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 泣き声が聞こえる。
 あまりに悲しくて、聞いているこちらの胸が痛くなるほどの泣き声が聞こえる。
 泣いているのは女の人だ。
 どうしたのだろう。
 どうしてそんなに悲しそうに泣くのだろう。
 何かとてもつらいことがあったのだろうか。
 よほどつらいことがなければ、人はこんな泣き方などできないはずだ。
 悲しんでいるのなら、慰めてあげたい。たとえそれが誰であっても。
 いつも自分はそうだった。心配性で、世話焼きで、お節介で、困っている人を見ると放っておけない。
 迷惑がられることもあった。誰にでもいい顔して、お前は真面目ないい子でいたいんだろうと嫌味を言われた。
 そうではない。
 そんなことを求めているわけではない。
 少しでも相手の痛みを共有して、分かってあげたかっただけだ。
 それはもしかしたら悔恨から起こるものだったのかもしれない。
 誰かの役に立つことで、世界に向かって懺悔をし、自身を罪から救いたかったのかもしれない。
 それは優しさだろうか。
 それとも、ただのエゴだろうか。
 泣いている。女の人が、とてもつらそうに泣いている。助けてあげなくては。自分にできるのなら、少しでも心の痛みを軽くしてあげなければ……

「……ん……」

 クラトが瞼を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。複雑な模様の格子窓がある、赤を基調とした異国風の室内だ。とても整頓されており、壁際に濃い色の木製のタンスと小さなテーブルがあるだけで、物が少ない。目線の高さからすると自分は立っていて、いつの間にここに移動していたらしい。
 あの魔術師の仕業だろう。今度はどこに連れてきたのだろうかと呆れながら周囲を見回す。ふと、誰かが泣いているのに気が付き、声がする方を見やった。広い部屋にはもう一つ円形のテーブルがあって、卓上に頭をつけ、うずくまるように座っている女性の姿があった。泣いているのはこの人だ。
 肩までの柔らかな黒髪と、華奢な白い肩が見えたとき、クラトは理解した。彼女はカヤナだ。しかも昔の。そして、ここは古の時代のカヤナの部屋だ。
 自分がもはや驚かないことに、クラトは苦笑した。どうせアメツネがここに召喚したのだろう。一体、彼は自分に何をさせようというのだろうか、彼女が愛しい男を想い続けるところを見せつけて、ますます傷つけようとでもいうのだろうか。
 半ば自棄気味になっていたが、それでも気遣いながらカヤナに近づいた。顔を突っ伏して肩を震わせ、ひどく悲しげに泣いている女性を、たとえまた自分が傷ついたとしても放っておくことはできなかった。哀れな性質だ、いつまでも懲りることがない。
 こちらの姿は過去の人間に見えるのだろうか? 足音を立てずにテーブルの前に立つ。カヤナは苦しげな呻き声を上げて激しく泣いていた。ただひとりの男の名を呼びながら。
 イズサミ。
 そう彼女が嘆くたびに、クラトの心は張り裂けそうになった。彼女の口から放たれるのは、本当に愛おしげで切ない声だった。
 敵国の主。腹違いの弟。二千年前のカヤナは、イズサミを愛している。このときから、彼女は彼を愛している。彼らはずっと愛し合っている。たとえどんなに時間が流れようとも、二人の愛は永遠だ。誰にも覆すことはできない。たとえ魂そのものが消滅したとしても。二人はまるで違う世界にいるようだ。二人きりの世界で生きているかのようだ。
 クラトは腕を伸ばすと、彼女の頭に触れた。きっと触れることはできず、素通りしてしまうと思ったが、手のひらに髪の感触があり、驚いて腕を引っ込めた。触られた方も驚いたようで、身体を震わせると勢いよく頭を上げた。涙でぐしゃぐしゃになったカヤナの顔が現れる。

「誰だ」

 まさか、どうして、過去の人間に自分の姿が見えているのだろう。もしこれが本当の過去の時代ならば、未来の人間が干渉するのはまずいのではないか。驚愕しながら、ええと、と視線を泳がせる。念のため、時間の流れに影響が出ないようにしなければならない。

