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 どうして自分に力があるのか、いつから力があるのか、イズサミには分からなかった。気がついたら心の中に、とても暗くて強い、真っ黒な何かがあって、それがたびたび表に出てこようとイズサミに交渉するのだった。
 お前の身体が欲しい。お前の目と耳と口が欲しい。譲ってくれればお前が欲しいものを全て手に入れてやろう。だから私を受け入れておくれ。
 最初、その声が恐ろしくて耳を塞いで聞かないようにしていた。身体が欲しいなどと言われて明け渡してしまえば、もう二度と自分は自分でいられなくなるような気がした。だから必死に耐えた、どんなに独りが怖くても、愛する人に裏切られたことが悲しくても、望んだ未来の夢を見続けて泣いていても、この黒い何かは一度外に出てしまえば、自分の大切なものたちを傷つけに行くに決まっていた。
 しかしどうしてそう思ったのか?

(ボクが望んでいたからだ。
 ボク自身が、そう望んでいたからだ)

 独りはこわい。誰にも頼ることができず、愛されずにいることはこわい。
 愛する人に裏切られたことが悔しくて仕方がない。あんなに愛し合っていたのに仕舞いには殺されてしまうなんて納得できない。
 二人の未来が欲しい。誰にも邪魔されない、永遠に二人きりでいられる美しい世界が欲しい。
 皆が自分の夢の邪魔をする。ただ愛する人と一緒にいたいだけなのに、周囲の人々も、家族も、愛し合っていたはずのその女性すら、自分の弱さを利用して裏切り、遠ざかり、捨て置いて、暗黒の世界へと突き落とした。
 許せるはずがないだろう、こんな仕打ちを受けて。許す方がおかしいだろう、いくら穏和な気質だと言われていても、それほどまで優しい人間になどなれない。自分を傷つけた者たちを同じように傷つけたい。どれだけ自分が苦しんだのかを思い知らせてやりたい。
 闇が、少しずつ心を覆う。空が曇り、重たい灰色になり、終わらない雨が降り始める。徐々に精神が蝕まれ、自分が果たして何をしたかったのか、何者だったのかを思い出せなくなる。
 霧が立ち込める雨の中で、黒いものがそっと囁く。さあ、一緒に行こう。私と共に行くのならばもう何もこわくない。我々には力がある、特別な力があるのだ。そして世界を手に入れよう、邪魔するものはすべて消し去り、愛する人をつかまえて、永久に二人きりでいられる世界を創るのだ。
 闇が。

(ボクは、ボクに囚われた)

 身体中からゆっくりと這い出て、全身を包み込み、あんなに正しかったはずの瞳はもう何も映さなくなった。何も見えない、恐ろしい現実など見たくない。自分の中に巣くう黒いものに譲ってしまえば、真実など、もはや見る必要などなかった。
 結局、最初から最後まで自分は独りぼっちだった。

「カ、ヤ、ナ……」

 掠れた声しか出せない。みぞおちの辺りがひどく痛んで、身体に力が入らない。翼を出していた背中が、じんじんと疼いている。

「イズサミ、喋るな。なあ……お前、どうしてあいつとやり合ったりしたんだ……」

 愛する人が、自分に声をかける。こんなに近くに、目の前にいる。ずっと昔から希っていた女性が、ようやく自分を気にかけてくれる。優しくて切ない声。願い続けていた奇跡がここにある。このバルハラになら、二人が望んでいた永遠もあるだろう。彼女がいて、自分を愛してくれているという事実があれば、あの黒いものが自分を蝕むことはない。あれは、絶対に届かない祈りへの憎しみから生まれた自分そのものなのだから。

「イズサミ、大丈夫か」

 心配そうに肩を、髪を、頬を撫で、自分の名を呼んでくれる。
 大好きな人を安心させるために、腹を押さえて前かがみになったまま、イズサミは答えた。

「うん……ごめんね、心配かけて」
「もう……もう、本当に勘弁してくれよ!」

 怒りというよりは、呆れが膨らんだといった言い草だった。

「セツマだって二千年の間にわけの分からない力を手に入れて、裏であれこれ画策していた奴なんだ。お前のことを昔から敵視しているし、アメツネと戦える自信だってあるんだぞ。下手すると殺されかねん……いや、魂を消されかねん。お前がいなくなったら私はどうすればいいんだ」

