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「すごいな、なんて綺麗なんだろう……」

 眼前に広がる、色とりどりの花々が咲き誇る花畑を眺めやり、クラトが感嘆の息をついた。アメツネはクラトの近くに佇んで、人気のない広大な花畑を見ながら微笑を浮かべている。少し離れたところにはイズサミとカヤナがいて、走ったり花を摘み取ったり摘み取った花を投げつけたりしながら、二人で子犬のように戯れていた。

「今のトノベは遺跡だからな。瓦礫だらけだし。それでも綺麗なところだけど、こんなに広い花畑が昔はあったんだな……」

 クラトの言葉に、アメツネは頷く。ちょっとした気分転換をと思い、魔術を使って二千年前のトノベに彼らを連れてきたのだが、思った以上に喜んでいる様子の三人に、アメツネはこっそり満足していた。

「美しいだろう、ここは」
「ああ」
「こんなところで殺し合いが起きていたとは思えぬな」

 うん、とクラトは喉の奥で頷いた。

「どうしてカヤナとイズサミが、愛し合ってる人間同士が戦わなければならなかったんだろうな」
「二人が愛を語らっていた場所だ。傷も深かろう」
「え……見てたのか?」

 じろりとこちらを睨み、クラトが怪訝そうに問うてくる。アメツネは何食わぬ顔で、ひょいと肩をすくめてみせた。

「私には未来が見えていたからな。幼き頃の、彼らの翼すらも」
「まあ……いいけどさ」

 今に始まったことじゃないしと、体育座りをした膝の上に顎を載せ、ふてくされたようにしている。そんな青年の姿にくすりと笑い、アメツネもまたその場に腰を下ろした。赤や白、黄、青、紫など様々な色の花が可愛らしく揺れ、心地よい芳香を放つ。

「私が殺し合いを止めれば良かったのだろうか」

 アメツネは呟いた。自分は時間という概念を失い、魔術の世界と現世、そして常世の国を、過去も未来もなく自由に行き来することができる。その中で、カヤナとズサミが互いに剣を交え、カヤナは夫に殺され、復活してもなお願いは果たされることはないという運命を垣間見ていた。もちろん、どうにかして哀れなカヤナの運命を変えたいと実験を繰り返し、そのせいで世界はいくつもの線に分岐してしまったが、結局、未来は、どの流れにおいても、ほとんど同じ形へと収束していった。何かとても大きな力が、これだけは変えられないという絶対的な道筋を決めているかのようだった。時間を行き来する力は人の運命を変えられる力とは別物なのだということを、その長い生と繰り返される実験で思い知った。
 どうにも変えられなかったのだ。苦笑交じりに呟くと、クラトは神妙な顔つきでこちらを見た。

「今ここに、この状態で行き着いたことを、アメツネは後悔してるのか?」

 問われ、そうだな……とアメツネは曖昧に笑った。

「後悔、は、していないな」
「なら、これでいいじゃないか」

 クラトは再び花畑を見やった。

「あの時ああしていればって考えるのはさ、無意味だよ、アメツネ。お前には時間の感覚がなくて、やろうと思えば後悔の原因を取り消すこともできるのかもしれないけど、普通は無いんだ、そういうの。人間は後悔しながら、それでも強く生きるんだ」

 迷いなく言う青年の横顔に、アメツネは見入った。風に揺れる金髪がソルに輝いて、それは本当に美しい姿だった。
 この青年からは、教えられることが多くある。自分に比べたら遥かに非力で、ほんの一瞬にしかすぎない命だった人間なのに、この場にいる誰よりも強くまっとうな心を持っている。儚さの中にあるクラトの揺るぎない強さは、どうしてもアメツネには持つことができないものだった。

