それは本当に偶然だった。最近開店したパン屋の取材を終え、仕事場でタイムカードに刻印した後、そういえば家に食料が何も無かったと夕飯の買い出しのためにハーリーの夕方の街中を歩いていたら、見覚えのある後ろ姿が目に飛び込んできたのだ。彼は船着き場に入るか入らないかというところで、海を眺めているようだった。私がそろそろと近づいて行くと、私の気配に気付いた彼は振り返って、私が彼を見つけた時と同じように、目をまん丸くした。チサトさん!という威勢のいい呼びかけを聞いて、私は何となくかつての戦闘の情景を思い出し、しみじみしてしまった。彼は、確か、この声で私の名を呼んでいた――危険を警告するとき、援助を頼むとき、一緒に技を繰り出すとき。

「アシュトン、久しぶりじゃない!」
「ですね!」

 アシュトンの背中の双頭龍も未だ健在で――ということは、まだ呪いを解く方法は見つかっていないのだと思われるが――私の姿を見ると、彼らはギャフギャフと騒いだ。嬉しそうに鳴いている、でいいのよね?と私が問うと、アシュトンはにっこりと笑って、ええ、もちろんです、久方ぶりだなチサトと言っていますよ、と通訳してくれた。不思議なものだ、周りにはギャアギャア言っているだけにしか聞こえない彼らの鳴き声も、アシュトンには何を言っているのか分かるという。繋がっている部分に意思の疎通ができる仕組みがあるのかしら――アシュトンの姿を見つめて考え込んでいると、アシュトンが不思議そうな顔をして私を見つめ返していた。私は意識を戻して、もしよかったらこれから私の家に来るかカフェに行かない?と誘った。アシュトンはたびたびエルリアに復興の手伝いに行っていて、会えるのは年に一回私の企画したエクスペルメンツの集まりの時だったし、積もる話は互いに話しきれないくらいあるのだ。アシュトンは嬉しそうに顔をほころばせて、ええ、もちろん!と元気の良い返事をくれた。私たちは、私がよく行っている濃いコーヒーを出してくれる港近くのお洒落なカフェに向かった。
 カフェに向かって歩いている間、アシュトンとギョロウルが互いに何かを喋っていたが、大丈夫だよ、時間はあるよ、といった内容だった。私は慌てて、忙しいのなら遠慮すると申し出たが、アシュトンはびっくりしたように首を横に振って、とんでもない、時間は腐るほどあるんですと返してくれた。ただ龍たちがせっかちなだけなのだ、と。
 カフェに入り、店内の窓際(テラス席は人気があるためあいにく一杯だった)の二人掛けに座って、近くに来たボーイにいつものコーヒーを二人分頼んだ。アシュトンは持っていた荷物を椅子の後ろの床に置いて、黒い長めのマントを外し、椅子に腰掛けた。以前見たときより――私と彼が会うのは、私の開催したエクスペルメンツの同窓会で顔を合わせた時以来の半年以上ぶりになるのだが、その時より、少し大人っぽくなった印象を受けた。髪型は、肩に届かない程度の長さで前と変わっておらず、服装も黒っぽいハイネックのシャツとズボンで、この格好は彼のこだわりなのだろうかとつくづく考えてしまうほどだが、顔つきや体つきが少し変わっていて、あか抜けたとでも言うのだろうか、大人の男性っぽくスマートになっている気がした。また私がまじまじと彼の姿を観察しているので、視線に気付いたアシュトンは、少し頬を赤らめて困ったように微笑した。何事でしょうか、チサトさん?といたずらっぽい声で言われて、年上に対しても少しいじわるな言い方をする所は健在ね、と私は言い返した。二人で席に落ち着くと、しばらくの間、すぐ側が海である外の景色を眺めていたが、漁師が道を通って視界を横切ったのをきっかけに、アシュトンから話し始めた。

「お元気でしたか? ……なんて、月並みですけど」

 控えめに問われて、私は、笑みを浮かべた。

「元気よ。仕事も順調」
「新聞社って、忙しそうですね」
「新聞というより、出版全般なのよね。会社が軌道に乗り始めたら、色んな所から依頼が来ちゃって、最近は本当に忙しくて残業だらけよ。今日は早めに出勤して、朝のうちに色々片づけから、早く帰れたんだけどね」
「お仕事は楽しいですか?」
「楽しいわ」

