彼の森は、マーズ村の近くにある。
 あくまで近くにあるので、マーズ村を経由する必要はない。マーズ村の裏手にある森林には、ハーリー寄りの入り口がいくつかあった。初めて彼の小屋に案内された時は、マーズ村で落ち合ったせいで村経由で行ったのだが、徒歩で一時間かかり、あなた本当にこんな場所に住む気なの、と歩き疲れてへとへとになって問いかけたら、彼はひょうひょうとして、別の入り口がちゃんとあるんですよ、そこからだったら徒歩で三十分かからないんじゃないかな、と告げた。言い返す気も起きず、げんなりしてようやくたどり着いた彼の小屋は、思いのほかしっかりしているログハウスで、内装も彼らしくシンプルに装っているせいか、物が少なく感じられ、清潔だった。ベッド、テーブル、椅子、台所、机、本がぎっしり詰まっている本棚。下手すると簡素な別荘のようにも見える彼の小屋を「素敵ね、いいじゃない」と褒めたら、彼は心底驚いた様子で私を見て「そうですか、なんだか意外です、チサトさんは都会人だから、こういった場所はあまり好ましくないと思われるかなと思ったんですが」とひどく真面目くさって言った。呆れつつ「あのねえ私はノースシティ出身なのよ」と言い返したら、彼はああそうかと謎の納得をして小屋の中に入っていった。なんだか失礼な人!と思ったけれど、言い争うのもくだらないので、その会話は、それで終わりだった。
 初めて彼の小屋に訪れた日は、丁度、ハーリーで一緒に報道機関の立ち上げを決めた友人と、会社設立のための正式な手続きをする前日のことだった。小屋の中の、四人掛けのテーブル(なぜ四人掛けなのかと尋ねたら、もともと小屋に置いてあったものらしい。まだ綺麗なので使うのだそうだ)で、彼にマーズ村で買ったという紅茶を出してもらいながら、私は彼に事情を説明した。彼は、そうですか、と、いつもと変わらない、下手すると無関心そうにも見える様子で頷いた。やりたいことが決まったのなら本当に良かったです、と。
 私は、彼が苦手だった。何を考えているのか分からない物静かな動物学者という印象しかなくて、ネーデにいた時には、それほど関わり合いを持たなかった。術士ということで戦闘中は世話になっていたが、パーティで町の中を訪れ、とりあえず一時解散の際は、私が一番一緒にいない人だった。考えてみれば、彼は、プライベートではあまり光の勇者の仲間たちと一緒におらず、街中で時間を潰さなくてはいけなくなると、一人でカフェに入ったり、本を読んだり、ベンチや石段に座ってじっと空を見つめていたりした。初めは人見知りなのだろうかと思ったが、そうでもないらしく、仲間内で相談会があれば、きちんと返答したりアドバイスを出したりしていて、その意見は皆を黙らせるほど正論で厳しく、優しかった。頭のよい学者だからかもしれない。そういう部分は本当に感心できると思っていたが、ただそう思うだけだった。彼には申し訳ないが、まだクロードやレナたちと一緒にいる方が、会話も弾むし、楽しかったのだ。
 つまり、彼と一対一のやりとりを始めたのは、ネーデが消え、エクスペルに住みつき始めてからだった。私には、身寄りがいなかった。ほとんどの仲間がエクスペルに帰る場所があり、クロードは早くに宇宙船に迎えに来てもらっていて、光の勇者ご一行は、案外あっという間に解散してしまった。私は、一人になった。何も無かった。故郷も、家族も、慣れた文化も、私が好きだった本も、お気に入りの服も、行きつけのカフェも、優しかった家も。真に、私は孤独になった。セリーヌにもらった施しで、私は皆と別れてからハーリーの宿屋に滞在し、一ヶ月程度、この星の情報をかき集めていた。
 私には、エクスペルの文字が読めなかった。ネーデから常に身に付けていた翻訳機はあったが、それを使うにしても辞書を引きながら読むことには変わりなかった。ハーリーの宿の部屋に、エクスペルの本や広告を持ってきて、羅列されている文字を翻訳機と一緒に追いながら、どうにか基本単語だけは覚えた。勉強をしながら、もしこの翻訳機が壊れたとき私は一体どうなるのだろうと考えると、背筋がぞっとした。
 私には、もう、何も無かった。その空虚と悲しさに、立ちすくむこともたびたびあった。その感情は、不安よりは、絶望に近かった。何も無いことなど人生で初めてだったから、どのように対応していいのか分からず、宿屋のベッドで大泣きしたこともある。そのたびに、サイドボードに置いてある翻訳機が壊れていないかを確かめていた。
