その日は、とても晴れた休日だった。ハーリー漁港の向こうに広がる海は穏やかで、青い空が白い雲を引っ張りながら水平線まで続いていた。気温は高くも低くもなく、風も穏やかなので、今日は外を散歩している街の人たちが多く見かけられた。時おり船が到着すると、そこからもぞろぞろと大きなカバンを持った人々が降りてくる。最近、船賃の値下げがあったことと、ハーリーに次々と新しいレストランができたことで、この街もだんだんと観光地化されているようだった。
 休日になると、私は大抵、マーズ村近くの森の彼の小屋まで出向くのだが、その日は次の平日までにやらなければいけない原稿があり、彼を訪ねるのは断念して、カフェで一日過ごそうと港付近を歩いていた。本当に今日はいい天気だ。そんな中、手に資料と原稿用紙の入った袋を持って執筆しようだなんてけっこう損なことだと苦笑しつつ、カフェの入り口に立ってドアを開けようとすると、すぐ傍で聞き覚えのある声がした。

「あれ?」

 自分が呼びかけられたのかと思い、私は、そちらを振り返った。予想だにしなかった人物が視界に入り、私はこれでもかというほど目を丸くして、半ば絶叫のような声を上げてしまった。

「ノ……ノエル!?」

 同じくカフェに入ろうとしていたらしい、少しよそ行きの格好をした彼が、私の後ろに立っていたのだ。私はカッと身体の体温が上がる感じを覚えた――なぜこんな身体が熱くなるのか分からないが、最近、彼に会うといつもこんな感じだった。カフェのドアノブに手をかけたままパクパクしていると、少し困惑気味に「早く中に入った方がいいのでは?」と促されたので、私は慌ててカフェのドアを開けた。ドアに掛けてあるベルの涼しげな音が鳴ると、店内にいた顔なじみのボーイが軽く会釈をして挨拶してくる。
 私は挨拶を返しつつ、先ほどの興奮も収まらないまま、後ろからついてくる彼に尋ねた。

「え、ちょ、なんでノエルがここにいるの?」

 彼は白のワイシャツとすっきりとしたベージュ色のズボンを着こなし、手には彼のお気に入りらしい古びた革のアンティークカバンを持っていた。私はいつも座っている店内の窓際の席へ向かったが、彼は、立ち止まって店の中をきょろきょろと見回していた。
 私は、不思議に思って彼に訊いた。

「あ、もしかして、ここで待ち合わせ?」
「ええ……」

 まだカフェの中に待ち合わせの相手はいなかったらしく、彼は、のろのろと私の座る席の方へ歩いてくる。

「仕事でして」
「仕事?」
「ええ。リンガから研究員が来るんです。あ、相手が来るまで、ここに座っていてもいいですか?」

 二人掛けの席の私の前の席を指差して、尋ねてくる。私は、こくこくと頷いた。
 彼が前に腰掛けると、私の心臓の鼓動は更に速くなったような気がした。顔がだんだんと熱を帯びてきて、紙袋から原稿とペンケースを取り出しながらも、私の手つきはおぼつかなかった。指先が震えていて、荷物をテーブルに置き終わった私は、それがばれないようにパッと自分の膝元に手を隠した。
 注文を取りに来たボーイに、彼は冷たいロイヤルミルクティーを頼み、私はいつものコーヒーを頼んだ。彼はまた店内を眺めていて、私に目を合わせた。

「すみません、チサトさんはここで仕事でしたか?」
「あっ、う、ううん」

 挙動不審になっていることを気付かれないよう、私は素早くペンケースをテーブルから取り上げつつ、彼から視線を外した。

「わ、私、今日は原稿をやらなきゃいけなくて」
「やはりお邪魔でしたか?」
「ううん、そういうわけじゃないの。仕事の相手が来るまで、そこにいていいわ」
「大丈夫ですか?」
「ええ。ところで、今日はどんな仕事で来たの?」

 震える手で束になった原稿を持ち上げて、一番上にある原稿を読んでいる振りをして尋ねる。彼は、革のカバンを背もたれと背の合間に置きつつ、

「研究報告です。半年に一回あるんですよ。本当は、僕がリンガに出向かなくてはいかないのですが、相手の方はハーリーに実家があるとかで、帰省するついでに僕の話を聞いてもらうことになっていて」

 私は彼に目を合わせられないまま、こくこくと頷いた。

「あ、そ、そうなんだ。よかったわね」
「ハーリーに来たのは半年ぶりですね……」

 彼が、懐かしむように言った。私が顔を上げると、彼は窓から海辺を見て、微笑みを浮かべていた。彼の白い肌に、窓から差し込む太陽の光が当たっている。先ほどの恥ずかしさはなぜか消え去って、彼の姿をまじまじと見つめてしまった。仕事着の姿など今まで見たことがなく、意外にも様になっていることに驚いたのかもしれない。

(こう見ると、一人前の仕事のできる男性という感じだわ)

 カチカチカチ、とペンの芯を出しつつ、思う。

(私の知らないところで、しっかり生きているわよね、彼は……)

 彼と比べたとき、私は果たして彼と同じくらいしっかり生きられているだろうか? 彼ほど頭がよいわけではないが、彼が認めてくれるくらいに自分の仕事がきちんとできているのかどうかが気になる。
 ペンの芯を出し過ぎたことにハッと気付いて慌てて戻していると、彼が、ふとこちらを見やった。

