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 カヤナはうなだれたまま、彼女らしくない弱々しい声を出した。

「復讐……? 何に復讐するんだ。私自身にか? はは、そうか……そうだよな、だって私は私を許せないんだから。私は己を憎み続けるのだろう。イズサミを殺してしまった罪を背負い続けて」
「カヤナ……自分を責めるな」
「いつか逢えるとしても、一体どんな顔をして逢えばいいというんだ」

 顔を上げ、天井を意味もなく見上げた彼女の表情は、絶望に満ちていた。
 ああ、どうしても彼女を救うことはできないのだろうか――青白い横顔を見つめながら、クラトは悔しさを覚える。どうしたら彼女を救える、どうしたら未来は変わる。何らかの行動が影響を及ぼし、未来が変わったことで自分自身が消えてしまうなら、それでも良いのだ、カヤナがイズサミと再び出逢い、幸福に満たされ、心から笑ってくれるのであれば――
 そのとき急に身体が後ろに引っ張られる感じがして、クラトは身をこわばらせた。何が起きたんだと目を白黒させているうちに、クラトはひとり薄暗い空間にいた。唯一の明るさは、前方にある、両手に抱えるほどの大きさの球体の物体からで、その中には先ほどの部屋にいるカヤナが映像として映っていた。再びテーブルに突っ伏して泣いている姿が見えて、クラトは咄嗟に走り寄って球体に両手をついたが、つるつるとした表面に触るだけで、映像に向かって名を呼んでも、向こう側のカヤナが気づいてくれることはなかった。
 なんだこれは――苛立ちで球体をがつんと殴る。びくともしない。

「……アメツネ!」

 お前の仕業だろうと叫び、背後に気配を感じ取ると振り返った。そこには暗い、というよりは感情を失った表情でこちらを見つめている魔術師の姿があった。暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる様は不気味だ。
 つかつかと近寄り、クラトは人形のように突っ立っている男に恨みの視線を投げた。

「いい加減にしてくれ」
「分かるか?」

 すかさず、アメツネは言った。

「分かるか? そなたに。未来を知っていても変えられぬ絶望が」

 ゆらりと前に歩み、クラトの横を通り過ぎると、アメツネは球体に近づいて、今度はそこからクラトを見つめた。彼の横には依然、部屋で一人泣き続けているカヤナの姿が映っている。クラトが突然いなくなったことで驚いてくれるのではないと思ったが、もはや映像の中のカヤナはクラトのことなど忘れているのか、特に部屋を探す気配もなく、ただひたすら顔を伏せて涙に暮れていた。そのことに寂しさを覚える自分が、心底嫌だった。

「そなたがどんな言葉をかけてやろうが、彼女は翼をもぎ取られ、殺されて死ぬ。死んで、私に審判の刻における復活を願い、私はその願いを叶える。彼女は悠久の時を経て、自分を裏切った男に復讐を果たすために蘇り、あれほどまで希った愛する男を殺して、再び死ぬのだ」

 アメツネが言わんとしてることが徐々に分かってきて、クラトは口を噤んだ。

「……」
「そなたが過去にさかのぼり、未来を変えようと行動しても、何も変わらぬ。カヤナは、イズサミを愛し続ける。復活した二人は、再び同じ運命をたどる。いくら違う未来を願っても、何も変わらない。
 その絶望に、私は延々と苛まれ続けてきた。実験しては失敗し、同じものをまた見て、たとえ少しずれが生じたとしても、皆、等しく死んでしまう。救おうと思っても、どんなに干渉しても、運命は変わらなかった」

 球体の表面を片手で撫で、アメツネは、凍りついた目で球体の中のカヤナを眺めた。

「確かに私は彼女を愛しているが、彼女がイズサミを愛し続けることを否定しているわけではない。彼らの愛は不滅だ。二人が愛し合うのは、とても自然だった。カヤナはイズサミを必要とし、イズサミもまたカヤナを必要としている。
 私は魔術を利用して時間に干渉することができる。介入したことで、変わった未来もあるだろう。少しのきっかけによって分岐した様々な世界が平行して流れている。私はどの世界にも行けるが、一つの世界において、その世界に住む者たちにとっては、時間の流れは一つでしかない」
「……カヤナとイズサミが生前に結ばれる世界はあったのか」

