47





「おーい、アメツネー!」

 名を呼ばれ、アメツネは振り返った。青々した広い草原の中に、陽の光に照らされた金髪が柔らかく光っているのが見える。
 返事をして魔術を利用し、近くに姿を現すと、草むらにしゃがんでいたクラトは目を丸くしてうわっと声を上げ、勢いよく腰を上げた。

「びっくりした! 急に現れるなよ」

 お前は魔術を多用しすぎだと文句を言われる。現世を歩き回るときには、なるべく魔術を使わないという約束をしているのだが、長いあいだ魔術師として生きてきて多用しても誰も咎めなかったので、移動などが面倒くさいのもあって何も考えずに唱えてしまうのだ。

「癖でな」
「まったく……便利だから、うらやましいけどさ」

 相手の心が傷つかないように、うまくフォローを入れてくれる青年の気配りは、アメツネにはつくづく好ましいものだった。
 クラトは腕にかけている小さなかごに草むらで摘み取った植物を入れていて、その中から一枚の葉を出すと、それをアメツネに差し出して見せた。

「これでいいのか?」

 周囲がギザギザになっていて、表面には白い斑点がところどころにある、手のひらより少し小さいくらいの葉っぱだ。指先で葉先を取り裏表を確かめて、アメツネはこくりと頷いた。

「ああ。よく見つけたな。見つからないだろうと思っていたのだが」
「そうなのか? 群生してるところがあったから、こんなに摘み取れたけど」

 かごの中には、同じ模様の葉が底が見えないくらいに折り重なって入っている。覗き込みながらアメツネは感心した声を出した。

「すごいな。そなたは運が良い」
「そうなんだ? たくさん生えてたし、実感ないけどな。この葉をどうやって使うんだ?」
「店に戻って乾燥させたあと粉末状にする。それから他の薬と混ぜる」

 言いつつ、アメツネもまた自分の収穫した植物や木の実をクラトのかごの中に入れた。興味深そうに目で追っているクラトが「まるで理科の実験だなあ」などと呟いている。
 ふふと笑いながらアメツネは草原を歩き出した。草原に一本真っ直ぐに通っている歩道から離れた場所に来てしまっていて、ひとまず元の道に戻る必要があった。後ろからクラトがのろのろとついてくる。

「アメツネ、どこに行くんだ」
「この草原の先に町がある」

 本当ならば、魔術を使って町まで一瞬で移動してしまえばよいのだが、それをするとクラトがあまりいい顔をしない。彼はあくまで死んだ身で現世に召喚されている状態であり、ただでさえこちらの世界の者たちからすれば異質な存在なのに、加えて魔術を使用されると、普通に生活している人々に対する後ろめたさを覚えるそうだ。だから、魔術師も文句を言われないようにおとなしく従っていた。

「町? 町に行って、どうするんだ」
「酒場があってな。質素な店だが、なかなか上手い酒を出す」

 クラトが背後で立ち止まった気配があり、アメツネは振り返った。視線の先に、怪訝そうな青年の表情がある。

「おれも行くのか? おれは、生きてる人たちにあまり関わりたくないんだけど……」

 以前も同じ心配をされたことがあるのだが、彼の言い分としては、死者が生きている世界にかかわると、その世界の理や未来を歪ませてしまうのではないかという懸念があるとのことだった。そのときにアメツネが「歴史が歪んだとしても、ほんの少しのゆがみにしかすぎないから、うまくやって正せばいい」と申し出たら、明らかに嫌悪を抱いた様子で拒絶され、いくら魔術を使えるからと言って、そういう考えを軽々しく思いついてほしくないと吐き捨てられた。
 クラトは、根が真面目なのだ。歴史を変革してしまうことに対する恐怖心というよりは、生者の時間の流れを変えてしまうことなどそもそも許されてはならないという正義感があるらしい。彼の主張はもっともだった。アメツネは己の万能さを過信しており、あまりに不可能がなさすぎて、本来の人間の在り方を忘れてしまっていた。
 まっとうな考え方を徐々に取り戻させてくれるのは大変ありがたいのだが、もう少し遊び心があってもいいのではないかというのがアメツネの本心だ。

「たまにはいいだろう。ここは、そなたが生まれるよりずっと前、トノベ時代よりも前の時代だ。そなたがいることを不思議に思う者はいないし、たかが酒を飲むくらいで歴史は変わらぬ」

