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 それは、深い絶望だった。イズサミを殺した時に抱いたものと同じ、自分の全てがからっぽになってしまうような途方もない喪失感だった。
 いや――絶望など感じてはいけないのだ。セツマという男は愛情という狂気ゆえに、カヤナの大事なものを何度も繰り返し傷つけた。赦してはいけない、決して赦してはいけないのだ、どんなに彼に世話になっていようとも、どんなに彼が大事だったとしても、もう一度だけ会いたいと願ってしまっても、他者から見たら、セツマは非道な行いによって人々の身体と心をズタズタにした人間なのだから。
 胸が張り裂けそうにつらい。そんなことを思う資格はカヤナにはないのに、それでも身が引き裂かれるように苦しくて、嗚咽が止まらない。ベッドにうつぶせになり、シーツに顔を押しつけて、荒い呼吸を繰り返し、この悲劇に耐えなければと必死に奮い立たせているのだが、上手くいかず、涙を流し続けることしかできなかった。ただただセツマが消えてしまったことが、真の意味でもう二度と会えないことが悲しくて仕方がなかった。
 そんなカヤナの隣に、イズサミが同じく横になっていて、カヤナを片腕で包み込むようにしている。絶えず髪や身体を撫でていて、その仕草の温かさが、かろうじてカヤナを気が狂いそうな悲嘆に呑まれるのを防いでいた。
 セツマの消滅を聞かされたときから、カヤナにはあまり記憶がなく、気が付いたらアメツネが用意したらしいベッドにいた。ここは魔術師の作り出した空間のようで、カヤナとイズサミは家具の少ない寝室におり、壁にある窓から見る景色は真っ白だった。あの、アメツネの魔術で構成された不思議な場所なのだろう。あれだけ傷ついてもなお、カヤナたちのために魔術を使ってくれる男の体調が心配だったのだが、カヤナの両足は上手く動いてくれず、もはや立ち上がることができなかった。
 イズサミが、カヤナ、カヤナと小さな声で呼びかけながら、髪に口づけている。彼も恋人を慰めようと必死なのだ。心配するなと言いたかったが、どうしても無理だった。これだけ負の感情に浸されてしまった自分が大丈夫などとは到底思えなかった。

「つらいね。カヤナ、つらいね」

 そうイズサミが言ってくれるたび、カヤナの目に大量の涙が溢れた。イズサミが悲しみの感情をわざと引き出そうしているのは、カヤナが心の痛みを封じるのを防ぐためだ。悲しむべきとき、カヤナはその気の強さから上手く負の感情を表現することができない。性格が真逆で心に抱いている感情を顔や口に出せるイズサミは、つらい気持ちを外に出せないカヤナの苦しみが分かるのだろう。何度も何度も身体を愛撫し、口づけを降らせながら、ただひたすら側にいて、慰めてくれていた。
 ずいぶん長いあいだ泣いていた。しだいに泣き声も出なくなってしまい、カヤナはぐったりし始めた。イズサミの喉もとを見つめて、抜け殻のように呆然としていた。

「カヤナ、いいんだよ。泣きたくなったら泣いて、眠りたかったら眠って。ボクは、ずっとここにいるから」

 頭を撫でるイズサミの手は、とても大きく感じられた。

「ボクが邪魔なら、邪魔って言ってね。何か欲しいものとか、したいこととかあったら、ちゃんと言ってね」

 その手にもう温度が宿っていなくても、確かに存在する透明な温かさに、カヤナの目から枯れたはずだと思っていた涙が一筋、流れ落ちた。





「……具合はどうだ」

 トレイに薬湯を持ったクラトが、ベッドに仰向けに横たわっているアメツネを覗き込む。魔術師はうっすらと目を開け、青の視線をクラトに向けながら、ああ……と溜息のような声音で返した。

「だいぶ。先ほどよりかは」
「そうか」

 近くにあった木の円椅子を持ってきて、そこに腰掛け、ベッドサイドにあるサイドボードにトレイを置く。薬湯は、アメツネが指示を書いたメモで、クラトが調合したものだ。白いポットからティーカップに中身を注ぐと、中から紫色の透きとおった液体が出てきた。臭いも薬草臭いし、あまり美味しくはなさそうだ。

「……これでいいのか?」
「何がだ」
「薬だよ。言われた棚から、言われた小瓶とか乾燥したハーブを取って、言われたままに調合して煮立てただけだけど、まずそうだぞ」

 お前の調合を疑うわけじゃないけど……と正直に言う。アメツネは上半身を起こしながら、くすくすと笑った。

「良薬は口に苦し、だ。まあ、ただの気付け薬さ。外傷は完全に回復しているからな」

 クラトがカップを差し出すと、アメツネはそれを口に運んだ。奇妙な色の薬湯が彼の口に注がれていき、クラトは自分が飲んでいるわけでもないのに、しかめ面をしてしまった。
 中身を飲み干したので、サイドボードにカップを戻してやる。 