 私が即答したせいか、アシュトンは、満足げにこっくりと頷いた。

「それはよかった。楽しいのが一番です」
「そうね、楽しくないと続かなくなっちゃうもの。アシュトンは最近どう? どうしてるの?」
「僕は」

 その時、黒いカフェエプロンをしたボーイがコーヒーを運んできたので、いったん会話が中断される。顔なじみである若い、かなり顔の綺麗なボーイは、コーヒーを二客、角砂糖とミルクポーションの入った小さなカゴと、私の前には少し大きめのピッチャーに入った牛乳を置いた。私が、にんまり笑って礼を言うと、ボーイは、どういたしましてと同じように笑った。これは、毎日決まった光景だった。
 ボーイが去っていった後、アシュトンが、不思議そうな顔をして問うてきた。

「なんかミルクの瓶、大きくないですか?」
「あ、これね。常連さん特別サービスっていうの? 私、毎朝ここに来て原稿を作ってるの。あのボーイさんとも仲良しで、私がミルクポーションを大量に入れているのを見たら、瓶で牛乳を持ってきてくれて、それからかな」
「へえ、いいですね」

 アシュトンは、コーヒーにシュガートングでつまんだ角砂糖を三つ入れつつ、俺たちの食い物は?と騒いでいるらしい(それは私にもなんとなく分かる)赤いギョロの頭をペチンと叩いた。私が、何か頼む?と二匹に気を遣って言ったが、アシュトンはゆるく首を横に振った。

「こいつら最近太っちゃって。重いんだよ……」
「え、あ、ああ、そうなんだ?」

 龍も太るんだ……と思いつつ、ほどよく温められた牛乳を入れて、スプーンでかき回す。コーヒーが、予想以上に白っぽくなって、くるくると回り始めた。

「普段、支えているのはアシュトンだものね」
「そう……あ、で、僕の方だけど、つい最近までエルリアに行ってたんですよ」

 すねた龍が肩に顔を置いてふて腐れている横で、アシュトンはコーヒーを一口飲み、砂糖が足りなかったのか、もう一つ角砂糖をカップの中に投入した。

「そう。どう、エルリアは。私、前に取材のために何回か出向いたけど、もう一年以上行ってないわ」
「だいぶ片づきましたよ。街も、この大陸よりも栄えているかもしれません。綺麗だし」
「本当? じゃあ今度取材に行かなくちゃね。現地に一人飛ばして時々情報を送ってもらってるんだけど、何せ遠くて、古いのよ、情報が」
「ああ」
「それで……今は、エルリアが一段落したから、戻ってきているわけ?」

 牛乳たっぷりのコーヒーを口にしながら私が問うと、アシュトンは薄く苦笑して、肩をすくめた。その反動でギョロの顔が動かされたので、ギョロはますます機嫌を悪くして、今度は彼の頭の上に頭をどすんと置いた。慣れているのか、アシュトンは全く気にしていない様子だった。

「ええ。そろそろ貯金が尽きてしまって……
 エルリアでも一通り稼いで入るんですが、状況が状況だし、半ばボランティアなので、時々こっちに戻って依頼か何かを受けないとやっていけないんですよ」
「でも最近、ギルドにも仕事が少なくなったわよ? 嘆いてたもの、ヒルトンのギルド長」
「そりゃそうでしょう、魔物もいないし。ただまあ、犯罪は減らないのでね……この前も、誘拐された女の子を助けに行きましたよ」
「大事じゃない。そんなニュース入ってこなかったわよ?」
「訳ありでね」

 依頼主の頼みで口止めされていますから、と、アシュトンは淡々として、砂糖で相当甘くなっているだろうコーヒーを飲む。誘拐事件なのに口止めを頼むということは、かなり地位のある人間のすることでしょうね……と心の中だけで呟いて、私は、アシュトンの顔をじっと見つめた。長い睫毛が顔に影を作っていて、もともと顔立ちが綺麗ということもあり、とても美しかった。もう少し大人になって落ち着きが出てくれば、彼は、本当に美男になってもてることだろう……羨ましいが、本人は気に留めていないはずだ。以前、それに近い話題が出たとき、たびたび彼は言ったものだった。"恋人を作っても、旅をしなければ生きていけない僕は、彼女から離れなきゃいけなくなるだろう"と。少し寂しげに、少し悲しげに。周りは納得していたけれど、もしかしたら、彼はもう一度そういった経験をしているのかもしれない。決して聞き出したりはできないけれど、彼の中には常に憂いのようなものがある気がした。

