その日、いつものように森の彼の小屋に来ると、玄関のドアが開けっ放しになっていた。もともと人が来ない場所なので、窓が開けっ放しになっていることはしばしばあったのだが、玄関のドアが開けたままであることは今まで一度もなかった(おそらく彼に懐いてしまった動物が入って来ることがあるからだろう)。外に出ているのかしらと探したが、玄関の前の焚き火をする場所や、東側の物干しの辺りにはいないらしく、近場から人間の気配もなかったので、やはり小屋の中にいるのだろうと、私はそっと玄関まで近づき、中を覗き込んだ。案の定、彼は中にいたが、二段ベッドの傍の机の前に座っていて、こちらには黒いシャツを着た背中だけが見えていた。私には気付いていないらしく、少し様子を窺ってみると、彼の机の上と足の周りには、かなりの量の本が散らばっていた。本棚に相当な空間ができているので、棚から抜き取った本を見て勉強をしている最中なのだろう。
 まずいところに来てしまったなと、私は少し気まずく思った。彼は魚介類が好きなので、ハーリーの知り合いの漁師から大量にもらった海老をお裾分けに来たのだが、このまま帰った方がいいだろうかと中に入ることを躊躇した。ただ、海老は生ものなので、早めに食べるか冷蔵するかしなければ傷んでしまう。ハーリーまで戻る間に駄目になってしまうかもしれないし――

(なら、渡して帰りましょ)

 それが一番いい方法と決心して、私は玄関から声を出した。

「やっほう、ノエル」

 控えめな声量で呼びかけると、頬杖をついて書き物をしていた彼は、ハッとしたように顔を上げ、こちらに振り向いた。

「あれ、チサトさん?」

 来ていらしたんですか、と驚いた様子で立ち上がる。私は、いいのよそのままで、とぶんぶん両手を振って慌てて彼を止めたが、彼は足下に積み重なっている本をそっと横に除けると、パタパタと私の方に近寄ってきた。

「すみません、気付かなくて」
「ううん。勉強中ごめんなさいね。あ、あの、これ、差し入れなんだけど」

 生の海老が大量に入っている袋を見せると、彼は心底驚いたような声を出して、私の手元を見た。

「え……これ、運んできてくださったんですか?」
「ええ。ハーリーの知り合いから、この倍はもらっちゃって。ノエル、魚介類好きみたいだから、食べるかなと思って」
「あ、ああ……ありがとうございます、嬉しいです……が、重かったでしょう?」

 心配そうに訊いてくるので、そんなことないわよと私は微笑して首を横に振った。なんてったって格闘技のできる私ですからねえ、と得意げに言うと、彼はうっすらと苦笑して、私から袋を受け取った。

「ハーリーからわざわざ申し訳ないです。ありがとうございます」
「ううん、気にしないで。じゃあ、私、これで」
「え?」

 私が踵を返そうとすると、彼は焦ったらしく、袋を持っていない方の手で私の腕を軽く掴んできた。私も、びっくりして振り返る。

「う、うん?」
「ちょ、ちょっと待って。今日はこれを運んでくるためにいらしたんですか?」
「あ、ええと……本当は、いつもみたいにノエルの家でだらだらさせてもらおうかなって思ったんだけど、勉強してたみたいだから……」
「そんな、全くかまいませんよ」

 言いながら、彼は私の腕を放し、小屋の中へと入っていく。

「論文を書いていただけで、そろそろ飽きてきた頃ですから。夕飯も作らないといけないし」

 彼が中に入れと促してくるので、いいのかしらと不安に思いつつ、私も彼の後に続き、台所で海老を処理し始める彼の近くに立った。彼はシンク下の棚から木のザルを取り出し、その中に海老を手づかみで入れていく。
 私は彼の手元を見ながら、なんとなく訊いた。

「今は、どんな論文を書いてるの?」
「今は、神護の森における齧歯類の門歯の相違についてですね」

 答えつつ、給水箱から水を出して、その水でザル一杯になった海老を軽くゆすぐ。その後、彼が淡々と海老の殻をむき始めたので、もう夕飯の用意をし始めたのかと慌てた私も、彼に近寄って、それを手伝うことにした。数十匹あるので、かなりの労働になるだろう。袋に入れる際にもう少し控えめな分量にすればよかったかもしれない。
 彼の研究テーマを耳にした私は、素直に眉をひそめた。

