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 クラトがなかなか部屋から出てこないので、心配になったカヤナが見に行くと、クラトは三人のいる場所へ戻ろうとしていたところだった。部屋のドアをノックしたとき、ちょうど向こうから開けようとしていたのだ。
 びっくりした、とクラトは泣きはらした目を丸くした。

「ごめん、心配かけて」

 赤くなった鼻をすすり、クラトはカヤナと目を合わさずに笑みを浮かべた。テロで死んだうえ、力ある者たちの戦いに巻き込まれたり失恋したりと大変なことばかりが連続し、きっと色んな想いが入り交じって泣き出してしまったのだろう。その原因には、無論のことカヤナも含まれている。
 罪悪感を抱き、ドアを開け放したまま彼の顔を見つめて沈黙していると、クラトは取り繕うように明るい声を出した。

「ほんと、気にしなくていいから。な? おれ、すっごく嬉しくて……カヤナとイズサミがようやく一緒にいられるんだって思ったら、なんか泣けてきちゃって」
「……クラト」
「だってお前たち本当につらかっただろ? こっちの胸が痛くなるくらい、苦しい思いばっかりしてきたんだ。そんな二人が幸せになれるんだからさ、お祝いしなきゃだよな」
「クラト」
「ごめん、おれ、なんかいっつも情けなくて、かっこ悪いよな。みっともなく、て……」

 言いながら、クラトの唇が震え始め、顔が歪んだ。みるみるうちに目が涙でにじみ、耐えきれなくなったように口に片手を当てる。

「ごめ……ごめん」

 泣き顔を見られたくないのか慌ててドアを閉めようとするので、それを阻止すると、カヤナ!?と驚きの声が上がった。

「な、ん……お、おれ」
「……馬鹿者」

 泣き出してしまったクラトを見て、カヤナの目にもまた、

「馬鹿者――どうして私なんか好きになったんだよ!」

 ぶわっと涙が溢れた。頬を幾筋にも流れ、大粒の雫が床にこぼれおちていく。戦女神の泣き顔を見て唖然としているクラトが愛しくて、気の毒で、かわいそうで、胸がいっぱいになる。

「あのな、お前みたいな奴は、もっといい女と一緒になるべきだったんだよ! 本当は生き返って、誰か良い人を見つけて、誰よりも幸せになってほしいし、お前はまだ若いんだから、先の長い生を全うして欲しかったけど、生き返るのは嫌だって言うから」
「……」
「本当にどうして、こんな弱くて情けない女なんか好きになったんだ。私がこんなことを言う資格はないけどな、転生したら記憶が全部無くなってしまうんだろ? 私のこともイズサミのこともアメツネのことも、タカマハラの奴らのことも弟のことも、みんな忘れてしまうっていうんだろ? お前が望んだことだから止めはしないが、でも、もうお前に二度と会えなくなるって思うと」
「カヤナ」

 咄嗟に、クラトが両腕を回してカヤナを抱きしめた。顔をカヤナの頭に寄せ、しゃくり上げるのを必死にこらえようとしている。

「泣く、なよ、おれまで泣けてくる」
「おっ、お前が先に泣いたんだろ」
「おれだって……おれだって、カヤナに、カヤナたちに会えなくなるのは寂しいよ。警備隊の奴らのことも、アクトのことも、全部白紙になるなんて怖くてたまらないよ。おれは本当にお前のことが好きで、愛しくて大切で……おれの手で幸せにできたらどんなにいいかって思うけど、でも、それは絶対に叶わないことだから……
 カヤナ、おれは、イズサミには負けるかもしれないけど、いや、二千年越しの想いには絶対負けてるけど、それでもお前のことを愛してる……」