 もし壊れたら? そう絶望的な心地で考えたとき、ふと思いついたのが、同じネーデ出身の、私の使う言語を理解できる彼だった。彼は仲間たちと別れた後、人から情報を集めて、動物学の資料を探しにリンガへと向かった。ハーリーで船に乗り込む彼を見送ったのは、私だった。まるでネーデが壊れてしまったことを気にも留めていないようにエクスペルで平然としている彼の態度に、私は純粋に怒りを覚えた。学者という人間には感情がないのね、いつなんどきでも勉強ができればそれでいいんでしょうと、それに似た嫌味を吐き捨てて、彼を送り出した。彼は、私の言葉に対し、何も言わなかった。
 それから一ヶ月過ぎた頃、私がもうエクスペルの文字などどうでもよくなっていた頃、彼がハーリーに現れた。いつの間にこちらの大陸に戻ってきていたらしい、彼は、私の姿をカフェで見つけると、ぼんやりしている私の近くに立って、僕はマーズ村の近くの森にいますから、とだけ言って去っていった。港を歩いて街の外へと出て行く彼の後ろ姿を、カフェの窓越しに眺めて、だからなんなのよ、と私は呟いた。だからなんなのよ、それが、一体何になるっていうの。
 ある日、私が毎日鬱々とカフェに訪れることを気にかけたカフェのボーイが、私に話しかけてきた。私が丁度、本を数冊テーブルに広げていたのを見て、あなたは作家なのですか、と尋ねてきた。いいえ、違うわ、と私は答えた。私は新聞記者だったの、今はもう――会社は無くなってしまったのだけれど。そう言うと、ボーイは、知り合いに似たような職種、新聞記者とは少し違うが、出版物の批評を書いているフリーのライターがいるから、もしよければ話してみないかと提案してくれた。やっとこの星の一部と繋がりを持てると思った私は、即座に承諾し、次の日、その人物に前日と同じカフェで会った。その人は、私より八歳年上の女性で、クロス城下町の出身者であり、ハキハキした喋りの姉御肌だった。青い髪を緩く巻いている、かなりの美人だった。彼女は、長い間ライターとして活動しているが、そろそろ自分の会社を持ちたいと希望に満ちた声で話した。私は、これだ、と思った。自分も報道関係の会社を持ちたいのだと私が言うと、彼女と私は意気投合し、一ヶ月半の憂鬱な停滞が嘘のように、会社設立の話はまたたく間に進んでいった。ようやく全てが動き出した気がすると、私は晴れ晴れした気持ちになって、不意に彼のことを思い出した。彼は確かマーズ村にいると言った。私は、私たちにしか読めない文字で便せんをしたためて、やっと書けるようになったエクスペルの文字と単語で封筒を作り、彼の正確な住所は分からなかったので、それをひとまずマーズ村に送った。一週間程度経った後、彼から返信が届いた。彼は既に驚くほど達筆なエクスペルの文字が書けるようになっていた。もし中身までそうだったらどうしようと宿屋で不安になりながら封を開けると、便せんに綴られている文字は私たちのかつての言語で、少しホッとした。綺麗な字で――そういえば彼の文字など初めて見た――もしその日の翌々日に来られるならマーズ村で落ち合いましょう、ということが書いてあった。言われた日は丁度予定がなかったので、私は馬車に乗ってマーズ村へと向かった。
 マーズ村に着くと、彼は、村人と話していた。微笑みを浮かべて、小さな女の子とその祖父と思われる人と、会話をしていた。村人たちには全く警戒心がないようで、ノエルさん、うちの子猫の具合が悪いから、少し診てやって欲しいんだ、という言葉まで聞こえてきた。彼はそれを承諾して、近くの家に入っていった。話しかけるタイミングを失った私は、彼が子猫の診療を終えるのを、村の外れにあるベンチに座って待っていた。小一時間、見知らぬ人間が村の出入り口にいるという村人たちの視線が、じわりと痛かった。
 しばらくして、彼が出てきた。私は立ち上がり、彼に近づいた。彼は驚いたように私を見て、来てらしたんですか、と問うた。私は、少し前にね、と返事をし、適当な挨拶を交わして、彼が自分の小屋とやらに案内するというので、それについていった。そして、一時間近く森の中を歩く羽目になったのである。