「チサトさん、なんかさっきから僕の顔を見つめまくってますけど、僕の顔に何かついてますか?」

 苦笑いをして言われ、ハッとした私は、慌ててかぶりを降った。

「ご、ごめんなさい。何でもないのよ、何もついてないし……」
「そうですか? あ、そういえば、ノエルさんはお元気ですか?」

 突然、アシュトンが尋ねてきた。私は一瞬きょとんとして、アシュトンがノエルのことを気にかけるのは何だか意外かもしれないとひっそり感じながら、うん、と頷いた。

「元気だと思うわ。週一回会えればいいほうだから、常に知っているわけじゃないけれど」
「チサトさんが、あの小屋に会いに行っているんですか?」

 アシュトンも、こちらの大陸に来ると、何かのついでにノエルの小屋を訪ねることがあるらしかった。果たしてあの人とアシュトンが二人きりの時、彼らは一体どのような会話を交わすのだろう? 私は疑問に思いつつ、肯定の返事をした。

「そうよ。ノエルは、滅多に森から降りてこないもの。ちょっと人嫌いなところがあるのよね」
「そうですか。でもよかった。チサトさんの側にノエルさんがいてくれて」

 アシュトンの台詞に、私は一瞬考え込んだ。ノエルの側に私が行く、と言ったつもりだが、彼が今言ったのは逆だった気がする。
「私が、彼の小屋に行くんですけど?」
「え? ……ああ、いや」

 首が重くなってきたらしい、アシュトンは、頭の上でうとうとしているギョロ(しかもその上にまたウルルンの頭が載っかっていた)を自分の肩にそっと置いて、

「その、ノエルさんって、チサトさんのことをすごく気にかけてるから」

 ごく当然のように言ってくる。私は、はあ?とあからさまな声で問い返した。

「彼が?」
「あれ、違いました?」
「いや、まあ、全然気にしてないってわけじゃないと思うけど……」

 言いながら、以前のことを思い出してしまうと、私の語尾は小さくなっていった。彼の小屋に遊びに行こうと思い、見慣れた森の中を歩いていたら暴漢に襲われ、攻撃した拍子で転び、怪我をしてしまった。あちこちじんじんと痛むし、かなり出血していて、心配かけるのも申し訳ないので彼に会う前に治療しなければと思ったが、あいにく消毒薬もガーゼも絆創膏も持っていなかった私は、仕方なく彼の小屋で治療してもらうことに決めたのだった。やっほう、ノエル、などといつもと同じ調子で彼と顔を会わせたら、私の怪我を見た途端、彼は顔色を変え、ひどく真面目な様子で私の怪我を診始めた。何があったんですかと問われたので、私が素直に説明すると、彼は凍り付いたような面持ちになって、それ以降一切表情を変えなかった。いつも優しげな微笑を絶やさない彼が、そんな厳しい態度を取ったのは初めてで、私は狼狽した。治療を終えても彼の様子は変わることがなく、実はあの事件以降、私は忙しさも相まって彼に会いに行っていないのだった。
 私が思い出して考え込んだのに気付いたらしいアシュトンが、不安そうに問いかけてくる。

「あの……チサトさん? 顔色悪いんですけど……」

 もしかしてコーヒーでお腹痛くなりました?と尋ねられて、私は慌てて両手を振った。

「え? ああ、あの、ちょっと、思い出してね」
「? 何をですか」

 訊かれ、私は口を閉じた。忙しくて彼の小屋を訪ねられないというのもそうだったが、私は、彼のあの怒りを再び目の当たりにするのが恐くて、彼に会いに行けないのだ。ろくなお礼も言えずに去ってしまったし、行かなければいけないと思うのだが、またあの彼の冷酷な空気を味わわなければならないと思うと、どうにも踏ん切りがつかなかった。はっきり言って、彼の怒る姿はとても恐い。ネーデで、取材中ヘマをやって上司に怒られていた時より、何倍も恐かった。けれど、このままではいけないということも、無論、分かっていた。治療してもらったお礼は言わなくてはいけないし、私は、なんだかんだ言いつつ彼に定期的に会いに行きたいのだ。きっと、彼も、私のことを心配はしているのだ――
 ふと思い立って、私は、アシュトンに言った。

