42





 明るさを感じ、イズサミはゆるゆると瞼を開けた。最初に見えたのは白い天井で、少し肌寒く、空気感からすると朝のようだった。
 ふと、横から寝息が聞こえてきて見やると、黒髪を散らばせている恋人の姿があり、裸の身体をうつ伏せにして寝ていた。あどけない表情が、普段の彼女からするとあまりに無防備で、くつくつと笑いながら、腰の辺りまではだけていた毛布をかけ直してやった。すると気配に気付いたらしいカヤナが、ゆっくりと目を開け、眠たげな緑色の瞳でどこともない場所を眺めて、イズサミが視界に入ると、ハッと身体を震わせた。

「イ、イズサミ!」

 途端、カヤナは毛布を引っ張り上げて、頭までかぶって隠れてしまった。どうしてそんな態度を取られるのか分からず、首をかしげる。

「どうしたの」
「見るな、ばか!」

 くぐもった声が毛布の中から聞こえる。ああ、照れているのかと苦笑し、毛布の上から彼女の頭を撫でた。

「おはよう」
「……おはよう」

 ふてくされているが、小さな声でもきちんと返してくれるのが律儀だ。

「カヤナ、身体は大丈夫?」

 もともと体調が芳しくなかったことに加えて夜の出来事なので、かなり負担がかかったのではないかと心配だった。カヤナは沈黙してたが、そのうちもそもそと毛布から這い出て目だけを覗かせると、うん、と小さく頷いた。

「大丈夫」
「そう。
 カヤナ、すっごく可愛かったよ」

 正直に告げる。初めての経験で、いつも平然としているカヤナにも余裕が無かったようで、それがまたイズサミの欲情を煽って仕方がなかった。イズサミ自身も自分の中にあれほどの愛欲が潜んでいたことに心底驚いたほどだ。
 カヤナは「うるさい!」と言いながら再び毛布に隠れ、また黙り込んでしまった。イズサミは彼女に寄り、毛布ごとその身体に両腕を回して、ゆるく抱いてやった。頭のところに頬を寄せ、わざと色っぽく呟く。

「とっても綺麗で、美しくて……本当に女神様みたいだった。あんなにきれいな女の人、現世にだってバルハラにだっていないよ」
「そんなことはない!」
「そんなことあるの。カヤナ、本当に可愛かったな。ボクの名前を何度も呼んでくれて」
「うるさい! 私は覚えてないからな」
「はいはい」

 イズサミが身体を離すと、カヤナが再度、毛布から出てきて、やはり目だけを覗かせた。その様子もまた可愛らしくて、見つめながらイズサミは顔をほころばせてしまう。

「……もう、起きるのか」
「え? ああ、うん。目も覚めたし。アメツネの様子も見に行きたいし」
「私はもう少しここにいる」

 そう言うので、やはり彼女は疲れているのかもしれないと思いイズサミは頷いた。ベッドを降りるついでに恋人の額に素早く口づけると、みるみるうちに顔を赤くして、もう二度と出るまいというかのように、カヤナは毛布の中へともぐってしまった。





「おお……
 アメツネ、けっこう料理が上手いんだなあ」

 クラトが朝起き出すと、アメツネが普段過ごしている、店の奥にある部屋のテーブルの上に、できたての朝食が載っていた。粥と、卵焼きと、野菜スープ、それから魚の切り身を焼いたもの。部屋で着替えているときから魚の焼けるいい匂いがしていて、自分はすでに死んだ身だというのに、いざ料理を目前にしたときには、ぐるると腹が鳴った。
 台所から茶が入ったポットを取り、アメツネが苦笑しながら近づいてくる。

「食べるか?」
「えっ……た、食べる必要があるのか?」
「さあ。死んでいても、腹が減ったのなら食べてもよいのではないか?」

 適当なことを言い、アメツネはポットを置いて台所に戻っていく。どうしようかなと迷いつつも、テーブルを囲っている四つのイスのうちの一つに、クラトはおとなしく座った。目の前にある黄色い卵焼きが美味しそうだ。

「実は、そなたらの分も用意してある」

 台所は同じ部屋に併設してあり、そこで火をかけている鍋をお玉でかき回しながら、アメツネが言った。

「え、そうなのか?」
「私はあくまで生きている身ゆえに食べねばならぬ。そなたらに見られながらだと食べづらいし、あの二人も料理を目にしたら騒ぎ出すのではないかと思ってな」