 珍しく取り乱している様子の恋人に、イズサミはなんだかおかしくなって少し笑った。なぜ笑う!と文句を繰り出す彼女が愛おしい。
 この大切な女性のために、自分はここに存在していなければならないと思った。彼女がイズサミという人間を必要としてくれるのであれば。

「ごめん、カヤナ」

 ようやく痛みが引いてきたので、ふう、と溜息をついて向き直る。

「ボク、あいつのことが許せそうにないよ」

 正直に告げると、ぷんすか怒っていたカヤナはおとなしくなり、神妙な顔つきでイズサミを見つめた。

「……」
「だって君の夫で、カヌチで、ボクを殺した剣を造った奴で、カヤナの恋人であるボクのことを嫌っていて、カヤナのことを奪おうとするんだもの。仲良くしろって言う方が無理だよ。カヤナにとっては大事な人かもしれないけど、たとえバルハラに来たってこの憎しみは消えそうにないよ」

 言葉を受け止め、悲しげな目をしているカヤナに、イズサミもまた悲しくなった。
 以前の自分だったらどうだろう、狂戦士が精神に巣くい、本来の自分を忘れて負の感情で動いていた頃、もしこんな様子のカヤナを認めてしまえば、即座に怒りに満たされ、発狂してしまったかもしれない。それほどまでに、何もかもが許しがたかった。今もきっと、従者を庇おうとする彼女が憎くて、その対象も邪魔で仕方がなくなって、愛する女性もろとも手にかけてしまっていただろう。本来の自分は、そんなこと、したくてもできない人間だったはずなのに。
 イズサミは手を伸ばした。こわばってしまった彼女の頬に触れるために。

「カヤナ。
 ボクは君と一緒にいたいだけだよ。これから、ずっと、何もかもが終わるまで」

 それは幼い頃から抱いていた純粋な願いだった。

「誰が嫌いだとか、憎いだとか、そんなことを思い続けていたって、君が遠ざかるだけだって分かったんだ」

 大事な人を奪おうとするもの全てが許せず、人を傷つけたくて仕方がないときもあった。しかし、本当は、自分はそんな人間ではなかった。カヤナが好きになってくれたのは、優しくて無力で弱々しくてどうしようもない、イズサミという平凡な男だったではないか。

「どんなに許せなくても、苦しくても、君が愛するものを、ボクも愛さなくちゃって」

 言葉に、カヤナが泣き出しそうに唇を噛み締める。
 ああ、愛おしい。こんなに人を愛おしいと思える自分を生んでくれたのは、やはり、目の前にいるこの美しい女性で、そんな人が、自分と同じように、自分に愛を抱いてくれている。こんな幸福なことが他にあるだろうか。
 カヤナは泣くのをこらえながらイズサミの頭を強く、少し乱暴に撫で、勢いよく立ち上がった。こちらを見下ろす顔は少し険しくて、セツマと戦ったことを怒っているのだろうかとイズサミは不安になったが、どうから彼女は涙が出そうになっている自分自身が悔しかったらしく、ぐいと目元を拭い、イズサミに手を差し伸べた。
 その手を取り、立ち上がる。そのとき、向こう側に金髪の青年が石畳の上に倒れているのが見えて、あれはどうしたのだと指差した。

「具合が悪いのかな?」
「え? ……はっ、ク、クラト!?」

 振り返ったカヤナが青年に向かって走り出す。手を握られたままなので、イズサミも引っ張られてしまった。
 クラト!と顔を青くして近づいたカヤナは、必死な様子で青年を揺すった。

「クラト、クラト! どうした、大丈夫か!?」

 同じくカヤナの隣にしゃがみ込んだイズサミが、青年の身体を抱き起こす。堅く目を閉じていて顔色が悪く、呼びかけても目覚めないため、意識を失っているようだった。カヤナが何度か頬を叩いてみても反応がない。

「クラト! ……くそっ、何が起きたんだ? おい、アメツネ!」

 黒い髪を翻し、バッと後ろを振り返る。カヤナにつられてイズサミもその方を見たが、先ほどまでいたらしい魔術師の姿は、もうどこにも無かった。