「どうですか、仕事の方は」

 問われ、私はデジャヴに襲われた。この訊かれ方――この状況。確か、アシュトンだ。アシュトンがエルリアから戻ってきた時に、同じ事を同じ状況で、同じ席で尋ねられた覚えがある。
 私が思わずふふっと笑みを漏らすと、彼は、不思議そうに首を傾けた。

「?」
「あ、ごめんなさい……アシュトンを思い出しちゃって」
「アシュトンさん?」

 今も彼としっかり目が合っているというのに、先ほどのような異様な恥ずかしさは、どうしてか抱かなかった。

「ええ。前にアシュトンがハーリーに来た時、まさしくこの席で一緒にお茶したのよね」
「そうなんですか。アシュトンさんは、お元気でしたか?」
「アシュトンもそうあなたのことを尋ねたわ。元気だったわよ」

 そのあと彼は私の部屋に泊まっていったとは、彼には言えなかった。私が口を噤んでいると、彼は、元気そうならよかったです、と微笑んだ。そのすぐ後にボーイが飲み物を運んできたので、私はいつの間に原稿を広げて占領してしまったテーブルの上を慌てて片づけ始める。
 冷たい氷の入ったミルクティーと、私の湯気を立てているコーヒー(加えてお得意様無料サービスの牛乳)がテーブルの上に置かれた。私は早速ミルクピッチャーから温められた牛乳をコーヒーに注ぎ入れ、スプーンでくるくると回した。

「その研究員の方は、いつ来る予定なの?」
「それが、時間的にはもうここに来ているはずなんですよね。船はけっこう前に到着したはずだし……」

 ミルクたっぷりめのアイスティーを口に含み、彼は困惑気味に呟く。

「もしかしたらハーリーのご実家の方へ向かわれて、それからこちらにいらっしゃるのかもしれません」
「そうかもね」
「そういえば、チサトさんがよく利用するというカフェは、ここのことなんですか?」

 問われ、私は彼から何を言われたのか考えた後、そういえば以前彼の小屋を訪れたときに私の好きなカフェの話をした気がする、と思い出し、頷いた。

「そうよ。ほとんど毎日来てるの。原稿を書いたりコーヒー飲みに来たり、のんびりしたりするために」
「それはいいですね」
「お店自体それほど大きくないし、あまり人も多くなくて居心地がいいでしょう? それに、海が近いし」
「ええ」
「なんだかんだ言って馴染んじゃってるのよね、この街に」

 今日書き進める予定の原稿を束から取り出しつつ、私は、口元に笑みを浮かべた。彼は、時折ミルクティーを飲みつつ、私の手元を見つめているようだった。

「もともと田舎出身だから、こういうゆったり時間が流れる場所は、かなり好きかもしれないわ」
「そうですか。
 チサトさんはセントラルシティでお仕事されてましたけど、その時はどうでした?」
「あそこは便利さで通ってた街ですからね。会社があるからそこにいたわけよ」
「ああ」
「ノエルは、ギヴァウェイ出身だったわよね。考えてみれば私たち、ネーデでは遠く離れた場所にいたのね……」

 取材に行くまでノエル博士のノの字もよく分かってなかったと私がペンを取り上げて言うと、彼はコップをコースターに置き、苦笑した。

「そうですね……。不思議ですね、今、ここに二人で座っていること自体が」

 彼の言葉に、彼は今一体どんな表情でそう言ったのだろうと気になって顔を上げた瞬間、私たちのすぐ傍に一人の男性が駆け込んできた。反射的に彼が横を向いてしまったため、表情の変化を見逃してしまい、私はなんだか少し残念に思いつつ、やって来た男性を見上げた。三十代と思われる背広を着た男性は、走ってきたのか、ぜいぜいと息を切らしていた。私の前に座っているのが自分の待ち合わせ相手だと確認すると、がばりと頭を下げた。

「すみません! 遅れてしまいました……」
「ああ、いえ」

 かまいませんよと彼は穏やかに言い、コップとカバンを持って立ち上がった。そして私の方を向き、失礼しますと会釈をし、カフェの別の空いている適当な席まで行くと、男性と二人で対面して座った。その席は、私のいる席とほぼ対角に位置している、店の奥まった方の席だった。
 私は、ペンを右手でくるくると回しながら、テーブルに頬杖をついて彼らの様子を見ていた。彼らは、席に着くとすぐにカバンから大量の書類を取り出し、テーブルに並べ始めたらしかった。ボーイが近づき、遅れてきた男性の注文を取っている。その後、彼らは手元にある書類を見つつ、真剣な表情で何かを話し始めた。
 私の場所からは男性の背中と、その向こうに彼の顔が見えていた。彼はいつにない真面目な面持ちで書類を見て、喋っているらしい項目を指で示していた。私は、彼の表情を観察していた。彼もこのように真剣な様子で仕事の話をする人間なんだなという単純な驚きがあった。
 しばらく見つめていると、顔なじみのボーイがそろそろと私のテーブルに近づいてきた。奥にいる男性たちと私を今後に見比べ、意味深な笑みを浮かべて私に問うてくる。

