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 カタカタカタ……
 戸棚の方から物音がして、テーブルの上で実験中のアメツネは背後を振り返った。音は一瞬で、しばらくのあいだ息を潜めて様子を見ていたが、何も変わった様子はない。
 気を取り直し、アメツネは自分の前にあるサトランジ盤の上を眺めた。
 魔術の実験をするとき、サトランジの駒を利用するのが、アメツネが編み出した技だった。本来、魔術は、知識を身体の中で構成して外へ放つものなのだが、具体性がないため感覚で扱うしかなく、この魔術が別の魔術と組み合わさったらという試験をするためには、目に見える媒体になるものが必要だった。それが、アメツネの場合、たまたまサトランジの盤と駒だったのだ。
 サトランジの盤と駒にそれぞれ違った魔術をかけ、動かしたときにどう影響し合うのかを見る。効果は様々で、隣の駒をはね除けたり、自ら壊れたり、忽然と消えてしまったりと魔術の組み合わせ方によって異なってくる。バルハラで手に入れた復活の薬についてもまた、この盤の上に垂らして使い、駒に様々な魔術を宿して実験を繰り返してきた。
 頬杖をつきながら、指先で駒を動かし、盤の上を移動させる。そのとき、再び背後からカタカタと音がして、アメツネは駒を置いて立ち上がった。音はぴたりと止まってしまったが、在処は分かっていたので、迷いなく一つの棚の前に立った。
 陳列されているうちの、一つの青く細い小瓶。

「お前もしぶといな」

 言いながら、アメツネは指を鳴らして魔術を発動させた。上下左右のない灰色の空間へと転移する。
 目の前に、男の姿が現れた。紺色の短い髪を持つ、細い目の男。アメツネと同じく宙に浮いているその姿は、半分透けている。

「やれやれ……こんなところに閉じこめなくても良いではないですか」

 悪びれもせず、セツマは微笑している。力を奪い取り、小瓶の中に魂を封じ込めて少しは反省したかと思っていたが、そんな素振りもなかった。もう少しまともな精神を持っていたならば情状酌量の余地もあったのだがな……と、アメツネは適当な小ぶりのブロックを出現させて、そこに腰掛けた。

「何か用か」
「ええ。お話したいことがあります。というより、ずっとお訊きしたかったことが」
「何だ」
「あなたはどうして私に薬を与えたのですか」

 問いに、アメツネは少しのあいだ沈黙し、答えた。

「それが、私の実験だったからだ」
「実験?」
「私は復活の薬を大昔から研究していた。門をこじ開け、バルハラにまで薬を手に入れに来た者など、それまでいなかった。本来ならば、命を左右するような危険な代物を人間に与えるべきではなかったが、私も研究者だ。自分自身の研究のために、不死になっていたそなたを二千年、端から観察していたのさ」
「時間を行き来するあなたは、私が不死の薬の効果を失うことを前から知っていたのでしょう。結局、私の野望は果たされなかった。いずれ復活されるカヤナ様に殺されまいと思って不死を貫き通しましたが、結果がこれではね」

 平然とした言い草だった。どこでもない場所を眺めて、考え込むようにしている。アメツネもまた口を閉じ、男の出方を待った。先の戦いでセツマは完全に魔術を奪い取られ、魂だけの存在になっている。抵抗がなければ、アメツネの魔術によって一瞬で無に還せる状態だ。さっさと消した方がカヤナやイズサミのためだろうが、カヤナが憔悴した様子では、すぐに実行するのも気が引けた。
 そのうち、沈黙していたセツマが口を開いた。

「あなたの研究は上手くいったのですか」
「まあな」
「私をどうするつもりですか」
「カヤナに」

 アメツネは、セツマを無表情で見据えた。

「お前を抑えろと言われた。私はそれに従っただけだ」
「……」
「カヤナがお前を救いたいと言えば、私はそうするさ」

 なぜなら自分は誰の味方でも敵でもないからだと告げると、セツマは笑みを消して、じろりと目だけをアメツネに向けた。

「あなたはそうやって中立を守ろうとするが、中立であろうとすることが正しいことだとでも思っているのですか? 膨大な力を宿しているが故に、誰かに固執することが凶器となりうるから? かつてあなたが滅した者たちへの罪滅ぼしのつもりですか? ならば、どうしてあなたは私たちに関わるのです。私たちにあなたを殺す手助けをして欲しい? 関係のないカヤナ様まで、あなたの贖罪に巻き込むつもりですか」

