を留まらせていた、優しく響く言葉があった。

 あなたは、もう失いません
 あなたの傍らに、僕はいます。
 あなたが、それを望むのであれば。

 たとえ遠い宇宙の果てであっても、僕は、永久にあなたを想い続けていることでしょう。
 愛しい愛しい、あなたのことを。