「ねえ、ちょっと、聞いてくれる?」
「はい?」
「あのね、少し前に、ね……」

 私は、アシュトンに例の事件の一部始終を説明した。肩でギョロとウルルンを寝かせているアシュトンは、時折コーヒーを口にしながら、じっと私の話に聞き入っていた。たまに頷いて、たまに考え込んで、無表情で真面目に私の話を聞いていた。そういえばアシュトンのこういった真剣な表情は戦闘中にしか見たことがないなと、私は話しながら思っていた。光の勇者ご一行は、いつも笑っていた気がする。皆が感情表現豊かで、楽しげで、時に真剣で、本当に信頼をおける素敵なパーティだったと思う。アシュトンに説明をしている最中なのに、彼の面持ちにかつての仲間たちの面影を見出して、私は少し感傷に浸っていた。そうだ、私が彼に会いに行くのは、きっと、繋がっていたいからなのだ――今でも、あの楽しかった想い出たちと。
 私が話し終えると、アシュトンは黙っていたが、そのうちのろのろと口を開いた。

「ノエルさんも、相変わらずなんですねえ」

 のんびりとしたアシュトンの言葉に、私は、ぽかんとした。

「え? 相変わらずって?」
「うん? 相変わらず、チサトさんのこと大事なんだなって」

 ひょうひょうと言う。
 私は冷や汗が吹き出すのを感じながら、どもりつつ、言い返した。

「な、何のことよ? 相変わらずって、私、ノエルがあんな怒ったのを初めて見たのよ」
「え? あ、いえ、それは僕も少し驚きましたけど、そうじゃなくて……ノエルさん、チサトさんのことが相変わらず大切でたまらないんだなって思ったんです」
「は、はいぃ?」
「あれ……もしかして、気付いてなかったんですか?」

 半ば呆れた様子で、アシュトンはコーヒーの最後を飲み干して、小さく嘆息した。私もぐびぐびとカップの中身を全て飲んでから、少し乱暴にソーサーにカップを置いて、身を乗り出す。

「どういうことよ!?」
「え。いや、言葉のままの意味なんですけど……」
「そうじゃなくて、今のあなたの口ぶりじゃ、前からそうだったみたいじゃない!」
「へぇ?」

 今度は、アシュトンが拍子抜けしたらしい、間の抜けた声を出して片眉を上げた。騒がしさに双頭龍が起き出し、一体何なんだという目つきをして、私とアシュトンを交互に睨んでくる。
 私は、コホンと咳払いをして、椅子に座り直し、毅然とした態度を取った。

「説明して」
「説明ったって……チサトさん、本当に分かってなかったんですか?」
「なんのことよ?」
「ノエルさん、チサトさんのことが好きなんですよ」

 ごくごく当然のことのように告げられ、私は声を失った。アシュトンは動じもせずに、近くを通りかかったボーイにちょっとしたつまみを頼んでいる。
 私が呆然としているのに気付いて、アシュトンは、困惑気味に小さく笑った。

「もしかして、本当の本当に、気付いてなかったんですか?」
「……き……
 き、気付いて、ない、と、か」

 あまりの衝撃に、うわずった声しか出ない。

「そ……」
「出会った時からそうですよ、多分……いや、もう少し後かな? ノエルさん、何かとチサトさんのこと気にしてましたよ。分かりにくい人ですけど、なんとなく、僕らには。クロードやセリーヌさんには悟られてましたね。ああ、ノエルさんってチサトさんのこと好きなんだねって」
「は……はああ!? ちょっと、なに勝手に噂してるのよ!?」
「ええ……噂って勝手にするものでしょう」
「揚げ足を取らない!」
「戦闘中も、何かとそうでしたよ。チサトさんのこと、常に気にしてる感じがしたし、怪我をすれば、さりげなく治療しに行っていたじゃないですか。チサトさんは気付かなかったっぽいけど、かなりチサトさんの後援にも回っていたし……分かる人には、すぐ分かるんだけどな?」
「知らないわよっ」

 思わず叫ぶと、周りの客たちが、少し機嫌悪そうに私の方に振り返った。私は慌てて口を閉じ、身を小さくする。
 周囲の視線が外れてから、私は、トーンを落として言い返した。