「チサト。あれは君の恋人?」

 黒エプロンをした黒髪のボーイ――名はシルヴェストルという――にニヤニヤとして問われ、私は彼を見上げてムッと口を尖らせた。

「そんなんじゃないわよ」
「え、嘘でしょ? だってチサト、すごく顔が赤かったし」

 彼は私より年下だが、こんな風にタメ口をきいてくるのは、常連のよしみである。からかいになんだか恥ずかしくなって、口を尖らせたまま、ゆるゆるとうつむいた。

「べ、別に……」
「彼、優しそうじゃないか。君にお似合いだよ」

 得意げに言ってくる。私は疑問に思ってシルヴェストルを見た。

「お似合いに見えるの? 性格は正反対なんだけど」
「僕の直感」

 全てコーヒーカップに入れてしまったために中身が空になったミルクピッチャーを取り上げつつ、シルヴェストルは陽気に告げる。

「君たちは結婚すると思うよ」
「けっ……結婚!?」
「僕の勘は当たるって評判なんだ」

 シルヴェストルは踵を返し、頑張ってね、とウインクをしてカウンターの方へと戻っていった。私はボーイの背中を見送り、右手でペンを握りしめ、おそらく耳まで真っ赤になりながら、言われた言葉を頭の中で反芻していた。

(結婚……結婚? だ、だって、私たちは、まだ若いし)

 あまりに恥ずかしくなってきて、もしこの紅潮した顔が彼に見られていたらどうしようと、窓の方に軽く身体を身体を捻らせ、今日中に終わらせたい原稿を手でひっつかむ。

(そんなこと、か、考えたことないわ、考えたことなんて……)

 結婚やら婚姻やらぐるぐると変な単語が頭の中を回り続け、しばらくのあいだ原稿の文字を拾うことができなかった。





「……チサトさん」

 ふと名前を呼ばれ、私はハッと目を覚ました。頭を上げると、自分が座っている席のテーブルと、その上に無造作に散乱している原稿用紙が見えた。手にはペンが握られているままで、どうやら原稿を作りながらテーブルに突っ伏して寝てしまったらしい。窓の外を見やると、だいぶ日が暮れていた。
 よだれが垂れていないかと口元をこすりながら、声の主を振り返る。

「あ」

 私に呼びかけた人物に気付いて、私は目を丸くした。彼が、私を見下ろして小さく苦笑しながら、すぐ近くに立っていたのだ。

「寝てしまわれたようですね」
「あ、う、うん、そうみたいね」

 羞恥心を覚えた私は顔を伏せ、慌ててテーブルに散らばっている原稿をまとめ始めた。その間も彼が私のことを見ているようで、頬がまた熱くなってくる。

「僕は、そろそろ帰ります」

 言われ――この時は、なぜか自分の顔が赤いだとか恥ずかしいだとかは、あまり考えなかった――私は、顔を上げて彼を見た。

「そう、なの。仕事は終わったの?」
「ええ、少し前に。相手の方はご実家に帰られました。僕はそのまま論文を少し書き進めていたのですが、外も暗くなってきたし、そろそろ帰らなければと思って」

 じっと窓の向こうを見つめて言う彼の表情は、無だった。細い目から覗く青い瞳に、ほの暗い夕日の色が混ざり合い不思議な色を作り出していて、なんとなくそれに見入っていた。少しして、彼がまた私の方を見下ろしたので、
ハッとしてテーブルの上の片づけを再開する。

「チサトさんは、まだここにいらっしゃいますか?」
「あ、ううん、帰るわ。原稿はあまり進んでいないけれど、明日も休みで原稿をする時間はあるし」
「そうですか」
「ノエルは、馬車、で、帰るのよね」

 心が暗くなっていく感じを覚えつつ、私は小さな声で尋ねた。なぜこんな自信なさげな態度になっているのだろう? 彼の住まいはマーズ村近くの森にあるし、今から帰らなければ森の中が真っ暗になってしまう。馬車の本数も休日は少ないので、のんびりしていられないのは当然なのだ。
 私の問いかけに、彼は、ええと頷き、いつもと変わらない調子で答えた。

「あまり遅くなってもいけませんから」
「そう、よね。……」

 紙袋に原稿を仕舞い終えた後も、私がぼんやりとしてテーブルを見つめているのに気付いたらしい彼は、不思議そうに問うた。

「どうか、しましたか?」

 心配そうな声に、私は、思いついたことをあまり深く考えずに口に出してしまった。

「ねえ。うちでご飯食べない?」

 自分の言葉に、私は、頭の片隅でひどく驚いていたが、一方で、彼がどういう反応をするのか気になってもいた。反射的に出そうになる「嫌だったらいいのだけれど」という言葉をどうにか喉の奥で呑み込んで返事を待っていると、彼は、目を丸くした後、困ったように微かに笑んだ。

「あの……お気持ちは、嬉しいのですが」

 その一言に、私の心が小さく軋んだ。

「あ、そ、そっか……ごめんなさい。何か予定があったりするのよね」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
「?」
「……」

 彼が、珍しく戸惑っている。私は、ふと、以前アシュトンも似たような反応をしたことを思い出した。
 ――もしかしたら。

「……もしかして、遠慮してる?」

 おそるおそる問うと、彼は、はあ……と苦笑いを浮かべつつ、曖昧な声を出した。

「なんだか、悪いですし」
「え、い、いいのよ? 全然遠慮しなくて。私、いっつも独りだし、その、料理も苦手ってわけじゃないから……あ、でも、ホント、ノエルの気が向いたらでいいから」
「……いいんですか?」

 彼が、照れたように首をかしげて、私に尋ねてきた。そんな仕草に、思わず。

(可愛い……)