「なんだかマニアックな話ねえ……」
「僕も、あまり興味ないんですけどね。リンガの研究室からの依頼なんですよ」
「そうなの?」
「僕は関与していなかったんですけど、アーリア付近の森を独自で研究していた教授が亡くなってしまったらしくて。もともとあの辺りの森は目下研究中で、大学としても是非成果を上げたいということで、引き継ぎの研究員を探していたらしいんです」
「へえ」
「でも、リンガとアーリア間は距離があるし、リンガの周りでは誰も立候補する人がいない、ということで」
「マーズ村にいるあなたが適任ではないか、と」

 私が続けると、彼は、海老を剥く手元を見ながら、呆れたような溜息をついた。

「そうです……でも、僕も、動物学者といえどもまだまだ駆け出しですし。その亡くなった教授は生前なかなか面白い研究をやってらして、預かった書類の中にもかなり目から鱗な報告書があって楽しいことには楽しいのですが、僕には、ちょっと荷が重いかなって」
「そうなの? でもあなた、大学からのオファーがあったりするんじゃないの?」

 五匹目の殻がなかなか剥けず、奮闘しながら、

「ネーデでの知識もあるし」
「うーん……応用はできますが、エクスペルの事実にはなりえませんからね」

 私の問うたことに対し、彼は、残念そうに眉を寄せた。

「最初から研究して実証しなければ、駄目なんですよ、やはり」
「リンガの大学で講師をやろうって思ったことはないの? ギヴァウェイ大学では働いてたじゃない」
「依頼はありますよ。もともと動物学なんてマイナーな分野ですから、人手が足りなくて。ただまあ……まだそこまで僕も勉強しているわけではないし、エクスペル新参者の僕には、実際に目で見なければ分からないことがたくさんあるので。仕事を受けるにしても、もう少しこの星に慣れなければ、使い物にならないと思います」

 話を聞きつつ、考えてみればついこの間この星の文字を学び始めたのに、大学の小難しい資料を解読しているという時点でとんでもないことだと私はしみじみしてしまった。翻訳機があるといえども、エクスペルの文字を覚えるのもかなり早かったようだし、星に投げ込まれて一ヶ月も経たないうちに大学の資料を読みに行くと決断した人間である。一緒に会社を立ち上げた友人が、よく「学者には奇人変人しかいない」と言っているが、それもあながち間違っていないのかもしれない。彼らは、頭がよすぎるのだ。

「ねえ。ノエルって、博士号取ってるのよね?」

 手際よく十個目の海老の殻を向き、散らばった殻を手で寄せて生ゴミ袋に入れている彼は、自分の手元を見ながら答えた。

「ええ、ギヴァウェイ大学でね」
「でも、博士号っていつ取得したの? けっこう前から博士って呼ばれていたわよね? あなた」
「あ、僕、大学飛び級したんですよ」
「飛び級!?」
「ええ。教授の推薦があったからなんですけどね」
「……ひぇ〜……」

 私も一応文系の大学は出ているけれど、飛び級だなんて遠い世界の人種の話だと思ってたわ。そう私が口を尖らせると、彼は殻を剥きつつ、困ったように笑った。

「僕は、勉強が好きですからね。でも、チサトさんもそうでしょう?」
「うん?」
「報道も、永遠の学びのようなものじゃないですか。いつだって新しいものが飛び込んでくる。僕らの世界では、不定期といえども新しい発見があると相当な大事ですから、報道の真新しさには警戒心を抱いてしまうのですが」
「うーん、ま、そうねえ……でも、別に私は新しいものが好きなわけじゃないのよ。新しいものを取り入れるっていうこと自体より、自分の世界で今何が起こっているか、何が変化しているかを知って、そこで人々が何を思うか、どう行動するかということが何よりも大切なんじゃないかと思ってるから」
「ふむ……」
「結局、情報がなければないほど、人は世界に疎くなって、無関心のままでいると思うのよね。もちろんそういう生き方もあると思うけれど、それってある意味、知の停滞のような気がするの。情報が手に入らなければ、せっかく考える機会があってもそれを逃してしまうし、よりよい世界にしていくためにも時間がかかってしまう。そこの手助けをしていければいいなって私は思っているわけ」
「ああ」