「そうだな」

 しみじみと頷く。

「これで、よかったのだ」

 そのときカヤナが二人に走り寄ってきて、息を切らしつつ、きらきらした表情を浮かべ、手に持っているものを「ほら!」と見せてきた。

「見ろ、これ!」

 指先でつまんでいるものは、緑の地の色に赤い斑点がいくつもある大きな蝶だった。うわっとクラトが悲鳴を上げて後ずさっている。

「き、気持ちわるっ!」
「なんだクラト、お前もイズサミと同じことを言うんだな」
「ねえカヤナ、それ早く逃がしてよ!」

 少し離れたところでイズサミが叫んでいる。先ほどから二人で花畑を走り回っていたのは、この蝶を捕まえるためだったらしい(イズサミは逃げ回っていたのかもしれない)。
 カヤナがわざと蝶を近づけてくる。やめろ!と青ざめたクラトがアメツネの後ろに回り込んできた。

「アメツネ、カヤナを止めろっ」
「なんだ、情けないな。珍しい色と模様で綺麗じゃないか」

 気に食わなさそうにカヤナが口を尖らせる。カヤナは色彩感覚がおかしいんだよ!と遠くでイズサミが叫んでいるのが聞こえてきて、アメツネはやれやれと苦笑しながら指を鳴らした。カヤナの手から蝶が飛び立ち、彼女があっと声を上げている間に、蝶は魔術で出現した大きな瓶の中に収納される。

「何するんだ! かわいそうだろう、逃がしてやれ」
「珍しい種類だからな。魔術に使えるかもしれない」
「なんだと! 生き物を実験台にするのか?」
「傷つけたり殺したりはしないさ」

 殺生は嫌いだからなと言いながら再び指を鳴らし、瓶は店の方へと送った。
 ふんと息をつき、カヤナはクラトの近くに座り込んだ。

「花畑ですることなんて、虫を捕まえることくらいしかないではないか」
「花を観賞するという選択肢はないのか」

 いちいち狩りや争いの方に思考が行く女性に苦笑する。カヤナは半眼でこちらを一瞥し、ほかに何があるっていうんだとふてくされた様子で吐き捨てた。
 イズサミがのろのろと寄ってきて、カヤナの隣に座る。散々カヤナに遊ばれたのか、ぐったりしている様子だ。

「疲れた……カヤナは勇ましすぎるよ」
「そうか? 普通だろう。もう王でもなんでもないんだし」
「なんていうか……ボクの立場がないっていうかさ。一応男だし、カヤナのことを守りたいんだけど」
「まあ、武芸については私のほうが上だな」

 嫌味のつもりではないのだろう。当然のごとく言い放つカヤナに、彼らの斜め後ろにいるクラトがくすりと笑った。

「武術については、ここにいる誰よりもカヤナが強いよな。というか、お前たちに比べたら、おれなんてヒヨッコだ」
「おや、クラトも強いぞ。優しさや慈悲があるせいで、なかなか本気が出せないみたいだけどな」

 それがお前のいいところでもあるんだよと、カヤナが振り返って微笑む。クラトは、嬉しいのか口元をむずむずさせて、ありがとうと小さな声で礼を言った。
 しばらく四人で花畑を鑑賞しつつ、他愛もない話をしていたが、沈黙が訪れた際、ふと思いついてアメツネは提案した。

「クラト。カヤナはな、裾が地に着く女性の衣装を着てみると、なかなか見栄えして美しいのだぞ」

 以前、カヤナにアメツネの生まれた時代の衣装を着せてみたことを思い出したのだ。薄桃色の長いローブの上に流れる黒髪がくっきりと浮かび上がっていて、普段の彼女の凛々しい美に女性らしさが加わり、思わず見とれてしまうほどだった。男ならハッと息をのむ可憐さだっただろう。
 イズサミが、「あ、あれ、やっぱり夢じゃなかったんだ」と独り言を言ったので、すごく気になるといった様子でクラトは食いついた。