「アメツネ、あの図書館、セツマの攻撃でボロボロになったぞ。大事な本がたくさんあったんだろ?」
「仕方ないさ。また元に戻せばよい」
「元にって……あれが元通りになるのか? 建物自体、あれだけ被害を被ったのに?」

 だって下の階は全部めちゃくちゃになっていたぞと説明すると、アメツネは少し得意げに口角を上げた。

「戻せるさ。所詮は魔術だからな」
「そう言うけどな……アメツネ、お前はいったいどれだけの力を秘めているんだ? 不死の力はさておき、こんな立派な店を作ったり、増築したり、あの石造りの神殿を出現させたり、おれたちに幻を見せたり……なんか無茶苦茶すぎるぞ。訳が分からないよ」
「まあ、道具が揃っていさえすれば、世界の半分くらいは崩壊させられるかもな」

 肩をすくめ、平然と言ってくる。クラトは呆れた目で魔術師を眺めた。

「物騒だな……実行するなよ」
「はは。する必要もない」
「そういえばアメツネは、どうして魔術師なんだ? 昔から魔術の研究をしていたのか?」
「ああ……生まれつきそういう体質らしくてな。魔力の強い家系だったのだ。家族の中にも私と同じくらい強い魔力を秘めている者が多くいた」
「えー、お前みたいのがたくさんいたら、たまったもんじゃないよ」
「ふふ。若い頃は、世界を放浪しながら、まだまだ未解明だった魔術の真理を探していた。とにかく色々な魔術や道具に触れるのが楽しくて……魔術で人を幸せにしたいと思っていたのだ」

 魔術で幸せ?とクラトが首をかしげて問う。アメツネは穏やかな笑み――それは本当に優しい微笑みだった――を浮かべて頷いた。

「魔術は、その可変性のせいで、人を救うための方法にも傷つけるための方法にもなりうる。大昔から変わらない事実だが、強大な威力を秘めた魔術の使い道は大抵、戦争の道具だ。魔術が悲惨な運命を作り出すものと化すのを、私は止めたかった。よりよく魔術のことを識ることができれば、大きな力を持つ術であっても、上手い使い方が分かるかもしれない。そういう信念で研究を続けていた。結局、魔術は人の幸福のためにあるべきだという考え方に落ち着いたわけさ」

 だが結局、自分も武器として魔術を利用してしまっているのだが……と、悲しげに苦笑する。それは、かつてニライ国を滅ぼし、バルハラでセツマと戦闘を繰り広げたときのことを言っているのだろう。
 こんなに優しい心を持つ人が、どうしてこんなにも苦しまなければならないのだろう。カヤナとイズサミもそうだ、優しい人はがりが傷ついて、苦しむ。クラトは切なさを覚えて、慰めの言葉が出てきそうになるのをごまかすために(もういい加減、同情するのはしつこいと思った)、小さく嘆息した。

「アメツネ……セツマは、本当に消えてしまったのか?」

 カヤナのためを思って言っているわけではなく、アメツネという男は敵にさえ哀れみを抱いてしまう人間なので、もしかしたらセツマはまだどこかに封じられているだけなのではないかという考えがあり、クラトは尋ねた。しかし、アメツネは、クラトの予想に反して、力なくかぶりを振るだけだった。

「いや……もう無理だ。生者の魔術を死者が使うという矛盾した行動によって、一瞬、世界の理が歪んだからな。遡っても、どうしても過去を変えられないのと同じく、そういったジレンマが現れた時、世界はそれを正そうとする性質がある。あの光の術の発動と同時に、セツマの魂は破裂した。世界がそれを許さなかったのだ。彼自身が私の魔術を上手く制御できなかったというのもあるが」
「うーん、よく分からないけど……つまり、セツマはもう現世にもバルハラにも、どこにもいないってことだよな?」

 そうなるなと、アメツネは溜息をついて肯定した。

「カヤナには気の毒だが」
「セツマが生者の魔術を利用するしかなかったってことは……これまで、セツマやイズサミやカヤナはバルハラで攻撃態勢になったことがあるけど、実際は死者は死者のことを傷つけられないから、それも意味が無かったってことか?」
「そうだな。バルハラは本来安らぎの場所、死者同士の争いは無意味だ。カヤナがセツマを消滅させるために復活を願った根拠だな」
「でも、イズサミとセツマが争ったよな? おれも風に巻き込まれて苦しかったのを覚えているし、イズサミはセツマと戦ったあと、怪我したみたいな様子で神殿にうずくまってた気がするけど……」

 祭壇に運ばれていた自分自身の死体を発見し、クラトがカヤナたちと言い争っていたときのことだ。アメツネの作り出した神殿に突如現れたイズサミは、その前にセツマと戦っていたことが原因で、腹を押さえて苦しそうに呻き声を上げていた。

「あれは、セツマにやられたんじゃないのか?」
「イズサミは術を発動しすぎて消耗していただけだ。そなたが苦しんだのも記憶の幻影によるものだな。生者からの攻撃でもない限り、本来ならば死者は苦しんだり痛みを感じりはしないはずだが、生きていた頃の記憶がそう感じさせるのだ。
 一応、あの場にいながらも、私は別のところで戦っているイズサミとセツマの様子を観察していた。彼らがいたのは私の作り出した空間だったからな。いい加減セツマのせいで無駄な争いが多くなっていたので、危うくなってきたイズサミをあの場に転送させただけのことだ」