「お、おれは……」
「……見ない顔だな」

 鼻をすすりながら、カヤナは眉間にしわを寄せて問うた。疑われているらしい。それはそうだ、自分ですらここにいる己の存在を疑っているのだから。
 ひとまず誤魔化すことにした。

「その……おれは、最近ここに雇われた者、で、す」
「……」

 片言の説明に、こちらをじろじろと観察する視線が気まずい。目を反らし、うつむく。

「そ、その……
 カヤナ、様が……なかなか部屋から出てこられないから、見てこいと言われて……」
「……ふん。事情は知っているというのに、みな残酷だな」

 嘲るように鼻で笑い、カヤナはなお溢れ出る涙を手のひらで乱暴に拭った。どこでもない場所を眺める目つきになり、しばらく静かにしていたが、そのうちまた衝動が襲ってきたらしく、くしゃりと顔を歪めて大量の涙を流し始めた。

「イズ、サミ、イズサミ……」

 また、男の名を呼ぶ。それは本当に悲痛な調子で。
 目の前で激しく泣かれるとどうしていいか分からず、クラトはその場に跪き、カヤナを下から覗き込んだ。

「カヤナ様。あの、おれは……その、詳しい事情を知らされていなくて……ただ、様子を見てこいと言われて」
「……イズサミが死んだんだ」

 嗚咽を漏らし、彼女は吐き捨てた。

「私がイズサミを殺したんだ。あんなに好きだったイズサミを殺したんだ」

 それはクラトが初めて見る、戦女神の真の苦しみだった。過呼吸になってしまったらしく、胸元を押さえて苦しげな息をし始める。慌てて背中を撫でつけ、落ち着かせてやろうと躍起になった。
 そうか、今は、カヤナがイズサミを殺した直後なのだ――クラトが慰めるにはあまりに重大すぎる事件の後で、少しでも痛みを共有できればと願っていたが、もはや掛ける言葉が口から出てこなかった。痛々しすぎる、愛する者の命を自らの手で奪ってしまうなど、あまりにもつらすぎる。もし自分だったらどうなってしまうだろう。この手で愛する人を、カヤナを殺す? 恐ろしくて、想像するのも耐えがたい。だが、その恐怖が今の彼女の全てなのだ。今まさに痛烈な現実に打ちのめされようとしているのだ――
 たまらずクラトはカヤナの肩を抱いた。

「カヤナ、どうか……」
「イズサミ、ごめんな……ごめん、イズサミ、私が殺したんだ、私が……」

 クラトの服にしがみつき、呼吸もままならない様子で、そう嘆く。これ以上喋って欲しくなくて、必死に髪や背中を撫でたりしていたが、彼女の自責は収まりそうになかった。

「好きだったのに、愛していたのに。どうして私があいつを殺さなければならなかったんだ。あいつは何も知らなかったのに、私のことを愛してくれていたのに、ひどい方法であいつを裏切った。もう二度と逢えない。二度と」
「カヤナ、もう」
「イズサミ、イズサミ、愛しているよ、お願いだ、戻ってきてくれ……そして罪深い私を殺してくれ。もう何もかも嫌なんだ、私もお前のところにいきたいんだ」

 カヤナがそんなことを言うなど信じられなかった。クラトが見ているのは、いつも凛々しくて頼りがいのある彼女の姿ばかりだった。でも、本当は心の奥底にそんな願いを抱いていたのかもしれない。拭い去ることなど不可能な罪悪感に苛まれたまま、己を赦すことも、誰かと幸せを分かち合うこともできず、他人の前では平然としていながら、内面で自責の念に苦しみ続けてきたのかもしれない。
 これほどまでの苦悩を受け止める方法が、クラトには分からなかった。同じ経験をしたことなどないので、彼女が悲しんでいるというのは痛いほど分かるのだが、理解が及ばないのだ。
 彼女が今にもどこか遠くに行ってしまいそうな気がして、両肩を掴み、この現実にとどまってくれるようにと、正面から見据えた。涙に濡れた美しい緑の瞳が、驚いたようにクラトを凝視する。
 カヤナが口を噤んでいる隙に、クラトは強い口調で言った。