 うずうずしてしまう。

「う……うん」
「なら、お邪魔しようかな」

 彼がぼそりと言ったので、心の中がパッと明るくなったようだった。どうしてこんなにも心の起伏あるのか分からないが、とにかく私の申し出を受けてくれたのが嬉しくて仕方がなかったのだ。
 私は紙袋を持ち、コーヒーの代金をテーブルの上に置くと、彼と出入り口の方に向かいながら、カウンターの中にいるシルヴェストルにさよならを言った。洗い物をしていたボーイは顔を上げ、私の隣にいる彼をちらりと一瞥してから、パチンと得意げにウインクしてきた。途端に身体が熱くなる感じを覚えて、慌ててドアを開け、そそくさとカフェの外に出た。
 私たちは、アパートがある街の北の方向に歩き始めた。横に並んで歩いている彼の気配に、どうしようもない恥ずかしさと焦燥感を覚えながら、私は果たしてここで何を喋るべきかと考えていた。よくよく思い返してみれば、彼とはこのように二人きりで街を歩いたことなどないし、普段彼の小屋に遊びに行っているくせに、私は彼を一度も自宅に呼んだことがなかった。それに、彼を自宅に呼んだというその事実が、もしかして自分はとんでもないことをしでかしているのではないかという気持ちを引き起こして、脳内は半ばパニック寸前だった。
 二人黙り込んで歩いているので、徐々に気まずい空気が流れ始める。私は、とにかく空気を和らげるために適当な言葉を声に出した。

「えと、あ、あの、何が好き?」
「え?」

 不思議そうに、彼が私を見下ろす。目が合い、私は何がなんだか分からなくなって、あ、あ、と明らかに挙動不審な声を出しながら、自分の口元に震える手を寄せた。

(なんでこんな緊張してるのかしら!? 単に一緒にご飯を食べるだけじゃないの)

 きっと耳まで赤くなっているだろうが、今は辺りが暗いので、彼にばれることはないだろう。気を取り直し、ええとさっき何を言ったんだっけ……と必死に思い出し、後を続ける。

「そ、そういえば、ノエルは魚介類が好きだったわよね。家に生ものは置いてないから、何かを買って行きましょうか」
「え? ああ、いいですよ、気を遣っていただかなくて。好き嫌いもあまりないので、ご自宅にあるもので全くかまいませんよ」
「でも、ほら、お客様だし……あっ、で、でも、気を遣っているわけじゃないわ、そうじゃなくて、どうせなら何か美味しいものをって……ハ、ハーリーの特産物とか」
「――ふっ」

 急に、彼が吹き出す。見上げると、彼は口元に手を当てて、くすくすと笑っていた。

「ノエル?」
「あはは……」

 彼は、珍しく声を上げてひとしきり笑った後、はあ、すみません、と笑いで涙が滲んでいる目元を指先で拭った。

「チサトさん、なんだか、さっきから挙動不審だから」
「そっ、そうかしら?」
「緊張されてるんですか?」

 にこりと笑みを浮かべて問われ、私は少しムッとした。

「そんなことないわ?」
「緊張されてますよ、伝わってきますから。あんまり具合が悪くなってもよろしくないし、僕、帰りますね」
「えっ!?」

 途端に心に冷たい重みが走って、思わず大きな声を上げてしまった。彼が驚いたように私を見てくる。
 自分が変な反応をしてしまったことに戸惑いを覚えつつ、立ち止まり、おろおろと言葉を探した。

「あ、そ、そう? ご、ごめんなさい、なんだか私、さっきからおかしいのかしら……」
「……」
「ええと、その、わ、私に関しては、全くノエルが気を遣う必要なんてないのよ? 私があなたを呼びたくて呼んだわけだし……でも、それによってあなたに余計な気を遣わせてしまうなら、私」
「チサトさん」

 彼が、私の名を呼ぶ。おそるおそる目線を上げると、正面に立ち止まっている彼は、私を見下ろしつつ、優しげな――どこか悲しげにも見える微笑を浮かべていた。彼はゆっくりと自分の右手を動かすと、なぜか下に垂れていた私の左手を取った。手から体温が伝わってきて、心臓がドクンと跳ねる。

「……!?」
「チサトさん、安心して」

 穏やかな声で言われ、私は繋がれた手を見つめて、黙り込んだ。彼の指先が私の手の指に絡まってきて、まるで恋人同士の手の繋ぎ方のようになっている。しかし、それぞれの指の合間に柔らかな低い体温が触れて、彼の言葉通り、不思議と私の心は落ち着いていった。それでも依然、身体が火照っていることには変わりなかった。私が黙り込んでいると、彼は微笑を含んだ声で、

「ならば、僕は、帰りませんから。チサトさんとお夕飯をご一緒させてください。それから、あなたのこの街での話をよく聞いてみたい。僕にも、あなたと話したいことがたくさんあります」

