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 ふと、目を覚ました。辺りは暗く、近くに人の寝息があった。イズサミが隣で眠っている。
 いつの間に寝てしまったのかと、カヤナは手で目をこすった。散々泣いたので、目の周りが熱を持っていて腫れぼったい。どうして死者が睡眠を取るのか謎だし、魔術で作られた空間なのに部屋の中が夜のように暗いのもよく分からなかったが、ひとまず悲しみから逃れるための眠りに逃げたのは良かったのだろう。先ほどよりもだいぶ落ち着いている気がする。
 イズサミも、延々とカヤナを慰め続けて疲れてしまったようだ。それでも彼の腕はゆるくカヤナに回されたままだった。顔に流れ落ちている青い髪を指ですくい、そっと後ろに払ってやる。
 整った顔を見つめながら、カヤナはぼんやりとした。世界の何よりも愛しい男の、眠っている安らかな顔。彼はかつて自身の家族と恋人の夫となる男に貶められ、恋人の手によって命を奪い取られた。もう二度と逢えないだろう、逢えないことこそが自分に下された永遠の罰なのだと、王の台座に座りながらカヤナは何度もそう自分に言い聞かせた。大切なものを失うことからこそ王であることに満足し、己を捨てて過去のことを忘れていかなければ、己を保つことができなかった。その忘却の括りに、このイズサミすら入れていたとは、なんと罪深きことだろうか。
 今、こうして隣にいることに、未だ罪悪感を抱いている。これまであらゆるものを捨ててきたせいか、心から求めているものが自分のそばにあってはいけないような気がする。幸せよりも恐怖を感じる。喜びよりも後ろめたさを感じる。そんな気持ちを抱くことを、イズサミは良しとしていないのに。自分を責めなくていいと、君を赦すと何度も言ってくれたのに。
 もし、セツマでなく目の前にいるイズサミが消滅したならばと、カヤナはふと考えた。愚かな思考だったが、考えずにはいられなかった。
 イズサミがいなくなる。目の前にある彼の身体も心も、忽然と消え去る。話すことも触れることもできなくなる。屈託のない笑顔も、名を呼ぶ声も、甘えてくる腕も、頭を撫でる大きな手のひらも消え失せる。呼びかけても、伝えたくても、何も届かない。イズサミの心は無に還り、彼の中のカヤナという女は消失する。
 イズサミに忘れられる。あのときと同じだ。自分が彼を刺し殺したときと同じ。彼は、全てを無に還して永遠の眠りに就いた。カヤナは敵だったために亡骸を葬ることも、墓参りをすることもできなかった。彼の死を悼むことも許されず、死の原因を作り出した自分がそんなことをできるはずもなく、バルハラでようやく対価を戻されて彼と一緒になるときまで続いていたのは、自分が今そこに存在していないような途方もない空虚感だった。
 また、あの絶望を味わう? あのおそろしい痛みを? そんなことになったら、カヤナはもう耐えられないだろう。たとえアメツネに、クラトに支えられたとしても、イズサミと同じく自我が崩壊し、狂ってしまうはずだ。持てる力で彼のいなくなった世界を壊してしまうことも厭わなくなる。壊れた自分は消えたイズサミを機械のように探し続けるだろう、もう二度と逢えないのに、逢えると信じて、あらゆるものを傷つけ、破壊し尽くしてしまうだろう。
 そんな思いを、カヤナはイズサミに抱かせていたのだ。眠っている恋人の顔が、ゆらりと涙でにじむ。もう泣くのは嫌で、カヤナは乱暴に目を拭うと、イズサミを起こさないようにベッドから立ち上がった。気疲れしているため起き上がるのはしんどかったが、深い傷を負っていた魔術師のことが心配だった。
 部屋を出て、たくさんのドアが向かい合っている長く細い廊下を進む。ところどころに小さなランプがあり、足下を照らしてくれていた。色遣いなどの雰囲気からして、アメツネの店が拡張した場所らしい。あの男の魔術に限界はないのだろうなと、呆れながらカヤナは進んでいった。しばらくして突き当たり、ドアがあったので開け放つと、そこはいつもアメツネがカヤナを呼び寄せるときに使う魔術店だった。
 先ほどの寝室と同じく、窓の外が暗い。ここにはもしかして時間の概念があるのだろうか。店の奥にある寝室に向かうと、ドアが開いていて、ベッドの端に腰掛けている魔術師の姿があった。ぼんやりと窓の方を見つめていて、カヤナが近づくと緩慢に振り返った。