 言って、再び歩き始める。どうなるだろうかと思っていたが、クラトは控えめに後ろからついてきていた。

「少しだけだぞ」

 それでもなお真面目を貫き通す青年に、はいはいとアメツネは肩をすくめた。





 町と言っても、とても小さな田舎で、人々は農耕によって堅実に暮らしていた。昼間だが、舗装されていない土がむき出しの道にはあまり人通りがなく、そのことはクラトを安心させたようだった。
 長い人生の中で、この町に何度か訪れたことがある。先ほどクラトと共に魔術の材料を探していた草原に貴重な植物が多いために、収穫のついでに寄り道することが多かった。小さな酒場の雰囲気が気に入って、老人の姿で酒を飲みに来ていた。若者の姿で店に入ったのは今回が初めてだった。
 簡素な木のテーブルとイスがいくつか置いてある、吹き抜けた窓から乾いた白い光の差し込む店には、二人の他に誰もいなかった。アメツネたちが入店した気配に気付いた壮年の男性店主が奥から出てきて、明らかに異邦人の格好をしているはずの男たちに警戒もせず「何にしますか」と聞いてくる。
 もしかしたら、ここは旅人の通り道になっているのかもしれないなと思いつつ、アメツネはマテ酒を二つ頼み、適当な場所にクラトと向かい合って着席した。

「なんか、すごく素朴だな」

 持ってきていたかごをテーブルの上に置き、店内をぐるりと見回しながら、クラトがもの珍しそうに言う。もともとタカマハラの都会に住んでいた若者であり、きらびやかな場所に慣れているので、こういった田舎の店に入るのは稀なのだろう。
 アメツネは、下手に体重をかけすぎると後ろに折れかねない木の背もたれに軽く身体を預けつつ、小さく笑った。

「こういう酒場の方が好きでな。もともと静かな場所が好きなのだ」
「ふうん……あ、だから、お前の店もあの変な空間にぽつんとあるだけなのか。確かに、研究者だもんな」

 ああいう場所の方が集中できるよなあとクラトが言っている間に店主がやって来て、二つの木製のカップと酒瓶を一瓶置いた。アメツネがこの時代の通貨を渡すと、短く礼を言って再び奥に引っ込んでいった。
 クラトがさっそく持ち上げた瓶から酒を注いでくれる。

「アメツネと酒を飲むときが来るなんて思わなかったな……お前、酒、強いのか?」
「まあまあだ」

 コップを差し出しながら、クラトは小さな溜息をついた。

「いいな。おれ、弱いんだ」
「そうなのか」
「しかも酔っぱらうと絡むらしいんだ……最悪だよ。記憶が無くなることも多いし。それで散々、警備隊の奴らにからかわれたりしてさ。もしそうなったらごめんな」

 しゅんとしている青年がいじらしくて、くすりと笑う。コップを受け取り、特に理由はなかったが「お疲れ」と盃を合わせて、中身を口に含んだ。すると、すぐにクラトがパッと顔を明るくしてこちらを見てくる。

「美味いな、これ。おれたちの時代の酒よりも、ずっと味が濃い気がする」
「そうだろう。この時代の、この近辺で採れるマテの実の味らしくてな。気に入っている」

 だから売り物になっている瓶を土産に買って帰るのだと話すと、クラトはコップを置いてテーブルに頬杖をつき、口をとがらせた。

「いいよな、アメツネは、魔術で何でもできるし」
「そうか? まあ、長年生きていると嫌でも覚えてしまうのだがな」
「もしかして、世界の始まりとか、終わりとか、そういうものさえアメツネは知っているのか?」
「まさか。私にだって知らぬことはたくさんある。魔術を研究し続けているのも、まだまだ未熟なところがあるからで……」

 くどくど説明するのだが、全て嫌味に捉えられてしまうのかクラトはあまり聞いていないようで、ふてくされた様子で適当な相槌を打ち、陽光が差し込む窓の外を眺めていた。そのうちアメツネも喋ることをやめ、二人の間に寂が続いた。外からは鳥のさえずりや近くにある林のさざめきが聞こえてくるだけで、人が外の道を通る気配すらない。
 なんだか眠くなってくるな……とちびちび酒を飲みながら物思いにふけっていると、クラトが窓の向こうを見つめたまま口を開いた。