「全然、知らなかったわよ。だって、私、彼とまともに話したのは、この星に来てからなのよ?」
「はあ」
「ネーデでだってそんな関わり合いは無かったし……。そ、そりゃあ、同じパーティにいたけど、彼のことは……なんか、ちょっと苦手だなとも思ってたし」
「それは、なんとなく分かってましたけど」
「私の知らないとこで何が起こってたのよ!? かなりショックだわ」
「そ、そこまで言いますか。ノエルさんが可哀想ですよ」

 今度は深々と嘆息して、アシュトンは肩にいる二匹を起こし、ボーイが運んできた骨付き肉のグリルの載っている皿を持ち上げて、見せてやった。彼らは目をパッと輝かせて、皿の上からそれをガシガシと食べ始めた。二匹の龍にとっては小さすぎる肉のサイズだが、彼らは満足したようで、げふ、と息を吐くと、口を何度かもごもごさせてから、再びアシュトンの肩に収まった。
 アシュトンは、皿をテーブルに置きつつ、明らかに呆れている口調で言った。

「とにかくね……チサトさんが気付かなかっただけですし、ノエルさんはあなたのことを大事に思ってるんですから、ちゃんとお礼言いに行ったほうがいいですよ」
「それは、分かってるわよ。でも、それと、ノエルが私を、す、好きでいるっていうことは、別問題でしょ?」
「うーん。いや、切り離したら、さっきの話もあんまり説明つかないっていうか、ノエルさんがそれだけ怒るってことは、チサトさんのことが大事だからだと思うし……」

 戸惑ったようなアシュトンの言葉を聞いて、私は、だんだん恥ずかしくなってきてしまった。耳と頬が熱いので、頬が赤くなっているに違いない。そんな顔を見られたくなくて、うつむく。
 すると、ぼんやりと、頭の中に何者かの声が響いてきた。

《チサト》

 男性の声のような気がするが、アシュトンのものではなかった。顔を上げると、アシュトンの肩にいる二匹が、視線だけをこちらに向けている。
 私は、もしやと思い、彼らを見つめ返した。

「ギョロ、ウルルン……?」
《あの男がお前を想っていることは、我々にも何となく分かっていた》
《我々も、あの男はあまり好かなんだが》

 全く同じ声音だが、息継ぎが微妙にずれているので、ギョロとウルルンは別々に喋っているらしい。直接頭に響かせているのは、彼らが何かしらの能力を使っているためなのだろう。なるほどアシュトンには二匹の声がこのように聞こえているのかと納得しつつ、私は、彼らの言葉に、不満げに口を尖らせた。

「どうしてあんたたちが知ってんのよ、とは、もう咎めないけど。でも、だからって、私は……」
《お前は、あの男を好きではないのか?》

 不思議そうに言われ、私は純粋に困って、軽く額を押さえた。

「う、うーん、その……好きだとか、嫌いだとか」
《人間というものは何かと二択にしたがる。常々思うが、お前たちの悪い癖だ。今のお前の返答は正しい》
《だが、あの男がお前のことを大切に想っているのは本当だ。我々にも分かるのだから、本当だ》
「自虐的ねえ」
《我ら龍には、人間の愛というものは、よく分からない》

 アシュトンにも私たちの会話は聞こえているようで、私とギョロウルを交互に見つつ、目だけで会話を追っている。アシュトンには、ギョロとウルルンのどちらが喋っているのか判断できているのだろうか?

《しかし、愛とは、失って初めて気付くものなのかもしれぬ》

 凛とした声――そういえばずいぶん美しい声だ――が響いて、私は、思わず息を潜めた。

「……」
《失ったらどれだけ悲しむであろう、喪失感を味わうであろうと、常々考えている者は、失う前にも、愛というものに気付いているのだ。
 チサト、お前は、あの男がある日突然いなくなったら、と考えたことはあるか?》

 問われて、私は目を伏せて考え込んだ。正直言ってしまえば、そんなこと、思ってもみなかったことだった。確かにあの男のことは大事だったが、それが恋愛だとかに結びつく感覚だとは考えたこともなかった。そのことを咎められるのではないかと無意識に考えたらしく、自然と顔がうつむいた。

(なんだか、臆病で、情けないわ、私)

