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「カヤナ……」

 背を向けて歩き出したカヤナが心配になり、クラトも立ち上がった。イズサミにもアメツネにも後を追おうとする気配がないので、ならば自分が行くしかないと足を踏み出したとき、イズサミが待てをかけた。

「そっとしておいてあげて」

 真面目な顔でそう言われて、クラトは追いたい衝動をぐっと抑える。しかし、その訳を訊きたかった。

「どうして」
「君がどうこうできる話じゃないもの」

 きっぱりと断言される。イズサミにしては冷静な態度に疑問を抱き、カヤナの後ろ姿を目で追いつつ、彼女に聞こえないように小さな声で再び尋ねた。

「心配じゃないのか?」
「心配だよ。でも、今はそっとしておいてあげるべきだ。君が行ってもアメツネが行っても、カヤナは気を遣うだけだもの」
「……」

 本棚の間に消えていったカヤナの姿に不安を覚えつつも、イズサミの言っていることはもっともだと、クラトは諦めて椅子に腰掛けた。確かに、カヤナはクラトに対していつも無難なやりとりを心かげているように思える。カヤナを好いていると知っているから余計に本音で話すことができないのかもしれない。
 本当は気など遣ってもらわなくてよいし、彼女が気持ちを自由に表現してくれるのがクラトにとっても一番よいのだが、もはやクラトという男はカヤナの中でそういった立ち位置に存在していないのだ。それは、この先も変わらない事実だろう。自分よりも遥かに頼りがいのあるイズサミとアメツネが憎くないと言ったら嘘になるが、彼女が自分自身をさらけ出せないのは結局、クラトの無力さが原因だった。

「私は少し自室に戻る。実験中なのでな」

 アメツネはそう言い残し、姿を消した。魔術の発動者が消えてしまえば同時に図書館から転移されるのではないかと思ったが、イズサミもクラトも図書館の同じ机の前の座ったままだった。
 沈黙が続く。なんだかイズサミと二人きりだと気まずいな……と考えていると、イズサミが口を開いた。

「君は、どうしてカヤナのことが好きなの」

 口調は淡々としている。憎悪や威嚇といった感じではないものの、明らかによい印象は抱いていない言い草だ。
 できればこういう問いには答えたくないのだが、他に話すこともないため、溜息混じりに答えた。

「理由が必要なのかな、そういうの。単純に、彼女のことが気になるし、守りたいって思うからだよ」
「でも初めから無理だって分かっていたよね」

 突き放すような言い方に、さすがのクラトも苛立ちを覚える。イズサミは無表情で何もない卓上を見つめていて、どんな感情を抱いてそう質問しているのか判断つかなかった。

「分かってたさ。でも想いは止められない。お前にだって分かるだろ」
「ボクはね」

 あまりクラトの返事は訊いていない様子で、イズサミは遮った。

「ボクは一度、カヤナのことを諦めようとしてたんだ」

 クラトは喋ることをやめ、沈黙することで続きを促した。イズサミはちらりとクラトを一瞥し、再び机の上を眺めて話し始めた。

「異母姉弟だと分かったカヤナは、何も知らないボクと遠ざかり始めた。久々に再会したのは、最後に会ったときから二年後だった。カヤナはボクを見てすごく戸惑っていて、ボクはこのままじゃ戦わなくちゃいけなくなるから逃げようと提案したんだけど、それはできないって拒まれたんだ。そのときのカヤナは、ボクといることをすでに諦めてる様子だった。たぶん、二年の間に気持ちに決着をつけたんだ。それが分かった瞬間、ボクはすごくがっかりして、どうして、なんでって葛藤した。だってボクにはカヤナしかいなくて、カヤナのことを誰よりも愛していて、カヤナもボクのことを好きだと言ってくれて、あとは一緒になるだけだったんだもの。なのに全部初めから無かったことみたいになって、納得できるはずがなかった。理由が分からなかったし、問いつめても何も話してくれなくて、そんな馬鹿な話があるのかって。
 ……でも」