 言われ、私は、彼の顔を見た。彼は、いつもの穏和な表情で、優しい目をしていた。
 私は、なんだか泣きそうになって、繋がれた左手に、少し力を込めた。

「……うん」
「チサトさんの家まで案内していただけますか?」

 彼もまた、握る手に軽く力を入れてくる。手を繋いだまま、私のアパートまで行こうという合図だろう。なんだかとても嬉しくなって、彼を上目遣いに見て頷いた。

「はい」

 彼は、嬉しそうに、にこりと笑った。





 私の自宅は、ハーリーの北側を上ったところにある。街の一番低い所から階段を百段ほど上がり、まだ上に続く階段のある広場で分かれている街路を左手に少し入っていく。同時期に建てられたと思われる、小さな三階建ての赤い外観が可愛らしいアパートが数軒並んでいて、私はその一番手前のアパートの三階に住んでいた。エレベータのようなものがないので、狭くて急な階段を上らなくてはならず、荷物が多い時などは大変なのだが、同じ建物に住んでいる人たちが温かい人ばかりなので、住み心地はいい。家賃は安くもなく高くもなく、独りで住むには特に文句もない部屋の広さだった。
 私の借りている部屋には、玄関から進んでいくと右手に台所、左手に洗面所と風呂場、お手洗いがあり、奥に進むとベッドや机の置いてある八畳ほどの部屋がある。私は赤色が好きなので、カーテンやベッドカバーも目に痛くない程度の赤色で統一していた。同僚たちが来ると皆「あなたらしいね」と言ってくる部屋だった。
 二人で緩く重ねていた手は、階段を上るために、アパートの前で放されていた。玄関の鍵を取り出しながらも、指先に彼の体温が残っている感じがして、私はたまらなく恥ずかしく、顔は、ずっと赤かったに違いない。もともと無口な彼は言及もせず、微笑を浮かべて私がドアの鍵を開けるのを待っていた。
 中は散らかってなかったわよね――ぐるぐると考えつつ、ドアを開け、玄関に転がっていたサンダルを足でこっそりと横に除けると、彼を中に入るよう促した。彼は、すみません、お邪魔します、と軽く頭を下げ、おずおずと玄関から中に入った。

「そのまま奥に進んで。今スリッパを出すから」
「あ、はい」

 私はドアを後ろ手に閉めると、玄関の横手にある棚から使っていないスリッパを一足取り出した。私の部屋にはわりと頻繁に同僚が来るので、お客様用の道具一式は色々揃えているのだが、大抵は親しい間柄で自分専用のスリッパを私の家に置いていたりする人間たちなので、彼のような真のお客様が来ると、かなり気を回さなければならなかった。私は清潔なスリッパを持ち、奥の部屋に行く前にあちこち汚れていないか点検して、彼が先に入った自分の普段過ごす広間(私の借りている部屋では一番の広間)へ向かう。
 彼は、カバンを持ったまま突っ立って、興味深そうに私の部屋の中を見回していた。

「はい、スリッパ。革靴のままじゃ過ごしにくいでしょ……机のとこの椅子で履き替えて。それからカバンも預かるわ」
「あ、ありがとうございます」

 彼は言われるがまま私にカバンを手渡すと、私が勉強したり原稿をこなす机の前の木の椅子に腰掛け、用意したスリッパに履き替え始めた。私はなんだかドキドキしながらカバンをどこに仕舞おうか考えて、天井まで届いている赤い棚の空いている場所にそっと置いた。私もカバンをクローゼットの中に仕舞うと、慌ただしく部屋の中のオイルランプをつけ、台所へ行き、冷蔵庫の中身を確認した。この世界には電気が通っていないため、紋章術を特殊に使用した仕組みで庫内を冷やすらしいが(そういう妙に高度なことをしているせいで、購入時、冷蔵庫はなかなかの価格だった。しかし考えてみれば値段以外はエコロジーである)、実際のところ、内部はそれほど冷えていないので、たとえ置いたとしても生ものは一日しか保たなかった。
 最近野菜を摂ることを心がけていたので、野菜は庫内にゴロゴロと転がっていた。サラダ、煮物、野菜炒め……などと色々考えながら中を漁り、ソーセージが見つかったので、私は思い立って部屋にいる彼に呼びかけた。

「ね、ノエル、ポトフはどうかしら?」

 台所のある廊下から真っ直ぐ正面に見えるところに机があるので、その前に座っている彼がスリッパに掃き終えていたのが分かった。彼はこちらに振り向くと、はい、好きです、とにこりと笑った。

「作れるものでかまいませんよ」
「そう? じゃあポトフにするわね。あ……もしよかったらベッドに座ってくれてもかまわないわ。というか、部屋の中は自由に使って」
「はい」
「いつも私があなたの部屋に入り浸っているんだもの、同じくらい、私の部屋でもくつろいでくれないと困るわ」

 私の言葉に、彼はやはり困惑気味に苦笑した。初めて来た他人の部屋である、遠慮の方が大きいのだろう。とりあえずご飯を作るから待っていろと告げ、冷蔵庫から菜っ葉やら根菜やらを取り出すと、素早くそれを洗い、まな板の上で切り始めた。
 沈黙が続いたが、依然動き回らずに机の前に座っている(椅子が机に対して正面ではなく横を向いているので、私からは横顔が見える)彼が、不意に、口を開いた。

「チサトさん、料理は得意なんですか?」
「私?」

 私は、物を切っているために自分の手元を見たまま答えた。

「好きよ? 得意なことは?って訊かれたら、体術と料理って答えるもの」
「それは、なんだかたくましいですね」
「ふふっ、そうね。でもね、こう見えて私……」

 言いかけて、私は先ほどシルヴェストルに言われた言葉を思い出した。

 君たちは結婚すると思うよ
 
 頬が熱くなる。なんだか今日は、顔を赤くしてばかりだ。

(意識するから、いけないのよ)

 コホンと小さく咳払いし、言葉の続きを待っている彼の方には振り向かず――振り向くことはやはりできず――包丁を動かす手を見つめたまま、続ける。

「昔の夢は、お嫁さんになりたい、だったんだから」

 言った後、とんでもない羞恥が襲ってきて、自分が今そう言ったことに対し、激しく後悔した。茹でタコのように真っ赤になった顔を見られなくて彼に背を向けたいが、調理をしている時にそんなことをしたら不自然だ。私は、極力動揺している様子を見られないよう、平静を保っているように見せかけて、包丁を変わらぬペースで動かすことに努めた。
 彼は、おや、と意外そうな声を出した。