 クラトの分の料理を深皿に入れ、アメツネは再びテーブルに近づいてきた。

「それもそうだな……」
「まあ、大したものではないのだが」

 言いながら、クラトの前に湯気の立つ白粥とスープを置いてくれた。卵焼きと魚の切り身はすでに大皿にいくつか載っているので、適当に取って食べろとのことだ。こういった食事にありつけたのは本当に久々なので、よだれが出そうになる。

「おいしそうだ。二人を待っていた方がいいかな」
「起こすのもなんだしな。先に食そう」

 アメツネも座り、頂きますと言って食べ始めた。粥はほんのりと塩味があり、スープも野菜がたっぷり入っていておいしい。少し薄味だが、これがアメツネの料理なのだろう。一番楽しみにしていた黄色の卵焼きを口にしたとき、警備隊の仲間と食べていた食堂の卵焼きを思い出して、クラトは顔を明るくさせた。

「うまい! すごいなアメツネ、料理もできて」
「クラトは料理をしないのか?」
「しなくはないけど得意じゃない。毎日マチさんが作る食堂の料理で済ませてたし。
 ていうか、アメツネはずるいよ」

 ずるい?とスープを口にしていたアメツネが首をかしげる。クラトは真面目な顔をして頷いた。

「ずるいだろ、美男なうえ料理もできて」
「はあ?」
「しかも頭いいし、魔術もできるし、落ち着いてるし、いいとこ取りじゃないか。男ならみんな羨ましいと思うよ。絶対モテるよな」
「いや……私は別に」
「あーあ、神様ってのは不平等だよなあ。ん? 神様っていうと、カヤナとイズサミになるのか?」

 そういえばあの二人もすごい美人だよなと魚を箸でほぐしながら溜息混じりに呟くと、向かいでアメツネがくすくすと笑った。

「クラトも美男さ」
「おれ? そうでもないよ。モテないし、カヤナにだって振られたし」

 そんな言葉を口にしている自分が以前より傷ついていないことに、クラトは少し驚き、同時に安心した。少しずつだが、気持ちの切り替えができているのだろう。もしカヤナと愛し合えたのならばと未だに考えるが、それ以上に、彼女にはイズサミと幸せになって欲しかった。
 しかしどうして自分の周りはこんな美男美女ばっかりなんだろう……と、ふてくされてスプーンでスープをかき回していたら、ドアを開けてイズサミがひょっこり入ってきた。

「おはよう。……あれ、クラト、ご飯食べてる」

 死んだ人間なのに食べる必要があるのかと、怪訝そうな顔つきでクラトと同じ疑問を口にしている。クラトは肩をすくめた。

「おれたちの分も用意してくれたって言うからさ」
「あ、そうなんだ。ありがとう。アメツネは料理が上手なんだね」

 ひょうひょうと言いながらテーブルに近づき、アメツネの隣のイスに腰掛ける。同時にアメツネは席を立って、イズサミの分の皿を用意しに行った。
 美味しそう!と嬉しそうに卓上を眺めているイズサミを見つめ、クラトはなんとなく複雑な気持ちを抱いて沈黙していたが、アメツネがまた戻ってきたのをきっかけに口を開いた。

「カヤナはどうした?」
「いただきまーす。カヤナは寝てるよ。まだ疲れてるみたい」

 たくさん泣いたからねえ、と、早速野菜スープを口にして、イズサミは嬉々とした表情で隣のアメツネを振り返った。

「美味しい! ボク、このくらいの味つけが好きだな」
「それは良かった。カヤナがこちらに来られないようなら、部屋に食事を持って行った方がよいか?」

 アメツネが尋ねると、イズサミはパクパクと卵焼きを口に入れながらかぶりを振った――生前からなんとなく感じていたが、彼は見た目のわりによく食べる。

「いいよ、まだ眠ってるし。いずれこっちに来るんじゃない」
「そうか」
「アメツネこそ平気なの?」

 本当に心配しているのか分からない、平然とした口調のイズサミの問いに(基本的にイズサミはカヤナ以外に興味がないのだ)、アメツネはぎこちない微笑を浮かべた。

「まあ、な。だが万全ではない。もう少し休息を取る必要がある」
「そうなんだ。あまり無理しないでね」
「クラトの転生に使う魔術については、大体のところ完成しているのだが、まだ確実でなくてな。亜空間に置いてあるクラトの遺体のほかに、念のために現世の方で収集して用意すべきものがあって、それまではクラトに待っていてもらうことになる」
「あ、なら、必要なものを探すの、おれも付き合うよ」