「カヤナ。
 おれは、ずっとお前が好きだったよ」

 どうしてこんなことを言い始めたのかは、自分でもよく分からなかった。

「ずっと見てたんだ、カヤナのこと。お前がイズサミを愛していても、おれは、お前のことが好きだった。本当に、心から好きだった。守りたかったし、ずっとそばにいたかった。お前が傷ついたときには、おれも同じくらい傷ついて、痛くて、怒りを覚えた。好きだった。本当に、大好きだった……いや、今も、きっと、お前のことが好きなんだ。諦めきれなくて、未練がましくて、無様で、情けなくて、どうしようもないって自分でも分かってるけど、それでもお前への愛を忘れることができないんだ」

 カヤナは黙って聞いていたが、次第にクラトを睨めつけ始めると、頬に涙を滑らせたまま低い声で唸った。

「私を愛しているだと……? 新入りのくせに、お前は私の何を知っている。事情も知らずに無神経なことを言うな」
「そうさ。おれは、お前のことなんて何も知らなかった。何も知らずに好きになって、ただ、その強さと弱さが愛おしくて、守りたくなって……おれなんか、お前を愛する資格も、お前に愛される資格もないって分かってる。いいんだ、初めから可能性なんて無かったんだから。
 ――カヤナ」

 願いは、果たして届くだろうか。

「お前は、今はつらいかもしれないけど、本当に苦しくて死んでしまいたいのかもしれないけれど、どうか耐えて欲しいんだ。いつかまた、カヤナはイズサミに逢えるから」

 クラトの言葉に、カヤナは怪訝な表情になった。逢えるだと?と怒りを含んだ調子で呟き、身体をひねって肩に当てられた両手を退ける。

「貴様、私を嘲りに来たのか」

 途端にビリビリと空気が震えた。もし自分の身体が本当に今ここにあって、カヤナが強烈な力を発現したとしたら、ただでは済まないだろう。どうしたら良いものかとクラトは惑う。

「違う、そうじゃない、そうじゃないんだ……その……
 お、おれには、未来を見る力があるんだ」

 適当なことを言ったが、未来から来たクラトにとって事実には違いない。カヤナは依然、疑り深い目をしていたものの、未来?と小さな声で聞き返してきたので、続きを説明できる期待が生まれ、クラトはこくこくと頷いた。

「そうだ。ほんの少しだけなんだけど、見えるんだ」
「……」
「カヤナとイズサミは、また逢える。逢って、愛し合う。おれには、それが見えるんだ」

 言いながら、どこか嘘くさくなってしまったと不安になったが、クラトの言い草が真摯であることで伝わったのだろうか、カヤナは徐々に顔を歪め、力無くうなだれた。

「愛し合うだと……再び? だって私たちは……」

 その先は「姉弟なんだ」と続くのだろう。しかし、カヤナは唇を閉じて押し黙った。言葉にすらしたくないのだ。頑なで、責任感が強くて、何でも独りで抱え込もうとするところは今も昔も全く変わっていない。そんな女性に呆れのような、愛おしさのような気持ちを抱き、彼女の黒髪を撫でて苦笑した。

「愛し合っていいんだよ、カヤナ」

 自分の口から、よく、こんな言葉が出てくれたと思う。確かに胸は痛いし、心は切なくてどうしようもないのだけれど。

「イズサミと愛し合っていいんだよ。愛することを諦めなくていいんだよ、だってまた逢えるから。今はもう逢えないけど、再会するお前たちをおれは見ているんだ。逢って、二人は今度こそ幸せになる。それがお前とイズサミの望みで、約束だったんだから」
「……」
「だから、なあ……どうか。
 復讐のためなんかに生きないで欲しいんだ」

 ああ、そうか。
 自分が訴えたかったのは、

「お前の心を、憎しみでいっぱいにしないで欲しいんだ」

 復活した後でも己を責め、深く悲しみ、そして憎しみを抱き続けるカヤナが、また愛する人を同じように手にかけてしまう未来など、初めから避けなければいけないということだったのだ。