「そうなんですか? 僕はてっきり、チサトさんは仕事一筋で生きていくのかなと思っていたのですが」
「今は、そうよ」

 声がうわずらないよう、気をつける。

「でも、いずれは結婚して、子どもも生みたいのよね。生活は、仕事をしながらでもできるわ」
「それは、そうですね」
「けれど、まだ先ね。今は仕事が忙しいし、会社を立ち上げてからそんなに時間も経っていないから、その面倒を見なきゃいけないし。 あと数年は、結婚は無理よ」
「ええ」

 平然とした返答に、私は徐々に不安を覚えた。表情を見ていないから分からないが、私の将来のことを聞いても、まるで無関心そうな様子で応えている。
 もしかしたら私のことに興味がないのかしら?と、私は深刻になった。だが、頬は赤いままだろうし、彼と視線を合わせる勇気がどうしても持てない。根菜を切り終えてボウルに放ると、次は菜っ葉をざっくりと切り始める。

「……。
 ノ……ノエル、は……」

 このまま釈然としないのも嫌なので、私は手を動かしながら、思い切って彼に尋ねてみた。

「ノエルは、いずれは結婚したいって、お、思ってるの?」

 ざくん、と菜っ葉を切り終えた私は、もうどうしようもなく叫び出したい気持ちになった。一体自分は何を訊いているのだろう? これではまるで自分が彼の結婚に興味を持っているようではないか――と考えて、私はふと気が付いた。
 
(あれ……私。もしかして、彼の好きな人を知りたいと思ってるのかしら?)

 考えてみれば、アシュトンは以前「ノエルさんはチサトさんのことが好きなんですよ」と言ったが、それは、私が直接彼本人から訊いた事実ではない。こんなことを彼に堂々と尋ねているのは、真実を常に追い求めたい私の癖から発生したものなのかもしれない。そう思うと、少し心が落ち着いた。仕事の感覚になったのだろう。
 彼は、問いに、特に戸惑いもせずに答えた。

「ええ、そうですね」

 私は、別のボウルに菜っ葉を入れつつ、彼の方を向いた。彼は私の方は見ておらず、座ったところから正面に見えるベランダの外を眺めているようだった。そういえば、部屋のカーテンを閉めていなかった気がする。その横顔はいつもの微笑を浮かべていたが、まるで私のことを気にしてはいなさそうで、私は、なぜか傷ついた。

「……」
「いずれは」

 静かな返答をする彼を見ていられなくなって、黙ったまま煮物用の鍋を棚から取り出すと、それに蛇口から水を入れ始めた。

(そもそも、なんで、私、こんな動揺してるのかしら)

 原因の分からない悲しい気持ちが、じわじわと心を侵食していく。

(だって、別に、私は、彼のことを好きだとかそういうわけじゃないんだから……)

 しかし、自分がそう考えたことに対し、何かが違うという違和感が生まれていることもまた事実だった。ぼんやりとしているうちに鍋の水が溢れだし、私は慌てて余分な水を捨て、鍋をコンロの上に移して火に掛けた(この世界には一応ガスはある)。ボウルに入れておいた根菜を手で掻いて投入しながら、すでに自分の火照った身体が冷めていることに気が付いた。

(仕草ひとつひとつに左右されて……それじゃまるで、私が彼のことを好きみたいじゃない)

 それも一つの可能性であり、否定はしなかったが、今の彼のあっさりした態度からすると、もし彼への恋を確信したら後々傷つきそうなことは目に見えていた。

(アシュトンの言葉なんて、嘘なんじゃないのかしら)

 じっと鍋の水が見つめ、沸騰するのを待つ。そういえばコンソメを入れていなかったと思い、調味料棚から瓶を取り出して、二粒程度放り込んだ。
 沈黙が続き、私たちの間に流れる空気はかなり気まずくなっていた。彼はあまり自分から喋ってくれない人間なので、本当は私から話しかけてあげたいのだが、なかなか言葉が口をついてこない。どうしよう、もしかしたらこのまま気まずいままなのかしらと半ば落ち込んでいると、同じく空気を変えようと思ったのだろうか、先に、彼が口を開いた。

「チサトさんは」

 名前を呼ばれ、びくりとして彼の方を見る。彼は、私の方に視線だけ向けていた。

「チサトさんは、僕らの血がエクスペル人と混じり合っていくことについて、どう思われますか」

 問われ、私は納得した。彼の先ほどの無関心な態度は、それについて考え込んでいたためのようだ。
 安堵して気を取り直し、彼の質問を頭の中で反芻すると、そのことは私もしばしば思っていたことよ、と切り返した。

「でも、それも案外、私たちの使命かもしれないわ」
「使命?」

 首をかしげてくる。私は、ええ、と頷き、

「ナール市長が私たちを逃がしたのは、多分、血を絶やすなということでもあったと思うの。ネーディアンという存在を零にしないでほしいという希望もあったのかもしれないわ」
「最後の希望、ですか? けれど、ネーデが消えたのは、ネーデを滅ぼすためでもあったのですよ」

 彼の真剣な低い声を聞いて、私は心が冷静になった。私の中では、ネーデとエクスペルと私たちのことについては、すでに自分の感情とは切り離された場所に存在していたのだ。

(それは、割り切ったからよ)