 魔術を失ったくせに、空気が殺気で満たされるのは、もはやこの男の才能だった。実態のない身体に不穏な空気をまとわりつかせる様子に呆れ、アメツネは小さく息をつく。

「だから、私も、お前も、消えるべきなのだよ。もはや我々の愛は、カヤナにとって毒なのだ」
「毒? そのようなことをあなたに言われる筋合いはない。私は彼女と同じ時代を生きた人間です。幼少の頃からあの方を守り通してきた。どれだけ私が彼女を愛し、想ってきたのか、あなたに分かるはずがないでしょう」
「お前は己の愛の感情を押しつけ、拒まれて、彼女を傷つけた。いくら親しい関係だからと、夫婦だからといって、それは赦される行為ではない」
「あなたに分かると言うんですか!」

 急にセツマが感情を昂ぶらせた。翼をもぎ取られた妻が魔術師にさらわれたときのように。

「どんなに愛しても愛しても愛されない苦痛が! 私の痛みはあなたの非などではないのです。彼女が生まれたときから彼女を愛し、守り、師となりカヌチとなり夫となっても、決して欲しいものは得られない。それどころか彼女は自分の弟にあたる男を愛しているというのです。そして彼女は私を殺したいほど憎んでいたという。私が彼女を殺めた理由を分からないわけでもあるまいに!」
「痴れ者が!」

 アメツネは指を鳴らした。刹那、セツマがぐっという呻き声を上げて、その場にしゃがみ込む。

「やめ、ろ……!」
「愛しているから、自分の身近にあるからといって、彼女を傷つけてよい理由にはならぬ。カヤナとお前は別個の人間であり、彼女はお前の世界の外にいるのだ。振り向いてもらえないから、愛を得られないから、彼女を殺した? 馬鹿者が。信じていた者につけられた傷は、そうでない者につけられたものより何十倍も深いのだ。お前の罪は、カヤナの信用を裏切ったことにある。裏切りを憎いと思う彼女の心情は当たり前に抱くものだ。
 私も、お前も、彼女の愛を得ることはできぬ。どう足掻いたとしても、我々には彼女を見守り続けることしかできないのだ」
「それが真の愛だとでも言うのですか? カヤナ様が他の男のものになることが、これだけ苦痛だというのに」
「彼女は誰のものでもない」

 額に汗を浮かせてこちらを睨むセツマを見据え、アメツネは低い声で言い放つ。

「ただ、カヤナがイズサミを選んだだけだ」

 その途端、セツマの周囲に黒い霧のようなものが舞い上がった。魔術だと、とアメツネは焦る――彼の身体から魔力はすべて奪い取ってしまったはずなのに、なぜ。
 セツマは立ち上がると片手に透明な球体を出現させた。その中で色とりどりのエネルギーが混じり合い、渦を巻いている。中にあるものが何なのかを悟り、アメツネは目を見開いた。
 そんな魔術師の態度を面白がるようにして、セツマは暗い微笑を浮かべる。

「あなたの部屋を漁っているとき、本で見つけたのです。発動された魔術を蓄えておく方法をね。この中にあるのは、先ほどの戦いで収穫しておいた、アメツネ殿自身の魔術です。あなたと戦っても勝てるわけがありませんから、私もいろいろと考えて、どうせなら地雷でも用意しておこうかなと」

 だって死者である私はあなたを傷つけられませんから。セツマは言い、腕を伸ばして球体を上にかざした。灰色だけだった空間に、様々な色が反射して浮かび上がる。

「生者は死者を攻撃できる。私はあなたを傷つけることも死者を傷つけることもできませんが、あなた自身が放った魔術を利用すれば、生者であるあなたを攻撃することも可能ですね」
「セツマ……!」

 ぎりりと奥歯を噛み、アメツネは両手の中に魔術を発動させた。風が起き、ぶわりと服が舞い上がる。

「許さぬ」
「ああ、でも」

 あさっての方向を眺めながら、セツマは虚ろに笑った。

「どうせ消されるなら、道連れだ」