 だんだん剥くことに手慣れてきたのか、彼は既に十八個剥き終えている。私はと言うと、まだ十個しかできていなかった。料理は嫌いではないが、こういった下ごしらえは面倒に思えて、かなり手こずってしまうのだ。

「ならば、僕とあなたは、相反する場所にいるということですね」

 彼がいつもの微笑をたたえて言ったので、私は少し驚いて彼の顔を見つめた後、そうね、と同じく微笑した。

「その通りだと思うわ。私は自ら変化を求めて、あなたは自然の流れるままの変化を見守っている人間だもの」
「それなのに、僕らは、なぜ一緒にいるんでしょうね?」

 彼が、笑みを崩さないまま、私に目を合わせて言った。細い目から覗く青い瞳が私を見ていることに気付いて、私は少し恥ずかしくなり、顔を伏せ、海老を剥いている自分の両手を見た。

「……なんで、かしら」
「僕は」

 彼が少し腰をかがめ、私を覗き込んでくる。私は驚いて、彼の顔を見つめた。
 私が何かを言わなくては困惑している間に、

「僕は、あなたと一緒にいられて、とても楽しいですよ」

 と、まるでそれが当たり前のような調子で言う。

「……」

 私は恥ずかしさで彼に目を合わせられなくなり、再び自分の手元を見つめた。彼がかがめた腰を戻し、また殻を剥き始めたのに安堵しつつも、その後しばらく私の心臓は大きく打っていて、頬も熱かった。

(この人、分かっててやってるんだわ)

 なんだか悔しくて、私は先ほどより急いで海老の殻を剥く。

「相反するからこそ、何かが響き合うこともあるのかもしれません」
「……そうね」
「チサトさんは?」

 語尾を上げて、問われる。彼は、私が彼に目を合わせられなくなっていることを分かっているらしく、もう私の顔を覗き込むようなことはせずに、ただ、淡々と殻を剥き続けていた。

「あなたは、僕と一緒にいて、どうですか?」

 彼の言葉が何を意図してるのか分からず、私は頬が熱く上気しているのを感じながら、視線を右往左往させた。彼がまさかこういったことを訊いてくるとは思わなかった。もしかしてこの人って相当な策略家だったりしないわよね――あるいは、私がアシュトンから彼の気持ちを伝え聞いたことがばれているのかしら? だからわざと訊いてくるの? 記者としての頭の回転の早さが徒となり、私の脳裏に様々な考えが浮かぶ。その間にも、私の身体はますます熱を帯びていくばかりだった。
 押し黙ってしまった私に気付いたのか、彼は、こちらの心境など分かっているかのように、小さく苦笑混じりの溜息を漏らした。

「すみません。要らないことを訊いてしまいましたね」

 彼の言葉に、私は反射的に顔を上げて、彼を見た。

「要らないこと、だなんて、思ってないわ」

 しかし、口をついた言葉が変に片言で、ますます頬が熱くなってしまう。彼は目を丸くして私の顔を見ていたが、ふふっと笑みをこぼすと、二人が剥き終えた海老と殻を綺麗により分けて、ザルにあけた海老をまた水で洗い始めた。

「それは、嬉しいですね」
「……」
「でも、なんだか」

 彼は洗い終えた海老の水を切り、ザルを置くと、今度は手を水で洗い始めた。

「こういうの、夫婦みたいで、僕はちょっと嬉しいんです」

 彼は、言いながら、私を見てにこりと笑う。

(――え。
 え、え、え、な、なに!?)

 とんでもない台詞を聞かされたと気付いた私の顔は、真っ赤になったに違いなかった。彼は窓枠に重ねて置いたタオルを一枚手に取り、それで手を拭きつつ、くすくすと可笑しげに笑っている。
 私が口をぱくぱくさせている間に、彼は玄関の方へ進んでいった。

「ちょ、ちょっと!?」

 私が思わず声を上げると、玄関から半分身体を外に出した彼は、こちらにひょっこりと顔を覗かせて、

「火を熾さなくてはいけません。今日の夕飯は、シーフードカレーにしましょう」

 ひょうひょうと言い、外へと出て行った。私は全身が熱で溶けてしまいそうな感覚を抱きながら、しばらくのあいだ呆然として、そこに佇んでいた。