 クラトの、泣きながら発される切ない声に、カヤナの胸ははちきれんばかりになってしまった。自分が泣いたり同情できる立場ではないし、一緒になって悲しむことは本当に愚かなことなのだが、それでもどうしてこんなに優しくて思慮深い青年のことを愛することができなかったのだろうと、申し訳なさでいっぱいになってしまい、そのうち二人して抱き合ったまま床に座り込んで、わんわんと子どものように泣きわめいた。その間にもクラトが耳元で好きだだの愛してるだの言うものだから、そう返してあげられない自分に腹が立って、何度も頷き、肩口に額を預ける青年の柔らかな金髪を撫でながら、私もクラトのことが大事だよ、忘れないよと涙声で繰り返すのだった。
 しばらくして落ち着いてくると、ぼろぼろになった顔を見合わせて、どちらともなくふっと笑い出した。

「はは……みっともないなあ、おれたち」
「すまない、私まで大泣きして」
「泣いてるカヤナも可愛いよ。ごめんな、突然くっついたりして……イズサミに見られたら殺されちゃうよな」

 はあーあ、と鼻をすすりながら苦笑するクラトを、カヤナはとても優しい気持ちになって見つめていた――そのときだった。

(――カヤナ)

 急に、魔術師の言葉が頭の中に響いた。慌てて魔術を構成し、彼の声に意識を集中させる。何かあったのだろうか。

(どうした)
(イズサミを止めてくれ)

 アメツネほどの魔術師が助けを求めているのだ。しかも相手はイズサミだという。
 カヤナは真っ青になって立ち上がり、彼らが待機している店へと向かった。魔術師の声はカヤナにしか聞こえなかったらしく、クラトが何が何だか分からないといった様子で後ろから走ってついてくる。

「カヤナ!?」
「何かあったらしい!」

 長い廊下を走り、店に続くドアを開け放つ。

「えっ」

 向こう側の光景を目にしたカヤナは思わず声を上げた。先ほどまで整然としていた店内は嵐に襲われたかのようで、壊れたテーブルや家具や棚が木っ端みじんになって散らばっていた。カーテンはぼろぼろになり、窓ガラスも割れている。
 カヤナから見て右手にはイズサミがいて、片手に魔術の光の玉を載せて一点を睨んでいた。その視線の先を負うと、空中に座って同じく攻撃の魔術を手のひらの上に用意し、深く溜息をついているアメツネの姿。

「この男を止めてくれないか」

 うんざりしているといった調子でカヤナを振り返り、言う。男二人が争うようなことが再三起きたのかと、カヤナの頭に血が上った。

「なんなんだ、これはっ」

 怒鳴りつける。すると、イズサミが魔術師を見据えたまま答えた。

「だってこの男がカヤナに口付けたって言うんだもん」

 思考停止。

「……
 は?」
「しかも舌まで入れたっていうから」

 殺してやるとでも続きそうなイズサミの剣幕に、カヤナは盛大に脱力してその場にへたり込んだ。後ろにいたクラトが肩を支えてくれる。

「カ、カヤナ、大丈夫か」
「あ……あほくさい……。なんでそんなことでいちいち喧嘩になるんだ」
「一度きりの接吻など、そなたらにとって、もはや大したことではなかろう」

 どういう意味だ!とカヤナは瞬間的に顔を赤くした。一方のイズサミの怒りは収まらないらしく、完全に目を座らせ、低い声で唸っている。

「ボクのカヤナに手を出した罪は重いからね」
「おいイズサミっ、あれはセツマから私を守るために、アメツネはやむを得ずだな」
「……やっぱりしたんだ」

 墓穴だ。
 イズサミはカヤナを怖い目で一瞥すると、手のひらに浮かべていた魔術球をアメツネに容赦なく発射した。魔術師の防御壁がバインという音を立てて彼の攻撃をはじく。
 ああ……とカヤナはうなだれた。接吻ごときで愛憎劇に発展するとは、人間とは、なんと面倒くさいのだろう。死んでも懲りないという。もう勝手にやっていてくれと胸の中で吐き捨てた。
 背後で「舌を出すところまでは、さすがに……」と暗い声でクラトが呟いていたが、その意味するところはカヤナには分からなかった。