「……具合は大丈夫か」

 アメツネに問われ、カヤナは頷いた。

「眠ってしまっていた。先ほどよりかは落ち着いている」
「そうか」

 短く相づちを打ち、アメツネは無表情で再び窓を眺めた。一体何を見ているのだろうとカヤナも彼に近づくと、深い夜の闇に大きな白いルアが煌々と輝いているのが窓から見えて、尋ねた。

「ここは、外なのか? 魔術の空間ではないのか」
「あくまで魔術さ。私は生きている人間だ。朝と夜の感覚が必要でな」

 もし良ければ外に出てみるかと言われ、カヤナは控えめに承諾した。アメツネがベッドから腰を上げて指を軽く鳴らすと、寝室が消え、いきなり外に佇んでいた。足下には草むらがあり、目の前には夜空が広がり、眼下には明かりのついた町々が見える――

「……ああ」

 カヤナは目を細め、その幻想的な風景を眺めた。ここは懐かしい、あの丘の上だ。

「過去なのか、ここは」
「幻さ」

 アメツネを振り返ると、彼は部屋からそのまま移動させてきたらしい木の椅子に、背をもたれて座っていた。怠そうなので、体調が良くないのかもしれない。

「本当に平気なのか」
「ああ」

 彼は短く答えただけで、それ以上は話さなかった。
 しばらく夜の煌めきとルアの輝きに見入っていたが、カヤナはその場に腰を下ろすと、町の小さな無数の灯りを眺めながら、アメツネに問うた。

「お前、いいのか」
「……何がだ」
「セツマの魂が消滅した今、復活の薬はクラトの転生に使うんだろう。お前の死にたいという願いはどうするんだ」

 アメツネは少しのあいだ沈黙し、小さく笑った。

「昼間、クラトにも訊かれて答えたのだが、これはなるべくしてなった結果なのだろうと思う」
「なるべくして?」
「ああ。私の懺悔はまだ続かなければならないということだ。それに、研究し続けていれば、また別の方法が見つかるかもしれない。焦って死ぬことは無いのだろうさ」
「……」
「クラトはよい男だぞ」

 急に話題が変わる。カヤナは面食らって片眉を上げた。

「なんだ。今更知ったのか?」
「真っ直ぐで、素直で、他人への気遣いもできる。立派な男ではないか。そなたと結ばれなかったことが心底残念だと言ったら、複雑そうにしていたがな。ああいう人間こそ幸せになるべきだと思う」
「お前もな」

 幸せになる資格はあるのだぞと溜息混じりに言ってやる。アメツネは薄く苦笑した。再び沈黙が降りる。
 そういえば、夜の丘にはほとんど来たことがなかった。仕えていた城の屋敷の規則も厳しかったし、イズサミと会うのはもっぱら昼間で、二人で地べたに座って他愛もない、今思い返せばくだらない話ばかりしていた。でもそれが楽しくて、嬉しかった。イズサミとの触れ合いがあったからこそ、毎日生きていけた。優しくて朗らかなイズサミの笑顔を見ることが、まるで自分の呼吸であるかのように。
 愛していた。ずっと、愛していた。今もまだ愛しているし、この先も愛し続けるだろう。彼もまた、カヤナを深く愛し返してくれるだろう、バルハラという安らぎの常世で、永遠に二人は共にいるのだ。ようやく、願いは叶うのだ。

「カヤナ」

 不意に呼ばれ、カヤナはアメツネを見た。暗がりの中、ルアに照らされた彼の青い瞳が星のように光る。
 彼は、真面目な顔つきで言った。

「私は、そなたを愛している」

 カヤナは、いきなり何をと言いかけ、しかし言葉にはせず唇を閉じた。

「……」
「今も、まだ。そなたがイズサミを愛していても、この想いはなぜか消えない。いっそ消えてしまった方が楽であろうが、消したいとは思わない」

 果たしてどのような意図を持ってそう口にしているのか分からず、カヤナは、顔には出さないが慎重になって魔術師の言葉を聞いていた。再びルアを眺めるアメツネの表情はとても穏やかで、自分自身の闇に呑まれていた以前よりも、ずっとすがすがしく見えた。

「けれど、もし己の想いを消さないのならば、私は、そなたたちから離れなければならない」
「離れる?」
「ああ。セツマが言っていただろう、死者と生者が関わり合うのはおかしい、お前はもう消えるべきだ、と。その通りだ。私はそなたたちとは違う時代を生きた人間で、今もまだ生きていて、世界の理に反する存在だ。そんなものが世界に関わってはいけないのだ」
「お前だって世界の一部なんだぞ」

