「アシュトン、だ、め」

 横たわる彼女が、片腕で自分の顔を隠しながら言う。上から彼女を覆っていた彼は、必死な声に驚いて身を起こした。

「どうした」

 ぞっとして問うと、彼女はふるふると首を横に振って、唇を悔しげに噛み締めた。目元を腕で覆ってしまっていて彼女がどういった表情をしているのか分からないが、おそらく泣きそうなのだろうと彼は予測した。

「プリシス」

 彼は体勢を直し、肘をつき横向きに寝て、彼女の頭を手のひらで撫でつけた。彼女はその手を拒むように、先ほどより早い速度でかぶりを振った。彼が愛撫をやめると、彼女は徐々に息苦しくなるような荒れた息をし始めた。一瞬、何かの発作を起こしたのかと思ったが、その感じとも違うようだった。
 彼は、彼女の顔を眺めながら彼女の名を呼んだ。

「プリシス」
「だ……め。いやだ……」

 声を出したことで、今度はしゃくり上げ始めた。隠していても泣いていると分かる様子だった。彼女の腕と頬の間から涙がゆるゆると流れ、彼女の唇は小刻みに震えていた。彼はそんな彼女をなだめるように、今度は彼女の小さな腹を撫でた。彼女の身体は可愛らしくて温かい。彼女の方が体温が高いので、自分の手のひらはきっと冷たく感じるだろうと申し訳なく思いながらも、彼は優しく肌の上を撫で続けた。
 彼女は、その優しさを拒むために、懸命に声を出した。

「あ、いさな、い、で。こわい、こ、わ……」

 彼女の言いたいことが分かった彼は、切なげに彼女を見つめた。彼女は相変わらず腕で顔を覆っていて、その表情を見せてはくれなかった。

「……」
「だめ、愛され、たら……
 愛、され、た、ら、離れること、でき……な、く」

 彼は沈黙した。
 彼女は未来を心配しているのだ、この先に起こりうる未来を。彼女には夢があった、より自分の技術を上達させるために、遥か遠くの惑星に抱いている夢が。いつか彼女は彼を置いていくだろう、彼女はそう思っていたのだ、自分が、自分こそが彼を置いていくのだと。しかし、今は違う、そうではない、彼女の愛の強さは彼のものよりも強くなってしまった、彼女の方がずっと深く彼に依存するようになり、もはや、彼女は彼無しでは生きられなくなってしまった。

「愛さない、で」

 彼が、彼女を置いていく時が来る。例え、それが物理的に見て逆であっても。

「いや……離れるのは……」
「プリシス」

 彼は彼女の腕に小さく口づけをした。彼女はその反応で微動したが、抵抗はしなかった。

「それでも、僕は、君を愛しているよ」

 かすれた彼の声が耳元で響く。

 彼女は、違うと心の中で叫んだ。自分の方が彼より愛していると。彼の愛を拒むのは彼の愛を失いたくないからなのだと。それでも彼は言うのだろう、僕は君を愛している、君が愛するよりも愛しているのだと。何度も耳元で繰り返して、たとえそれが偽りであっても、僕の方が君より何倍も愛している、泣かないで、どうか、と。彼の声が現実に響いていた。彼は、相変わらず彼女を愛していると言い、狂ったように彼女を抱き、同じ温度となり二人が深く混じり合うために彼女に冷たい体温を分け与えていた。しかし、彼女の体温はいつも彼より高く、彼の体温はいつも彼女より低かった。彼らは一つにはなれない、彼らは、いつでも独りだった。おそらくずっと、この先も。
 彼女は涙で歪んだ天井を見つめ、心の中で呟く。
 声には出さない。

(ねえ、おねがい。
 ずっと、離れたくないんだって、言って。
 もし、あたしが想うよりも、あたしを強く想っているというのなら)

 それでも、彼は言わない。その言葉だけは決してくれない。

(おねがい、言って……)

 いつか彼は悲しげな笑顔を浮かべて彼女を送り出すのだろう。