 彼の森は、マーズ村の近くにある。
 私は、アシュトンと会った翌々日の休日に、彼の小屋に行こうと決めた。アシュトンと双頭龍に、ノエルに治療のお礼をしにいけと言われたことを実行するためだ。正直言って、馬車の中で、私はかなり緊張していた。まだ怒っているかもしれないと思うと叫び出したくなって、帰りたくもなったが、ここで引き返したら私は情けない人間にしかならない。一応、マーズ村でお茶菓子を買って(物で誤魔化すなど卑怯かもしれないが、念のためだ)行こうと、御者にはマーズ村まで連れて行ってくれと告げた。
 時おり取材やノエルに会うために来るせいで、マーズ村には私の知り合いも増えた。夕方頃に到着し、馬車から村へと降り立つと、村の出入り口で、愛想のいいおばさんが私に話しかけてくれた。

「いらっしゃい。取材に来たの?」
「ううん。ノエルに会いに来たのよ」
「あら」

 おばさんは草むしりをする手を止めて、手袋の土をパンパンと払いながら立ち上がった。

「ノエルさん、来てるわよ」
「え?」
「買い出しか何かじゃない? ついさっき広場にいたんだけど」

 言われて、私はかなり動揺した。まさか彼が村にいるとは思っていなかった。
 変な動悸がしているのを悟られないように、私はにこやかにおばさんに礼を言い、村の中に足取り重く進んで、さてどうしたものかと立ち止まった。彼がここにいるのなら先に小屋に行っても意味がないし、だからと言って奥に進めば彼がいるのである。逃げる道は、帰るしかないわけだが。

(帰るって、ねえ)

 自分自身に呆れて、私は嘆息した。馬車に乗ってここに来るのにも金はかかっているし、帰ったところで、また悶々と悩み続けるだけだ。よし、と意を決して歩き始めて、何人かの村人からの挨拶に応えつつ、私は村の小さな広場へと向かった。子どもたちがよく遊んでいる場所で、夕方頃になると子連れのママさんたちのたまり場になっている。案の定、広場はにぎわっていて――とは言っても村自体が小さいので、母子合わせて十人程度いれば十分だが―― 子どもたちのきゃあきゃあ言う声の中心に、彼がいた。私は、少し離れた場所でその様子を眺めることにした。
 彼は、子どもたちの真ん中でしゃがみ込み、子どもたちに話しかけていた。いや、話しかけられて、それに応えているのだろう。彼の前には、話題の中心となっているらしい、まだ三、四歳と思われる小さな女の子がいて、彼女には大きすぎる鳥かごを両手に抱え、それを彼に向かって差し出していた。
 カゴの中には、一羽の茶色い鳥がいて、飛び出したそうにパタパタと羽ばたいていた。