 魔術師の自虐的な思考に同感できず、言い返す。しかしアメツネはルアを見て、微笑したままだった。

「そうだな」

 ひどく穏やかな返事に、ああ、もうこの男の心を動かすことはできないのだろうとカヤナは目を伏せる。
 彼は、すでに決めたのだ。

「いつか私も消滅できることを願う。願いながら、世界の外で、世界を見守り続けようと思う。世界の流れを歪め、対価を必要とする魔術を現在を生きる者たちに利用することもやめて、以前のように、世界各地の魔術を研究しながら、のんびり生きていこうと思う」
「もう会えないのか」

 男のおそろしいまでの平静さが怖くなって、彼から視線を外してうつむき、苦々しく問うた。アメツネは、そうだろうなと迷いなく答えた。

「死ねば、私もバルハラも仲間入りだ。けれど、私はバルハラではなく闇の中で眠りたい。だから、その願いを叶える魔術を研究し続けている。たとえ死んでも、そなたに会えることは無いだろう」
「どうして……だって前みたいに、あの店で話をしたり……」
「クラトが言っていただろう? 転生を許したのは、想う女が別の男と一緒にいるのを見るのがつらいからという理由もあると。
 私もそうさ。そなたとイズサミが共にいるのを見るのは、なかなか堪えるのだ」
「そうやって」

 カヤナはパッと顔を上げ、

「皆、勝手に離れていくのではないか。愛に翻弄されて、愛を言い訳にして、私が望んでもいないのに」

 両手を握りしめ、吐き捨てた。そうだ、クラトもアメツネも、消えてしまったセツマも、カヤナという女に抱く愛のせいで、苦しみ、傷つけ合い、最終的には勝手にカヤナを置いていってしまうのだ。まるでカヤナの存在が忌むべきものであるというかのように。こちらは何も望んでいないのだから、そんなものは身に覚えのない恨みだ。

「どうして、零か十かしかないんだ。アメツネ、お前はどっちつかずの態度の方が好きだろう? どうして離れるんだ。私はまたお前に会いたいよ」

 セツマに続いてクラトにも、アメツネにも会えなくなるなんて寂しい。そう素直に訴えると、アメツネは優しく苦笑して、美しい色の瞳でカヤナを見た。

「だから、愛は難しいのだろうな」

 抽象的な一般論で返され、カヤナは言い返そうとしたが、いい言葉が見つからなかった。結局、溜息でごかます。

「……解せない」
「そうだな。私もまた、解せぬものの一人だ」
「……」
「クラトは、こうも言っていた。愛しているなら、相手の幸せを願うべきではないのかと。それはとても難しいことで、私は今までそれが分からなかった。けれど、今なら分かる。あの警備隊の青年のおかげでな。
 カヤナ、お前にとっての幸福はイズサミの中にある」

 アメツネは立ち上がり、カヤナに近づくと、そっとしゃがみ込んだ。青い視線が向けられて、その色の深さにカヤナは息を呑む。白く美しい男の顔立ちは、あまりに整いすぎていて、この世のものとは思えなかった。

「イズサミはそなたを守るだろう。永久に、守るだろう。私は死者の未来を見ることはできないが、このことは確信を持って言える。そなたに必要なのは、あの男だ。あの無垢で優しい心と、この先も共にあるがいい。そなたが本当のそなたであり続けるために、決して手放してはいけない」

 そっと、彼の片手が頬に触れた。体温のない自分には、その指先はほんのりと温かく感じられる。
 ああ――彼は、生きているのだ。

「アメツネ」

 カヤナはそのとき理解した。自分もまた、アメツネと同じように願わなければいけないのだと。

「お前は生きろ。この先も、懺悔と共に。それが苦難であるとしても、お前の生には意味があったのだと、私もイズサミもクラトもセツマも保証する。お前が生きていてくれていよかった。今ここにいてくれてよかった。いつかその生が終わるときがくるだろう。深い永遠の眠りが訪れるときが。もしその眠りを妨げるものがあれば、私たちがお前の眠りを守ろう」

 言い切ると同時、アメツネが急に顔を近づけて、カヤナの頬にかすかな口づけをした。それは一瞬で、ゆっくりと顔を離し、間近でカヤナを見つめると、少し哀しげにも見える微笑を浮かべた。

「愛している、カヤナ。この先も。
 だから、さよならだ」

 その、あまりに清純な男の態度に、カヤナは泣き出しそうになった。