 沸騰し始めた水の中に菜っ葉を落としつつ、尋ねた。

「私たちも滅ぶべきだったと、あなたは思う?」
「分かりません」

 彼は無表情で――しかしどこか苦しげにも見える表情で即答した。

「ただ、これは、ネーデによって歪められた歴史でもあります。エクスペルは現に消滅し、再生した。それはネーデ本位のことであり、時間の流れからすれば異常なことでもあります」
「確かにね。元凶はランティス博士と十賢者ですからね。この星は、ただ私たちの都合に巻き込まれただけよ」
「あなたは、その元凶の痕跡を、このエクスペルに残していいと思いますか? この星からすれば害虫にも近い我々を」
「害虫?」

 彼の言い方にショックを受け、静かな怒りが起こった。彼は、先ほどと同じ無の表情で、私のことを見つめ返している。
 私は鍋に蓋をすると、つかつかと近寄り、椅子に座っている彼を見下ろした。

「あなた――もしかして、私たちが消えて無くなればいいと思ってる?」

 私の震える問いに、彼は、目をそらした。

「そう思ったこともあります」

 ガンと強い衝撃が走る。まさか彼がそんなことを?と私は信じられない心地になった。呆然としている間、彼は険しく眉をひそめ、じっと、ベランダの向こうに広がる暗い空を見つめていた。
 少しのあいだ黙った後、彼は、ゆるゆると重たげに口を開いた。

「自然なことではありませんから、これは」
「……ちょっと、待って。ねえ……」

 私は、なんだかひどく泣きたい気持ちになった。目の前にいるこの不動の人が、立派な人が、尊敬にも値する人が、自分たちは害虫であり、害虫は消えてしまった方がいいと思っていたことに、純粋な悲しみを覚えた。

(だって、あなたは、私を今まで支えてくれていたじゃない)

 彼の、ここに存在しているという現実味を帯びない表情に、私は彼が今にも消えて無くなりそうな気がして、彼の肩にそっと手を置いた。驚いたらしい彼は、小さく身体を震わせた。

「ノエル、もしかして、あなたは……
 自分がこの星から消えるために、死のうと、思ったことが、あるの?」
「……」
「……あるのね?」

 私は崩れ落ちそうになりなから、言った。彼が、肯定の沈黙をしていることにどうしようもなく悲しくなり、たまらなくなって――目の前にいる大事な人を決して失いたくなくて――私は、ほとんど反射的に、後ろから彼の頭をぎゅうと抱きしめた。

「やめて、よ」
「……チサトさん」
「置いていくって、いうの? 私を」

 じわりと涙が溢れてくる。

「私を、独りぼっちにするっていうの? また、あなたは、私を、独りに……」
「……」
「私たちがエクスペルにとって害虫で、私たちにはこの星に対して敵にならなければいけない責任があって、そのためにあなたが死ななきゃいけないなら、私も、あなたと一緒に死ななければならないわ」
「……」
「……で、も」

 涙が頬を滑って、彼の髪の上に落ちた。嗚咽が出そうになって、唇を噛み締めて、彼の首に自分の顔を伏せる。
 また、私は、彼の前で泣いている。本当は誰にも泣き顔など見せたくない――が、しかし、今回ばかりは、泣いてでも、彼を止めなければいけないと思った。
 彼を失うのは嫌だったのだ。

「でも、ね、え、死ぬだなんて……
 私、そんなこと……ノエルが、思ってたなんて……知らなかった。
 あなたは……自分自身、と、私、を……殺すつもりだったの?」
「……チサトさん。僕は」
「それとも、あなただけ、逃げるつもりだった?」

 私の問いに、彼は、深くうなだれた。

「……そう思ったことも、あるんです」

 落胆した言い方に、とうとう悲嘆で胸がいっぱいになった。

(どうして?)

 ああ、この気持ちは。

「……ひ、どい。
 ひどいわ、ノエル」

 大切な星を失った時と、全く同じだ。

「ひどいわ。私を、独りにするつもりだったのね」
「……」
「自分は逃げて、けれど、お前だけは生きろって、あなたは私に言うんでしょう? あなたは優しいから、どうかチサトだけは生きてって。
 ねえ、また……? また、私は、失わなければ、いけなくなるの?」

 私は、悲しくて、思わず笑ってしまった。面白くも楽しくもないのに、あまりのショックに笑うしかなかった。

「あなたは……いつか、自分が自然の摂理に反するからって、いてはいけないからって、消えてしまうのね? この星の、宇宙の、自然の秩序を守るために……
 ああ、嫌……駄目だわ、駄目……心が、痛い……」
「……チサトさん」
「また、消えて、あなたも、消えて、その、恐さ、を、また……
 ああ……駄目、嫌……もう、独りになるのは……」
「チサトさん!」

 彼は、だんだんと力を失っていく私の身体を払いのけて立ち上がると、振り返り、倒れ込みそうになる私の身体をぎゅうと抱きしめた。
 服越しに、彼の体温が伝わってくる。
 しかし、もう、そこには羞恥も驚愕もなく。
 あるのは、ただ。