「ノエルおにいちゃん! ピピコ、げんきになったよ」

 可愛らしい、甲高い声が聞こえてくる。

「メメがピピコ、いっぱいおせわしたの」
「そうか。メメにお世話してもらって、ピピコもとても嬉しいと思うよ」

 彼は微笑みながらそう言って、少女の頭をぽんぽんと撫でた。彼が浮かべていたのは、いつも見る、あの優しげな微笑だった。

「じゃあ、ピピコをお空に返さないといけないね」
「……」

 彼の言葉に、少女は鳥かごを少し引っ込めて、うつむいた。明らかに残念そうな顔をして、ぷう、と頬を膨らませている。

「どうして、ピピコ、おそらにかえすの?」
「ピピコを見てごらん」

 彼は、かごの中の鳥を観察するように覗き込む。少女の視線を誘導するためだろう。

「ピピコは、メメにお世話をされて、一生懸命生きようと頑張ったら、もうパタパタができるようになったよ。
 パタパタができるのなら、ピピコはもうお空を飛べるよね。ピピコは、お空を飛びたくて、かごの中でパタパタしてるんじゃないのかな?」
「……」
「ピピコは、お空を飛ぶことで、メメに恩返しをしたいんだよ。メメ、ありがとう、お世話してくれてありがとう、メメが一生懸命お世話をしてくれたから、ピピコはもうお空を飛べるよって」
「……ほら、メメ」

 少女の傍にいた若い女性が、しゃがみ込み、メメと呼ばれる少女の後ろから、肩に両手をぽんと置いた。同じ色の髪をしていて、顔つきもどことなく似ているので、少女の母親なのだろう。

「ピピコをお空に返してあげようね。ピピコ、飛びたい飛びたいって言ってるでしょう?」
「……」
「ピピコは、メメのことを覚えたから、きっと大丈夫」

 メメの頭を撫でながら、彼が、安心させるように、確信に満ちた声で言った。それが実際に真実か嘘かは知らないが、彼が言うと本当にそう思えるから不思議だ。
 メメは少しの間しぶっていたが、のろのろと鳥かごを彼に手渡した。彼は、少女に向かって微笑み、受け取った鳥かごの扉を開けて、中に手を差し入れた。ピピコは少し暴れたが、彼の手の中に収まると、大人しくなった。彼はそっと鳥を取り出すと、少女の両手にその鳥を握らせて、さあ、放してごらん、と言った。少女はじっと両手の中にいる鳥を眺めていたが、意を決したように空を見ると、両腕をぐっと天に伸ばし、両手からピピコを解放した。
 鳥は、パタパタと懸命に羽ばたいて、何度か宙をよろめいた後、近くの木に留まった。

「ほら、今、ピピコがメメにお礼を言っているよ」

 言いながら、彼は立ち上がり、鳥の留まっている木の枝を見た。少女とその小さな友人たち、母親たちも、木の方を見上げた。鳥は数回高い鳴き声を上げて、再び羽ばたき、空に舞い上がって、マーズ村の裏手にある森の向こう側へと消えていった。

「ばいばいピピコー!!」

 少女の高い声音が響き渡る。

「メメ、ピピコのこと待ってるよー!!」

 その声は、森の中を反響し、本当に先ほどの鳥に届くかのように、いつまでも余韻を残していた。
 日も暮れた空は、赤色と紫色が混じり合って、震えるほど美しいグラデーションを作り出していた。風は少し肌寒かったが、エクスペルはそれほど気候の変動が激しい星ではない。朝も夜も、ジャケットが一枚あれば十分なくらいだった。
 私は、佇んでいた。少女の幼い声が耳に残っていて、なんだか頭がぼうっとしていた。広場からは、もうそろそろ帰らなくちゃ、という母親たちのざわめきが聞こえてきて、子どもたちが互いにさよならを言っているのも聞こえた。村の夜は、空の色より早く来るらしい。
 さようなら、ノエルさん、という母親たちの言葉に応えていた彼が、ゆっくりと立ち上がった。しばらく母子たちを手を振って見送った後、ふと、こちらを振り返る。
 彼が、私の姿を見つけた。

