「やっほう、ノエル」

 彼女は来る、マーズ村の近くの、僕が居候している、この森林のただ中に。
 日が差さない限りは薄暗く、湿っぽい苔の匂いが充満している森だが、晴れた日には、ささやかな木漏れ日が高いところから空気を突き刺して、地面でゆらゆらと波打っている。僕は時折、小屋の外に出て、日の光が作り出すその波紋をぼんやりと眺めている。時間は余るほどあり、することと言ったら動物の世話と研究で、収入を得るための仕事はリンガの研究所に任された書類整理と研究報告、しかし、それだけでは生活が成り立たないので、たまに町に降りて出稼ぎに行っている。自分の所有する治癒能力を生かして医者の助手を務めたり、小さな事務仕事、雑用、仕事内容はその時によって変わるが、自分と世話をしている動物たちが食べていける程度の金さえあれば、僕としては十分だった。この小屋も使い古したものをマーズ村の老人に譲り受けたものなので、家賃はない。
 僕は、人との関わり合いが嫌いだというわけではなかったが、特別好きなわけでもなく、人間といるよりは動物といた方が、心が落ち着いた。人間には、周りに他人がいないと生きていけない者と独りの方が気が楽な者の二つの人種がいるが、果たして僕はどちらなのだろう。人間がいると少し煩わしいが、動物がいなければ寂しいと感じる。

「何ムズカシイ顔してんの」

 彼女は、苔の上に膝を抱えて座る僕の、すぐ側にあった倒れた古木にひょいと腰掛けると、興味深そうな笑みを浮かべて僕を見つめた。燃えるような赤い髪からは予想できない、水の色に澄み切った瞳は、顔にガラス玉が埋め込まれているのかと疑ってしまうほど神秘的だった。僕は彼女の顔を見るたびに、その綺麗な瞳をまじまじと観察してしまう。いつもそんなことをしているものだから、以前彼女に「私にまで動物観察しないでよ」と怒られてしまった。そのつもりはなかった。おそらく自分でも気付かない癖なのだろうと思う。
 今回もまた、彼女の凛とした瞳を眺めていると、彼女は苦笑して目をそらした。

「やあね、あなたっていつもそう」
「すみません」

 僕は素直に謝り、彼女から視線を外した。目の前に広がるのは、鬱蒼とした森林の地面だった。広葉樹が多く、陰になりやすい部分が多いので、土はじめじめしている。よく観察するとキノコも生えていて、それは時々、僕と動物たちの食料になる。動物たちの気配は、今はない。彼女が来たのは正午を過ぎた頃だった。木漏れ日の光が地面で揺れ動いているが、ほぼ無風なので、その波紋はいつもまで同じ所を回り続けている。
 鳥と虫の鳴き声が響く森の静寂の中で、彼女は息を潜めていた。ここに来る目的は、実は僕にはよく分からない。彼女は、ネーデの生き残りとして、僕と同じくこの星にやってきた若い女性だったが、僕と違って活動的かつ積極的で、この星に生きることにそれほど苦心していないようだった。適応能力が高いと言えばいいのだろうか、彼女はハーリーで気の合う友人を見つけ、報道機関を立ち上げたらしい。だが、ネーデとは少々勝手が違い、社員が集まらないために恐ろしく忙しいようで、会社設立直後は半年間、全く音沙汰がなかった。僕は相変わらず森の中にいて、ほどほどに彼女のことを心配していたが、そのうち彼女の方から僕の所にふらりとやって来て、一週間から二週間に一回、意味もなく森の中で時間を過ごすようになった。以前、金髪の男性率いる一行と共に旅をしていたときは、彼女には、お喋りで明るいという、僕と全く正反対な人間というイメージがあったのだが、ここに滞在しているときの様子を見ていると、何やら違うらしい。もしかしたら、ネーデが滅んだというショックがあるのかもしれないが、それにしても、森林浴をしている時の彼女は、妙に穏やかて冷静だった。ここで休息する彼女の澄んだ瞳は、愛おしげに木漏れ日を見上げている。僕は、彼女の、その優しげな目が好きだった。もし彼女がその目を失くしてしまったら悲しいので、僕から何か彼女の気を乱すようなことはしまいと思っていた。だから、僕は、彼女の過ごす森での時間を一切邪魔することはしなかった。僕自身、自分から話しかけるタイプの人間ではないので、互いに都合がよかったのかもしれない。
 彼女は、ふと、高い木に向けて上げていた視線を下ろし、僕に振り返った。

「ノエル、ごめんね」

 急に小さな声で謝ってきたので、僕は驚いて彼女を見つめた。彼女は少し悲しげな笑みを浮かべて、自分の後頭部を撫でていた。

「……どうして、謝るんです」

 僕が首を傾けながら尋ねると、彼女は困ったように目を伏せて、うん、と微かに頷いた。

「私、利用してるんだと思うのよ」
「利用? 僕をですか」
「うん」

 彼女は古木の上に座ったまま、脚と腕を伸ばし、大きく背伸びをした。背伸びをしたまま上空を見上げて、その体勢のためにやや苦しげな声を出しながら、彼女は続けた。

「やっぱりねえ、やっぱり、ここは、この星は、私の場所じゃないんだなあって、時々思うのよ。
 自然は綺麗だし、水も美味しいし、過ごしやすいけれど、なんか違うって。ハーリーでアパート見つけて、そこを借りて、内装を自分の部屋らしくしても、やっぱり自分の家じゃなくてね……」