「……なあ、アメツネ。
 アメツネは、どうしてカヤナが好きだった?」

 静かな問いに、青年の顔を窺うが、表情は読み取れなかった。アメツネは一度、酒を飲むのを止め、またすぐに一口含んだ後、ぽつりと答えた。

「美しかったから」

 それは、他に表現のしようがないために選ばれた一言だった。クラトの瞼がぴくりと反応したような気がしたが、彼は窓を見つめたままこちらを見ようとはしなかった。
 クラトは口を閉じていて、そのうち「そっか」と呟くと、テーブルに両腕を寝そべらせ、そこに頭を伏せた。

「おれはさ、アメツネ。
 たぶん、イズサミが好きなカヤナが好きだったんだよ」

 それはどういう意味だと、酒を口に運びながら沈黙で続きを促す。
 クラトは独り言のように話し始めた。

「カヤナが、イズサミのことを想って、泣いたり、悲しんだり、苦しんだりしているのを見るのは可哀想でつらかった。そのたびにおれ自身も、ああ、おれの恋は報われないんだなって現実を突きつけられて、しんどかったよ。
 でも、カヤナが、ただ一人の男を愛して、嘆いて、求めている姿は、すごくきれいだと思った。人を愛することを忘れてまで、カヤナはイズサミへの愛を守っていたんだ。本当に人を愛するっていうのはこういうことなんだって、そんな愛し合い方ができる二人はなんてすごいんだろうって……。おれには到底理解できない結びつきみたいのがあって、二人は全然違う世界の人たちみたいで、近づくことができなかった。
 少し離れた場所から見えるカヤナの姿が、おれは好きだった。イズサミを愛しているカヤナが好きだった……」

 矛盾してるけどなと、クラトは自嘲気味に笑った。

「だから、おれの恋は、はなから成就しようがなかったってことさ」
「……そうか」
「あ、でも、初めてお前の姿を見たとき、これはイズサミに強敵が現れたなって思ったんだぞ。すごい美男だし強いし、カヤナが取られちゃうんじゃないかって、イズサミの立場になって、おれが心配してた」

 正直に言うクラトに、アメツネはおかしくなってくすくす笑みをこぼした。なんだよ、と文句を言いながら飲み干して空になったクラトのコップに、瓶から酒を追加してやる。

「まあ、あわよくば……とは思っていたかな」
「やっぱり。アメツネは自信家だもんな。それだけの美貌があれば自信満々になれるだろ」
「美貌とやらは分からないが、もしかしたら振り向いてくれるのではないかとは思っていた。ただ……」

 自分のコップに注ぎ終えると瓶を静かに置いて、アメツネは薄く笑みながら、ぼんやりと卓上を眺めた。

「ただ、私も、クラトと同じく、イズサミを愛している彼女が好きだったのかもしれない。たった一人の男を深く愛するがゆえにある彼女の脆さに惹かれていた」

 だから自分もクラトと同じく報われない恋をしていたのだろう。
 そう告白すると、クラトは頭を伏せたままアメツネを見て、いたずらっぽく口角をにやりと上げた。

「つまり、お前もおれも失恋してるわけだ。あーあ、なんかかっこわるいなあ、おれたち」
「ふふ……そうだな」
「なあ、アメツネ」

 クラトは身体を起こし、酒の入ったコップを片手に持つと、急に神妙な顔つきになった。

「もうすぐ、材料が揃うんだろ? 魔術が完成したら、おれは転生して、全てを忘れてしまうんだ。カヤナのことも、警備隊の奴らのことも、お前のことも……」

 悲しげに言うので、今になって転生は嫌だと言い出すのではないかとアメツネは少し心配になる。酒を飲みつつ、彼の言葉に頷いた。

「そうだな……」
「記憶が無くなるのは仕方がないと思うし、転生に協力してくれるのなら、前に提案してくれた願いが叶うのなら、やってみてもいいかなって思うんだけど……
 でも、おれ、アメツネが自分自身の望みを叶えるところを見ることができないじゃないか」

 それはそうだろうと、アメツネは相槌を打った。様々な時代に赴いて行う材料探しにクラトが協力してくれたおかげで、転生の魔術はほとんど完成している状態だ。あとは、クラトが望めば術を使用できるところまで来ている。一方、アメツネの消滅のための魔術は、クラトに施すものに比べれば研究途中で、どちらが早く実行できるかと問われれば、転生の魔術の方が遥かに早い。