「……あ」

 少し驚いたような、彼の、低い声。

 私は、なぜか、泣いた。
 涙が、じんわりと目に溢れてきた。熱い、新鮮な涙が、私の視界を一杯に覆った。彼の姿が、村の景色が水分に歪んでいって、何が何だか分からなくなった。目に溜めきれなくなった涙が頬を滑り、頬に残ったその水の軌跡が、風に吹かれてひんやりとする。
 私は、ゆっくりと右手を持ってきて、目元を拭おうとした。手は、なぜか震えていた。冷たい指先で下瞼に軽く触れると、涙がぼろりと下にこぼれていった。触れた指先に、雫が伝う。
 喉の奥から、嗚咽のための息が漏れようとしている。どうして泣きたいのかも分からないのに、私は泣きたくてたまらなくなった。泣きたくなんてないのに、泣きたいと心が言っているのだ。身体が震え、心臓が震え、息が震えようとしていた。私は左手も上げて、同じようにして指先で左の瞼にも触れた。やはり涙が左手の指にも伝っていった。
 私は両手で顔を覆い、うつむいた。滑った涙が手のひらのくぼみにたまっていく。

(――嫌、よ)

 ゆるゆると膝を曲げて、地面にしゃがみ込む。

(嫌よ、泣くなんて)

 私の心の呟きに反し、私の涙は流れていった。溢れ出したばかりの涙は手のひらをゆっくりと温めて、外気に触れて冷めていく。とうとう、嗚咽が漏れ出した。引きつるような、自分でも苦しげだと分かるしゃくり上げ方で、これを彼に聞かれているのだと思うと、私は恥ずかしくて、悲しくなった。何が何だか分からない、どうして泣くのかも分からない、ただ単に広場に来て彼を見つめていただけで、泣く理由など一つも見つからないのに。
 ただ。
 彼は、エクスペルで、エクスペルの人間として、生きているのだ。
 エクスペルの人間のために、彼は、今、ここに生きているのだ。
 生きるとは、そういうことだ。彼は、他人のために生きる人だった。動物学者として生命について真剣に考え、自然と命の尊さを人々に伝えるために、勉強をし、子どもたち教えている。今、彼はそれを為している。ここで、為している。彼は、この星に生きている。つい一年半ほど前に初めてここで生き始めたばかりなのに、彼はもうすでにここに生きている――いや。
 初めから。

 ―― 僕は、リンガに大学があるというので、そこへ赴き、研究資料を集めてきます。
 ――あなた……よく、今からそんな行動的になれるわね。
 ―― 何もしないよりはいいでしょう。
 ―― へえ。学者ってのは、みんなそうなの? どんな場所であっても、勉強できれば、それでいいわけ? 自分の探求心が満たされれば、それで。
 ――……
 ―― つまり、場所ってのは、関係ないのよね。自分の学びたいものが見つかれば、あなたは、どこだっていいんでしょう?
 ――……
 ――もう話したくないわ。あなたなんか……リンガにでもどこにでも、さっさと行ってしまえばいいのよ!

「いや……!」

 頭を抱えて、想い出を憎む。

「やめて……!!」

 自分の悲鳴が聞こえてくる。それは、あまりにも情けない悲鳴だった。
 私は一体、何をしていたのだろう。彼の何を見ていたのだろう? 私はいつでも真実を見極めなければいけない職種に就いているのに、一番近くにいる、一番私に近しい、一番私のことを分かってくれている人のことを、何一つ分かっていやしなかった。彼は初めからエクスペルに住み、適応し、生きようという意志を持っていたのに、私は、ハーリーでエクスペルの文字に憎悪を抱きながら、この星に生きる意味を疑っていた。あの頃は、孤独な人間などいても仕方ないのではないかと思っていた――繋がりを持たない人間は、誰にも必要とされないからだ。
 それは、彼も同じだった。帰る場所を失った彼もまた孤独であり、誰との関係も持たず、誰のために生きてもおらず、誰かが彼のために生きてくれるわけでもない。エクスペルに降り立った私たちは、周りとの関係性を持たない存在だった。なぜなら、ここには私たちの過去が存在しないからだ。エクスペルという星からすれば、突然現れた歴史の持たない異質な存在でしかなかった。
 そこで私たちを隔てたのは。

(私は、なんて……なんて、愚かなの)

 彼は、自ら生き、この星でもまた誰かの為になる存在となるために、海を渡った。

(なんて、ひどいことを……)