 だっておれ自身の転生の話だし……とクラトは控えめに申し出た。自分は死者だし断られるかもしれないと懸念していたが、意外にもアメツネは迷わずこくりと頷いた。

「そうだな。ずっとこの店にいても退屈であろう。少しの間、クラトには私の助手を勤めてもらうことにする」
「えっ、じょ、助手? おれ、魔術のことなんて全然分かんないんだけど」
「クラトに魔術の才はない」

 魔術師に悪気は無いし、自覚もしているのだが、断言されると悲しいものがある。もともと魔術は素質がなければ扱えないものだ。もっぱら剣術と勉学に励んで警備隊に入隊したクラトは、魔術を使おうなどという気も起きなかった。
 イズサミは粥の皿を平らげると、おかわりを要求した。アメツネは素直によそいに行く。

「イズサミとカヤナはどうするんだ?」

 クラトが尋ねると、ほぐした魚を口に入れていたイズサミは、うーんと唸った。

「バルハラですることなんてないしね。ボクたちの時代の人たちバルハラでどうなってるのか見に行くのもいいかも。あまりいい顔はされないかもしれないけど」
「そ、そっか……そうだよな」

 イズサミとカヤナはこの先も共に居ることだろう。クラトとしては、やはりカヤナに会えなくなるのは寂しかった。しかし、いつまでも執着していては、それこそアメツネやセツマのようになってしまうし、カヤナと接触し続けることはイズサミの負担になる。
 自分もいずれ転生してしまうことだ、今のうちに縁を切っておいた方がいいのかもしれない。だが、自分の記憶がすべて白紙に戻るまで、二人と顔を会わせていたいという気持ちもある。

「私はもう、そなたらに関わることはないだろう」

 イズサミに粥を運び、椅子に腰掛けながらアメツネは静かに言った。え、とクラトが聞き返すと、彼は薄く苦笑いし、

「昨日、別れを告げた。私は生きている人間であり、本来バルハラに来てはならぬ存在。これ以上、死者たちに接触するのは好ましくない。クラトの用件が終わったら、生者として魔術の研究をし続けることにする。店も畳もうと思っていてな」

 そう説明した。至極穏やかに話すアメツネだが、色んな葛藤や苦しみのうえで、そう決心したのだろう。今後もまだ贖罪の旅を続けるという魔術師に、クラトは切なくなってうつむいた。
 そのときドアの開く音がして、三人は振り返った。起き出したカヤナが、寝起きの顔を半分だけ覗かせて、なぜかこちらを睨んでいる。少しの間があった。

「……おはよう」

 低い声で挨拶してくる。機嫌が悪いのだろうか。クラトはどうしていいのか分からず戸惑っていたが、イズサミは慣れている様子で手招きした。

「カヤナ、ご飯だって。食べなよ」

 促したものの、カヤナは動かず、なぜかふっと睫毛を伏せた。よくよく見ると頬が赤くて、どこか照れているように見える――
 あ、と。クラトは感づいた。あのカヤナが恥ずかしがって出てこようとしない理由など、一つしかないではないか。
 理由が分かった瞬間クラトもまた羞恥を覚え、同時にようやく結ばれた二人の気持ちに同調してしまって、目に涙が溢れた。アメツネがこちらに気が付いて苦笑している。

「クラト? 大丈夫か」
「ご、ごめ……」

 周りに意識されたことで余計に気持ちが昂ぶってしまい、涙が頬を流れ始めた。慌てて手の甲で拭うが、イズサミにもカヤナにもばれてしまったようで、居たたまれず椅子をガタッといわせて立ち上がった。

「ほんと、ごめん! あっ、悲しくて泣いてるんじゃないから! なんか嬉しくて……」
「クラト……」

 心配したカヤナがドアを開放して近づいてくる。自分がそう思いこんでいるのかは知れないが、どことなく以前より女性らしい神秘的な空気を纏わせている気がして、クラトは後ずさった。ぎくっとした様子でカヤナが立ち止まるのを見て、今度はパニックになって泣きながらぶんぶんとかぶりを振る。

「ち、違う、嫌なんじゃないから! そうじゃなくて……なんていうか、ごめん! ちょっと一人にさせてくれ」

 なんてみっともないんだ! 心の中で自分自身に呆れながら、クラトは逃げるように自分の寝室へと飛び込んだ。