「なんだよそれ、見たい」
「はあ!? 何言っているんだ、私にそんなものが似合うわけがないだろう。まだ武人や執務の格好をしていたほうが落ち着くぞ」

 本人は反対意見だが、イズサミとクラトとアメツネがカヤナの衣装替えに賛成したので、多数決によって魔術を行使することになった。ふざけるな!と立ち上がって喚き始めたカヤナを冷静に眺めつつ、アメツネは口の中で術を唱えて指を鳴らした。あっという間に彼女の身体が光に包まれる。やめろ!という絶叫が中から聞こえてきたが、否応なしに術を唱えきると着替えは完了し、次第に光は収まっていった。
 そこに現れたのは、ほとんど白に近い薄灰色の、胸元が大きく開いた、流水のようにすとんと裾が下に落ちているローブを身に纏ったカヤナだった。ところどころに控えめな金の刺繍があり、高い位置にある腰の細い帯の桜色が全体の締まりを良くしている。結わえられた黒髪には黄金のかんざしが刺してあり、カヤナが自分の姿を見ようと頭を動かすたび、装飾部分がシャラシャラと心地よい音を立てた。
 クラトが、あまりカヤナっぽくない気がするんだけど……という目を魔術師を向けたとき、急にイズサミが驚愕の声を出した。

「そ、れ……」

 見開いた眼を釘づけにし、彼は立ち上がる。

「もしかして、ヤスナの……
 ヤスナの婚礼衣装だよね、アメツネ?」

 呆気にとられた様子でこちらを振り返り、訊いてくる。アメツネはこくりと頷き、もう一度指を鳴らした。すると、今度はイズサミの身体が光に包まれる。わあっという声が上がったが、彼もこのあと自分の姿がどうなるか分かっているはずだ。クラトも予感したのか、腰を上げて目の前の光景を凝視した。
 少しして、光が消える。花畑に佇む青年は、カヤナが着ているものと同じ色の、金の荘厳な刺繍が施してある首まで覆うローブを着ていた。青い髪には金の華奢な髪飾りがあり、肩からはローブと同じ薄灰色の長いマントが下がっていて、腰には繊細な装飾の銀の剣が備えられている。
 イズサミは自分の姿を見下ろし、唖然としていた。カヤナも同様の顔つきでイズサミを見つめている。

「ああ……美しいな」

 自分の魔術も伊達ではないと、アメツネは微笑しながら彼らを交互に眺めた。クラトも二人のように言葉を失っていて、長らくの寂が続く。
 ふとイズサミはカヤナを振り返ると、戸惑いの声を出した。

「えっと……あの……
 これ、ヤスナの婚礼衣装なんだ。典型的なやつ……」
「あ、ああ……」

 二人のかなり動揺している様子に、アメツネはふっと吹き出した。

「もし、の話さ。そなたたちが当時、望んでいたことだ」

 言葉に、二人は複雑そうな面持ちで魔術師を見やった。特にカヤナは暗い顔をしている。クラトもまた、どうして……と不安そうにアメツネを振り返った。

「ちょっと、やりすぎじゃないか……」
「分かっているさ。カヤナはもう既婚の身だ。今はもう寡婦かもしれぬが。
 当時、もし、ヤスナ家とタカマハラ家に確執がなく、二人の間になんの隔たりもなかったのだとすれば、そなたたちはその衣装を身に纏い、隣に並んでいたのであろう。カヤナはヤスナに嫁ぎ、子を産み、幸せに暮らしていたのであろう。
 これは叶わぬ夢だが、この幻の中で、儚く散る夢をひとときだけ叶えたとしても、罪にはならぬと私は思う」

 二人が、本当はこうありたかったという想いを、アメツネは知っている。想いを伝え合ったときも、決別してしまったときも、互いに剣を交えていたときも、彼らは互いに寄り添いたいと心から願っていた。婚礼衣装を着て並んでいる未来を作り出してあげたかったのに、アメツネの力をもってしても、それはどうしてもできなかった。世界が、二人の違う未来を拒んでいた。
 だから、今、この時だけ。しがらみなく、二人を結びつけてあげたい。現実にとって、これが偽りであっても、二人の本当の願いは、この偽りの中にあるのだ。

「そっか……」

 クラトは気を取り直したように二人を見つつ、両手を広げて言った。

「うん、そうだ。これは、たとえばの話なんだ。だから、そんな気にすることないよ。カヤナもセツマに対して色々と思うところはあるだろうけど。お前たちが、お互いにずっと望んでいたことなんだろ?」