 本当は、気付かないふりをしていただけかもしれない。

《あの男は、その恐怖に気付いているのだろう。だから、愛を知っているのだ》

 ギョロとウルルンの言葉と、こちらを見つめる彼らの透き通った大きな目に、私は静かに圧倒された。

 ああ、そうだ、そうかもしれない。
 だから、彼はあの時、私が血だらけになって小屋に現れた時、私を失うことに改めて恐怖を感じたのかもしれない。
 “悲しかった”と、私に言ったのかもしれない。

「……そう、か」

 ならば、私は、反省しなくてはいけない。彼は、私のことを、私よりもずっと大切に想ってくれていたのだ。私が私自身の身体を心配するよりも、ずっと。

「僕も、今回は、ウルルンたちに賛成かな」

 悪戯っぽい声で、アシュトンは言った。フギャフギャと鳴き、龍たちは不満げにアシュトンの髪をがしがし噛んだ。あ、こら、と怒りながら、アシュトンは乱れた髪の毛を手ぐしで梳かす。
 私は、ぼんやりと彼らを見つめていた。なんだかんだ言って、彼らは仲がよいのだと思う。ネーデで初めて龍を背負っている男を見た時、私はかなり動揺したが、呪いですから仕方ないんですと苦笑いをして言ったアシュトンは、二匹が背中にいることをまるで厭がってはいないようだった。むしろ、アシュトンは双頭龍を信頼し、戦闘中になると彼らに背中を任せたりもしていたのだ。一人の人間が強大な龍の力と協力して戦っていたのだから、パーティにおけるアシュトンの強さは並大抵のものではなかった。
 信頼、という言葉の定義は難しい。信頼とは何かと問われれば、すぐには答えられない。たとえば、私は職場の仲間たちを信頼し、その信頼を信頼して彼らに仕事を任せているわけだが、それが果たして真に"信頼"と言えるかというと、よく分からない。それは、仕事がなければ存在しえなかったかもしれない信頼なのだ。

(私は)

 のろのろと仕事用の革の赤いバッグから財布を取り出しつつ、考える。

(私は、きっと、ノエルのことを信頼してるんだわ。好きだとか、そういうのはよく分からないけれど、私が彼のもとに行くと安心するのは、彼のことを信頼しているからな気がする……)

 財布を開いて紙幣を取り出そうとすると、アシュトンの慌てた声が聞こえてきた。

「あ、いいですよ、僕が払います」
「え? いいわよ、誘ったの私だし」
「大丈夫です、ほら、その、ギョロたちにも食べさせちゃったし」
「いいってば、だって財政難なんでしょ?」
「このくらいを出すお金はありますから」

 引き下がらない口調で言いながら、私に有無を言わさず、アシュトンは少しおつりが来る程度に紙幣を一枚テーブルの上に置いて、立ち上がった。後ろに置いておいたマントと荷物を取り上げ、私も席を立つのを確認すると、カフェの出口へと向かった。ドアを開けると、扉にぶら下がっている聞き慣れたベルの音がリンリンと鳴る。
 そういえば、すっかり日は暮れていたのだった。外に出ると寒々しい潮風が吹いており、辺りはまばらに立っている電灯の明かりに照らされていて、港の周りには、あまり人の姿は見あたらなかった。漁師たちは夕方にはさっさと引き上げてしまうし、仕事帰りの人たちは港の前をそれほど通らない。大半のハーリーの仕事場や住宅街は、港と逆に位置する街の北側にあるからだ。
 私は、コーヒーをおごってくれたアシュトンを見上げながら、おずおずと礼を言った。

「ありがと……ごめんね、払わせちゃって」
「うん? いいんですよ、久しぶりに会ったんだし」

 アシュトンは、小顔のために座っている時にはよく分からないが、実際はとても背が高く、すらりとしている。かつて旅をしているとき、ディアスと二人で並んで歩いていると、通りがかった女性は皆、きゃあきゃあ言いながら振り返ったものだった。私としては、途中から参戦したというのもあり、どちらかというと近寄りがたいイメージの方が強かったのだが。
 アシュトンは暗くなった遠くの空を眺めていて、私を見下ろした。

「チサトさんは、帰宅ですか」
「あ、うん……ちょっと買い出しに行ってから帰るかな。家に何も無いんだもの。お店もまだやってる時間帯だし」
「そうですか」
「アシュトンは? ここで宿を取ってるの?」
「いえ、まだ。これから、ちょっとあたってみようかなと思ってて」