 だからイズサミは突然姿を現したのか……と納得しかけて、見ていたのならばなぜ止めに入らないのか、そもそもちゃんと当時の自分の話を真面目に聞いていたのかと不満を覚え、クラトはじと目で魔術師を見た。

「ったく、なんでもありだな、アメツネは」
「ふふ」
「しかし、セツマは一体なんだったんだ? バルハラに来てまで誰彼かまわず攻撃して……ますますカヤナが困るってこと、分からなかったのかなあ」

 いい加減クラトも話していて喉が渇いてきて、物欲しげにポットを見ていたら、飲んでみるがいいとアメツネに促された。中身は薬湯だし、気は進まなかったが、カップに少しだけ入れて飲んでみると、案の定なんともまずい味が口に広がった。

「うえぇ」
「ははは……
 セツマもまた、カヤナを深く愛していたのだよ。彼女と誰よりも共に時間を過ごしていた男だ、我々ですら到底及ばないような強い愛情を秘めていたのかもしれない。だが彼は、愛されるための愛し方が分からなかった。カヤナがイズサミに向けている感情をセツマに向けることはなかったし、そもそも彼女はセツマがそういった激しい感情を持っていたこと自体に驚いていた。結婚の話が持ち上がったときには散々抵抗して、これは契約だという説得のうえで仕方なく婚儀を挙げたわけだが、それでも彼女はセツマが熱烈な愛情を向けてくるのを拒んでいたしな」
「なんか、セツマが気の毒になってきたな……」

 口の中の刺激的な味がなかなか無くならないので、クラトは一度席を立ち、隣のリビングから水を一杯持ってきた。

「アメツネは、当時のカヤナたちを知っているんだもんな」
「ああ。私ですらセツマに同情するほど、カヤナは色恋沙汰に鈍感なうえ、自分の感情に正直だった。セツマが徐々に歪んでいくのも仕方がなかったのかもしれない。あれはもともとそういう気質を持っていたし、何より周囲が抗えぬほど頭が良くて強かった。カヤナですら翼をもぎ取られてしまったからな」

 そうだ、彼はそれほど残酷なことをした男なのだ……。水を口に運びながら、クラトはむかむかして宙を睨んだ。嘆き悲しむカヤナには申し訳ないが、自分は彼女ほど彼の消滅を悲しむことはできない。愛する人をむごい方法で傷つけた男だからだ。

「でも……アメツネ。本当にいいのか?」

 コップを膝の上に置き、クラトはアメツネの青い瞳を見つめた。目をしばたたかせながら魔術師は首を傾ける。

「何の話だ」
「対価だよ。再三言うけど、おれの願いよりお前の願いの方がよっぽど重要だ。異常な命をようやく終わらせられるかもしれないんだぞ。お前を苦しみを解放させる唯一の方法じゃないか。おれはバルハラでのんびり過ごすっていう選択肢があって、本来なら死んだ人間はバルハラにいなきゃいけないんだ。おれだけ転生なんて贅沢な話だろ?」
「私に気など遣わなくてよい。結局セツマの魂を使えなくなったのは、もともとそういう運命だったということさ。一国を滅ぼし、大勢の人間の命を奪ったという私の罪は、まだまだ償うべきものだということだ。それは甘んじて受け入れなければならない」
「でもっ」

 思わずクラトは声を上げる。

「アメツネは、ニライ国を滅ぼしたくて滅ぼしたんじゃないんだろ。国に拉致された形で、やむを得ず手を貸したんだ。カヤナが言ってたよ、アメツネは本当は良心的な人間なのに、自分を責め続けていて気の毒だって。
 確かに魔術で兵器を作ったことは一つの罪かもしれないけど、自分の意志ではなかったわけだし……」
「よいのだ、クラト」

 ありがとう、と、こちらの胸が痛くなるほど綺麗な笑顔を浮かべ、アメツネは言った。

「私は、そなたの願いを叶えたい。お前の生きた人生でも、バルハラでも叶わなかった願いを」
「アメツネ……なあ、本当におれのことなんて気にしなくていいんだ。対価はお前自身のために使えよ」
「だめだ」

 きっぱりと言い放ち、首を横に振る。もしかしてこの男、カヤナと同じく相当な頑固な性格なのではないかと、クラトは今更不安になってきた。
 アメツネは疲れたらしく再びベッドに潜り込み、毛布を口まで被せ、深い息をついた。

「とにかく私は、魔術を使用できるようになるまで回復しなければならない。だいぶ良くなってはきたが、まだ不完全だ。少し寝かせてもらうぞ」
「いいけど、さ……なあ、考え直す気はないか?」
「ない」

 断言だ。
 これは手強いぞとクラトは嘆息し、目を閉じた魔術師をじろりと一瞥してから、薬湯のトレイを片づけるために立ち上がった。