 彼女は伸ばしていた両腕を下ろし、今度は前屈みになって、ふう、と息を吐いた。

「私の家は、ネーデなんだよね。どうあがいても、あの星だったのよ。でも、ここにいることが、外国に旅行に来たとか留学したとかいうレベルじゃないって思うと、なんか可笑しくなっちゃうんだ。あ、もう帰る所がないんだなあって」

 彼女は微笑してはいたが、瞳は陰っていた。僕は彼女の顔を見つめたまま、膝を抱えて沈黙していた。彼女は弱気なところを他人に見せない女性だが、時折、心の奥に氷を抱えているような、人間が重たい悩みを抱えている時によくみられる目をしていることを、僕はなぜだか知っていた。どうしてだろう、彼女が特別な存在というわけではなかったのだが、その顔が不意に曇るのを、惹きつけられるような気持ちで眺めていたことはよくあった。暗い様子でいる時に、気を紛らわしてやるために僕から話しかけたこともあった。そういう時、彼女は慌てて自分を取り繕った。自分は弱い人間ではないと自ら言い聞かせているように、彼女は人前では始終明るく振る舞った。けれど、おそらく、彼女は僕が彼女のそういった一面に気付いているということを分かっていたのだろう。だから、このように意味もなく僕を訪れ、僕の前では少し寂しげな顔を見せるのだ。
 彼女はしばし沈黙していたが、僕に目を合わせると、膝を引き寄せ、薄く笑みを浮かべた。

「そんな時に、ね、ここに来ちゃうの。別に、この森は私の家じゃないし、森の動物のことも私にはよく分からないけど。
 ただ、落ち着くの」

 彼女の、ひどく小さな声に、僕は目を伏せた。彼女は今までこんな弱々しい女性ではなかったと思った自分が、嫌だった。彼女は、かつての星の運命が下された時に、僕よりずっと傷ついていたのだ。しかし、表面上の彼女は気丈だった。いつものように明るく振る舞い、冗談を言って周りの人間たちを笑わせていた。このエクスペルに到着したときも、他の仲間との別れ際に「私は大丈夫よ」と、さも大丈夫そうな様子で言っていた。なぜ僕は気付かなかったのだろう、ハーリーで会社を立ち上げたのも、自分の寂しさを紛らわすためだったとしたら。漠然とした未来の中に光を見つけ、会社を作ると僕に言いに来た彼女の姿を見て、僕は、彼女ならば大丈夫だ、と、そう思った。しかし、僕は本当に彼女の姿を見ていたのだろうか。この星にいるかつての他の仲間よりは、彼女に会う回数の方が格段に多かったが、その中で僕は一体彼女の何を理解していたのだろう。彼女は、きっと、居場所を失った自分の悲しみを癒すために僕の森に来ていたのだろうに。
 僕は顔を上げ、彼女を見据えた。

「チサトさん」

 彼女は、ん?と笑んだまま不思議そうに首を傾けた。
 どうか、そんな時まで、笑っていないで。

「僕の方こそ、謝らねばなりません」

 立ち上がり、僕が頭を下げると、彼女は驚いたように目を丸くし、両手のひらをぱっと胸元で開いた。

「え――え?」
「いいんです、理由など」

 苦笑し、綺麗な水色の瞳を見つめた後、彼女が先ほどまで見ていた遥か高い場所にある木漏れ日に目をやった。さわさわと揺れ動く葉の間から、陽の光が、まるで無数の小さな魂のように輝いては消え、僕たちを静かに照らしていた。彼女も僕につられてそちらを見たようだが、再び僕を見やり、

「ノエル?」

 と、僕の名を呼んだ。僕は視線を下ろし、彼女の方へ向け、困惑気味な表情を眺めながら微笑した。

「疲れたときには、いつでもここに来なさい。
 もし、ここが、あなたの家に近しいというのなら」

 僕の噛み締めて言った言葉に、彼女は目を丸くした。その透明な瞳は、本当に水晶が埋め込まれているようで綺麗だと僕は心から思った。彼女はしばらく唖然としていたが、今にも泣き出しそうな顔で微笑むと、頷いて、口元を引き締めた。泣きたいなら泣けばいいと言おうとした、が、彼女はそんなことを望みはしない。泣くときは、おそらくハーリーの自室で声を押し殺して泣くのだろう。それでいい、彼女は、まだそれでいいのだ。張りつめた悲しみと悼みの中で、今はまだ悲嘆を感じなければならない、全てを放出するまで。その膿をかき出す手伝いを、僕と、僕の森ができるというのなら、これ以上に喜ばしいことはない。いつか、彼女がこの森の中で、僕の前で、声を上げて泣くときが来る。きっと、それが、彼女の悲しみに満ちた追憶の果てとなるだろう。