 アシュトンの言葉に、私は少し考え、

「……もしよければ、うちに来る?」

 提案すると、アシュトンは――アシュトンとギョロとウルルンは、心底びっくりしたような顔をこちらに向けた。

「え?」
「狭いけど、一応来客用のお布団もあるし」
「……いや〜」

 アシュトンが、気まずそうな声を出してくる。私は彼の顔を見上げてきょとんとしていたが、考えてみれば、ひとり暮らしの身の上である。男性がそんな場所にひとりで泊まりに行くというのは、それなりの意味を持ってしまうのかもしれない。
 だが、実際のところ、私はあまり気にしていなかった。

「いいのよ、別に? 私、しょっちゅう男性職員も泊めてるんだから。帰りそびれた子とか」
「えええ……そうなんですか?」
「職種的に残業が多いからね。マーズから馬車通勤の人もいて、そういう子とか」
「それはまたハードですね」
「だから私は別に気にしないんだけど」

 アシュトンは、かなり困惑した様子で私を見つめ返していた。少し経って、彼はやはり気まずそうに海の方に視線をずらすと、小さな声でぽつりと言った。

「でも、なんだか、ノエルさんにものすっごく悪いんですけど……。チサトさん、さっきの話、本当に理解してます?」
「してるわよ。でも、私とノエルはそういう関係じゃないわ」

 毅然として言い、私が食料品店の方へ歩き始めると、アシュトンも、やや慌てて私の横に並んだ。

「それに、あなたと私の間にも何もないんだから、気にすることなんて一つもないわよ」
「まあ、それは、そうですけど」
「それに」

 私はにやりと笑い、横を歩くアシュトンを見上げて、

「ご飯、作ってくれるでしょ?」

 してやったりで言う。アシュトンは、分かっていたかのように溜息をついた。

「それ目的だろうなって、なんとなく初めから感づいてましたけどね」
「宿賃はそれでいいわ」
「ええっ、悪いですよ。ちゃんと滞在分を置いていきます」
「いいの、コーヒーもおごってもらったし。アシュトンの美味しいご飯を食べたいのよ、もう出来合いの総菜と自分の手料理はうんざり!」
「チサトさんがそう出るなら、もう、いいですけど。でも、チサトさん、家事やってもらいたいなら、早く結婚してしまえばいいんじゃないですか?」
「主夫やってくれる人と?」

 私は肩をすくめ、ふふ、と笑みを浮かべる。

「まだまだ先ね。だって、私、今は仕事のことしか考えられないもの」
「ま、それもチサトさんらしくていいですけどね。じゃ、夕飯は何がいいですか?」
「んーとね……」

 この機会を逃してたまるか、と言わんばかりに料理の名前を陳述していくと、アシュトンは、そんな食べるんですかあ?と疑わしげな声を出してきた。ギョロとウルルンは、料理が残ったら全て食べてやるといった剣幕で、アシュトンのマントを口でぐいぐい引っ張っていた。
 なんだかこの感覚は久しぶりだなと思いながら、夜道をアシュトンと一緒に歩いた。以前、仲間たちとも、こうやって夜の町々をわいわい騒いで闊歩していた。その記憶が甦ってくると、懐かしさで鼻の奥がツンとした。彼らとはほんの少ししか一緒にいることはできなかったが、あんな短い期間でも、私は光の勇者たちのことがとにかく大好きだったのだ。一緒に旅をできたことを誇りに思うし、彼らに出会えたことは、本当に幸福なことだったと思う。自分がこうやってエクスペルにいて生きていることも、彼らのおかげなのだ。
 とりあえず夕飯は和洋折衷パーティだと決め、アシュトンが、だから龍たちを太らせたらまずいんだって……とぶつぶつ言っているのを横目に、私は、ひっそりと心の中で彼に呼びかけた。

(ノエル。私、あなたが傍にいてくれて嬉しいわ)

 港街に瞬く夜空の星は、空が澄み切っているせいか、とんでもなく綺麗で、少し泣きたくなる。

(私、あなたが私と一緒に生き延びる道を選んでくれて、嬉しいわ)

 私は、この言葉をいつか彼に言わなくてはいけない。今度、森に行って、治療の礼と共にこの感謝の気持ちを伝えたとき、果たしてあなたはあのいつもの微笑みを浮かべてくれるのだろうか?