 クラトがフォローしてくれる。彼の性根にある健気さに、つくづくこの青年は純真な人間であると、アメツネは感慨深い思いを抱く。
 カヤナとイズサミは顔を見合わせ、困惑している様子だったが、クラトが「寄り添って!」と二人を引っ張り、並ばせたがったので、それにおとなしく従った。

「し、しかし……」
「イズサミ。カヤナ、すごく綺麗だと思わないか?」

 ほら!とクラトはカヤナの肩を持ち、ぐいと彼女の身体をイズサミの方に向ける。途端に、何をする!と顔を真っ赤にしてカヤナが声を荒げた。

「馬鹿! おいアメツネ、早く元に戻せ」
「……カヤナ」

 まじまじと恋人の姿を見ていたイズサミが、真剣な面持ちで呟いた。

「綺麗。本当に、綺麗だよ」
「な、な……」

 羞恥を抱いたせいか、イズサミと目を合わせられなくなったらしいカヤナはうつむいた。髪を結わえているせいで見える白いうなじが桃色に色づいていて、いつもの彼女からは想像できない慎ましさだ。

「カヤナがボクのお嫁さんに来てくれたら、カヤナはヤスナ家の人間になっていたんだね。ふふ……それって絶対、ありえないことだよね」
「……」
「ボク、カヤナと結婚したいって思ってたよ」

 言いながら、イズサミがカヤナに近づいてきたので、クラトは慌てたようにその場から退散した。少し離れた場所で二人の様子を見ていたアメツネの隣に並び、彼らの様子をうかがう。
 イズサミはカヤナの前に立ち、とても愛おしげな、しかし少し切ない表情になって、仮初めの花嫁の頬をそっと指先で撫でた。恥ずかしさでカヤナが身を固くしているのが分かる。

「ヤスナの婚礼衣装……こんな格好をしているカヤナを見られるなんて、本当、夢みたいだ。いや、夢なのかもしれないけど、すごく嬉しい。こんな美人で強くて綺麗なお嫁さんなんて、ボクにはもったいないくらいだよ」

 カヤナは顔を上げ、頬を薔薇色に染めながら、イズサミを見つめた。二人が黙り込んでしまったので(視線で会話しているのだろう)、クラトが耳打ちしてくる。

「……なあ」
「ん、何だ?」
「これってさ、ヤスナの王子様と、タカマハラのお姫様の結婚式みたいだよな」

 彼らは王族の血を引いている異母姉弟で、実際のところは同国の王子と王女なのだが、運命が二人の絆を分かち、別の家柄の男女となった。生まれたばかりの姉弟が引き裂かれたことは悲劇なのかもしれない。しかし、その悲劇があったからこそ、彼らは男と女として愛し合ったのだ。

「そうだな。今となっては、二つの国の神々が結ばれるということにもなるな」
「二つの国の神、か……すごいな、それって」

 確かに、カヤナとイズサミならば、国々を総べる神の婚姻と呼ばれても誤りではないのだ。
 薄灰色の神聖な衣を身に纏い、金の冠をいただく、気高き神々の誓い。
 イズサミは、そっとカヤナの手を取った。それは本当に優しい仕草で。カヤナは少し驚いたようだが、イズサミの微笑みにつられて、顔を赤らめたまま、同じように穏やかな笑みを浮かべた。
 その光景がまるで絵画のようで、アメツネもクラトも言葉を失った。様々な彩りが風に揺れる花畑に佇む、愛し合う二人の祈り。言葉なくても通じ合えるのだろう、彼らはただ、微笑んでいた。これは決して叶うことのなかった恋人たちの夢だけれど、それが現実にならなかったことなど、この先、とこしえの地で共に存在し続ける二人にとっては、もはや関係のないことだ。二人は、一緒にいられるのだから。ようやく、願いは叶うのだから。

「本当に、綺麗だな」

 二人を温かな目で見守っているクラトが呟く。
 アメツネは頷いた。

「ああ」