行ってはいけない、と、急にナオジ様が私の手をつかんできたものですから、私はとてもびっくりいたしました。普段ナオジ様は声を荒げるようなことを滅多になさらないのですが(感情的になられることはあっても常に控えめでいらっしゃいますので、取り立ててこちらが驚くようなこともございません)、その時は、何かこう、とても切羽詰まったような、何かショックを受けたような仰りようでした。私は驚き、ナオジ様に手をつかまれたまま、後ろを振り返りました。すると、ナオジ様は、ハッとしたように目を少し大きくし、おずおずと私の手からご自分の手をお放しになりました。私は初め、何が起こったのかよく分かりませんでしたが、一瞬、ナオジ様に手を強く握られたことを思い出して、なんだかとても恥ずかしくなってしまい、未だ感触が残っている手を胸元に引くと、隠すようにもう片方の手で包み込みました。それを見たナオジ様が慌てたように、申し訳ございませんと謝罪の言葉を仰るので、私はとんでもないと首を強く横に振りました。私が、一体どうされたのですかとナオジ様に尋ねると、ナオジ様は少し俯いて、どことなく苦しげな顔をしながら、いえ、と掠れた声で仰いました。私は、しばらく手を覆い隠したまま、目前で顔を伏せているナオジ様をじっと眺めていましたが、ゆるゆると両手を下ろすと、ナオジ様の顔を覗き込むようにして尋ねました。ナオジ様、お顔の色が悪いですわと私がおそるおそる申し上げると、ナオジ様は不思議そうな表情で、そうでしょうかと仰いました。私は、ええ、そうですと正直に言い、ナオジ様の顔はいつも以上に白いです、と申し上げると、ナオジ様はうっすらと苦笑なさって、疲れているのかもしれませんと小さな声で、けれど私を安心させるような声でおっしゃいました。ナオジ様と偶然すれ違い、挨拶を交わしたのは夕食後でしたので、もうそろそろ互いに自室へと戻らねばなりませんでした。この国の冬間近の空気はとても冷たく、あまり長居すると風邪を引いてしまうことでしょう。私は、それでは、ゆっくりお休み下さいね、とナオジ様に向かって微笑みました。するとナオジ様も私の笑みに応えるように、そうしましょう、と微笑んで下さいました。私は踵を返そうとしましたが、先ほどナオジ様に、行ってはいけないと言われたことを思い出し、あれは一体どういう意味だったのだろうと思い、しつこいかもしれないと不安になりつつも、行ってはいけない理由があるのでしたら私も自分勝手な行動はできませんので、意を決してナオジ様に、先ほどの言葉は一体どういう意味だったのでしょうかと尋ねました。私に問われたナオジ様は、一瞬動揺したような面持ちをなさいましたが、少しの間深刻そうに私の顔を眺めると、水が……と、注意していなければ聞き取れない小さな声音で仰いました。私が、水?と尋ねますと、ナオジ様は頷き、水の情景が見えたのです、と低い声で仰いました。一体何のことだろうと私が首をかしげるのを見て、ナオジ様は、うっすらと笑みながら、お気になさらずと穏やかな口調で言って下さいました。それではおやすみなさいとナオジ様が続けてご挨拶を下さったので、私も、おやすみなさいと言い、お互い自室の方へと戻り始めました。ランプの明かりだけの暗い廊下を十数歩行ったところで、私は、なんとなく後ろを振り返りました。すると、不思議なことに、ナオジ様も私と同じくらい歩いた所で、私の方に振り返ったのです。ナオジ様がどこか悲痛な顔をしていらっしゃるので、私も自然と似たような面持ちになってしまい、ナオジ様は何か訴えたい事柄をお持ちなのだと予感しつつも、どうしてよいか分からず、ナオジ様が泣きそうな顔で微笑むのを見ると、私も同じように、何だか胸が一杯になって泣きたくなるような感じに襲われながら微笑み、今度こそ、その場から立ち去りました。これは、果たして何なのでしょうか、今さっきナオジ様と共有した時間と空間は、とても不思議な感覚を私にもたらしたのでした。私はこの感じを知っているのかもしれないと私は不意に思いました。遠い昔、遙かなる昔、幼少時代か、それともただ単に忘れているだけなのか、よく分かりませんが、先ほどと同じ、不思議な感覚を呼び起こす空気を、私はかつてナオジ様と共に吸ったような気がするのです。それはとても切なくて、胸が張り裂けそうになるような強い感情を、深い眠りから目覚めさせるかのようでした。ナオジ様につかまれた手を口元に寄せながら、私は恥ずかしさと悲しみで一杯になり、足早に廊下を駆けると、急いで自室へ入りました。部屋に戻ると、私は急に泣きたくなって、ベッドの方によろよろと近寄ると、床に座り込み、ベッドに顔を伏せて泣きました。なぜ苦しいのか、なぜ悲しいのかは全く分からないのですが、ただ、涙が出るのでした。とても切なくて、心が崩れてしまいそうになる涙が……