「私のための術の完成を待っていても、いつになるか分からぬぞ。転生の魔術は材料の消費期限があるから、あまり放っておくわけにはいかぬのだが」
「分かってる、分かってるけど……
 アメツネの望みを否定するわけじゃない。もう十分すぎるほどお前は苦しんだんだから、それを終わらせたいって願うのは当然のことだと思う。
 でも、しつこいようだけど、本当は、消滅なんかじゃなくて、おれと同じように転生するとか、その……無に還ろうって、完全に消えてなくなろうと考えないでほしいと思うんだ……」

 自分の言い分に罪悪感があるのか、クラトは非常に言いにくそうに告げた。転生を願えばいいと提案されたのにアメツネは少し驚いたが、転生の場合、完全消滅とは違い、いくら記憶が白紙に戻るといっても同じ魂が残り続ける。自分の罪深い魂が後世に続けられていいとは思えなかった。
 そんな魔術師の心境を分かっているのか、クラトは慌てた様子で続けた。

「も、もちろんさ、アメツネの好きにすればいいよ。お前の魔術だし、おれが口出しできることでもないし。けど……
 おれ、寂しいんだ。できれば、転生したあとに、違う人間になってまた会えたらいいなって思う。だっておれたち友達だろ?」

 アメツネはカップを持ったまま目を丸くした。

「とも……だち?」
「ああ、友達だろ……え。
 そう思ってるのはおれだけか?」

 もしそうならすごく悲しいんだけど、と眉をハの字にしている。アメツネは、全く予想していなかった単語に戸惑い、目をぱちくりさせて、ぎこちない動作でカップをテーブルに置いた。

「……友」
「うん。おれは、そう思ってたけどな。こうやって飲み交わす相手が友達じゃなかったら、じゃあなんだっていうんだ? ただの知り合い?」
「いや……」

 クラトを傷つけたくないのだが、なんと返してよいのかわからず、自分の首の後ろをそっと撫でながらアメツネは言葉を探していた。じっとこちらの様子を窺ってくる青年の視線に耐えられず、目を伏せてしまう。

「その……友ができるとは思っていなかったのでな」
「え、何で?」
「過去の友人たちは皆死んだし……たとえ友人を作ったとしても必ず先に逝かれてしまうから、悲しい思いをすることが多かった」

 だから下手に友人という間柄を持たないようにしていたと正直に説明する。悲しみから逃げるために人と深く関わり合うことをやめていた矢先、前触れなしに惹かれ始めたのがトノベ時代のカヤナだったというわけだ。彼女とも友という関係を築いたことから始まり、アメツネの方は恋愛に発展していったが、彼女の中ではアメツネはいつまでも友人のままだった。それ以外に友など自分にはできないと思っていたのに、クラトが急に友人認定をしたのでアメツネは驚いたのだった。

「そうか……その。
 私たちは、友なのだな?」
「うん? うん、多分。おれだけがそう思ってるだけなら、友達とは言わないのかもしれないけど」

 未だしょんぼりしているクラトに、アメツネは嬉しさのような、慈しみのような気持ちを覚えて微笑んだ。

「そうだな。我々は友人同士だ」

 クラトには、これまで何度も心を救われたのだ。人間として大切なことを多く思い出させてくれた。魔術の研究も手伝ってくれているし、店にいる間は、世話になっているお礼だと言って料理を披露してくれることもある。いつも店で独りきりだったのに、話し相手になってくれる誰かがいるだけでこんなにも部屋が明るくなるものかと感激していた。
 ソルファルタン。欠けた太陽。このイミナこそ、青年の気質を表すにふさわしい。

「だが……転生というのはなかなか、な」

 自分の魔術であればできないことはないだろうがと、心の中では答えたが、クラトには伝えなかった。クラトは、そうか……と少し悲しげに笑い、コップの酒を飲みほした。

「でもさ、気が変わったら、会いに来いよな。おれ、転生しても覚えてるよ、アメツネのこと」

 惜しげもなく、そんな言葉を自分に対して使ってくれる。こんな温かな感情を抱いたのはいつぶりだろうか?
 どんなに重たい罪を背負い、異常な命を持っていたとしても、自分はここまで生きてきた良かったのだと、そう思える己が生まれていることが、ただ嬉しかった。
 そう思わせてくれた仲間たちと出会えたことが。