 低い声で、クラトは問うた。それは単純な興味から出たものだった。
 アメツネは球体を撫でつつ、少しのあいだ無表情で沈黙し、微かに笑った。

「あったかもしれないし、なかったかもしれないな」
「……なんだよそれ」
「見たいのか?」

 アメツネがこちらを振り返る。鋭く光る青い瞳を向けて。

「二人が睦み合っているところを見たいのか?」
「……」

 見せてやろうかとでも言い出しそうな男の気配に、クラトは脱力するような呆れを覚えた。自分より遥かに長い時間を生きていて、世界のあらゆる事象を知り尽くしているであろう万能の魔術師なのに、己の中にある感情に揺さぶられ、負けてばかりではないか。不利になると逃げ、口を閉ざし、相手と向き合おうとすらしない。

「あのさ」

 いつまでも同じところをぐるぐると徘徊している男に嫌悪を覚えた。

「愛してるなら、そいつの幸せを願うものなんじゃないのか?」

 実力の差が、心の強さの差ではないのかもしれないと思った。

「アメツネ。もうカヤナを解放してやろうよ。もう充分、カヤナは苦しんだんだ、イズサミも、普通の人よりも遥かにつらい経験をしてきた。死後の世界で、二人を安らかにさせてあげようって気はないのか? ようやく二人は幸せになれるかもしれないんだ。おれにはお前が、カヤナがお前に恩を感じているのを逆手に取って、彼女にまとわりついてるとしか思えない。カヤナの良心を利用するなよ」

 アメツネは口を閉じ、球体をゆるゆると撫でながら、うつむいて、どこを見るでもない目つきになった。また、これだ。彼は不死になってから自分の殻に閉じこもり続けてきたのだろう。だから人と接するということがどういうことなのかを忘れてしまった。
 哀れだった、この男が。膨大な力を持て余し、命を終わらせることもできない、美しくて悲しい、時間という出口を失ってしまった魔術師が。

「おれを利用するのはいい。おれの身体だって好きに使えばいいよ。でも、お願いだから、カヤナとイズサミの邪魔だけはするな。おれも言えた義理じゃないけど、アメツネよりずっと吹っ切れてるよ。カヤナとイズサミが幸せなれればいい、二人は幸せにならなきゃいけないって思ってるんだからさ」
「……クラト」

 この男に自分の名を呼ばれるのは珍しいと思いつつ、何だ?とクラトは聞き返す。アメツネは顔を上げて、長く細い息を吐いた。

「そなたのような男が、好きな女に愛されなかったのは、心底残念に思う」

 クラトは面食らった。

「はあ? ……お前とおれはライバル同士じゃなかったっけか」
「私はカヤナたちの幸せを願っていないわけではない。きっとすがりたかっただけなのだ、死にたいと思い続けてきた自分をようやく否定できるきっかけを見つけて……」

 カヤナと出会い、彼女を愛したからこそ、アメツネは延々と続く自己否定から脱する可能性を得た。だが、彼は彼女に愛されなかった。クラトと同じように。

「愛とは、なんと尊く、重いものなのだろうな」

 感慨深い様子で、アメツネは呟いた。彼は球体に手をかざすと、カヤナを映し出していた物体を消した。そのため辺りが一瞬真っ暗になったが、アメツネが魔術で周囲にいくつもの明かりを出現させると、その薄暗さの中に、クラトは男の悲しい微笑があるのを見た。それは息をのむほど優美な男の姿だった。
 アメツネはゆっくりとクラトの方に歩き始めた。

「クラト、私と交渉してくれないか」
「交渉?」
「ああ。そなたにとって不都合はないはずだ。もちろん、そなたが望めば、だが」

 近くで立ち止まると、彼は暗闇の中で青く光る瞳でクラトを見つめた。その色に吸い込まれそうな不思議な感覚を覚え、クラトは姿勢を正して緊張する。

「カヤナとイズサミを邪魔しないと約束するなら交渉してもいい」

 きっぱりと言い切る。分かっているさとアメツネは苦笑し、その交渉の内容を話し始めた。