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 図書館の中をうろうろして、ようやくカヤナの姿を見つけたのは、館内の三階から外に向かって突き出すように出ている半円状のバルコニーだった。
 バルコニーのタイルを踏み、外に出る。辺りは晴れた日の空の風景で、遥か下方には広大な森が広がっていた。それ以外には何もない。この建物はどれだれ高いのかと振り返って見上げてみると、三階までだと思っていた建物は更に上の階があり、てっぺんは雲まで突き抜けていた。手すりのそばから下をのぞき込めば、この図書館が目眩を覚えるほど高い塔の中にあることが分かる。セツマは建築魔術だと言っていたが、強い魔力を宿すイズサミですら、こんな巨大な建造物を魔術で造り出すことなど不可能だ。アメツネの持つ力は、おそらく無限に近いのだろう――他に侵入してくる者もいないであろう魔術で作られた空間に、こんなすさまじい建物をわざわざ用意している魔術師の真意も謎なところだが。
 カヤナは、突き出たバルコニーの手すりの上に両手をかけ、長い髪を風に揺らして、こちらに背を向けていた(こんな高度に存在していながらも、風が穏やかなのが不思議だった)。そっと近づいて、名を呼ぶ。彼女は振り返らず、少しうつむくことで反応した。

「大丈夫?」

 左隣に並び、見下ろす。恋人の顔は青白く、頬や目元に泣いた跡があった。また一人で悩み、抱え込んでいたらしい。彼女の頑固さに、イズサミは呆れを覚えて嘆息した。

「カヤナ……」
「イズサミ。手を握ってくれないか」

 急に頼まれ、カヤナからそんなことを言うのは初めてだと思いつつも、嬉しさを感じ、手すりに置かれている彼女の左手を右手で包む。するとカヤナがイズサミの右肩に少し身体を預けてきた。普段イズサミがしょげてしまうほどあっさりしている女性がここまで甘える態度を取ると、イズサミはむしろ心配になる。

「どうしたの」
「……イズサミ。私は、嫌な女だな」

 微かな声音で、カヤナは呟いた。

「決心が揺らいでは、悩み、嘆き、沈黙し、多くの人に心配をかける……同じところをぐるぐると回り続けて、まったく進歩しないんだ。嫌な人間だろう、本当に」
「カヤナはいい子だよ」

 すかさずイズサミは言った。それはもう、迷いなく、ただ正直に、彼女のことをそう思っているから断言したのだった。
 カヤナは答えず、イズサミの肩に額を押しつけた。イズサミは少し腰を屈め、カヤナの頭に自分の頬を寄せた。

「セツマのこと、大事だったものね」
「……」
「カヤナが悩むのは仕方ないよ。当然だと思う。仮にもカヤナの旦那さんだし、お師匠様で、昔からずっと一緒にいたんだもの。ボクよりも長くずっとそばにいた人なんだよ。魂が消滅するなんて、そんな怖いこと他にないよね」
「……イズサミ……」

 語尾が潰れた声が聞こえる。

「お前、は……」
「カヤナ。ボクは、セツマのことが憎いよ。でも、カヤナが大事な人をボクも大事にしたいって思うよ。カヤナが苦しんでる気持ち、ボクには分かるもの」
「イズサミ、お前はどうして……どうしてそんなに優しいんだ。私を赦せなくて当然なんだぞ。私はセツマと同じなんだ。愛している人を殺したんだ、セツマが消滅するならば、私も消滅しなければ割に合わない。罪をセツマだけに着せて、私は残るなど……」
「カヤナ」

 イズサミは、半ば無理矢理カヤナの身体を引き寄せ、自分の懐に収めた。腕を回し、ぎゅうと強く抱きしめる。

「消えたいって思わないで」
「……」
「それだけは、絶対に思わないで」
「……」
「君の苦しみは本当によく分かるんだ。だってボクも君と同じだもの。愛する人に、誰よりも何よりも大事だった人に殺されたんだ。
 でもボクたちはセツマとは違う。セツマはしてはならないことをした。カヤナは殺したくないのにボクを殺したでしょう、それは、狂戦士だったボクを止めなければいけなかったからなんだもの。現に、カヤナはボクを殺した自分自身を責め続けていたじゃない。でも、セツマは違うんだよ。彼は、また前と同じことを繰り返そうとしている。薬を手に入れて生き返ったりしたら、二度目の過ちを犯すことになるんだ。これは赦されるべきことではないってアメツネもボクもクラトも思ってるんだよ」
「でも……でも!」

 出たがるようにカヤナが身じろぎする。イズサミは腕に強い力を込めて、それを許さなかった。何が何でも離そうとしないイズサミに諦めたのか、カヤナは身体から力を抜いたが、抵抗の代わりに両手でイズサミの服の背を強く握りしめた。

「でも、セツマは……! お前に言っただろう」

 カヤナサマ ヲ マモレ

「あれはっ……」
「それはあの人がカヤナのことを大事だからだよ」
「そうだ……そうだ、だから、私たちの勝手な意志でセツマを消滅させては」
「カヤナ」

 イズサミはカヤナを離すと、彼女の頬に両手を当てて凄んでみせた。カヤナは驚いたらしく、緊張したように身体をこわばらせてイズサミの両目を凝視した。
 イズサミは真剣に彼女を見つめ、はっきりと言った。

「カヤナ、赦してはいけない」

 それは、カヤナの痛みを同じように感じてしまうイズサミもまた、口にするのがつらい台詞だった。

「赦したくても、赦しちゃいけないんだよ」

 彼女の目に涙が溢れる。
 追い込まれ、苛まれ、苦悩に満ちた女性の表情を見据えなければならないイズサミの胸は、ひどく痛かった。生前ほとんど彼女の泣き顔など見たことはなかったのに、バルハラに来てから泣かせてばかりだ。どうして、この優しい女性が何度も傷つかなければならないのだろう。死んでもなお彼女の心はズタズタにされている。そして、どうして自分はそれを防ぐことができないのだろう。
 自分のふがいなさを悔しく思いながらも、今は、今だけは、彼女の心を傷つけても伝えなければいけないことがあった。

「アメツネの対価とか、ボクの気持ちとか、そういったことはすべて抜きにしても、セツマには重たい罪が残っているんだ。そして、その罪をまた重ねようとしているなら、彼に関わっている以上、ボクらにはそれを止めなくちゃいけない責任があるよ」

 カヤナは両目から涙を流しながら、痛々しいまでに透き通った瞳でイズサミを見つめた。

「……イズサミ」

 イズサミは少し苦しげに笑んでカヤナの頬を指で拭ってやり、彼女の額に軽く口づけをした。
 そして、再び強い力で抱きしめる。

「ボクも、カヤナの痛みに一緒に耐えてあげる。一緒に苦しんであげる。同じ罪を背負ってあげる。
 だから、存在していようよ。ちゃんと覚えていなきゃ。ボクらには、痛みを感じることのできる心があるんだから。この先も、あのバルハラで、自分たちが犯した罪のことを……」

 放たれた言葉に、カヤナはイズサミの懐に顔を隠すように埋め、泣き始めた。イズサミは彼女の小さな頭を撫でながら、何も言わず、腕の中にある愛しい人の悲嘆を共に感じていた。