「……ノエル」

 恐怖だけだった。

「……
 あなたも、いつか、消えてしまうのね」
「いいえ、チサトさん。
 僕は消えません」

 彼は私の左肩に顔を埋め、強い口調でそう言った。私の身体と頭に手を回し、苦しいくらいに抱きしめてくる。

「決して、消えません」
「……」
「あなたは、もう、あんな悲しみを味わうことは二度とないんです」

 彼のその口調は、失ったものたちへの悼みと、苦悩と、それを乗り越えようとする強さと、そして、私への懇願に満ちていた。

「僕は、あなたより先に死ぬこともしません」
「……そんなの、分からな」
「いいえ」

 鋭く、私の言葉を遮る。

「死にません。僕は、もう、あなたを悲しませたくはない」

 彼の“確信を持っていることを演じている”その口調に。

「ノエル」

 涙が止まらなくなって、顔をくしゃくしゃにさせて、激しく嗚咽を漏らした。

(あなたは、決して嘘をつかない人なのに、私を守るための嘘はつくのね)

 切なくて、たまらなかった。

「……」
「だから……」

 彼は私の髪に指を差し入れ、頭を軽く押さえて、泣きじゃくる私の額を肩に押し当てた。

「あなたは、絶対に独りではない」

 滅多に感情を表現しない彼の、垣間見えた本心から発する強い言葉に、私も同じように“確信を持って”頷いた。精一杯腕を伸ばして彼の背中に回し、両手でぎゅうとシャツを握りしめる。

「信じるわ」

 今、私たちの間に交わされた約束は、二分の一の確率で崩れ落ちてしまう。彼が私より先に死んだ時に、私はきっとまた失望し、今度こそ真の孤独に陥ってしまう。
 私は本来、嫌だった。真実でもないことを真実だと思い込むのは。それは職業柄というのもあるし、もともとの性格でもある。嘘偽りというものが生み出すものは大抵よくない結果に終わることが多い。だから隠し事をするのも嫌だったし、易々と嘘をつく人も大嫌いだった。
 けれど、彼は。

(私を嘘で守ろうとしてくれている)

 私も、彼の身体を強く抱きしめ返す。

「ねえ、ノエル」
「はい」
「私も、あなたを悲しませたくないわ。でも、あなたに守られるばかりなのも、嫌よ。私だって、あなたを守りたいの。
 あなたは葛藤してるのね、ネーデ人としての孤独と、この世界での自分の在り方に」
「……」
「ねえ、そのためには、私はどうしていればいい? 私はあなたにどうすればいい?」
「何もしなくていいんです、頑張る必要はありません。あなたは、ただ……ときどき僕の小屋に来て、元気な姿を見せてくださればいい」
「それだけ?」

 彼の頬を両手で包むと、彼が驚いた表情になって、私は、くすりと笑った。

「チサトさん?」
「……ううん。なんでもないわ」

 私は悪戯っぽく言って、彼の顔から手を遠ざけた。もう何度目か分からないほど頬が熱く、私は少し後ろに下がり、彼から離れた。急に顔が見られなくなってしまい、そういえば鍋が心配だと呟いて、涙に濡れた目元を拭いながら、そそくさと台所に向かった。





 ポトフは、美味しくいただいた。下手にお客様向けに気合いを入れると料理とは失敗しがちなものだが、今回は急に予定が決まったせいでいつも通りの調理しかできなかったのが幸いしたのだと思う。
 ひとり暮らしの部屋で二人掛けのテーブルはないので、来客用折りたたみテーブルを部屋の真ん中に置き、そこにパンやナプキンを並べ、机から持ってきた椅子に彼が座り、ベッドには私が座って、半ば立食の時のような状態で会話しながら食べた。以前来た同僚の置いていったワインがあったので、それを注ぎつつ、今日の彼の仕事の話や私の同僚たちの話など、他愛もないことで盛り上がった。途中、ポトフを食べながら、彼が「なんだか家族みたいですね」と少し悪戯めいた様子で言ったので、私は悔しくもまた恥ずかしくなってしまった――しかし、嫌な恥ずかしさではなく、照れに近かった。私が口を尖らせると、彼が、嫌ですか?と尋ねてきたので、私は言い返してやった。嫌じゃないわ、いつか私たち、本当にそうなるかもしれないわね。すると、彼はびっくりしたように目を丸くして、微かに頬を赤くした。そのあまりの可愛さに、私は母性をくすぐられて一人で悶えそうになり、パッと彼から視線を外して、一生懸命コンソメ味のスープを飲み干した。
 彼は、馬車の最終で帰ることになった。今から戻って夜中に森の中を歩くのは危険なような気がしたが、彼は平然として言った。僕には、幸いにも紋章術がありますからね。私が、まあそれはそうかもしれないけれど、その考え方って少し物騒よと言い返すと、大丈夫、もし賊が出たら、セリーヌさんに教えてもらった眠りの術をかけますからと彼はひょうひょうとして答えた。あなたそんなものまでセリーヌに教わったの、と少し呆れてしまった――誰かを傷つけることが嫌いな彼らしいとは思ったけれど。
 見送りに、私は彼と一緒に街の出口の馬車停留所まで行くことになった。暗いので、初め彼は自分を送らせることを拒んだが、私が、いつも残業でこれより遅く帰ることがしばしばあるのよ?と言ったら、大人しくなった。次に会うのはいつになるかという話をしつつ、路地を抜けて広場に出ると、私はおずおずと彼を見上げて尋ねた。ねえ、来た時みたいに、手を繋いでもいい? すると彼は、あの困惑気味の、だが決して厭がっているわけではない可愛らしい微笑を浮かべて、ええ、もちろんと頷いてくれた。海風が吹いているせいで外は少し肌寒かったが、彼と繋がっている指と手のひらは、とても温かくて、優しくて、ほんのりと幸せだった。