「チサトさん」

 彼は、静かに玄関から部屋の中に入ってくると、私が突っ伏していたテーブルの方に近づいてきて、テーブルの上に、小さな木の実らしきものを数個転がした。私がのろのろと頭を起こして見ると、それらは今まで見たこともないような微妙な赤色をしていて、つるんとした表面の、コイン程度の大きさの、木の実か果実のどちらかに思えた。
 木のテーブルに転がって動きを止めたそれらを見つめた後、私は、近くに佇む彼の顔を見上げた。

「これ、何?」
「ついさっき、そこで取ったものです」

 平然とした様子で、彼は言った。

「木の実ですよ」

 言いながら踵を返し、彼は両袖をまくって、玄関近くの水場へと向かった。山奥では水道が通っていないため彼が独自に作ったポンプ式の給水箱の蛇口をひねり、手を洗っている。

「時期が少し早い気もしましたか、それはもう食べられるようですから」
「食用なの?」
「ええ」

 蛇口を閉め、側の窓枠に重ねてあったタオルを一枚取り、手を拭きつつ私の方を振り返る。

「おやつ程度にしかなりませんが」

 言われて、私はまたその木の実の方に目をやり、おそるおそる一つを手にとって、何度か角度を変えながらそれを観察した。一見するとサクランボに近かったが、表面はとても硬い。ガリガリ、と歯で噛む感じをぼんやりと想像し、私はまた彼の方を見た。

「なんか堅そうよ、これ」
「そうですか」

 使ったタオルを籠の中に投げながら、彼は再びこちらに歩み寄ってきて、テーブルの前の椅子に腰掛けた。彼もまたテーブルに転がっている赤い木の実を手にとって、まじまじと見つめ、指先に少し力を込めている。

「ん、でも、こんなものですよ」
「そうなの? 美味しいの、これ?」
「食べてみてください」

 口元に微笑を浮かべたまま、彼は私に視線を合わせずに言った。私は彼の顔と手にある木の実を交互に見た後、ためらいつつも、その木の実を口元に持ってきて、前歯でかじってみた。カリリ、という音がした後、歯が中にめり込んでいく。まだ熟していない梅を食べているような感じだった。
 ほんの少しかじり取った木の実の破片を舌の上で何度か転がすと、猛烈な刺激に襲われた。

「すっ……すっぱ!!」

 思わず手のひらに吐き出す。私の声に、彼は顔を上げた。

「え……すっぱい?」
「うう」

 吐き出した後もジンジンとした痛みとえぐさが舌に残り、口の中が強い不快感に襲われて、私は椅子を蹴って立ち上がり、給水箱の蛇口をひねりに行った。
 背後から、のほほんとした彼の声が聞こえてくる。

「まだ食べ頃じゃなかったんでしょうか」

 タオルと共に窓枠に置いてあったコップを掴み取り、水を溜めると、一気に口に含む。濾過して溜めたぬるい水は、それほどこの刺激を取り除いてはくれなかった。もう一度、水を溜め直す。

「変ですね」

 二杯目を飲み干した後、私は彼を振り返り、微笑を浮かべたままこちらを見ている彼をキッと睨み付けた。

「っ、信じられないわよ! なんなのノエル、これっていじめ!?」

 私がここに入り浸ってるのが悪いわけ!?と私が甲高く叫ぶと、彼は困ったように眉を寄せて笑んだ。

「まさか」
「まさかって、なんなのよ、その笑顔は! 分かっててやったんでしょ!?」
「し、知りませんでしたよ。本当に食べられる具合に見えて……あれ。でも、食べられる具合に見えるだけだったのかな?」

 口元に手を当て、手のひらに転がっている木の実をじっと深刻そうに眺める彼の元に、私はつかつかと近寄り、手のひらから勢いよく木の実を取って、彼の口の中に無理矢理ねじ込んだ。

「んむむ!?」
「ほら、あなたも食べるのよおおお」

 口を閉じようとする彼の歯の間にギリギリと木の実を押しつけると、木の実から得体の知れない赤い汁が流れる。その汁を舌に感じたらしい、彼はさっと青ざめると、私を押しのけ、案の定、給水場へと向かった。
 私は、未だ口の中に残る違和感を感じながらも、水を飲んでいる彼の後ろ姿を見て、仁王立ちして腕を組んでみせた。

「仕返しよ!」
「ゴホッ……」

 返事をしようとして、むせている彼。

「毒入りの木の実じゃないでしょうね?」

 私はそこまで憎まれる覚えはないと毅然として言い放つと、彼は何度かむせながら、肩越しにこちらを振り返った。

「なんで僕がチサトさんを殺さなきゃあいけないんですか」
「一生に一度のすっぱさよ、これは」

 先ほど彼が立ち上がった反動で床に落下した、妙な汁をじわじわと流している赤い木の実を憎らしげに見つめ、私は告げる。

「記事になるわね」
「やめてくださいよ」

 ゴホ、と最後の咳をしながら、彼はのろのろとこちらに戻ってきて、私が蹴って倒れていた椅子を元に戻し、床に落ちている木の実を拾い上げて、テーブルの側にあるゴミ箱に放った。ついで私もテーブルの上に残る木の実をかき集めて、ゴミ箱に入れる。

「本当におやつになると思ったんですよ」

 微妙に舌が痺れているのか、ぎこちなく苦笑しつつ、彼は嘆息した。

「そのために、木に登って取ったのに」
「え?」

 私はきょとんとした。

「木に? 登った? あなたが?」

 クエスチョンマークを頭につけて私が問うと、彼は、こっくりと頷いてみせた。

「ええ。あなたのために」

 彼の言葉に、私は一瞬停止して、そしてまたたく間に顔を赤くしてしまった。私が口をパクパクさせていると、彼は、あまり見たことのない少し意地悪げな笑みを浮かべて、あなたのために、という言葉を繰り返した。
 不覚にも返す言葉を失ってしまった私を眺めながら、彼は言う。

「記事にできないでしょう?」

 悪戯な台詞に、私は、もう!とますます顔を赤くして、彼の肩を叩いた。