「あまり感心しませんよ」

 彼がいつになく低い声で言ったので、私はふと顔を上げた。私の血だらけになった膝を治療している彼のうつむき顔は、相変わらず無表情だったが、口元には普段見られる笑みが浮かんでいなくて、ああ、怒っているのだな、と私はぼんやり思った。彼のかざした手のひらからは淡い光が漏れていて、私の擦り切れた膝の皮膚を徐々に塞いでいったが、乾いた血の跡までは消せず、膝から脛を伝った赤い線が、生々しく足首までよろよろと続いていた。森の中に潜んでいた暴漢に襲われそうになって戦ったのは、つい数十分前。血液は既にくすんでしまっていて、水で洗い流さない限り綺麗には取れないだろう。
 無論、私がそんじょそこらの暴漢に負けるほど弱くはなく、喧嘩をふっかけてきた相手は数発蹴りを入れたら地面に伏せってしまった。一応生きているかどうか確認をするために近づいたら、気を失ったふりをしていた男は私の脚を掴んできた。慌ててかかと落としをして昏倒させたが、その勢いでバランスを崩し、近くの岩場に思いっきり転倒してしまったのだ。だから別に暴漢にやられたわけじゃないのよ――と先ほどから彼に説明しているのだが、彼は無表情を一切崩さず私の言葉を無視し続けた。
 ようやく治療が終わって、私は立ち上がった。少し痛みが残るけれど、歩けなくはなかった。血の跡を洗い流すために水場に行こうとすると、急に彼は私の腕を引っ張った。

「上着を脱ぎなさい」

 低い、少し恐ろしくも感じられる声で、彼は言った。気圧された私は、言い返せずに言われた通りにした。ジャケットを脱ぐと、その下のハイネックのシャツの肘の辺りに血が滲んでいた。それを見つけた彼の眉が険しくひそめられたのを私は見た。
 彼は無言で私の肩を押し、無理矢理先ほど座っていた椅子に再度座らせると、私のシャツの袖をまくり上げて、切れた肘に紋章術をかけ始めた。
 伝わってくる怒気に、私はひたすら黙りこくるしかなかった。彼がこのような態度を取るのは初めてで――というより、以前仲間たちが周りにいた時でも一度だって見たことはなくて――私は、他に視線の行き場を得ることができず、ただ彼の両手を見つめていた。しかし、彼の冷徹な様子に反して、手から溢れている光は温かく、優しかった。
 しばらくして傷が塞がると、彼は私のまくれたシャツの袖を元に戻し、他にどこか傷がある場所は無いかと目で探してから、背筋を伸ばして、ごく小さな溜息をついた。

「……無茶はしないでください」

 落胆した声で言われ、私は彼を見上げながら口を尖らせた。

「無茶なんて」
「僕は」

 彼は私の言葉を遮り、踵を返して水場へと向かった。淡々とした彼の態度にだんだん腹が立ってきて、私は椅子の上で彼の方へ身体を向けた。何か文句を言ってやりたかったが、彼の方こそ文句を言われる筋合いはないだろう。彼は血を流しながら小屋へとやって来た私の傷を癒し、もし暴漢に隙をつけ狙われていたらどうなっていたか分からない、という忠告を今くれているのだから。ぐっと言葉を押しとどめて、私は、タオルを静かな水音で湿らせている彼の後ろ姿を眺めていた。

「僕は――あなたが女性だから、とは言いません」

 厳しい口調で、彼は言った。

「ただ、あなたが襲われていた場所は、僕の小屋に近かったでしょう」

 タオルの余分な水を絞り、彼はこちらを振り返って、また戻ってきた。未だ彼の表情は堅く、普段の穏和な笑みはどこにも見あたらなかった。彼が無表情になると、怒ると、こんなにも空気が変わるものなのかと、私は心のどこかで感心していた。彼にもこういった一面があるのかと。
 彼は、私の前に跪くと、血で汚れた膝下をタオルで拭き始めた。自分でやるからとタオルを取ろうとすると、厭がるように手を遠ざけられた。私が手を引っ込めると、彼は再び私の脚を拭き始めた。なんだか妙な心地がするし、羞恥心のようなものもあって、彼にそうしてもらうのは気まずかったのだが、あまり抵抗して怒らせるのも嫌だった。なので、私は彼のするがままに任せていた。
 彼は、しばし黙っていたが、どこか後悔するような口調で話し始めた。

「チサトさん、僕はね。悲しいんです」

 彼の言葉に、私は少し目を丸くした。

「え?」
「僕は、あなたに何かよくないことがあったら嫌なんです。あなたのことが、とても大事なんですよ」
「……」

 彼のストレートな言い分に、私は一瞬、何が何だか分からなかった。いつも彼が冗談交じりで言うからかいの言葉の一環かと疑ったが、口ぶりと態度が明らかに真剣だったので、私は何も言い返せなかった。そう――彼は、先ほどから真剣だったのだ。私のことで、彼は真剣になっていたのだ。
 私は、唇を閉じて、私の脚の血液を拭い続ける彼の柔らかなつむじを見つめていた。

「助けを呼ぶことを、あなたがそのとき考えたのかは、僕には分かりません。
 でも、次、何かあったら僕を呼んでください。僕はそれなりに紋章術も使えるし、弱いわけではないのですから」

 汚れたタオルの面を折り返して、彼は私のくるぶしを、やや強い力で拭う。

「あなたが僕を特別なものと思っているのと同じように、僕も、あなたのことが特別なんです」
「……それは」

 私は、おぼろげに口を開いた。

「私とあなたが、ネーデ人だから?」
「それもあります」

 彼が“それも”と言ったので、後に何かが続くのかと思い、私は息を潜めて次の台詞を待っていたのだが、彼はそれ以降何も言わず、汚れたタオルを洗いに水場へと戻った。たらいの水に沈めたタオルを何度かゆすぐ音が聞こえた後、彼は絞ったタオルを持って外に出て行った。干しに行ったのだろう。
 私は、彼に拭われた脚をぼうっと眺めていた。血の跡はもうどこにも見あたらず、傷も、かなり綺麗に塞がっていた。そういえば肘も怪我をしていたのだから、後で血を拭わなければいけない。いま彼がそれをしなかったのは、ここで私にシャツを脱がせるのは気の毒だと思ったからだろう。
 私はしばらく椅子に座ったまま遠くを眺めていたが、じきにのろのろと立ち上がった。今日の所はもう帰ろうと思い、玄関まで行くと、洗濯場から戻ってきた彼と鉢合わせた。彼は、じっと私の顔を見つめていた。私も彼の顔を見つめ返し、私は今日の所は帰るということを視線で訴えた。すると彼は目を伏せ、私の横を通り過ぎた――が、その直後。

「僕は――ただ、悲しかったんです」

 彼は、そう、下手すると聞き取れないような声で呟いた。私は、振り返らずに小屋から遠ざかり始めた。もしこの帰路の間、意識を取り戻したあの暴漢が私に復讐しようとしてきたら、助けを呼ぶために今度こそ彼の名を叫ぼうと思いながら。