 私は、街に留まり、意味不明な文字を眺めて、空虚と孤独に絶望を覚えていた。

「うっ……うう、う」

 彼は、初めから、エクスペルに生きていたのだ。彼の方がよほどエナジーネーデという犠牲を払って与えられた居場所の意味を理解していた。この星で生きなければならないということを理解していた。だから、彼は今も生きている、この星で生きることができている、エクスペルの人間となって、同じ星に生きる人間たちに、子どもたちに、恵みと育みをもたらすことができる。
 己の運命を――

「……チサトさん」

 受け入れて、いる。

「どうしたのですか」

 傍らで、声が聞こえた。しゃがみ込む私の真ん前の地面に、彼のブーツが見えた。うずくまる私の前で、彼もまたしゃがみ込んでいるらしい。
 私は、嗚咽を殺すために、ぐっと唇を噛んだ。

「……」

 彼が怒るかもしれないだとか、彼のことが恐いだとか、会いたくないだとか、抱いているのは、もはやそういう気持ちではなかった。

「ノ、エ……」

 ただ、申し訳がなかった。

「ル……」
「はい」

 不意に、頭に軽い感触が載った。彼が、頭に片手を置いたらしい。

「……わた、し……」
「はい」

 そして、先ほど少女にそうしたように、彼はゆっくりと私の頭を撫で始めた。

(やめて)

 ああ、また、泣き出してしまうわ。

「ノエ、ル、ごめんな、さ……」
「どうして、謝るのですか?」
「わた、し、ノエルの、こと、ぜん、ぜっ……
 わ、分かって……な……」
「僕のこと?」

 私は頷きながら、ぼろぼろと地面に落ちていく自分の涙を見つめていた。広場は、少し草が生えているが、手入れされているせいか踏みしめられているせいか、土がむき出しになっている。落下した涙は地面に模様を作って、土に染み込んで消えていった。
 懸命に両手で目を拭うが、涙は、なかなか止まってはくれなかった。

「私……たく、さん、ノエルに、ひどい、こと」
「僕に? なぜ、そんなことを思うんですか?」

 言いながら、どこをどう説明していいのかも、よく分からなかった。ひとつひとつを懺悔していく為には、私はあまりに罪を重ねすぎてしまっている気がする。時も、経ちすぎてしまった。

(私、ノエルのことをどれだけ傷つけたんだろう)

 この、私の頭を撫でてくれる優しい人を。

「わた、し、は……。私は……」

 私はしばらくの間、何も言えずに泣いていた。頭を撫でるその温かさと親しみ深さに、泣けて泣けて仕方がなかった。私はつい最近、私の無知から彼を怒らせたくせに、私は怒らせたことに対して彼に謝りもせずにいたのだ。それどころか、私は、ここに来た時から――いや、おそらくネーデにいたときから、彼にひどい態度を取っていた。彼の生き様を疑っていた。彼がどれだけ周りを見て、どれだけ他人のことを想っていたのかを知ろうともしなかった。
 本当は、彼にはもう突き放されてもいいのだ。見放されてもいいのだ。もう関わり合いなど持たないと彼に言われても、本当は、それで十分なのだ。彼は初めからエクスペルで生きていたのだから――私よりずっと先に、失った故郷の代わりに与えられたこの星で生きる意味を見つけ出していたのだから。

(それなのに、私は、彼のことを残酷な人だと思った。ネーデのことを顧みない人なんだと思ってた。しかも、それを本人に直接言うなんて、私、なんて馬鹿なんだろう。彼は、生きてるじゃない、一度も立ち止まらずに、この星で、ネーデの時と同じように、何かを育む力も手に入れているじゃない。生きる意味を、守る力を、たくさんの大切なものを……)