 イズサミは、机の上で組んでいる両手に、少し力を込めたようだった。

「カヤナがそうしたいなら、その方がカヤナが楽になるなら、ボクは遠ざかるべきなのかもしれないって思ったんだ。カヤナのために。大好きなカヤナのために。だって愛してる人には苦しんでほしくないでしょう? ボクが諦めればカヤナが幸せになれるんだったら、ボクは想いを風化させていかなくちゃならないんだって……そんな、綺麗事を思い浮かべてた」

 うっすらと苦笑するイズサミを見て、クラトの胸は痛くなる。幼くてわがままで、先ほどまで子どもみたいに言い合っていた彼からは想像できないほど悲痛な表情だ。

「イズサミ……お前」
「結局、諦めるなんてできなかったけどね。過去形にもできなかった。あとはもう狂戦士がボクの心の中に棲み着いて、すごく攻撃的な考え方しかできなくなった。正直、狂戦士がボクの中にいたときの自分のこと、あんまりよく覚えてないんだ。とにかくカヤナが欲しくて、カヤナに触れるものがすべて許せなくて、憎くて、全部消してしまえばいいんだって思ってた。
 クラトのことも殺しかけたよね、ボク」

 言われ、クラトは気まずさに口を噤む。カヤナと仲良くなり始めたクラトを快く思っていなかったイズサミは、いきなり部屋に出現して、殺しに来たと言いながら剣を抜いてクラトに斬りかかったのだ。

「……でも、あれは、お前であってお前でなかったんだろ」
「まあ、ね。でも、悪かったなって思ってるよ。結局カヤナが助けに来てくれたから、良かったけどね」
「……」
「対価を戻されたカヤナが、またボクのことを好きになってくれたから、ボクにはもうこれ以上望むことなんてないんだ……」

 イズサミはクラトを見て、ふんわりと、本当に幸せそうな笑みを浮かべた。それは、クラトが初めて見る神王イズサミの微笑みだった。純真な性格ゆえに想いが素直に溢れていて、見ているこちらの胸まで温かくなってくる表情だ。
 ああ、これだ、とクラトは感じた。カヤナがイズサミのことを好きになった理由は。

「ボクのこと、忘れずに愛し続けてたって言ってくれたんだ。ようやくバルハラでカヤナと幸せになれるんだと思うと、本当に嬉しいよ」

 しみじみと言われた言葉に、クラトは彼らの気持ちを自分のことのように感じ取ってしまい、泣き出しそうになって頷いた。

「うん……」
「クラトもカヤナのことが好きだから、ボクがいろいろ言うのはあれだけど、ボクがこの先もカヤナのことを守っているから、安心してね」
「ああ……
 なあ、イズサミ」

 何?と目をしばたたかせて首をかしげてくるイズサミに、濡れた目元をそっと指先で拭って気を取り直しながらクラトは尋ねた。

「もし答えたくなかったら答えなくていいんだけど、セツマのことはどう思ってるんだ?」

 これは純粋な疑問だった。セツマはカヤナの従者であり、師であり、カヌチであり、夫であり、カヤナのすべてだと言い切ってもいい男である。かつてカヤナを王にまで押し上げたが、それはあくまでタカマハラ家とヤスナ家との間に策を張り巡らせ、多くの犠牲を出した上での結果だ。その犠牲の中に、カヤナの恋人であったイズサミも含まれている。もしクラトが同じ立場だったら、到底そんな男のことなど許せるはずがないだろう。だから、あまりセツマに対して敵意を見せていないイズサミが意外に思えていた。

「今回は、アメツネが抑えてくれたけどさ」
「憎いに決まってるじゃない」

 すかさずイズサミは言い放った。

「だってカヌチの資格と剣を利用してボクを狂戦士に仕立てて、カヤナと戦うようにし向けたあげく、妻だったカヤナの翼をもぎ取って殺したんだよ。許せるはずがないじゃないか」
「そ、そう、だよな」
「憎いよ、本当に。許せないよ。カヤナがどれだけセツマを信頼してたと思ってるの。だから今、セツマの魂が消えることでカヤナが苦しんでるんじゃないか」
「……セツマに消えて欲しいか?」

 おそるおそる尋ねると、目をつり上げて息んでいたイズサミは意味深長に口を閉じた。

「……」
「その、普通は、消えて欲しいと願うんじゃないかって……
 お、おれだったら! もし、おれがお前の立場だったら、カヤナを惨い方法で殺した男を許すことなんてできなくて、バルハラでもつきまとわれてカヤナが困るんだったら、アメツネに消してくれって頼むと思うんだ。それは、もしかしたらおれが未熟だからそう思ってしまうのかもしれないけど。
 でも、どんなにいい奴でも、やっぱり人を殺した奴を許すっていうのは」
「君もボクもカヤナも、戦争で人を殺したことがあるんだよ」

 間髪を入れず断言され、クラトはぐっと口を噤む。

「そ、それは、そうだけど……」
「確かに、セツマの魂を消すっていうのは残酷なことかもしれない。ボクたちだって、殺された人の家族や友達からすれば憎しみの対象だろうし、消えてしまえって恨まれてるだろうね。でも、ボクもカヤナも君も、殺したくて殺したんじゃない。理由があって、やむを得ずに殺したんだし、そもそも戦争だったからっていう理由があるから」
「セツマは、その理由とは違うからか?」

 だから魂の消滅という罰が下されてもいいのかというクラトの問いに、イズサミは少し唸って、そうだと思う、と曖昧に肯定した。

「セツマは戦争とは関係なしに、人を殺してはいけないところで殺してしまったから……カヤナだって、まさか彼に殺されるだなんて思ってなかったはずだよ。だから裏切られたことがすごくかわいそうだ。本当に傷ついたんだと思う」
「イズサミ……お前は、どうしてそんな……」

 だってこれはお前自身のことでもあるんだぞと、クラトは悲痛な声で呟いた。夫に殺されたカヤナの立場は、恋人に殺されたイズサミの立場とほとんど同じだ。イズサミこそ、自分を傷つけたセツマやカヤナのことを赦せなくても仕方がないはずなのに。
 クラトの言いたいところは分かっているのだろう、イズサミは、そうだね……と薄く苦笑いを浮かべ、青い睫毛を伏せた。

「でも、カヤナは、ボクのことを裏切りたくて裏切ったわけじゃないから」
「それは、そうだけど……」
「セツマはその点で違うでしょ。彼は、翼さえなくなればどこにも行かないっていう身勝手な考えで、カヤナを手にかけたんだ。それは赦されるべきことじゃないと思う。カヤナの信用を裏切ったってことにおいてもね」

 クラトは感心した。以前から子どもっぽい印象しかなかったイズサミが、これほどまで周囲のことをよく見ていたとは。むろんカヤナありきの考え方ではあるのだろうが、狂戦士の行動がどれだけ本来のイズサミと違っていたか分かるような気がした。
 彼はカヤナを愛しているからこそ、このバルハラにおいても少しずつ強くなったのだ。
 イズサミに任せれば大丈夫だと思った。どんな困難が立ちはだかろうとも、彼は、愛するカヤナを何がなんでも守り切るだろう。恋人に向けられた確固たる信念は、クラトでは持ち得ないものだ。そもそも自分だったら、死後に復活してまで恋人に会おうという考えすら起きなかったはずだ。そんなことまでするならばと、愛することを諦めてしまっていただろう。

「ボク、カヤナの様子を見てくるね」

 立ち上がるイズサミを止めることは、クラトにはもうできなかった。むしろ、彼に行って欲しいと思った。

「ああ」
「クラト」

 カヤナが消えていった方へ歩み始めたとき、イズサミは立ち止まり、座ったままのクラトを見て言った。

「カヤナは君に愛されて、とても幸せだと思う。だって君、すごくいい人だもの。ボクは君のような人に愛されるカヤナが大好きなんだ」
「……」
「まあ、君にとっては複雑かもしれないけどね。でもボク、二千年前に君に会いたかったな。十中八九今と同じようにカヤナの取り合いになってたと思うけど、クラトは優しいから、ボクたち友達になれたんじゃないかって思う」

 微笑みながら言われた言葉に、クラトの胸はいっぱいになってしまった。涙がぶわりと目に溢れ、イズサミに見られてしまったのが悔しくて唇を噛む。

「なんだよ、イズサミ、今更だろ」
「うん、今更だよね。でも、本当にそう思うんだ」

 イズサミは朗らかに笑った。