 私は、その中に、私という存在も入っているということを知らずに。

「……チサトさん。もうそろそろ、僕らは帰らなければなりません」

 彼の、落ち着いた声が聞こえた。

「チサトさんは、村に、何かご用ですか?」

 問われて、私は、顔を伏せたまま、小さく首を横に振った。

「……いいえ。あなたに、会いに、来たのよ」
「僕に? 何か……」
「お礼を言いに来たの」

 私は、ぐしぐしと腕で涙を乱暴に拭うと、顔を上げた。だいぶ息は落ち着いていたが、目元が腫れぼったくて仕方がない。きっとひどい顔をしているだろう。見上げた先には彼の顔があって、不思議そうな面持ちで私のことを見つめている。
 私は、口元に笑みを浮かべた。

「この前、私の怪我を治してくれて、ありがとう」

 私の台詞に、彼は少しのあいだ驚いたような表情をしていたが、微笑を浮かべると、いいえ、とかぶりを振った。

(ああ、いつもの、あの微笑みを浮かべてくれたわね)

 私が嬉しさに唇を噛んでいると、彼は私の手を取って、私をゆっくりと立ち上がらせた。私は手を握られたことにとても驚いたが(しかも涙に濡れたせいで汚いので)、彼は全く気にしていなさそうだった。空を見上げて、星が綺麗ですね、などと言っている。
 私たちはしばらく空を眺めていたが、じきに、彼が私を見下ろした。

「これから、どうされますか?」

 尋ねられて、私は、うーん、と喉で声を出した。

「馬車を呼びますか? それとも、マーズ村に僕の知り合いがいるので、泊めてもらっても……」
「私」

 彼の言葉を遮り、私は言った。

「ノエルの小屋に行きたい」

 私の頼みに、彼は心底驚いたようだった。

「僕の? でも……」
「あ、あの、勉強の邪魔なら、私、帰るわ」
「いえ、そんなことはないのですが。ただ、今から行くとなると、帰りが遅くなってしまいますよ」
「一晩いては駄目かしら?」

 私の問いに、彼は、え?と、あまり普段は聞けない面食らった声を出した。私は涙でかさかさになった頬を彼に握られていない方の手で撫でつつ、なぜか目を合わせられなくなって、斜め下の地面を見つめながら続けた。

「もちろん、今から帰ってもいいんだけど」
「……いえ、まあ。僕は、その、なんでもいいのですが」
「着替えも何も持ってきてないけど、明日も休みだし、昼頃に帰ればいいわ」
「はあ」
「私」

 彼に握られている手を、握り返す。

「私、もっとあなたとお話ししてみたいのよ」

 私が顔を上げて、半ば決死の覚悟で言うと、前に彼のぱちくりした目があって、私は思わず笑ってしまった。彼がこんなに目を丸くしているのを見るのは初めてだった。

(綺麗な青い目をしているのね)

 暗くてよく分からないが、優しげな目には違いなかった。
 彼は、私の申し出にしばらく黙っていたが、分かりました、と小声で言うと、先ほどから握ってしまっている私の手を放そうとした。しかし、私が力を込めて握り返すと、彼はますます驚いた顔をして、私をじっと見つめ返した。私が、このまま握っていては駄目かしらと尋ねると、彼は困惑気味に――だが、それは決して厭がっているわけではない――笑みを浮かべて、チサトさんがそうしたいのならかまいません、と言ってくれた。私は、ああ、彼も、私が嫌なわけではないのだ、私は謝ることによって彼の怒りを引き起こした無頓着さを許してもらえたのだと、少し安堵した。いや、本当は、私には他にも彼に謝らなければならないことがたくさんある。けれど、一度に謝ってしまっては、彼も戸惑ってしまうだろうから――少しずつ、償おう、彼が、いつもの微笑を浮かべ続けてくれるために、今度は私が、彼に優しさをあげるために。
 私たちは、手を繋いだまま、夜の村を歩き始めた。彼は、私の少し前を進んでいた。こんな風に手を繋いで歩くだなんて、子どもの時以来かもしれない。彼の手は思っていたよりずっと大きくて、ごつごつしていて、少し冷たくて、優しかった。私の手を引いて前を進む彼に、マーズ村から行くとなると一時間かかりますが、どうしましょうかと尋ねられ、私はそれでもかまわないと言った。その間、ずっとこの手を繋いでいられるのだ。それが、なんだか私には嬉しかった。